さて。予定通りなら、今日は看護学の日。 でも、確かその前に……。 「……っと、あれ? これ、シトラスの香り! ヤバい!」 廊下にいたあたしは、ほのかに辺りに漂うシトラスの香りを感じ取った! 記憶に間違いなければ、この香りには麻痺作用がある! あたしは辺りを見回した。中庭に面した廊下の窓は換気のため、開けられてる。そのうち、食堂のドアの前に半分ほどかかる窓の、ちょうど食堂のドアと重なる部分が開いてる。香りは多分、あそこから漂ってきてる。もし食堂のドアが開いてて、食堂のその位置にあたしがいたら。で、中庭の、食堂を狙える位置にウンディーネかサラマンダーがいたら。 間違いなく、あたしは殺されてる、中庭から侵入した敵に。うわ! 運が良かったわあ、すぐ食堂を出て! もしあたし一人で食堂に残ってたら、あたし、体が動けなくなった状態で、ウンディーネかサラマンダーに襲われてたわね。人生、ほんと、紙一重のタイミングってあるのだわ!
「……何をなさっておいでなのですか、お嬢さま?」 不意に、シェラの声がした……あたしの頭上から。 「え?」 気がつくと、あたしは鼻と口を右手で覆い、廊下にしゃがみ込んでた。 「いけない、シェラ、この香りを嗅いでは!」 「香り、でございますか?」 シェラが辺りを嗅ぐ仕草をする。 「特に変な香りなどは、いたしませんけれど?」 あたしは立ち上がっていたらしい、シェラと目線が同じになってた。 「いや、ほらほのかに香ってくるこの香りなんてしないわどうなってんの?」 シェラが、首を傾げた後で、あたしに言った。 「お嬢さま、ある薬草を鼻に詰めると、鼻の中の炎症を抑えることが出来ます。敷地の農園に植えてございますので、取って参りましょうか?」 「…………いえ、その必要はなくてよ、シェラ。ところで、なにか私に用があったのではないの? 私、こう見えても忙しいの。この身はもはやアストリット・フォン・シーレンベック、いえ、シーレンベック家だけのものではないわ。この世界が私を必要としているの。用事があるなら、乙女が野辺の花の香りを嗅ぐ、その刹那よりも手短にお願いできるかしら?」 シェラの目が、頭のかわいそうな娘(こ)を見るようなものになったんで、あたしはほっぺたが熱くなるのを感じながら、咳払いして言った。 「なにか用なの?」 照れ隠しが逆効果だったみたい。 シェラは気を取り直したように、言った。 「は、はい。お嬢さま、これからの予定ですが、ヘルミーナメイド長の講義があったと承っております。実は、お客様がお見えなのですが」 「え? お客様? こんな朝早くに?」 「はい。忙しい中、捻出できたのが今の時間だけとのことです。ですが、お嬢さまにお会いになるおつもりがないのであれば、お帰り願います」 思い出したわ、あいつ、色ボケ外道クソ野郎が来るんだった。一応、知らない振りしとくか。 「そう。で、誰が来たの?」 「ハインリヒ・フォン・フォルバッハ卿(きょう)です」 やっぱりか。ここは、アストリットとしても、あたしとしても追い返すべきだわ。 シェラはあたしの返事を待ってる。 あたしはなるべく「アストリット」の心情を想像して、言った。 「追い返して! あたし、あんな男、顔を見るのもイヤなの! でも、あなたもわかるわよね、女なら。本当は、あたし……。いいえ、でもダメ! ここであの人を許しては、この家を貶(おとし)めることになる! あの人がやったことは、あたしではなく、このシーレンベックの名誉を踏みにじることだったの! ……あたし、どうしたらいいの……?」 「お嬢さま?」 シェラの、あたしを見る目が、はたしてこの世に存在してもいいんだろうか、こんな奇天烈な珍物体?的なものになったんで、あたしは咳払いをして言った。 「ごめんなさい、不愉快なの。追い返して?」 「ですが、お嬢さま、ハインリヒ様も恥を忍んでこちらに来られたのでは? 是非、その弁明に耳をお貸し遊ばしてはいかがでしょうか?」 そう言われてもねえ。あたしが無言でいると。 「私がお断り申し上げて参ります」 あたしも、シェラも振り返って、声の主を見た。 それは、パトリツィア。 「パトリツィア、あなた、ヴィンのお付きではないの?」 「お嬢さま、確かに私はヴィンフリート様のお付きではございますが、何よりシーレンベック家にご奉公する身です。お嬢さまのことをお守りするのは、当然のこと。……よろしいわね、シェエラザード?」 「……はい」 シェラはうつむく。 「それでは」と、一礼してパトリツィアは正面玄関に向かった。 パトリツィアって、無表情の無感情で、何考えてるかわかんないところがあるけど、それって強い使命感から来る……「自分を殺す」っていう、強い使命感から来るものだったのね。ちょっと感動。
玄関で一人、待っていると、一人のメイドがやって来た。その顔を見た瞬間、ちょっとした衝撃があったがそれをおくびにも出さず、ハインリヒは言った。 「アストリット嬢は?」 「お嬢さまは、お会いになりません。お帰りくださいませ」 「彼女の怒りもわかる。だが、あの時の私は、どうかしていたのだ! 頼む、どうか、取りなしてもらえないだろうか?」 「もう一度、申し上げます。お嬢さまは、貴方様とはお会いになりません。お帰りくださいませ」 「……」 とりつく島がない。 ハインリヒは目の前にいるメイドに対して、言った。 「失礼、以前、顔を合わせたことは……私の顔を見たことはないか?」 「恐れ入りますが、それは私に粉をかけていると判断して、よろしいでしょうか?」 「いや、そうじゃなく、公式な場で、だ」 「……そう言えば、以前はキースリング侯爵家にお仕えしておりました。そちらでお暇(ひま)を出されまして、キースリング侯ヨナタン様に紹介状を書いていただいて、こちらにご奉公することになりました。もしかすると、そちらで私のことをお見知りになったのでは、ございませんか?」 「……」 メイドの表情は、全く動かない。美しくはあるが、まるで仮面のようだ。それに、この調子ではアストリットにも会わせてもらえそうにない。 「……そうだな、そうだったのかも知れない」 そして、ハインリヒは屋敷を出た。屋敷を出ると、フェリクスが馬車を呼びに行く。しばらくして、フォルバッハ家の馬車がやって来た。中に乗り込み、ハインリヒはフェリクスに言った。 「これまでは、連続して彼女に会えていたが、今回は彼女に会えなかった」 フェリクスが眉根を潜める。 「会えなかった? それは危惧するほどのことなのですか? たまたま、今回が……」 そう言ったフェリクスに、ハインリヒはアストリットの拒絶の意を伝えにきた者のことを話した。そして。 「もう疑う余地はない、『ラグナロク』が動いている。それも、我々の先回り、というマズい形でだ」 「となると」 と言ったフェリクスに頷いて、ハインリヒは言った。 「『彼女』がそのことに気づいて、事態を覆してくれる働きをしてくれることを、期待するよりほかない」 ハインリヒを乗せた馬車は、シーレンベック侯爵邸から、どんどん遠ざかっていった。
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