立ち上がったハインリヒに、とりあえずあたしは。 「えと、あの。ごめんなさい」 と謝った。 ハインリヒは痛そうにしながらも笑顔を浮かべて言った。 「いや、気にしないでくれ。非は全面的に私にある。償い、というのではないが、もし困ったことがあったら、私に相談してくれ。きっと君の力になる。約束する!」 最後の方は真剣な表情になってた。 あ、どうしよう、この人、かっこいい。あらためて見ると、顔もあたし好みだし。……なんだか、ときめいちゃったわ。アストリットがなんで、過去にもこの人を引っ叩(ぱた)いていたのかわかんないけど、少なくともあたしがこの人を叩くなんて、考えられない。 「坊ちゃま、そろそろ、お時間です」 執事さんが、そんなことを言うと、ハインリヒは執事さんに頷いて、こっちを向いて言った。 「申し訳ない、今日は王都に行かないとならないんだ。諸侯の男子のうち、領内で砲兵隊の指揮権を持った者の、いわば合同演習があるので」 そして応接室を出て行った。 あたしは思わず、あとを追っていた。 正面玄関で、ハインリヒは振り返り、あたしをじっと見た。そして。 「必ず、君の助けになるから!」 真剣な表情で、そう言い、屋敷を出た。 あとに残ったあたしは玄関を出て、その背が馬車に乗るまで追いかけていた。
夕食後、ヴィンが「二十一時(午後九時のことね)に、僕の部屋に来てください」って言ったんで、あたしはそれまでお屋敷の一階にある書庫で、本を読むことにした。今日の看護学の講義で(……しんどかったわ)本が普通に読めることがわかったのよ。でも。 あたしには、書いてある文字が、日本語に見えたのよね。ひょっとしたら、ここって本当は日本なんじゃないの?
……ないないないない。
「ハインリヒって、なんか、かっこよかったなあ。……やばい、惚れちゃうかも〜」 そんなことを呟いてニヤけている自分に気づき、誰が見ているわけでもないのにあたしは咳払いをして、顔をキリッと直した。そして書架を見て回ってて、ふと。 「初学者のための魔法−理論編、それと実践編。それに、この書架、魔法関係の本が並んでるみたい。へえ、貴族でも、こういう本、読むんだ。いや、そんなのは関係ないかな? それとも貴族だから読む、とか?」 あたしが、理論編の方を手に取ろうとした時。 「お嬢さま」 と、無感情な声がした。 そっちを見ると、書庫の入り口にメイドさんが立っている。パトリツィアだった。確か、この人はヴィンの担当のチーフだ。 「なあに、パトリツィア?」 無表情で、さらに無感情な声で彼女は言った。 「少々お時間、よろしいでしょうか?」 あたしは書庫の柱時計を見る。まだ、午後八時半だ。 「ええ、いいわよ」 そう言うと、パトリツィアは「失礼いたします」と一礼し、書庫に一歩入る。そして、静かに言った。 「サー・ハインリヒのことなのですが。あまりいい噂を聞きません」 「え? どういうこと?」 「領内で、これは、という娘を見つけると、言い寄って手込めにするとか。その時に子を身ごもる者がいても、何もせず、捨て置くのだそうです。見捨てられた娘の中には、子どもを産んでも育てる余裕がないために、おなかの中の赤子を堕ろす者もいるとか」 「……それ、本当?」 パトリツィアは頷く。 うわあ、さいてー。そんな感じには見えなかったけどな。 あ、でもでも! あくまで「噂」よ、う・わ・さ! 「でも、パトリツィア、それ、噂でしょ?」 あたしの言葉に、パトリツィアは何も応えない。なんでだろうと思って、彼女を見ていると、それまで無表情だった彼女の顔が歪んで、そして、うつむいて、右手で自分のおなかをおさえ、小刻みに震えたかと思ったら、 「失礼します」 と左手で鼻と口をおさえ、小走りに書庫を出て行った。 まさか、今のリアクションって……。
ショックで、ぼーっとしてたら九時になったんでお屋敷の二階、あたしの部屋の隣の隣にあるヴィンの部屋に行った。 「ヴィン、いいかしら?」 『どうぞ、姉上』 ドアを開けると。 「うっ、なに、このニオイ?」 なんだか、異様なニオイがする。鼻を押さえたあたしは、ふと、 「これ、嗅いだことがある。いつだったか、ヴィンの部屋からと、あたしの部屋と……」 そう呟いた時、ヴィンが言った。 「さあ、姉上、椅子におかけください」 ヴィンが示した椅子の前には小さなテーブルがあり、その上に遠目からじゃわからないけど、一風かわった感じのクロスが掛けられてて、その上に香炉があった。 「お香の匂い? なんか、変なニオイね」 そう言って、とりあえずあたしは椅子に座る。なんで、あたしの命が狙われているのか、知りたいもんね。 ヴィンは向かい側に座り、微笑んで……。
「んあ?」 あたしはベッドから起き上がる。 「朝か。サラマンダー、いったい何者なのかしら?」 ベッドから出た時、ドアがノックされて、シェラが朝食の時間を告げに来た。
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