ヴィンは食堂を出て行った。 それを見送ると。 「ああ、そういえば、今日は看護学の日だったわ」 ほんと、気が滅入るわ、一日中、講義とか。 あたしもドアを開け、廊下に出る。そして、講義が行われる部屋へ向かって歩き始めた時。 「あれ、なにこれ、いい香り。シトラス、かな?」 なんか、辺りにシトラスっぽい香りが漂ってきてる。あたし、フレグランスはムスク系を使ってるんだけど、シャンプーはシトラス系を使ってたのよね、……元の世界じゃあ。懐かしいなあ、早く帰りたいなあ。 そんなことを思ってなんとなく振り返ったら、廊下の角の方から足音がして、誰かが来る気配があった。角を曲がってやって来たのは、シェラだった。 シェラはあたしを見ると、立ち止まって言った。 「お嬢さま、これからの予定ですが、ヘルミーナメイド長の講義があったと承っております。実は、お客様がお見えなのですが」 「え? お客様? こんな朝早くに?」 「はい。忙しい中、捻出できたのが今の時間だけとのことです。ですが、お嬢さまにお会いになるおつもりがないのであれば、お帰り願います」 「そう。で、誰が来たの?」 「ハインリヒ・フォン・フォルバッハ卿(きょう)です」 あー、あの野郎か。どうしよっかなー? アストリットとしては、追い返すべきなんだろーなー。うーん、悩ましいなあ。 シェラはあたしの返事を待ってる。 うん、そうだね、一応、会ってみよう。で、平手打ち……で、いいのかな? 貴族の子女って、そんなことしたりするのかなあ? まあ、いいや。 「わかった。会うわ」 「かしこまりました。応接室にお通ししております」 で、シェラのあとについて、応接室に向かった。 気がつくと、シトラスの香りは消えていた。
応接室に行くと、ソファに軍服(?)を着た二十代中頃の青年が座ってて、その近くに執事らしい初老の紳士が立ってる。で、ボブカットの、うちのメイドさん……確か、パトリツィアって人……が給仕していた。 青年の顔には覚えがある。二回見てるし。……あれ? 三回、かな? まあいいや。 あたしが近づくと、青年が立ち上がり、神妙な表情をこっちに向けた。そして。 「フロイライン・アストリット、貴女(あなた)には、たいへんなことをしてしまった。本当に申し訳なく思っている。この通りだ、どうか許して欲しい」 そう言って、深々と礼をする。あたしとしては、正直、こんな風に丁寧な謝罪を受けるいわれはないんで、むしろこっちの方が申し訳ないんだけど、アストリットとしては激怒するところよねえ。 なので。 「ハインリヒ、顔を上げて?」 その言葉にハインリヒが顔を上げてこっちを見る。それを見計らって、あたしは右手で彼の左頬を思い切り張った。 するとハインリヒは。 「ぶぱあッ!?」 そんな悲鳴を上げ、破裂音とともに、クルクルクルー、って宙できりもみ回転して、吹っ飛んだ。 「え……、うええええええっ!? なになになになに!?」 なんで平手打ちで、吹っ飛んじゃったの、この人!? 床に倒れ込んだハインリヒに、執事さんが駆け寄り、「坊ちゃま!?」と介抱する。 「大丈夫ですか!?」 「あ、ああ、大丈夫だ、フェリクス……」 鼻血をダラダラ流しながら、起き上がるハインリヒに、執事さんがハンカチをあてる。それで鼻血を拭いて、鼻を押さえながらハインリヒが言った。 「だんだん強烈になるね、君の一撃は……」 え? だんだん、強くなる? 何を言って……。 「あ」 その時、あたしはある言葉を思い出した。
「君の微笑みは人々を和(なご)ませるものではなく、誰かを見下すものになってしまったのだ!」
えーと。 あたしは右手を見る。 執事さんに気遣われながら、「大丈夫だ」とか言ってるハインリヒを見る。 もしかして、アストリットって、交際中にハインリヒをしょっちゅう引っ叩(ぱた)いてた? ひょっとして。
ひょっとして、婚約の破棄って、アストリットに原因があったりして……。
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