馬車の中であたしと向き合い、少年はムッとしたまま窓外の景色を眺めていた。 もうすっかり暗くなっている。深夜ではないと思うけど、それなりに夜更けだというのは、わかった。 あたしは、意を決して言った。 「ねえ、あなたの名前、教えてもらえる?」 「は?」と、少年が怪訝な表情になる。 「姉上、何をおっしゃっているのですか?」 「えーとね? あたしの名前は、小松崎(こまつざき)未佳(みか)っていうの。アストなんとか、じゃないのね?」 いろいろと問題があるかも知れないけど(例えば、いきなり剣を突きつけられるとか)、訳がわからないまま、この事態が進んでいくのを、看過(かんか)できない。 しばらくあたしを見ていた少年だったけど。 ふう、とため息をつき、右手を軽く額に当てて、さも「くだらないことを言う」みたいな空気を漂わせてから答えた。 「舞踏会のさなかで、婚約を破棄されるという屈辱的な状況、確かに一時的にでも記憶を失うぐらいの衝撃だったのかも知れません」 あれ? あたし、記憶喪失に思われてる? 少年はあたしを見つめて、そして言った。 「僕の名前は、ヴィンフリート・フォン・シーレンベック、シーレンベック侯ゴットフリートの息子で、あなたよりも四歳年下の十五歳です。姉上は、僕のことをヴィン、と呼んでおいででした。どうです、思い出されましたか?」 「ううん、全然」 あたしが首を横に振ると、ヴィンフリートという少年は「くあ……」と小さく呻いて、右手で顔を覆ってうつむいた。 なんか、ものすごく悪いことしたみたい、あたし。 少年は小さく「なんてことだ」と呟いてから、顔を上げ、あたしを見た。その顔は、なんともいえない苦いものになっている。 ああ、ダメだよ、美少年がそんな顔しちゃ! そんなことを思っていたら、少年が言った。 「まあ、仕方がないです。父上にも相談はしますが、このまま様子を見た方がいいかも知れません」 そう言って、少年はしばらく何かを考えていたけど。 「とりあえず、姉上には習わしに従ってもらわないとならないのですが」 「習わし?」 「はい。婚約者を奪われた者が、奪った者に対する、対抗措置です。姉上の場合は、グートルーン嬢に対して、なんらかの復讐をすることになります」 「復讐? 復讐って、…………ええええええええっ!?」 なに、今サラッと聞こえてきた不穏当なワードは!? 「もっとも、殺すまでしなくてもいいです。百年前の英明(えいめい)王(おう)ギュンター二世による各種制度改革により、決闘に類する行為の場合、相手を殺してはならない、と、法が変えられました」 「いや、でも、復讐って!?」 あたし、女子高生なんだけど!? 復讐って、ムチャムチャ怖いんだけど!? 少年……そろそろ名前で呼ぼうか、ヴィンは爽やかな笑顔で言った。 「例えば、ですけど。二度と社交界に名を出せないような顔にしてやるとか、丸裸にして縛り上げ、馬に乗せて領地内を引き回すとか。……丸裸といえば、かつて相手を丸裸にして棄民(きみん)街(がい)に放り込む、なんてことをやった豪傑もいたそうですよ? その令嬢は、一応、領地に帰ってきたそうですけど、自分の方から婚約の解消を申し出て、行方をくらませたとか」 「…………」 「……おっと、すみません、今の話は、婚約者を奪われた方の令嬢が、相手の返り討ちにあって、棄民街に放り込まれたケースでした」 「返り討ち!? 返り討ちにあったりするの!?」 身を乗り出したあたしの衝撃がわかる!? 「そりゃあ、向こうも、ただ黙って復讐を受け入れるなんてことはしませんから」 あたしは頭を抱えた。 「ねえ、ヴィン。その復讐、どうしてもやらなきゃダメ?」 ヴィンは馬車の天井を見て言った。 「今日のことは、社交界に伝わりましたし。やらないと、我がシーレンベックの名折れになりますし。そういうのが王家に伝わると、笑いものになるどころか、こちらへの心証が悪くなって、何かにつけてペナルティーの種になる恐れもありますし」 泣きたい気持ちになった時、シーレンベック領に帰ってきたらしい、馬車がいったん止まって、門の開く音がした。 「姉上、大丈夫です。相手のことを徹底的に調べ上げて、必ず姉上が勝てるようにしますから。僕を信じてください!」 信じろって言われてもねえ……。
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