まるで「シシュフォスの岩」だ。
そんな益体(やくたい)もないことを思いながら、橋の欄干に両腕を置き、それにもたれかかるようにして大羽 睛(おおう しょう)は眼下の川面を眺めている。 時刻は午後十時。アルバイトからの帰りだ。今いる場所は、目抜き通りから、ビルを二つほど隔てた裏通り。民家や商店があるが、時刻が時刻だけに商店はどこも閉まっており、人通りはない。そこを流れる、幅八メートルほどの川に架けられた橋の、中央だ。この橋は道幅が三メートルほどだが、車両の乗り入れが禁止になっている。
“もう限界だよ。幕を下ろそう? 頑張ったよね、わたし。わたし一人いなくなったところで、この世界は、どうにかなったりしない。さあ、私を必要としないこの世界から、旅立とう?”
心の中にいる「もう一人の“睛”」が語りかける。 ここから川面までは、多分、十メートル程度あるだろうか。今は一月、水は冷たいだろうし、この川は水深が深いと聞いたこともある。飛び込めば、まず命は助からないだろう。 「ふう」と息を吐き、空を見上げる。いろいろな出来事が想い起こされる。辛いものばかりで、心が空疎になってきた。きっと、辛い想い出が心を削っていっているのだろう。 不思議と涙は出なかった。てっきり涙があふれて止まらないものだと思ったのだが。 しばらくそのまま空を眺めていると、目抜き通りを走る自動車の音がやけに遠くに聞こえてくる。
このまま、空に堕ちて行けたら、どんなに素敵だろう!
そんな妄想を抱いたが、現実には百八十度、方向の違う川だ。 さあ、そろそろ逝こう。 そう思って、再び川面に目を落としたとき。
「ねえ」 声がした。 その声がする方を見る。 橋の親柱(橋の“端”)の上に、一人の少女がいる。 奇異な衣装を着ていた。 インドの女性が着る民族衣装・サリーに似てはいるが、違う。内側のチョーリー(ブラウス)はノースリーブで黒色、体を巻いている金色の布はまるで小さな金色のスパンコールを縫い付けてあるように光を振りまき、おまけにミニ丈でエンベロープスカートのように前面で布をクロスさせてあった。穿いているレースストッキングは黒を基調としており、大人の女性をイメージさせる。そして履いている靴は夜目にも真っ赤なショートブーツ。 だが、大人っぽいコーディネートに比して、夜風に長い髪をなびかせているのは、十四、五歳程度の少女。美少女といってもいいが、どこか眠そうな表情だ。 「ねえ」と、その少女はもう一度、言った。 「もしかして、その川に飛び込むの?」 心の内を見透かされたのに、不思議と驚きはわかなかった。それより、少女の格好を見て「寒くないのだろうか?」と冷静に思う自分を、睛はどこか突き放した目で捉えている。 答えないでいると、少女が口元にニヤリと笑みを浮かべた。 「それじゃあ、その命、私に預からせてもらえないかしら?」
目が覚めた。 不思議な夢を見た。毎日、死ぬことばかり考えていたあの頃。舞台は、あの頃だろう。登場した不思議な少女は同居している親戚の、あの子だ。なぜあの子があんな格好で夢に出てきたのか、まったくわからない。 まあ、夢とはそんなものだろう。 ベッドから起き上がり、睛は階下へ向かった。
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