その夜、零斗は猿橋グループ当主・猿橋(さるはし)隆典(たかのり)に呼ばれていた。 隆典は、何やら不敵な笑みを浮かべている。正直、見ていて気持ちのいい笑みではない。どうにも「人間の持つ、いやらしさ」が顕現したもののようで、この道を歩む限り、いずれは自分もあのような笑みを浮かべるのやも知れぬと思うと、反吐が出そうになる。 隆典は言った。 「これほどの危機に陥りながらも、乾武繁は、いまだ健在。じゃが、内情は青息吐息のはず。この機に密約文書を突きつければ、おそらくダメージは大きいはず。奴めを死に体(たい)に出来るはずじゃ」 「お言葉ですが、ご当主」 と、零斗は言っておくことにした。 「仮に『Y資金』に関わる密約文書が見つかったとして、それをもって乾を窮地に陥れることができる、などとは思えませんが?」 やはり「ソロモンの秘宝」……悪魔との契約文書については言わないでおく。隆典はあくまで「Y資金」にまつわる「密約文書」を信じているのであって、「悪魔との契約」のことなど、おそらく微塵も意識はないはず。 「零斗よ、お前ほどの頭の持ち主であっても、思い至らぬか?」 と、言葉は辛辣(しんらつ)だが、表情はどこか嬉しげだ。かなり自意識の強い人物であることは、間違いない。 「よいか? 儂が実際に聞いたところでは、あの文書には『生け贄』のことが記されておる。そのような文書が、ネットを通じて白日の下にさらされてみよ。乾の信頼は地に墜ちるわ。よしんばそこまでいかなくとも、この事故のあとで、そのような文書が明らかになれば、『ピー・タイ・ホー』の呪いなどという都市伝説が人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)し、少なくとも武繁個人は、下世話な興味の対象となる。そのような者をトップに据えておくほど、企業というものは甘くはない」 なるほど、やはりこの老人の興味の対象は、乾武繁個人への復讐、ということに集約されるらしい。 それならそれで構わない。零斗も、乾コンツェルンを追い落とす、などというところまでは興味はない。無論、現実にそういうことができて、自分もその一翼を担ったという実績でもあれば考えてもいいが、内容が内容だけに、期待しない方がいい。 「創業者が悪魔だの、精霊だのと契約し、生け贄を捧げたから、乾の繁栄がある。それを証明する文書」など、たとえ現実だったとしても、一時期ネットを騒がせて終わるだけのキワモノでしかない。確かに、今そのような文書が明らかになれば、乾武繁個人を破滅させることはできるだろう。「呪い」の事実はともかく、ここまで登るのに一切、手を汚していないとは思えないから、旧悪が次々に暴かれ、ネットではそれに「呪い」というキーワードがついて尾ひれがつくことは、疑いない。が、それだけのことだ。時間が経てば、そのような文書を公開した方も、キワモノ扱いされて終わる。 だいたい、実際に生け贄を捧げたから、繁栄した、などと、どのようにして証明するというのか。かつて愛人に産ませた娘が生け贄となって死んだ、という事実も、「偶然」として片付けた方が論理的だ。 「よいな、零斗。必ずやその文書、探し出せ」 一礼して、零斗は退室する。 だが、もう文書自体に、あまり興味は持てない。乾武繁が失脚寸前にある今、文書の価値は、少なくとも零斗にとっては無きにひとしい。仮に乾コンツェルンの誰かに持っていったとしても、武繁を斬り捨てる材料に使われるだけ。零斗にとって、何らの旨みはない。 まして猿橋の当主に持っていったとしても、何らかのルートで拡散させて一時的に乾の評判を落とすことは出来るだろうが、それ以上にはならない。実際に生け贄を捧げたことで乾が繁栄したと実証できねば、「乾の創業者は妄想に取り憑かれていた」という黒歴史が、乾に刻まれるだけだ。 せめて武繁がこのような危地に陥る前であれば、密約文書……アークにも「武繁に見せる」という使い道はあった。FACELESSの連中の話を信じる限り、アーク……悪魔との契約書には「契約者」として武繁や、歴代の乾家の人間の名前があるはずなのだ。そんなものが表に出れば、間違いなく武繁の「企業人」としての「顔」は潰れる。潰れないまでも、妙な評判がついて、場合によっては「いぬいクルーズ」の社長の座が危うくなったかも知れない。それを何らかの取引材料に使えなくはなかったのだが。 「さてさて、これ以上、アークに執心するのも、考え物だが」 少なくとも、あの四人……FACELESSの連中はアークを見つけ出さないと、「七不思議事件」は終わらないと考えている。自分も生徒会長という立場上、生徒が安心して学業や学園生活に専念できるように導く義務があるが。 「……ま、七不思議事件が終結するまでは、協力してやるか」 ここからは、ボランティア、否、本来の仕事の付帯業務だ。
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