先月来た時に、いろいろと見て回り、写生スポットの見当をつけていたらしい。まず詠見が手始めに来たのは、山手の方にある川を臨む小高い丘だった。今日中に着彩まですませるつもりだという。 カンバスに向かい、まずは鉛筆で大まかな線を描いている。それを見ながら、璃依は言った。 「ねえ、詠見ちゃん、聞いてもいい?」 「なあに?」 鉛筆を独特の持ち方で寝かせ、カンバスの上に走らせる詠見は、景色を見ながら同時に素描していく。器用だなと思いながら、璃依は言った。 「お父さんと顔を合わせたくないから、帰りたくない、みたいなこと言ってたけど。喧嘩でもしたの?」 璃依は、父親との仲は良好だ。だから、もし力になれるようなことがあったら、協力したい、そう思ってのことだった。 詠見が手を止め、少ししてからこちらを見た。 「私の言い方が悪かったかな? そういうんじゃないの」 その表情は、困ったような、悩んでいるような、微妙なものだった。 「私のお父さん、高校で美術を教えてるの。私が中学三年の時に、ちょっと病気とかやってしまって、休職したんだけれど。病気から回復して、今は復職してるんだけど、復職するまで、一時期、公民館の講座で、絵を教えてたのね? といっても正式な講師とかいうんじゃなくて、お手伝い?みたいな感じで。報酬も、お母さんが言ってるの聞いたけど、本当に薄謝程度だったって。でも、お父さん、真剣に教えてたの」 「もしかして、詠見ちゃんが美術部に入ってるのって、お父さんの影響なんだ?」 「うん」 と、詠見は頷く。父親の影響で絵を始めたのなら、そして、今も続けているのなら、少なくとも、父親を蛇蝎(だかつ)のように嫌っているようなことはないだろう。どうやら詠見の言う通り、「折り合いが悪い」のとは、ちょっと違うらしい。 「それでね、その講座って、土曜の夜に開催してたから、私もちょくちょく、顔を出してたの。……その時の生徒さんで、ものすごく上手な人がいて。その生徒さんもお父さんのこと、とても慕っていて。でも、お父さん、その人の絵を『ダメだ』って否定し続けてたの」 「へえ。厳しいんだ」 少し、首を傾げてから、詠見は言った。 「当時の私は、そうはとらなかったな」 「え?」 「私が高一の五月、その生徒さん、お父さんに否定……ううん、はっきり言うわ、けなされ続けて、とうとう講座に来なくなったの」 それは、ちょっとショックなことかも知れない。自分の父親がけなした生徒が、おそらく深く傷ついて(あるいは強い反感を抱いて)、講座に来なくなったら、身内としては責任を感じるだろう。 「ゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』っていう絵、知ってる?」 「え? なに、それ?」 知らないので、首を傾げると、詠見がスマホを操作し、一枚の絵を見せる。髪の長い男が、目を見開き、人間の体を手に持って左手を喰らっている、おぞましい絵だった。頭と右腕が描かれていないから、すでにむさぼり食われたのだろう。 「ローマ神話にサトゥルヌスっていう神様がいるんだけどね。サトゥルヌスは『自分の子どもに殺されるだろう』っていう予言を受けて、生まれた子どもを喰らっていったの。それを描いたものだっていわれてるんだけど。……私には、当時のお父さんが、この絵のサトゥルヌスに思えたわ」 「え?」 唐突な表現について行けないでいると、詠見は言った。 「子どもは、言ってみれば、未来の可能性。お父さんは、その生徒さんの才能に怖れをなし、自分の存在を脅かす脅威のように思って、潰そうとしてる。ずっとそう思ってたの」 なるほど、詠見は、この絵をそのように解釈したのか。確かに、親がそのような狭量な心の持ち主だと知ったら、少なくとも、璃依なら軽蔑の対象にするだろう。 「でもね。この一月だったんだけれど。その生徒さんが、去年十一月の県美展……私の実家がある県の美術展覧会なんだけど、それに出品した絵が大賞をとってたことを知ったの。その時のインタビューとか読んだんだけど、お父さんがつきっきりで指導した、みたいなことが書いてあって。その人、こんなことも言ってたわ。『自分は対象の見方に癖があった。鮎見先生は、それに自分から気づくようにしてくれた。自分で気づいて直すのでなければ、意味はない。指導してくれた鮎見先生に感謝してる』って」 「……そうなんだ」 意外な言葉にちょっと驚いていると、詠見が困ったような表情で言った。 「私ね、はっきりと言葉には出してないけど、やっぱりお父さんに対して、侮蔑的なことをしてたと思う。だから、なんか、顔、合わせづらくて」 璃依は詠見に対して「どこか皮肉屋で大人びた印象」を持っていたが、どうやら、自分と同じ、高校二年の女の子のようだ。そのことに不思議な安堵感を抱きながら、璃依は言った。 「だぁいじょうぶだって! 美台市の名産品とか、お土産持って、『ただいま、お父さん』って言えば、それで万事オーケーなんだから!」 笑顔で言うと、詠見がちょっと不安そうに言った。 「本当に、それでいいの?」 「いいのいいの!」 詠見はまだ不安げだったが、璃依は笑顔で詠見を見る。 その時。 「おおーい、璃依ー、鮎見ー!」 太牙の声がした。 坂道を上りながら、太牙が言った。 「そろそろ昼飯だぞ。恵磨さんが、農協の人とかと一緒に、公会堂で流しそうめん、やるってさ」 「ホント!? 行く行く!」 そう答えると、詠見が溜息をついて言った。 「公会堂で流しそうめん、って。……つくづく田舎だわ……」 いつもの詠見に戻っていたが、それもまた、璃依には微笑ましかった。
八月末。 短い休暇の後、美台市に帰った彼らを、ある「事故」が待っていた。 そして、その「事故」が、事態を一気に終末へと導いていくことになるのだが、今の彼らは、そのことを知るよしもなかった。
(CASE10・了)
※本当に申し訳ないんですけれど。
・鳴嶋一嗣巡査部長……岡田浩暉氏
のイメージで書かせていただきました。
本当に申し訳ない!!
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