リビングでテレビを見ていると、妻・寿子(ひさこ)が帰宅した。時刻は午後十時二十二分だ。 「お帰り。どうだった、芝居は?」 「素敵だったわ。有り難う、あなた。それにしても、よくチケットが手に入ったわね? もう完売で、どこでも手に入らなかったのに?」 「取引先の人と話していて、偶然、その舞台の話になってね。その人は『チケットを買ったものの、用事が入っていけなくなってしまった。払い戻しをしようと思う』って言ってたんだ。何気なくタイトルを聞いたら、お前が行きたがっていた芝居のものだったからね。譲ってもらったんだよ」 その言葉に、寿子がシニカルな笑いを浮かべる。だが、それは、どこか照れ隠しのようなニオイが漂っていた。 「あなたも、何年かに一度は、私に対していいことをするのね。……有り難う、あなた」 寿子が嬉しそうに言う。 気にするな、と言いながら、武繁は心中(しんちゅう)、思った。 入手困難な芝居のチケットを購入する程度なら、数日ほどでいいらしい。儀式を行って二、三日後に「演説する白い影」が実体化したという報告があった。それからしばらくして、チケットが手に入り、チケットに記載された期日の夜は、夜遅くまで妻が出かけることになった。そして、そのことが「麻枝殺害計画」に弾みをつけたのだ。 「あら?」 と、寿子がリビングの北側の壁際にある電話機を見た。 「留守電が入ってるわよ、あなた」 「え? 留守電?」 立ち上がり、表示を見る。 「……本当だ。気がつかなかったな」 そう言って、再生ボタンを押す。録音は一件だった。再生が始まる。
『……桑原麻枝です。この度(たび)はご迷惑をおかけいたしました。私(わたくし)、桑原麻枝は、けじめをつけ、きちんと精算致します。正式にお伺いし、ご挨拶するべきですが、まずは、お電話でのご連絡、ご容赦ください』 そして、切れた。時間は午後九時だった。
率直に、寿子は思った。 なんだろう、この意味不明な電話は? 彼女が嫌いな電話は、主に何らかの勧誘電話だが、このように意味不明な電話も嫌いだった。いや、嫌いというより、不気味と言った方がいい。 「あなた、なんなの、この電話? 変に事務的な口調だけれど、お仕事関係かしら?」 武繁なら何か知っているかも知れない。そう思い、夫を見た。 そしてその表情に、一種異様なものを見てとり、寿子の胸の中に不安が広がった。 「どうしたの、あなた?」 強ばった表情で、武繁が寿子を見る。何か言いかけ、一度、その言葉を飲み込んだものの、やはり言わねばならぬと思ったのだろう、武繁は口を開いた。 「実は、今日の夕方、彼女を叱責(しっせき)したんだ。ちょっとした『不手際』があってね。そのことについて、また時間を取って話をしようということになっていたんだが。……今の電話の様子、ただ事じゃない。何か胸騒ぎがする」 そうだろうか? 寿子には、普通に事務連絡のように聞こえたが? だが、夫の様子を見ていると、こちらまで不安に駆られてくる。 「そうだ、折り返してみよう!」 そして、武繁は受話器を取る。 「折り返す、って、もう一時間も経ってるのよ?」 「……ああ、そうか。でも、ちょっと、待ってくれ」 と、武繁はもう一度、録音を再生させた。 「……ほら、背後に、メロディチャイムが聞こえるだろう? これは、『いぬいクルーズ』の社長室にある壁掛け時計のものだ。あの時計は、正時(しょうじ)ごとに『この道』のメロディが鳴る。もしかしたら、社にいたのかも知れない。ちょっと確認してみよう」 そして、武繁は社の警備室に電話をかけたが、麻枝は午後六時(こんなに早いのは珍しい、と警備員は繰り返し言っていたという)に退社して以降、社には戻ってきていない、ということだった。 少し考え、何かを思い出したのだろう、武繁が気づいたように言った。 「そうか、彼女のマンションか」 「え? どういうこと?」 武繁が少しだけ言いよどむ風を見せてから言った。 「彼女、言ってたんだ、『自分の部屋にも、社長室にある時計と同じものを取り付けた』って!」 寿子は、自分でも目つきが険しくなるのを感じた。武繁がバツが悪そうに咳払いをして言った。 「……すまない、とは思ってる。彼女と、その、まだ切れてないことは認める。だけど、今はそれを脇に置いてくれ! 何か、嫌な予感がするんだ!」 そして、外へ出ようとして。 「……すまないが、お前にもついてきて欲しい」 「え? なぜ?」 なぜ、夫が自分に「ついてきてくれ」などというのか? 首を傾げると、武繁は言った。 「何かが起きてた時、傍にいて欲しいんだ、お前に」 照れ隠しなのか、武繁はあさっての方を向いて、そんなことを言った。
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