火曜日の朝、九時半のことだった。 社長室のドアが荒々しく開け放たれる。秘書の桑原麻枝の制止を振り切り、一人の女性が入ってきた。 「寿子(ひさこ)……」 その女性を見て、武繁は呟いた。彼の妻である。 「どうも。昨夜(ゆうべ)は、どこでお愉しみだったのかしら?」 寿子は武繁の五歳年下だが、彼が若く見えるように、彼女も年齢よりも若く見られることが多い。 冷ややかな笑みとともに、寿子はドアを閉める。まるで麻枝を締め出すように。 「単刀直入に言うわ、あなた」 と、寿子はソファに腰掛ける。 「これまでの女遊びについては、不問に致します。なので、これからは身をただしていただきます」 「……いきなり何を言うかと思えば」 と、苦笑を浮かべると、寿子が目を細める。 「昨夜、綿貫さんに、お電話をいただいたわ。大事な時期なのよ? 必要以上に慎重になっていただかないと。もし、ご自分から切り出しにくかったら、私の方からお話ししてもいいのだけれど?」 と、頭(こうべ)を巡らし、麻枝のいる社長室受付の方を見る。 やはり、知っていたか、と思いながら、咳払いをし、武繁は言った。 「いや、無用だ」 「そう。では、そのように」 そして、寿子は去って行った。 さて、どうしたものか。 そんな風に、武繁は考える。無論、麻枝との関係をやめるつもりはない。かといって、今、寿子が言ったように、こういうところでつまずくのも面白くない。 しばらく関係を控えて、様子を見て再開するか。あるいは。 「もしかしたら、ここらが潮時か?」 麻枝は、上昇志向の強い女だということがわかっている。このままいって乾ホールディングス社長、いわば城主になった時、どのような行動に出るか、容易に見当がつく。 ふと「麻枝を悪魔の生け贄にする」という単語が脳裏に浮かんだが。 「十五年ごとの半身、あるいは、契約更新時の『生命力』は『血縁者に限る』、だったな」 ヴァレフォルの言では、九十年ごとの更新時には、最初の契約時のような「生け贄」は必要ないが、やはりそれなりに代償が必要だという。そして、その対象は「血縁関係にある者の生命力」なのだそうだ。その理由について、何か難しいことを言っていたが、要するに「身内を犠牲にするぐらいの覚悟が必要だ」と解釈しておいた。どうも魔術用語、あるいは悪魔との契約に使う用語というのは、ややこしくていけない。いかに相手の思惑を封じるか、裏をかくか、ということを考えねばならないから、らしいが、なんにせよ。 「麻枝は対象外か」 それ以前に、九十年ごとの更新時には、兄・圭史の生命力をその対象にしているから、そもそも適用できない。また、例の「運転資金」の対象は、学園の生徒になっている。となれば。 「……陳腐だが、麻枝の抹殺を悪魔に依頼するか……」 一瞬、そんなことを考え、ふと苦笑を浮かべ、その考えを否定した。 漫画じゃあるまいし、そんな程度のことで悪魔による抹殺など、愚かしいにもほどがある。 そう思いながら。
|
|