二十二日の午後十一時四十五分。 僕は冥空裏界へ行った。 新聞で日付を確認すると、八月七日、火曜日。 中天のお日様を見ると、そろそろお昼時だ。 とりあえず、帝都文明亭へ、と思って歩いていると、雑踏の向こうから、伊佐木が歩いてくる。なんだか、浮かない顔だ。 伊佐木が僕に気づいて、手をあげた。それに応え、僕は伊佐木に言った。 「どうした、元気ないみたいだな?」 「ん? ああ、なんていうか……」 と、伊佐木は困ったような表情で空を見上げる。そして、僕を見て、頭をかいて言った。 「おさわちゃんがさ、なんだか、いかがわしい寫眞を撮らないか、って勧められてるらしいんだ。おさわちゃんも、その気になってるみたいで、『自分が縫った服の宣伝にもなる』って言っててさ」 「いかがわしい写真?」 「よくわからんが、『藝術』なんだそうだ。薄い服を着たのやら、服を着てないのやら」 なるほど、そのテの写真か。この時代から、あったんだな、そういうのって。 「その寫眞屋、さる高名な寫眞館の人間だって言ったらしいけど、昨日、湯島天神まで行って、その寫眞館で聞いてみたら、おさわちゃんに話持ちかけてるような、そんなヤツなんて、いないのがわかってさ。で、どうも、しばらく前から、おさわちゃんの回りをうろついてる野郎らしいのがわかって」 「え? なんだ、それ?」 「昨日、熊野縫製の人に聞いたんだけど、ちょっと前から、おさわちゃんの周辺で、いっつも姿を見かける、変な男がいるらしい。おさわちゃんは気づいてないらしいんだけど。もし、その男と同じ男だったら、おさわちゃん、寫眞を撮られるだけじゃすまないかも」 「そいつは、スト……」 ストーカー、と言いかけて、僕は言葉をのみ込んだ。この時代、そんな言葉は一般的じゃないはず。だから、僕は咳払いして言った。 「すと、すと、……素通りしてるだけ、じゃあ、ないんだよな?」 「ああ。俺が見たわけじゃないから、断言はしないけど、聞いた限りじゃあ、おさわちゃんの後をついて回ってるらしい」 「それ、沢子さんに話したのか?」 伊佐木は、頷く。 「ああ。でも、信じてくれないし、挙げ句に『私のお仕事の邪魔をしないで』なんて言われてさ」 どうしよう。この時代、ストーカー規制の法律なんてないから、警察に話すことは出来ないし。この場はやっぱり。 「なあ、伊佐木、心配なら、ついて行ったらどうだ?」 「いや、その時間……今日の午後は、俺は、試験があるんだ」 「そうか」 伊佐木に試験がある、ということは、僕にも試験があるということ。だから、僕も同行できない。基本的に、こいつと僕の大學でのスケジュールは、同じなんだ。「書生」という建前上、僕は大學へ行かないとならない。 この世界での「帝都大学二部」……ていうか、教育施設には、基本的に「夏休み」が存在しないらしい。ただし、夏期は毎日、学校があるわけじゃなく、週に三日とか、火・木・土とか、変則的なスケジュールなんだそうだ。記録されてないから、はっきりとは、わからないけど、帝浄連時代に、メンバーの誰かが「夏の休暇は、どこも七日か、そこらしかない」みたいなことを、割と影響力の大きい公的な機関の中で、言ってしまったらしい。 ……まさか、爺ちゃんじゃないよね? もちろん、「学校には、『夏休み』というものがある」ていう概念を持ち込もうとしたこともあったそうだけど、一度出現した帝都タワーが、消えずに残っていたり、一度出現した帝都駅前広場が、やっぱり未だに存在するように、「長期の夏休みなんて、存在しない」っていう概念も、定着したら、それっきりらしい。 そういえば、サウザンアイランドドレッシングも、あのあと、浅黄さんが「こんな変なモノは、有り得ない」って言ったそうだけど、今じゃあ、メニューにしっかり書いてあるんだ。 どうやら、この世界の変化は不可逆的なものらしい。 だからこそ、言動に注意しないといけないんだな。 それはともかく。 となると。 「なあ、これから、帝都文明亭に行かないか?」 もしメンバーの誰かがいたら、沢子さんについて行ってもらおう。 「いいけど? なんで?」 「僕の知り合いがいたら、その人に沢子さんの付き添いを、お願いすればいい」 ちょっと考えて、伊佐木は頷いた。 その時、正午の大砲が轟いた。 ふと、この間、報告にあった「ストーカーのディザイアに進化する可能性のある、禍津邪妄」のことが頭をよぎったけど。 ……違う、かな? いつの時代にも、粘着質なヤツは、いるわけだし。
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