千紗は立ち上がり、ワラ屑を捨てる。そして、右手を握り拳にし、人差し指と中指を、まっすぐ立てる。「刀印」と呼ばれる印契(いんげい)だ。千紗が師事した師匠からは「爪櫛印(つまぐしのいん)」という名前で、教わった。「爪櫛」とは、伊弉諾尊が、黄泉国で伊弉冉尊を探しに行ったときに、暗い中を灯すのに使った、櫛の名前だ。 千紗はその印の先端を、地でのたうち回っている禍津邪妄に向ける。 そして、キーワードを口にした。 「Spark」 指先から発生した青白い電光が、辺りに放電を散らしながら、禍津邪妄を目指す。だが、それが届く直前、稲妻が爆ぜて、宙に舞う。 「!?」 何かが空間に、にじみ出してくる。はたして、禍津邪妄の前に、一つの姿が現れた。 身長は百五十センチ程度だが、全身に千紗を圧倒する気迫がみなぎっている。着ているのは袍の上に、十世紀から十二世紀頃の、中国の武人が身につける歩人甲(ほじんこう)、さらにその上に、披博(ひはく)と呼ばれる肩・胸を覆う装甲。兜や面具はなく、顔が出ている。鬼神の相に、総髪、金色に輝くサークレットをはめていた。手に持っているのは、一メートルほどの、金と朱色に塗り分けられた棍(こん)。 名は知らぬが、思わず、千紗は口にした。 「斉天大聖、孫悟空……」 そういう印象であり、また、そのようにしか、思えなかった。 鎧兜の影が、それを見て言った。 『マシュラタイコウ様!』 「ましゅらたいこう?」 はっきりとは聴き取れなかったが、そのように聞こえた。 孫悟空ではないのか? いや、本来の名前を伏せている可能性はある。冥空裏界を訪れた者の名前が変わる理由の一つは、「名前」によって、相手の存在を「縛る」ためだ、と新が言っていた。冥空での名前を持つことにより、冥空裏界にいるときは、その者を顕空側でコントロールすることが難しくなる。そもそも名前が変わることにより、その正体や素性を掴むことも、場合によっては不可能になっている。 「名前」とは、それほど重要なものなのだ。 比呂樹と剣で打ち合っていた影が、身を翻し、孫悟空の傍に立つ。 『今はまだ、自在に動けぬ。ムラマサ、ここは、引く』 孫悟空が言う。 『御意』 そして、二つの姿が、霧にかすむように消えた。 禍津邪妄も、消えていた。 比呂樹が歩いて来ながら言った。 「あいつ、もしかしたら、『刀』に操られているのかも知れねえなあ」 「刀に、操られている?」 「ああ。打ち合って感じたが、あの太刀筋、あいつが身につけたものというより、刀にインストール……ていうか、刀に宿っているもののように感じた。俺が感じた限りだが、新陰流(しんかげりゅう)と示現流(じげんりゅう)なんかを使ってる。お前も聞いたろ、あの声」 「声?」 そういえば、何やら奇声を聞いたような気がする。てっきり、人々の悲鳴だと思っていたが。 「浅黄」 と、千紗は言った。 「私には、あの孫悟空の名前は『マシュラタイコウ』と、呼ばれたように聞こえた。近くにいたお前には、あの『ムラマサ』と呼ばれた武者が、なんといったか、聞こえたか ?」 「……俺にも『マシュラタイコウ様』って言ったように聞こえた。あの孫悟空が、あの武者の上司、ってところか?」 「だとすると」 と、千紗は腕を組む。 「もしかすると、前回、前々回のディザイアは、何者かによって生み出された可能性があるな」 「じゃあ、魔災も……?」 「それはどうかな? 魔災は大正十二年にまで遡る。今の時点では、なんともいえんな」 そして、禍津邪妄が消えたところを見る。 比呂樹が言った。 「ヤツ、今度はディザイアになって現れるだろうな……」 同じことを思っていたらしい。 それに頷くと、ふと、千紗は思いついたことを口にした。 「阿修羅……」 「は?」 比呂樹が首を傾げる。 「いや、あの孫悟空の顔、鬼神だった。まさに、修羅といってもいい」 「……まさか、と思うが。魔物の『魔』という字を組み合わせて『魔修羅』、なんてな……」 苦笑とともに、比呂樹は言ったが、もしそうなら。 「タイコウは、大きいに、duke(デューク)の公爵で『大公』、だったりしてな……」 と、千紗も言ってみた。 魔修羅大公。 あながち、荒唐無稽でないような気がした。
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