千紗は、この日は、旧華族の娘の勉強を見る日だ。午前中の講義を終え、昼。いつもは、ここで相伴にあずかるのだが、救世心がやってきた気配がある。どうも、彼がここに来るようになってから、あのような異変が起こり始めたような気がしてならない。ここは、彼と合流した方がいいかも知れない。 「お嬢様。申し訳ないのですが、所用がございます。今日はここで、お暇(いとま)を頂戴したいと存じます」 「まあ、そうですの? お名残惜しいですわ」 と、洋装の少女、徳大寺花枝(とくだいじ はなえ)は、眉を曇らせる。彼女は、十七歳。女学校に通いたいらしいが、親が「家」から出さないのだという。 花枝は、千紗の右手を、自分の両手で包み込むように、柔らかく握った。 「先生のご都合に、わたくしごときが口を差し挟むことは出来ませんけれど。でも、わたくし……」 「花枝お嬢様、また、明日(みょうにち)、参ります」 「……ええ。それを楽しみに。いえ、今宵、夢の中で、先生の元へ、参りますわ。今日のところは、ご機嫌よう」 こういうのは、新(あらた)の「得意分野」ではないかと思うのだが、どうも、この徳大寺花枝という少女は、恋に恋するところがあり、またどういうわけか年上の女性に、強い憧れを抱いているらしい。読書しているところを、ちょくちょく見るが、どうも少女小説に影響されているフシがある。これが顕空であれば、成長とともに嗜好が変わっていくことが期待できるが、あいにく、ここはループ世界だ。それでも、花枝の「担当」になったのは、二年半ほど前のこと。その前は、まったく別のごく普通の少女だった。霊的因縁を持つ人物が変われば、花枝の嗜好も変わると思うが、それまでは、自分も「それ」に合わせた方がいいだろう。 願わくは、「この先」にすすまないことを。
ここは、位置的には、市ヶ谷に当たる。 夏の日射しを浴びながら千紗が、とりあえず、帝都文明亭へと向かっているときだった。 途中の道で、何やら妙な気配を感じた。それは、禍津邪妄が出現するときの感覚の一つであった。 皮膚の表面を、ぬめり気のある何かでなで回されるような、不快感。それは獲物を狙う肉食獣の、舌の感触とは違う。あのような「ザラつき」はない。むしろ、ねめ回す粘液質の目。 その方を見ると、三十メートルほど先に、黒い塊。それはガス状の何かが固まっているようであったが、やがて、実体化した。 その悲鳴は誰のものであったろう? それは定かではないが、この光景を見た女性のものであるのは間違いない。 黒い塊は、一つの形になっていた。 折りたたみ式のガラケー。開いたときに、そんな感じがした。そして、「色」がついていく。ベースは青。そして、その形はやはりガラケー。大きさは全長五メートルほどか。そして、耳障りな音、いや、声で言った。 「キミヲ、ボクノ、コレクション、ニ、イレテアゲル」 色つきの禍津邪妄は普通だが、言葉を発する個体は、滅多に現れない。欲念体……ディザイアの一歩手前の存在だ。もし、これが誰か特定個人の意志で統一されたら、ディザイアになるだろう。 通常、ディザイアは、個人の意志によって出現する。だが、ごく稀に、禍津邪妄を形作る邪念の塊の中で、一人だけの意識が強くなったときにも、進化する。ディザイアの厄介なところは、明確な意志を持って、時に「それ」と知られずに行動するところだ。その結果、この世界の歪みが加速度的に蓄積していく。 禍津邪妄のレンズが、光る。すると、そこから七、八メートル先にいて、腰を抜かしている若い女性が光に包まれ、意識を失って倒れ込んだ。 魂を抜き取った、といったところだろうか。 顕空でいうなら、辺り構わずの盗撮行為から、ストーカーへと発展し、いずれは軟禁あるいは監禁へと発展する、といった感じだろうか? 怒りが湧いたとき、銀の勾玉が目の前に現れた。 ということは、近くに、金の勾玉を手にした者がいるということ。 「鎧念招身」 キーワードを唱え、「変身」する。
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