紫雲英がいるのは、家からバスで五分ほど行ったところにある雑居ビルだ。裏通りのようなところ。このビルは、そんなエリアの一角にある。 先月、夏休みのある日、このビルの屋上へと通じるドアが、施錠されていない……というより、何らかの事情で鍵がかからないようになってしまっているらしい事を知った。管理人に報せねば、と思ったが、その時は、何かの都合で不在であり、そのまま忘れてしまっていた。 それから、修繕されていないようで、今日、来てみると、やはり鍵はかかっていなかった。 ラッキーだと思った。 ドアを開け、屋上へ出る。 九月三日の土曜日、午後九時十五分。 もしかすると、今頃、両親や姉は、自分がいない事に気づいたかも知れない。 歩を進める。 裏通りではあるが、幹線道が近くにあり、雑音が辺りを支配する。その音は紫雲英を、かえって現実から遠ざけるような、妙な響きを持っていた。まるで現実味が無い。ひょっとすると、自分は現実とは違うところにいるのではないか? そんな風に思ってみる。 そう、現実でなかったなら、どんなによかっただろう。
紫雲英には、小学校の頃から仲の良い友だちがいた。同じ中学に進学し、そして二年生の夏。 その友だちは、イジメの対象になった。 最初は彼女をかばっていたが、そのうち、紫雲英もイジメの対象にされそうになり、彼女は友を見捨てた。 といっても、一緒になっていじめたわけではない。 無視。 これだけである。 やがて時は流れ、一年後。先月、夏休み中に、その友は自死を選んだ。 何も考えられなくなった。後悔という言葉で表現できない、奇妙な感覚・感情が渦巻く。何か出来たはず、という想いと、何かが出来たとは思えないという想いと、何もしたくなかったという想いと、何もしない方が良かったのだ、という想いと、自分もいじめられたくなかった、という想いと。 それを「後悔」という一語で片付けてはならないような気がした。 屋上の鉄柵の近くに立つと、生暖かい風が、紫雲英を包み込む。これが気温による温風なのか、都市部ゆえの熱風なのか、それとも自分を呑み込もうとする、闇の獣の吐息なのか。 ふと、下を覗き込む。 地上、十階。墜ちれば、おそらく命はないだろう。紫雲英の心に恐怖が浮かぶ。だが、それは、ここから墜ちたら、死ぬだろう、という恐怖ではない。ここから墜ちて、もし一瞬で死ねなかったら、どうしようという恐怖だ。 苦しむような真似はしたくない。 それとも、ここで苦しむ事が償いになるのなら。 紫雲英は、鉄柵に手をかける。 その時、ふと、中学一年の夏に、好きで毎週見ていたアニメを思い出した。こんなときに、何を思い出しているのか、と、紫雲英は自分でも情けなくなった。 そのアニメは、目覚めているときはこちらの世界、眠ったときは妖精界と、両方の世界に、同時に存在できるようになってしまった少女が、二つの世界が衝突して消滅してしまわないように、奮闘するものだった。 その少女は、中華料理屋の娘であり、バトルコスチュームはチャイナ服と、巫女服を足して二で割ったようなものだった。使うのは、二丁拳銃。そのうち、右手に装備しているのは、銃身がやたらと長いものだった。作中では「バントライン」と呼ばれていた。 主人公が中華料理屋の娘、というところに、紫雲英は親近感を覚え、毎週チェックしていたのだ。 そういえば、シリーズ終盤、時間を遡り、そもそも二つの世界が衝突する原因となった事件を解決する、というエピソードがあった。 もし、自分に時を遡る力があったなら。 きっと友を見捨てるような事はしない。 願わくは、ここから墜ち、その主人公に転生できるなら。 荒唐無稽な妄想だが、その時は、本当にそうなればいい、と強く願った。 そして、紫雲英は、鉄柵に脚をかけ。
ダイブした。
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