八月十一日金曜日、午後八時。 結城亜紋は、上石津市郷土文化歴史研究センター……テイボウの本部に来ていた。千宝寺千紗からの連絡で、「阿山花果」が「阿山果花」として、ディザイアになっている可能性がある、と聞いたからだ。 阿山花果。彼にとって、忘れられない名前だ。 今から二年と十ヶ月ほど前になる。彼は、中埜石中央病院で、外科医を務めていた。所属部署は「第二外科」。だが、結城自身は、総合診療にも意識を持って行っていた。 その時、彼は、一人の少女を診ていた。名を「殿村和美(とのむら かずみ)」、十七歳の少女だ。姉の名前は阿山花果。当時、花果は三十六歳。かなり年が離れているが、いろいろと複雑な事情があるらしい。あまり突っ込んだところまでは聞いていないが、花果は両親が、和美は母親が、すでに亡いという。和美は父の婚外子だそうだが、様々な事情で、幼い頃は苦労したらしい。両親の死をきっかけに、花果は和美のことを知り、引き取ったという。 「たった二人の姉妹だから」ということだった。 そして、和美は事故で搬送され、十日後……。 「先生、もう、もう、和美は、駄目なんですか!? 死んだんですか!?」 「……ええ。申し訳ありませんが、判定は『脳死』、ということに……」 「でも、生きてるじゃない!! 呼吸しているじゃない!!」 花果は涙ながらに、訴える。確かにそうだ。だが、それは、強制的に生かされている、に近い状態だ。医者としての結城は、そう考えざるを得ない。 その時、ドアの外から、結城を呼ぶ者がいた。 外へ出ると、そこにいたのは、第二外科主任、栗山(くりやま)だった。 そこから十メートルほど歩いた先で、栗山が言った。 「結城くん、あの話、したのか?」 「……いいえ、まだ」 「早くしたまえ。移植にはタイムリミットがある。そのことは、君も知っているだろう?」 「ですが、ご家族のお気持ちを考えたら……」 栗山が険しい目つきになった。 「いいか? 殿村和美さん一人の体で、三人の患者が助かるんだ!」 「そういう問題では……」 「そういう問題なんだよ!」 結城の鼓動が一瞬、止まったような気がした。 「結城くん、君、外科医になって、何年だ? まだ、そんな甘っちょろいことを言っているのか? いいか? 動かなくなった患者は、肉の塊だ。その肉の塊の中で、使えるものがあったら、……それで、誰かを救えるのなら! そうするのが、我々のつとめなんだ!」 「でも、そんな、誰かが亡くなるのを、待ち望むような姿勢は……」 「誰がそんなことを言っている!? 私が言っているのは、目の前のことだ! 早く、説得してこい! 君が行かないなら、私が……!」 栗山の瞳に宿る光は、真剣なもの。彼なりに、信念を持っているのがわかる。 だが。 結城は、どうしても承服できなかった。 そして、同時に、栗山の言うことも、理解できる自分を感じていた。
その後、大正十二年界に行くことになった。ということは、自分は、外科医としての覚悟が足りなかったのだろうか。 中央病院を辞め、そしてテイボウに入り、阿山と会って、話をした。しばらくして、御苑生衣祭司の計らいで、開業医として、上石津市に診療所を構えることもできた。二年ほど前、梓川貴織が正式加入して二ヶ月ぐらいした頃、阿山は冥空裏界へ行くことがなくなり、テイボウを脱退した。 阿山の名前を聞くのは、それ以来になる。 本部には、今の時間、江崎しかいない。 江崎が、言った。 「高谷くんや、白倉くんの話では、このディザイア、もしかすると、これまでにない脅威になる怖れがあるそうです。だから、確実に倒さねばならない」 「そうですか。では、例によって、御苑生衣祭司のルートを使って、本当にあの『花果さん』が、意識不明に陥っているか、あるいは、それに近い状態になったことがあるか、確認してみます」 「お願いします。……ですが、ちょっと、ややこしい事情のようです」 江崎が複雑な表情になる。 「ややこしい、とは?」 「詳しくは、次に……できれば、今夜にでもあちらへ行ったメンバーに、『確認』してもらおうと思っているんですが」 と、江崎は沈痛な表情になる。 「懐胎秘法伝授。つまり、子どもを授ける、あるいは、自身が産む、ということです。それがディザイアになったということは、ディザイアの元になった人物は、いかなる事情があろうとも、子どもが欲しい、あるいは産みたいということです。場合によっては、そのディザイアを倒すということは、顕空現界で『一つの命』を抹殺する、ということにも、繋がりかねない」 その言葉が、何を意味するのか。 結城は、今一度、「命」に向き合う覚悟を持つ必要に迫られたことを感じていた。
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