そして、あの日。 「調べたよ。『田中ひよこ』なんていう、秘書室事務員なんか、いないじゃないか! それだけならまだ、社からの報復を恐れているって考えることも出来るが! ……あんた、幹山さんからの情報をデタラメだって言ったな? こっちも調べたんだよ、仕事だからな! 全部、正しかった! それに、幹山さんから預かった『証拠』、あれを検討する限り、幹山さんはおそらく『当事者』の一人だ。一方、あんたからもらった情報は、全部、ガセだった! あんた、もしかしたら、土原議員か、野蔵社長あたりに何か言われて、幹山さんからの情報を潰そうとしたんじゃないのか? 前から、おかしいと思ってたんだ、あんたのこと! 言うことといい、することといい! それに、あんた一人とは思えない。仲間がいるんだろ? なんにしても、あの『証拠』は、渡せない!」 まなじりを吊り上げ、津島は車内で詰め寄った。 まずい。 率直にそう思った。 つまりは。 なにかあったときのプランBを実行するしかない。 「……すみません。私、実は土原議員から脅されていて」 「……脅されている?」 津島の表情が変わった。 かかった。 溢美は、自分に演技の才能があると、本気で思いながら、嘘八百を並べる。自分でも制御不能な状態にまでボルテージが上がり、涙を流しながら「やっと、故郷の母の手術が出来る」とか「私の過去も償いたい」などと言ったときには、思わず自分自身に、心の中で喝采を送ったほどだ。 津島の表情を見る限り、溢美に同情していることは間違いない。溢美は鼻をすすったあと、マイボトルを出した。 喉が渇いた振りをして、カップに中身を注ぐ。それを飲み干し、何気ない風を装い、津島に言った。 「お飲みになりますか? 漢方茶ですけど?」 「え? ええ、そうですね……」 津島には、たった今、「一人の女性の過去を告白させ、泣かせてしまった」という負い目が生まれた。となると、ほぼ百パーセント、この申し出に乗ってくる。乗ってこなくても、方法は、ほかにもあるが。 「いただきます」 また、かかった。 この男、名の通ったジャーナリストだというが、隙だらけだ。フリーでいるのは、一匹狼なのではなく、ただ単に「どこにも使ってもらえないだけ」ではないのか? そう思い、笑いをこらえながら、カップにボトルの中身を注ぐ仕草をして……。 「あら? 空っぽ。……ああ、でも、もう一つありますから」 と、バッグから一回り小さいボトルを出す。そして。 「そういえば、お風邪、でしたよね? 私、いいサプリメント、もらったんです。是非、試していただきたくて……」 と、紙にくるんだミラクルフルーツを砕いたものを出す。 「漢方茶を飲む前に口の中で一分ほど転がして、このティッシュに吐き出してください」 ミラクルフルーツ、ティッシュを渡す。そして、新しいカップに、新しいボトルの中身を注ぐ。何の気なしに、「グレープフルーツジュースに関することすべて」を調べておいたことが、役に立ったと思いながら。 津島は「そういえば、今日はまだ風邪薬を飲んでなかった」と言いながら、サマージャケットのポケットから、錠剤を出し、溢美が差し出したものを受け取り……。
「結局、聞き出せてないんだろ、その証拠っていうやつ?」 車のウィンドウの外から、動かなくなった津島を見ながら、阿良川が言った。 「仕方ないでしょ、バレてるんだから。そんな余裕ないわよ」 津島の骸(むくろ)を見ないようにしながら、溢美は答える。目の前でひと一人が死にゆく様を見て、まだ、動悸が収まらない。 「まあいい。ヤツが持ってたスマホとDVDと、……ヤツの部屋を探れば済むことだ。とりあえず、部屋の鍵をコピーして……」 「だから、なに、コピーって? あの時も聞いたけど、そんな手間かけなくても」 「鍵、持ってなかったら、不自然だろ? 殺したヤツが鍵、持っていって、家捜ししたって思われたら、警察が徹底的に調べる。どこにその『証拠』を隠してるかわからんからな、警察が、こいつの死体見つけて、家宅捜索をするまでの時間、あるようでねえんだよ」 ふと、何かに気づいたように、阿良川が自分の頬をさする。 「それにしても、この火傷のメイク、ちっと派手だぞ?」 「あのねえ!? 私がなりたかったのは、メイクアップアーティスト! ハリウッドの特殊メイクじゃないの!」 へいへい、と笑いながら、阿良川は去って行った。 溢美は、気がついた限り、車内に残っている自分の痕跡を消した。
阿良川は、津島が持っていて、奥坂が脅しの材料に使ったという「映像」について、おそらくその正体なり、意味に気づいている。そして、その映像は、確実に修司、あるいは、土原にとって、都合の悪いものなのだろう。溢美も、阿良川からコピーを見せてもらったが、おそらく乗用車から撮影したと思しき町中(まちなか)と、どこかの民家を映したものだった。 わけがわからないが、阿良川は何かに気づいているようだから、いずれ明らかになるだろう。その時が楽しみだ。
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