あらかた、清掃を終え、休憩時間になった。僕たち、外部業者にあてがわれている「休憩室」の一つに行こうとしたとき。 経理部のドアの前で、走ってきた誰かと、僕はぶつかった。 「ああ、ごめん……」と、走ってきた男の人が、僕を見て、息を呑んだ。 「……き、君は……!」 その驚きようは、普通じゃない。でも、僕はこの人を知らない。なんだろう、と思っていたら、その人が何かに気づいたように、ていうか、うろたえたように言った。 「ああ、ご、ごめん。人違いだった」 人違い? そして、その人は、経理部に入っていった。 今、入っていった男の人が「この書類作ったの、誰ですか!?」なんて、言うのを聞きながら、僕は、近くに来た生田さんに聞いた。 「あの人、誰ですか?」 生田さんが、僕が指し示す人を見る。女性事務員さんと、「こちらが出した見積もりと合わない」とかなんとか、口論している男性を見て、生田さんが言った。 「ああ、資金管理一課の、管理主任、フジオカ トモカズさん。富士山の富士に、岡、朝、ていう字に、円い『円』ていう字を書いて、『ともかず』って読むんだって。ムラさんと同期で、剣道部に誘われて、体験入部したことがあるそうよ」 「朝に円で、ともかず、ですか」 人の名前って、難しいなあ。でも、そんな名前の人、知らないけどな? やっぱり、心当たりはない。 「なんか、あの人、僕のことを知ってるみたいな感じだったんですよね、人違いだとは、言ってましたけど?」 その言葉に、生田さんが、苦笑を浮かべる。 「気にしないで? あの人、いつも、ああなの」 「……え?」 休憩室へ向かう途中で、生田さんは言った。 「あの人、資金管理一課の、資金管理係だったんだけど、去年、横領事件があったじゃない、ここ?」 「はい」 「その時、当時の管理主任だった人が逮捕されて、富士岡さんが、管理主任代行、ていうのになったの。で、そのまま、この四月に正式に管理主任になったの。それって、出世、っていうか、大抜擢なのよ」 「大抜擢?」 「うん。この会社、ていうか、資金管理一課って、管理主任、っていうのは、課長に次ぐ、ポストなんだって。なんでも、昔、資金調達係の係長だった人がヘマをやらかして、それを、当時、資金管理主任だった人がうまく解決して。で、資金管理係係長の下にいた、資金管理主任と、資金調達係係長の下にいた、資金調達主任を、管理主任に一本化した、ってことがあったらしいの。だから、主任なのに、係長より上、課長のすぐ下なんだって」 「なんか、複雑な話ですね」 「そう。私も、この話聞いて、何が何だか、わからなくて。でね? 富士岡さんなんだけど、管理主任になった辺りから、なんか、おかしくてね?」 「おかしい?」 おかしい、て聞くと、含みがある。まるで「今度はこの人が、なんかの事件に関わってるか、事件を起こしそう」って、聞こえるな。 「おかしいって言うと、語弊があるけど。……なんか、おびえてるの」 「おびえてる?」 「うん。だから、見慣れない人に出会うと、警戒したような態度を取るし、いろいろ社内名簿とか、外部業者の顔写真入りの名簿をチェックしているらしくて、こちらが知らないのに、向こうはこっちを知ってる、なんてことがあるのよ。好意的に解釈すれば、『相手のことをよく知ろうとする、気配りの出来る人、悪く言えば、世渡り上手の人』なんだろうけど、そういう感じはしなくて」 そして、生田さんは言った。 「まるで、『何かを恐れてて、会う人みんなをチェックしてる』感じ、かな?」 休憩室のドアを開けながら、僕は、二つのことに気づいていた。 まず一つ。 僕の顔写真は、確かにC−membersに提出したし、C−membersも、僕のことを報せていると思う。でも、だからといって、いちアルバイトのことを、管理主任、っていう立場の人が、いちいちチェックするものだろうか? 二つ目。 富士岡、正確には、「ふじおか」っていう響き、だいぶ前に、どこかで聞いたような気がする。いつ頃、どこで聞いたのか、思い出せないけど、もしかしたら、実は会ったことがあるのかも知れない。
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