「警部、何なんですか、これ?」 七月三十一日、月曜日、午後四時。 県警捜査一課で、片岡巡査は、鼻に洗濯バサミをかまされていた。もちろん、金具は細工して、挟み込む力は弱くしてある。 「まあまあ。これは、実験だ」 佐之尾常国(さのお ときくに)警部は、ニヤニヤとして、……いや、実際は、この状況を、少々楽しみながら言った。佐之尾はイタズラ小僧だったわけではないが、それでも、こういうシチュエーションはワクワクしてくる。部下たちも、怪訝な目で見ていた。 「津島は、事件前から、風邪を引いていた。胃から風邪薬が見つかっているし、周辺の証言もある。ひどい鼻声だったそうだから、おそらく鼻づまりにもなっていたと思われる。それを、再現した」 そして、今度は、ティッシュペーパーにくるんだ、長さ二、三センチ程度の、ラグビーボールに似たものを、二粒、片岡に手渡す。 「これを、よくなめろ」 「……大丈夫でしょうね?」 何か、変なものだとでも思っているのだろう。大丈夫、と答えてやる。 片岡はそれをなめている。呑み込む前に吐き出させ、次に、佐之尾はコップに入った飲み物を渡す。 「次はこれを飲んでみろ」 「はい」 と、片岡は、それを恐る恐る、一口、飲む。 「……どうだ?」 これについては、すでに実験済みだ。だから、片岡の次の言葉もわかっていた。 「どうって……。特に味があるわけでも」 「そうか」 満足のいく答えに、佐之尾は頷き、片岡に言った。 「ハサミ、とってみろ」 言われるがまま、洗濯バサミを外し、それを、近くのデスクの上に置く。 「片岡、そのジュース、嗅いで見ろ」 「……はい」 片岡としては、次から次に、何をやらせるのか、と思っていることだろう。恐る恐る、手にしたジュースに鼻を近づけ、しばらくして、眉をひそめた。 「……え? これ、グレープフルーツジュースじゃないですか!?」 「どうだ、酸っぱいと感じたか?」 片岡は驚いたように、首を横に振る。もう一度、口に含むが、やはり酸っぱさや苦さを感じないらしく、首を傾げている。 佐之尾は、ティッシュを開いてみせる。 「これは、ミラクルフルーツっていう、果実だ。ネットで調べて、この果物にたどり着いたが、こいつには、ミラクリンっていう成分が含まれてて、こいつを口にしてから、酸味、苦味のあるものを口にすると、酸味や苦味を感じなくなる。当日、津島は鼻が詰まっていて、おそらく渡された飲み物が、グレープフルーツだとは、わからなかったんだろう」 文山が頷いた。 「だから、疑いもなく、それを飲んだ」 片山が、まるで世紀の大発見をしたように言った。 「これで、トリック、解けましたね!」 しかし、佐之尾は首を振った。 「いや、『どうやって毒を飲ませたか』っていうのがわかった程度だ。『誰がやったか』までは、わからない」 ちょっと考えて、片岡も落胆したように言った。 「そうですよね。その気になれば、誰でも手に入れられますもんね」 「だがな」と、文山が言った。 「これで、一つ、犯人像がわかったじゃないか」 「え?」 と、片山は、片岡が文山を見る。その表情を見る限り、本当にわかっていないようだ。 佐之尾は、少し呆れ、また「まだまだ育てないといかんなあ」と思いながら、言った。 「こんなものを用意するとなると、犯人は、津島がグレープフルーツジュースを飲まないことを、知ってたってことになるだろう?」 片岡が、ちょっと考え、「ああ、そうか」と納得する。 文山が、佐之尾に続いた。 「仕事仲間は、みな知ってたとみていい。だが、めぼしい者には、みんなアリバイがある。となると、仕事仲間以外で、それを知りうる者、ってことになる」 「いますかね、そんな人?」 と、片岡が首を傾げる。 確かに、そういうことになる。となると、家族、家族の知人、ということになるが。 とりあえず、一人ほど、話を聞くべき人間が浮かんだ。
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