奈帆は、昨年十一月下旬、横領が発覚したときのことを、思い出していた。
あれは、十一月二十日のことだった。 直接、告発したのは、人事部長の桑原(くわはら)だったが、桑原部長も、誰かからの情報提供があったらしかった。報復を防止するため、その「誰か」については伏せられていたが、漏れ聞こえてきたところでは、晴幸と同じ事業管理部、資金管理一課の誰からしかった。 奈帆は、矢南に言った。 「こういうことになってしまいました。もう、あなたが、私を脅す口実は、なくなりました。これまでお渡ししたお金については、もう、何も言いません。これっきりにしてください」 十一月二十三日。正式に告訴され、晴幸は警察に呼ばれた。その夜、家まで呼びつけ、奈帆は宣告したのだ。矢南から強請られていることは、晴幸には伏せていた。当時は、晴幸のような小心者に伝えたら、どのような形でボロが出るかわからない、と思ったからだが、今では、彼に対する気遣いだったような気がする。 どちらがよかったのか、わからない。このまま、横領がバレない代わりに、脅され続けるのがよかったのか、横領が発覚しても、何者かに脅され続けることのない生活が良かったのか。 実は、今でもわからない。 矢南は、テーブルに目を落とし、何かを考えている。それが、奈帆には「金をむしり取ることが出来なくなって、残念に思っている」ように見えた。 しばらくおいて。 おずおず、という感じで、矢南は言った。 「奈帆さん、まだ、隠してること、ありますよね?」 「え!?」 鼓動が跳ね上がる。 次に出てくる言葉が、予想される。
奈帆さん、小金井さんと一緒になって、佐溝さんを殺しましたよね?
矢南が、イヤらしい笑いを浮かべて、そう言うのが、頭に浮かんだ。 やはり、あの髪留め、なんらかの物証なのだ! 矢南が、どうやって、それを手に入れたのか、そして、どうやって、その髪留めが殺人事件と関係があると判断したのか。 それはわからないが、矢南は奈帆と晴幸が、佐溝充政(さこう みつまさ)を殺害したことを、掴んでいる! そんな奈帆の顔を凝視し、何を思うのか、矢南は、口元を歪めた。笑ったように見えた。 「安心してください、奈帆さん。私、『そのこと』、誰にも言いませんから。だから……」 「わかったわ。これからも、お金をお支払いすればいいのね?」 「……え?」 一瞬、矢南がきょとんとなったように見えた。だが、それを無視し、奈帆は言った。 「でも、いつまでもいつまでも、強請られ続けるのは、耐えられません! だから、その証拠を、買い取らせてください! お金なら、いくらでも払いますから!」 ストレートに言ってみた。髪留めを矢南から買い取る。そして処分すれば、たとえ矢南が何を言ったところで、物証がない以上、どうにもならないはず。 矢南は、ちょっとだけ、悲しそうな、困惑したような表情になった。彼なりに、金づるを手放す気にはなれないのだろう。 だが、何かを決意したのか、上着のポケットから、佐溝のものらしきスマホを出した。 そして。 「申し訳ないけれど、奈帆さん。『これ』は、私と奈帆さんを繋ぐ『ホットライン』なんです」 奇妙だった。 佐溝のスマホが、物証だというのか? だが、すぐに思い至った。 髪留めも撮影し、画像として残しているのだろう。あの髪留めには、フランスのジュエリーショップの刻印が入っている。それを調べられたら、その髪留めが奈帆のものだということはすぐにわかる。 となると、なぜ世界に一つしかない、奈帆の髪留めが、佐溝殺しに深く関わっているのか、ということが追求される。 もう、何も考えられなくなった。 「大丈夫です。このスマホ、頻繁に電源を入れてるわけじゃないし、普段はカードを抜いてあるんで、電話回線に繋ぐことは出来ない。だから、このスマホを、電話を架けるなどして、警察が見つけることはできません。私と、あなた、二人だけの秘密です。……また、会っていただけますね、奈帆さん?」 真剣な表情で、矢南が言った。 向こうも、生活がかかっているのだろう。だからこそ、ここまで、真剣になっているのだ。 ならば、こちらも、真剣になるしかない。 この男……。 もはや、殺すしか……。
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