奈帆は、「ラ・フェルマータ」で、あの矢南という、佐溝の大学時代の後輩だという男がやってきたときのことを思い出していた。
十一月七日、月曜日、午後八時半だった。 晴幸は、残業でまだ帰って来ていない。そんな時、矢南徹明はやってきたのだ。 だが、用向きは簡単だった。「亡くなった佐溝さんから、渡して欲しいと頼まれていたものがある」と、長三形の封筒を一つ、置いて行ったのだ。 中にはUSBメモリが一本、矢南の携帯電話の番号を記したメモが一枚。 なんだろう、と、そのメモリをパソコンに差し込む。画像フォルダらしきものがあった。そして。 それを開いた奈帆は、呼吸が止まるほどの衝撃を受けた。 経費の請求、その決裁書類だったのだ。それも、改ざん前と改ざん後のものと、二種類! 晴幸からは「決裁書類のコピーを、佐溝から見せられた」と聞かされた。だが、それは、コピーではなく、画像からのプリントだったのだ! スマホからパソコンに送信し、そこから縁(ふち)などの加工をして印刷でもしたのかも知れない。 なんということだろう。実は、その「コピー文書」が気がかりではあったのだ。脅迫者が、脅す対象に、脅しのネタを全てさらしたり、渡すとは思えない。きっとほかにもコピーを持っている、とは思っていた。半ば事故のような形で、佐溝を殺してしまった関係上、彼の家などを捜索されたら、それらが見つかる怖れがあった。彼の自宅の鍵を使って、マンションの彼の部屋を調べることを考えたが、「午後十時に海水浴場」としてしまった以上、捜索に、そんなに時間はとれない。 だからこそ、万が一に備えて、晴幸のアリバイを偽装したのだ。だが、三日経っても警察が訪れる様子がないところを見ると、おそらくそのコピー文書は佐溝自身しか知らない、秘密の場所に隠したのだろう、と思っていた。 だが、このように画像が残っていたのだ。 午後九時、奈帆は矢南に架電した。 『お待ちしてましたよ。私、さっきからずっと、その近所で待機してました。三分でお伺いします』 そして、矢南は二分ほどしてやってきた。 応接間に招き入れる。晴幸はまだ帰ってきていないが、むしろ、あの小心者はいない方がよかった。 矢南は、イヤらしいとしかいえない笑いを、顔に貼りつけて、言った。 「お久しぶりですね、奈帆さん、……いや、奥さん。五年ぶり、でしょうか? 私のこと、覚えていらっしゃいますか?」 実は、よく覚えていなかった。だが、適当にそれをかわす。 「私は、よく覚えてましたよ。綺麗な人だなあ、って思いましたから。あなたが別の人と結婚したんで、佐溝さんが、悔しがってましたよ、『トンビに油揚げ、さらわれた気分だ』って。おまけにそのあと、『トンビが実質的に権限を持つ管理主任になって、自分は出世が望めない係長に回された』って、ことあるごとに愚痴ってましてねえ。男の嫉妬は、みっともないですよ、本当に」 矢南はそう言っているが、旧交を温めに来たのではないことは、その顔を見ればわかる。
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