その町医者の名前はアイソポスといいました。年齢は、五十半ばでしょうか。眼鏡をかけて、髪の半分が白くなった長身の男です。 十年前に、余所の国から流れてきたとのことでしたが、彼は自身の素性については、多くを語ろうとしません。ですが、医師としての腕前は優秀だったので、人々は受け入れました。また、腕が優秀だったことからその噂は近隣にも広まり、大きな街からも患者が訪れるほどでした。 二、三年前、隣の国の山の村の住人に請われ、一年間ほど、国境の山間(やまあい)で診療所を開いたこともあります。 彼は、この町に来たとき、すでに一人の若い女性を助手として連れていました。名前をランヒルドといいますが、彼女もまた、素性が明らかではありませんでした。
その日の昼、アイソポスは一人の患者に薬と養生の仕方を指示し、帰しました。そのあとに入ってきた患者が言いました。 「先生、なんで、フレドホルムみたいな悪党まで、治療するんです?」 「ベンヤミンさん、それは愚問です。私は医者ですよ?」 柔らかな笑みでアイソポスは答えます。ランヒルドは「いつもの問答が始まった」と思いながら、桶に注いだ湯に、水を入れて、ぬるま湯を作りました。 少しイラついたように、ベンヤミンは言います。 「そりゃあ、わかってるよ。でもね? フレドホルムは、東の街で、悪徳な金貸しをやってる。多くの人が、その暴利や、取り立てに苦しんでるんだ」 「だからといって、病気を放置して、殺していい理由にはならないでしょう」 「わかってねえなあ、先生! ありゃあ、天罰ですぜ!?」 ベンヤミンという患者は、さらにイラつきながら、言いました。この男は職工組合(ギルド)に所属する、家具職人でした。年齢(とし)は四十二。彼はしばらく前に、熱を出し、その原因が作業中に負った怪我だったのです。その怪我は治りましたが、その病後に胃が弱くなってしまったらしく、食欲が著しく減退していたのです。 「考えてもご覧なせえ。日頃、あくどいことばかりやってるから、あんな面倒な病気になったんだ!」 「それを言ったら」 と、アイソポスは苦笑を浮かべます。 「ベンヤミンさんだって、厄介な病気にかかってるじゃないですか」 「そ、それ……は……」 ベンヤミンが頭をかきます。 「いいですか、ベンヤミンさん。病気というものは、おそろしく公平で平等です。富める者、貧しい者、老いた者、若き者、男、女、そんなもの、おかまいなしに襲いかかってくる。それに対して医者がすることは一つです」 「で、でもよう……!」 今日は、えらく食い下がってくるなあ、と思いながら、ランヒルドは桶のぬるま湯に、消毒用に煮詰めておいた、ラベンダーの煮汁を注ぎます。 「ベンヤミンさん、私たち医者にとって、その人の善悪に囚われて『治療する』、あるいは『放置する』なんていうことは考えられないし、考えてはならない。医者が戦うべき相手は、『病気』であって、人ではないんです」 ベンヤミンは、口をつぐんでしまいました。しかし、しばらくおいて、言いました。 「今、うちの店、やばいんだ。人づてにフレドホルムのことを知って、金を借りたんだが、どうにもならなくなって……。そのことが気になって、夜もろくすっぽ、眠れねえし……」 「そうでしたか……」 アイソポスは目を伏せます。ランヒルドも胸が痛みます。このような状況、誰にも助けることなど、出来ません。 「ベンヤミンさん、申し訳ないけれど、私には、あなたの苦境をどうにかすることは出来ない。私に出来るのは、あなたの病気を治す、そのお手伝いだけです」 「……ですね」 ベンヤミンは溜息をつきます。 アイソポスは明るい声を作って言いました。 「さあ、診察を始めましょう」 そして、アイソポスは桶に手を入れて、手を洗いました。
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