宿舎に呼びに行ったものの、ヘンリケの姿はありませんでした。習練場の近くでエステルの骸(むくろ)を見ましたが、なぜかその死体は、仰向けに寝かされ、胸の上で手を組まされています。 奇異に感じましたが、今はヘンリケの姿を探すのが先です。もう一つの宿舎やその周辺、あちこちを探しましたが、どこにも見当たりません。もしや、と思い、南砦の扉を開けました。すると、むせかえるような、生臭いニオイが漂ってきます。すぐに血の臭いだとわかりました。 「誰か! 誰かいないの!?」 呼んでみますが、返答はありません。 これほどの濃密な血の臭いなど、普通は有り得ません。返事がないことといい、唯一考えられることは。 「……南砦(なんさい)の夜間の守人が、皆殺し、とか?」 そう呟いたとき、なにかの気配がして、咄嗟に振り向きました。 十ジャーマンエル以上、先にいたのは、松明(たいまつ)を左手にした、一つの影。目をこらすと。 「……ヘンリケ?」 あのグズでノロマのヘンリケです。そして、その右手にあるのは、まるで、鎌(カマ)のように内側に湾曲した刃を持つ、剣。剣からは、鮮血が滴(したた)り落ちていました。 ヘンリケから、異様な気配を感じ、ビルギッタは後じさりました。日頃のヘンリケとは、明らかに違う……いえ、次元の違う存在が、そこにいます。まるで、アヒルの子だと思っていたものが、実は猛禽(もうきん)だったかのようです。 「ビルギッタ先輩、こんばんは。いかがされましたか?」 「え、ええと、あ、あなたを、探しに来たの」 「そうですか……。ああ、そういえば、あの資料の報告、どうしたんですか?」 「え? どうした、とは?」 自然と声が震えます。今すぐ駆けて逃げ出したいのに、脚に思うように力が入りません。蛇に睨まれた蛙とは、このことをいうのでしょうか? 「ほら、エステルがまとめた、あの資料。ルーペルト様に、紹介するっていうことでしたよねえ?」 「え? え、ええ、そうだったわね。……で、でも、迎えに行ったら、エステル、部屋にいなくて……」 舌がもつれます。うまく言い訳が言えたか、気になります。 「そうですか、エステル、お部屋にいなかったんですか。そりゃ、そうですよね。だって」 次の瞬間。 いつの間にか、目の前に来ていました。そして、どこか、常軌を逸したような笑みを浮かべて、ヘンリケは言いました。 「彼女、お外で殺されちゃったんですもの」 引きつったような息が漏れたのを、ビルギッタは自覚しました。 「彼女、あなたに『習練場のところで、待ってろ』って言われたんですって。でも、あなたの、今の言葉と食い違うわ。どっちが本当……ううん、嘘つきなのかしら?」 何か言わねば、と思うのですが、声帯が麻痺したかのように、声が出せません。それに構わず、ヘンリケは、ちょっとだけ、笑って続けました。 「あら、ごめんなさい。嘘つきは、私の方だったわ。だって、私の名前、ヘンリケじゃなくて」 ヘンリケが剣を振り上げました。 「ランヒルドなんですもの」 風の唸る音がしました。
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