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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第9回   仲間 一
「松尾。」
「はあ、なんでしょうか。」
「覚えているか?お前を営業に引っ張ってきたときのこと。」
僕はサイドミラーから後方の二輪車を確認した。先程からずっと僕の運転する営業車の後ろをぴたりと十メートル程の間隔で走行しており、何となく気味が悪い。時速は百キロメートル前後。何故、追い越さないのだろう。
「おい、松尾、聞いているのか。」
「…ええ、聞いています。」
「覚えているのかって聞いているんだ。」
「いえ、覚えていないです。」
部長は助手席の背もたれを倒し、寝転がった。百キログラム近い体重がかかり助手席が軋む。悲鳴を上げるようにキイキイと音を立てた。運転しているのは古い商用バンで走行距離は三十万キロメートルを超える。
「俺が倉庫に怒鳴りこんでセンター長をどやしているとき、お前は冷や汗をかきながら咄嗟に伝票の商品型式をメモってただろう。」
「はあ、覚えていませんが。」
高速道路のジャンクションが見えてきたので僕は八十キロまで減速した。後方の二輪車がようやく追い越し車線に移り営業車を追い抜いた。五年前に開通した県を東西に貫く横貫道は走りやすい。古い高速道路にありがちな経年劣化によるアスファルトの微妙な凹凸が無く、振動がほぼない。しかし、こんな田舎に新しい道路を建設して需要はあるのだろうか。車両の往来は何となく少ない気がする。周辺の工業団地も空き地が目立つ。
「俺は、そこを見逃さなかったんだ。」
部長は誇らしげに話した。
「こいつは少しできるかもしれん。そう思ったんだ。」
こう言うと部長は尻を少し窓側に浮かせて「ブウッ」と大く放屁をした。数秒後、強烈な臭いが僕の鼻孔に達した。昼食に定食屋で注文した豚肉のニンニク炒めが効いたのだろうか。僕は気付かれないように手動ハンドルを回して、窓を数センチメートル開けた。啓蟄になるが、まだ肌寒い風が入ってきた。
「おい、何で窓を開けるんだ。寒いじゃねえか、馬鹿がっ。」
「すみません。」
僕が急いで窓を閉めると、部長は億劫そうに起き上がり、つまみを回して暖房の温度と風量を最大まで上げた。そして靴を脱ぎ、足をダッシュボードに投げだした。今度は足から体臭が漂ってくる。
「もう営業は俺とお前しか残ってねえ。」
「はあ。そういえば、そうですね。」
ジャンクションに入ると車は急な環状を下降していく。この時、透明の防風壁から県内を一望できた。所々に木蓮や河津桜と思われる花が少しずつ咲き始めているのが見える。空は澄み渡り、淡い陽光が広大な田畑や雑木林、そこに点在する納屋や木造住宅の瓦屋根、工場群を照らす。遥か遠くには、雪が残る山脈を望むことができる。高圧電線の塔が地上の果てまで北へと続く。見事な景観に見惚れていると、自動車は車道の外側にずるずると寄っていった。僕はフットブレーキを踏んで減速しつつ車体を車道の中央に戻そうとした。ブレーキにより慣性に逆らおうとする力が働いて体が前のめりになる。
「こういう時はエンジンブレーキを使えって言っただろう、馬鹿っ。気持ち悪りいじゃねえかっ。」
「申し訳ございませんでした。」
「何度も同じことを言わせるなっ。」
僕はY字の分岐を「江北インターチェンジ方向」の標識に向かって右側へ進む。「入江インターチェンジ」の北側にはるから江北なのだろうか。通る度に考える。後方に大型トラックが走行してくるのがバックミラー越しに見えた。部長の屁の悪臭は収まったが、今度はダッシュボードに投げ出された足から腐敗したザリガニのような臭いが漂ってきた。
「この十年で一体何人ぐらいが営業に来ては辞めてったか、お前は覚えているか?」
僕は右手の人差指で鼻先を摩った。本当は鼻の穴を塞いで臭いを遮断したいのだがばれると殴られかねない。
「さあ、十五人くらいですかね。」
それを聞いた部長は両腕を組んで唸った。
「そんなもんだったか。」
本当は二十三人なのだが僕は低く見積もった。営業部に異動して十年以上経過したがこの間何度も激しい人の入れ替わりを経験した。一人あたり大抵一〜二年、持ち堪えて三年程度の勤続年数だろう。入社初日に部長が社員を恫喝している様子を目撃して、その日のうちに青ざめて退職する人もいた。そうした人達の表情はまだよく覚えていて「なんて会社に入ってしまったのだろう」という衝撃と後悔が滲み出ていた。一年に二人辞めている計算になる。
「どいつもこいつも、使えねえ奴ばかりだったな。あんな根性も能力もねえ奴等なんか何処行っても通用しねえぞっ。」
部長は早々に会社を去って行った人達を思い出したように、左側の窓を怒りにまかせて叩いた。その言葉の強さから自分の行為を何とか正当化しようとしているようにも聞こえる。営業車はジャンクションを抜けて高速道路の走行車線に入った。後方を走行していた大型トラックにすぐ追い越される。荷台から土煙が舞い上がる。横貫道に比べて古く所々に舗装を修繕した箇所があり、凹凸ができていて振動するため心地が悪い。
僕は北に向かいながらぼんやりとこの十年間を回想した。経験してきたことを端的にまとめると「長い物には巻かれろ。」に尽きる。この十年間で物事に対する価値を損得によって判断するという習慣が骨の髄まで染み込んでしまった。そんなことは生きていく上で当然だろうと指摘されればそれまでだが、僕にとっての損得とは助手席で踏ん反り返りながらありとあらゆる対象に憎悪をたぎらせるこの暴君に対してどう立ち振る舞えば嫌われないかということである。内容は単純。営業として上げた実績をこの男に全て横取りさせることである。当然取引額が大きければ喜ぶのだが、金額が少なくても名の通った大手企業との契約ならば、部長の虚栄心を十分に満たすことができる。僕はこの点を軸に営業活動を展開することで何とか離職せずに継続している訳だが、その代償としてなのかすっかり心が歪んでしまったようだった。つまり、取引相手の商い額や事業規模、知名度で態度をころころと変え、犬のように媚びへつらったりしたかと思えば、相手によっては居丈高に鼻であしらったりもする。この損得勘定の基準は社内においても同様に適応した。部長のいびりに嫌気が差して七年前に先輩達が揃って退職してしまった後、いよいよ僕は後輩を持つようになったが、経験不足による成績不振で部長に目を付けられる若手社員を庇ったり、助言を与えたりすることは一切しなかった。そんなことをすれば自分が標的にされることを過去の先輩達の経験で学んでいるからである。僕は物事が円滑に進まない原因を特定の個人に帰する部長の性格を熟知していた。誰かが標的にされているうちは、僕の立場が安泰であり、そうした状況では安心ですらある。辞めていった後輩達にとって僕は冷淡な人間に見えたのかもしれないが、これがこの会社で生き残る術なのだ。結果として現在営業課には事務職を除けば営業職は部長と僕しかいない。売上が大して伸びない要因の一つは慢性的な人手不足なのだが知ったことではない。営業としての矜持を全く持ち合わせていない。僕は部長に追従することで、今の立場を何とか確保している。毎日部長と同行する訳ではないので、一人で営業活動をしている間は好きなラジオを車内で聴きながら取引先を行脚することができる。それで満足なのだ。加えて、部長に対するどうしようもない不満があればこっそりと嫌がらせもできるようになった。
「フゴー、フゴー。」
いつの間にか部長は午睡に入り、鼾を掻いている。弛んだ肉が呼吸を妨げており、ドリルで岩盤を砕くときのようなすさまじい音が出ている。僕はハンドルをゆっくりと左に回して営業車のタイヤを車道外側線の上に移して走行した。故意である。この白線にはランドルトリップと呼ばれる凸があり、車両はガタガタと激しく揺れた。すぐに部長は目を覚まして、顔を上げた。暫く目を丸くしてキョロキョロと左右を見回していたが、眠りから半ば強制的に起こされたことで怒りに震え始めた。
「俺が同行しているときに、居眠りしてんじゃねえっ。」
「すみません。気を付けます。」
僕は背筋を伸ばして首を左右に振り眠気を覚ます振りをした。これが僕にとってのささやかな反抗なのだ。
心地良い睡眠から突然起こされて部長は不機嫌になった。目を尖らせてバックミラー越しに僕を睨んでいる。僕はハンドルをしっかりと握り、運転に集中している素振りをしたが、内心では「やってやったぞ。」と喜んだ。部長は怒りが収まらないようで、暫く僕を凝視していたが、やがて大きな欠伸をして両手を伸ばした。
「そういえば松尾、お前、新しく営業に二人入る話、聞いているか?」
「はあ、何となく聞きました。」
部長は鼻の穴を人差し指で激しく穿り始めた。大きな鼻くそが出てきて、指先をダッシュボードに擦り付けた。
「今度はどんな人達なんですか?」
「気になるのか?」
「はい、まあ、気になります。」
「一人は四十。お前より年上だな。前にいた会社が倒産したらしい。」
「そうなんですか。この業界の経験者なんですか?」
包装関係の会社は中小から大手まで様々な規模の企業があるため、倒産は珍しくもない。しかし、部長の話に興味を持っていると思わせるために僕は驚いた様子で部長の方を向いた。
「よくわからんが、建築用のブルーシートなんかを造る会社にいたらしい。まあ、包装っつったらそうかもしれないけど、業種が違うなあ。」
「もう一人は?」
「これが女なんだ。こっちは業務な。前は貿易関係の仕事をしてたみてえだ。」
この会社で「業務」とは営業の補助を指す。取引先からFAX送信や郵送で届く製品の注文書の伝票を発行したり、受注済みで出荷前の製品の納期を回答したりする。営業の代理で簡単な見積も作成する。以前は業務担当も在籍していたがやはり部長に虐められて三年前に退職していた。新たな募集をかけても集まらない。おそらく離職率が高い会社であると求職者の間で知れ渡っていたのかもしれない。伝票や納期の対応が面倒だったので、久しぶりの業務担当の入社は歓迎である。
「男の方は年上だからな。なめられんじゃねえぞ。」
「はっ、気を付けます。」
江北インターチェンジが見えてきた。僕は右側のウインカーを出した。営業車は県道に入った。
「今度の二人は長続きするといいですね。」
僕は思ってもいないことを口に出した。過去の経験から最短で当日、早くて二カ月、長続きしても一年持つかどうかどうかだろうと高を括った。僕の問いかけを無視して部長は県道沿いに咲く黄梅をぼんやりと見つめている。
「あとどれくらいで着く?」
「ええと、二十分くらいです。」
「俺が同行するって、伝えてあるんだろうな。」
部長は窓を開けると痰を勢いよく外に吐き出した。訪問先に到着する前になると痰を窓の外に吐き出す習慣がある。部長は靴を履いた。
「お前、わかっていると思うが。」
「はあ、なんでしょうか。」
部長は再度痰を吐くと右手の袖で口を拭った。
「椚工業を開拓したのは確かにお前かもしれん。だが、あの商品を企画したのは俺だからな。」
「ええ、わかってます。」
バックミラー越しに鋭い形相で僕に圧力をかけようとする巨漢が見える。過程はどうあれ最終的には部長の企画力により契約を獲得したという結果を僕に認めさせようとしているのが分かる。
田畑と雑木林が続く県道を東へ十五分程進むと高い椚の木々に囲まれた大きな工場が見えてきた。三十万平方メートルの敷地には十階建ての本社事務棟と五階建の研究棟を三棟有し、機械の製造工場を二十棟構えるが、五千人の従業員には手狭かもしれない。この社員数は県庁及び関係機関の職員に次ぐ多さである。工場の周囲は従業員と来客用の駐車場がびっしりと整備されており、建物は全て白色で統一されている。県内屈指の事業規模を誇る椚工業は国内外の製造工場向けに産業用機械を生産。出荷先は自動車関係から電子部品、医薬品、食品、インフラ産業まで多岐にわたる。この巨大企業に就職するということは近隣の他県に比べて主だった産業の乏しいこの地域では親族の誉れであり、近所から羨望の眼差しで見られることは間違いなく、地元の官公庁に勤めるよりも名誉な事なのである。といいつつも、僕が椚工業の存在を知ったのは営業職に配属されてからである。
僕は来客用の駐車場に止めた営業車に部長を残して守衛所に向かい、受付を済ませた。複写紙の受付票に氏名、所属する組織、住所、電話番号、自動車ナンバー、訪問部署、担当者、訪問目的を細かく記入した。
「調達課の樋口ですね。確認します。…はい、了解しました。それでは第四工場の商談室でお待ち下さい。行き方はわかりますか?」
電話で担当者に連絡を取った若い守衛は親切に応対してくれた。いつもは年配の男が横柄な態度を取るので受付の度に気分が悪くなる。
「はい、わかります。」
「それでは、こちらが駐車証明。ご存じと思いますが受付票は折り曲げてもよいので入館のカード入れにしまって首にお掛け下さい。商談が終わったら票の右下にサインを貰って下さい。」
守衛から二人分のカード入れ、透明のプラスチックに合板された駐車場の証明書、記入した複写紙の二枚目をそれぞれ受け取りポケットに入れると僕は営業車に戻った。
「遅えじゃねかっ。いつまで待たせんだっ。」
せっかちな部長は営業車から既に降りていた。
「申し訳ございません。守衛所で行列ができていたもので…。」
行列どころか一人も並んでいなかったがいつものように僕は平然と嘘を吐いた。急いでカード入れに受付票を入れる。部長は三月上旬のまだ肌寒い風を浴びて震えている。
「でけえ会社は受付が面倒だなあ。寒くて立ってらんねえよ。行くぞ。」
部長は僕からカード入れを引っ手繰り、ずんずんと歩き出した。何度か同行しているので第四工場の場所は把握しているのだろう。年に何度かこの大規模工場に連れて行くと、部長はすっかり満悦になる。大企業と取引しているという実感が湧くことで、この男の虚栄心を満たすのだろう。どういう訳か自分が人一倍優れた人間であると思い込んでしまっているようにも見える。
「それにしても、中々着かねえなあ。どんだけ広い敷地なんだ。駐車場からもう少し近いといいんだけどなあ。」
巨漢の部長は息を切らせながら体を揺するように歩いた。数十メートル歩いただけで草臥れている。
第四工場に到着して商談室で十分程待っていると、担当の樋口さんが入ってきた。痩せた長身に短髪で黒縁の眼鏡をかけており、役人の様な仏頂面は十年前に新規開拓で初めて訪問した時から変わっていない。しかし、よく観察して見ると役職が主任から係長に昇格した頃から白髪が少しずつ増えている気がする。年齢を聞いたことはないが、おそらく四十代後半と思われる。
「お待たせしました。」
樋口さんは愛想笑いすらせず、僕と部長を一瞥すると、椅子に座った。片手にA四判の資料を持っており、机に置くと裏返して見えないようにした。いつもは商談時にノートしか持っていないので気になる。樋口さんに続いて僕と部長も頭を下げて席に着いた。
「今日は何の用でしたっけ?」
樋口さんは事務的な態度で口を開いた。
「へへ、いつもお世話になっています。ええ、今日は、まあ、何というか、表敬訪問です。」
部長は平身低頭して阿った。僕は机上の資料が妙に気になり、視線がそちらに向かってしまうのを我慢した。
「ああ、そうですか。それは御苦労さんです。」
「何と言うか、景気は、機械の受注は好調ですか?」
「悪くないですよ。円高で逆風ではありますが輸出が好調でね。おたくはどう?」
「へえ、へへへ、おかげさまで御社からの受注が伸びておりまして、まことにありがたいことです。椚工業様様です。」
「ほう、そうですか。」
樋口さんは部長の追従を聞くと、言質を取ったと言わんばかりに資料をくるりとひっくり返した。ここで初めて部長は資料の存在に気づいたようでまじまじと視線を机上の紙に向ける。資料は武森化学が椚工業に出荷している商品の売上額の推移を三ヶ月ごとに示した縦の折線グラフだった。樋口さんはボールペンを作業着の胸ポケットから取り出すと指示棒のようにしてグラフを突いた。
「確かに四半期毎の実績を見ると、確実に増えてますね。松尾さんが十年前にこちらへ初めて売り込みに来た年は試験的な採用で月数千円程度の購入額でしたが、今年度は年間で、うん、五千万を超えるんじゃないですかね。」
「五千万」という数字に部長はすっかり上機嫌になった。
「は、はは、ありがとうございます。御社と取引できるだけで弊社のような中小企業にとっては誇りでしたが、五千万の大台に届くなんてっ。」
狂喜寸前と思える部長の表情を樋口さんは意地の悪い笑みを微かに浮かべて見つめている。
「品質の問題は起きていないし、納期の遅延もない。」
樋口さんが付け加えると、部長は嬉しさのあまり身を乗り出した。
「いやあ、良かったっ。本当に良かった。あの袋は、私が企画したものなのです。」
「このまま順調に伸びていけば、当社の購入部材の中で重要リストに入るでしょう。」
「何と、すごい、そこまでっ。ありがたいことです。」
手を叩かんばかりに歓喜する部長を見ると、樋口さんは不気味に口元が緩んだ。僕は樋口さんの口元をじっと見つめた。
「重要リストに入ると、当然ながら毎年のコストダウン、つまり価格の引き下げ協力の対象商品になります。」
樋口さんは強い口調で話し、部長を睨んだ。部長は面喰ったように固まってしまったが、やがて口をもごもごと動かし激しく動揺し始めた。大企業が納入業者に対して行う典型的な値下げ要求のやり口である。
「いや、あの、いや、うん、元々、納入当初から、御社には特別お安い価格で販売しておりまして、その、そんな唐突に…。」
部長はしどろもどろになり僕の方を向いたが、樋口さんは容赦しなかった。
「そんなの関係ありません。今の納入価格が基準になるんだ。以上。会議があるから終わりにします。」
樋口さんはこう言い放ち、表敬訪問は終了した。
帰り際、部長がトイレに入っている間に出口へ向かう僕を樋口さんが呼びとめた。
「松尾君、お守御苦労さんだな。」
僕は振り返り、鞄を持ちかえた。
「昨日突然電話をしてすみませんでした。急に思いついたようにアポイントを取れっていうもので。」
樋口さんは資料を折り畳み、大きな欠伸をした。
「全く、何回会っても嫌な野郎だな。本当は会議なんてないんだ。見ているだけでムカつく奴だぜ。相変わらず扱かれてんのか?」
「いえ、それ程でもないですよ。」
僕は笑い、頭を掻いた。
「んなこたないだろ。顔がやつれているぜ。」
「え、そうですか?わかります?」
僕は頬や唇を指先で触ってみた。
「そうだよ、鏡を見てみろ。この十年で君もずいぶん老けたなあ。」
僕は樋口さんこそ白髪が目立つようになりましたと口元まで出かかるのを我慢した。同じことでも購入業者に言われると、気分を害するかもしれない。
「君が連れてくる若手は皆辞めちまったじゃねえか。相当社内ではやばい奴なんだろう?」
「わかりますか?」
作業着を着た人々が何人も廊下を行きかう。僕と樋口さんは隅に移った。部長はまだトイレから戻らない。大便でもしているのだろう。
「当たり前だろ。わかるよ。手柄まで横取りされてんだろう?」
「そんなことないですよ。」
「嘘吐け。さっきだって『あの袋は私が企画しました』とかほざいてたな。あの袋の仕様はウチの品質管理課が君に依頼した仕様だろう。ふざけた野郎だぜ。」
ワックスでピカピカの光沢を放つ緑色の床が蛍光灯に照らされて眩しい。定期的に床を清掃業者に磨かせているのだろう。それだけの予算があるのだ。廊下の中央にはセンターラインが引いてあり左側通行になっている。往来する人達は整然とこの規則を守っている。
「樋口さん、伺いたいのですが、先程の値下げ要求、適応時期は来期だとすると、来月からになるんですか?」
樋口さんは天井を見上げた。
「ああ、そうだな。今月が決算月だからそうなる。まあ、急には難しいだろうから五〜六月に伸ばしてもいいぜ。」
「どの程度の値下げをイメージすればよいのでしょうか。」
「三パーセントだろう。まずは。」
樋口さんはすかさず答えた。僕は安堵した。五パーセントを想定していたからである。
「それにしても、ずいぶん発注量が増えましたね。」
「ああ、そうだな。外注先にも使わしているし。今後も伸びるんじゃないのか。正直、俺はあの袋を使ったところで本当に防錆効果があるのかよくわからん。でも技術課や品質管理課が効果はあるって評価している以上、俺達購買課は文句が言えない。製造業だから力関係は技術部門が上だよ。俺達購買の役目は所詮購入品の安定供給とコスト低減だから。チッ、戻ってきたぜ、馬鹿大将が。んじゃ、またな。」
トイレから部長が出てくるのが見えると樋口さんは僕の肩をぽんと軽く叩いて去って行った。
営業車に戻ると部長はダッシュボードに置いてあるティッシュペーパーの箱をフロントガラスに叩きつけた。
「クソっ。樋口の野郎っ。なめた口叩きやがってよお。生意気になったもんだっ。年下の癖にっ。」
部長は怒りが収まらずダッシュボードに転がったティッシュ箱を叩き潰し、窓ガラスを何度も叩いた。僕は思う。以前の樋口さんはどの納入業者にも丁寧な対応をしていた。しかし、部長のような極端に媚びへつらう人達に長年胡麻をすられ続けるうちに性格が変わってしまったのである。
「早く暖房を入れろっ。寒いんだよっ。」
僕は急いでエンジンを作動させて営業車を動かした。駐車場と車道以外は手入れの行き届いた西洋芝が植えてある。一匹のツグミが周囲に用人しながら虫を探している。部長が激昂する車内とは裏腹に車外は長閑である。
「てめーも何で何も言わねえんだ。俺ばかりに喋らせてよお。」
「申し訳ございませんでした。」
僕は謝罪したものの、端から二人の間に口を挟むつもりがなかった。部長は普段同行営業で商談している間に、僕のような部下が商談相手と部長との会話に割って入ることを嫌う。今は感情的になっているだけ。真に受けてはいけない。
守衛所に受付票を返却して、敷地を出た。バックミラー越しに部長を観察すると、まだ怒りの海を泳いでいるようで目を大きく見開き、激怒のはけ口を探しているように見える。僕は営業車を椚の木陰に沿うように進めた。樋口さんは確かに横柄になった。それは昇進によって立場が変わったことで身に付いた、仕入れ先に対してより威厳を保つための所作であるかもしれない。もしくは昇進によって決済の権限や給与が増えた分、業務内容に対する責任も比例して大きくなり、それが精神的にも肉体的にも圧力となって余裕を奪っているのかもしれない。巨大な組織の歯車の一部として働く人間の宿命なのだろう。だが、やはり最大の原因は別にあると僕は考える。入社した時から部長のような納入業者に媚を売られるうちに優越感を覚えていったに違いない。結局、人が人を変えてしまうのだ。僕は部長以外にも年配の納入業者が樋口さんと同じような購買の担当者に擦り減るくらい頭をぺこぺこと下げてへつらう様子を何度も横目で見てきた。
営業車は来た道を戻った。途中、田圃の乾いた土を耕運機が掘り起こしているのが見えた。耕運機の後にはセキレイやスズメ、鷺等の鳥が続いている。突然耕された土の中にいた虫が驚いて這い出てきたところを狙っている。
「ふん、あいつらが値下げを強要してくることはわかっていたんだ。」
部長は安っぽいナイロンの手提げ鞄から茶封筒を取り出して、中に手を入れた。僕は運転に注意しながら茶封筒に突っ込んだ部長の手を見ていた。すると椚工業に納めている製品と同じ包装袋が出てきた。チャックに薄い赤線が入っているので一目でわかる。
「松尾、これを見ろ。」
僕は左手で部長から袋を受け取った。指で袋を擦り、外観をちらりと見た。僕は怖くなった。
「部長、これって、もしや。」
「わかるか?」
「意識しないとわかりませんが、既製品とは違います。」
「チッ。わかるか。でも、樋口にはわからんだろう。あいつらは所詮価格のことしか頭にねえからな。」
僕はもう一度袋を親指と人差し指で擦った。
「厚みを変えてますね。薄くなっています。」
「〇・〇三ミリ薄くしている。」
薄くするということはその厚み分を安価に製造できる。つまり製造原価が低減して利益を改善できる。椚工業向けの価格を引き下げたとしても不利益分をある程度吸収できるのだ。その一方、当然薄くなることで破れやすくなり品質は低下する。当然、僕は後者を心配した。部長は椚工業から仕様変更の承認を得ず内密に変えてしまうのだろう。問題が起きれば呼び出されるのは僕である。
「いつから変えるんですか?」
僕は袋を部長に返した。
「来月の発注分からだ。ウチから外注先へのな。三〜四カ月後にはこの袋が流通するだろう。それだけじゃねえ。」
部長は靴を脱ぎ、両足をダッシュボードに投げ出すと、背もたれを倒して仰向けになった。
「外注先を変えてやったんだ。」
「えっ。」
「台湾からベトナムへな。これで十パーセントは安くなる。相当利益が出るぜ。樋口に値下げを強要されても怖くねえんだ。一芝居打ってやった。ざまあみろっ。」
部長は高笑いした。営業車は再びインターチェンジに入る。僕は会社に戻るために南に向かった。
椚工業との取引開始は十年前に僕が新規の営業開拓先として電話をかけたことがきっかけだった。その時、電話で対応してくれたのが樋口さんである。すぐに僕と商談する機会を設けてくれた。以来十年の付き合いになる。初回は部長が同行したが二回目からは僕が単独で訪問するようになり、袋の商品カタログを樋口さんは関係部署に回覧してくれた。このうち、生産管理部が担当する在庫部品の品質を維持するために防錆効果のある包装資材を探していた。樋口さんが配布したカタログが技術部から生産管理部にわたったことで袋製造販売業者として武森化学が担当者の目に留まり、技術部と品質管理部で検討した防錆効果のある袋の開発を依頼された。椚工業はありとあらゆる製造業向けに産業機械を制作しており、その製造工程において膨大な部品を保管している。更に下請けの部品製造会社を多く抱えており、その取引規模を盾に絶大な影響力を行使できる。つまり椚工業と同等の品質管理を下請けに要求する。このため椚工業と取引ができればその下請け企業にも同社向けの製品を販売しやすくなる。僕の会社は依頼を受けて特殊な包装袋を開発した。ハイデン(HD)とロウデン(LD)の原料をある比率で混合したものであり双方の特性である気密性と耐衝撃性に優れている。気密性は防錆効果、耐衝撃性は機械部品の鋭角の接触時に破れにくい効果がそれぞれあり、椚工業の要求を満たすことができた。取引開始時は試験採用だったため年間数万円程度の販売額だったが、本格的な採用が始まると月平均百万円を超え、同社の下請に紹介されると飛ぶように売れ出した。僕は樋口さんの紹介で同社の下請け企業を何十社も訪問。椚工業からの紹介と電話の冒頭で説明すればどの会社も二つ返事でアポイントに応じてくれた。これまで新規のアポイントを取るための電話で散々辛酸を舐めてきた僕には楽な仕事だった。椚工業向けの特殊品の売上は武森化学全体の二割を占めるようなった。
「おいっ。松尾っ。ボリュームを上げろ。」
部長が右手で僕の左腕を叩いた。
「え?はい?」
「『え』じゃねえ。ラジオのボリュームを上げろっつってんだろっ。」
部長に怒鳴られた僕は車載ラジオのダイヤルを回した。
「…先程お伝えした通り急激な円高が止まりません。低迷が続く米国経済に不安定な中東情勢が追い打ちをかける形となりドルを売って安全資産とされる円を買う動きが進み、一時東京外国為替市場の相場は一ドル八十九円〇八銭となり五年振りに八十円台に突入しました。現在反発して再び九十円に戻しています。来週発表される米国の非農業部門雇用者数が十五万人を下回った場合、円高が更に進むことが予想されます…。」
為替のニュースを聴き終えると部長は手を叩いて喜んだ。
「聴いたか?円高だってよ。八十円台だぞっ。俺達には追い風じゃないかっ。どんどん行けーっ。」
僕の会社では現在為替を百五円に設定した上で販売する商品の原価を見積っている。椚工業向けの特殊な包装袋は海外の工場に相手先供給と呼ばれるOEMで製造させており、取引の決済はドル建て。つまり、一ドル百五円で設定している場合、実際は九十円のレートで取引したとすると十五円廉価に支払っていることになり仕入れ原価が低廉になるので利益率が上がるのだ。実際にドル建てで海外企業に代金を支払う時はニュースのようなレートではないが円高になることは間違いない。武森化学のような輸入品の販売比率が多い会社にとって円高は大歓迎なのだ。部長は製品の仕様及び外注先海外企業の変更、円高局面という三重の利益改善により益々自信を深めている。
「あの、椚工業は確か特別に一ドル百円で設定していますが大丈夫でしょうか?」
「お前は馬鹿か?今一ドル九十円だぞ。一〜二年で百円に下がると思ってんのか?ビビりすぎだろう。」
部長は心配する僕を鼻で笑う。
「まあ、そうでしょうね。心配しすぎですよね。」
「そうだよ馬鹿。来期から五パーセント下げても余裕だぜっ。」
翌週、部長が連絡した通り男女二人の社員が入社した。男性は佐川さんという四十歳の小太り。女性は室山さんという僕より一歳年上の三十六歳で童顔。僕は応接室で部長から二人を紹介された。
「佐川です。よろしくお願いします。」
佐川さんは僕より身長が十センチメートル近く小さく、太鼓腹で恵比寿様のような体格。ニコニコしていて終始笑顔を絶やさない。頰肉がたっぷりあるためか目が隠れているように小さい。ハエのように両手を小刻みに擦り合わせながら僕と部長にペコペコと頭を下げた。媚びるような低姿勢が強すぎるため却って胡散臭く感じる。僕はこの十年間で染み付いた癖により、佐川さんの頭から爪先まで眺め回してこの人物を外観から見極めようとした。見極めるとは外見上は遜ったこの小太りが僕にとって有害か無害かの判断を心の中で下すことである。直毛の髪は耳にかかる程度の長さ。頭頂部は少し禿げかかっており、蛍光灯の光で露出した皮膚が照らされている。体格に対してやや大きい灰色のスーツ。ジャケットの間から見える白色のワイシャツは皺だらけ。薄緑色でペイズリー柄のネクタイは首下から左にずれており、シャツの第一ボタンが外れ肌着が見える。朝寝坊したため急いで身支度したのだろうかと推察してしまうくらいだらしなく思える。黒色の革靴はほとんど磨いたことがないようで靴の先が摩耗して光沢を失い灰色に変わっている。みすぼらしいという表現がぴたりと当てはまる。僕は瞬時に佐川さんを見下した。
「松尾です。どうぞよろしくお願い申し上げます。」
僕は佐川さんの第一印象を噯にも出さず一礼をした。頭を下げながら「頼りなさそうで無害」と心の中で思った。
「建築用や農業用のブルーシートを二次加工する会社で十五年間営業をしていましたが、お恥ずかしいことに倒産してしまいまして。縁があって武森化学で働かせてもらうことになりました。袋の業界は未経験ですので、どうぞ、ご指導をお願いします。早く仕事を覚えて会社の発展に貢献したいと思いますっ。」
外見上の頼りなさとは裏腹に、挨拶は淀みがなく立て板に水を流すようだった。引け目とも思われる会社の倒産について卑下することなくあえて冒頭で堂々と話している。嘘偽りがなく、短い挨拶の中で何か心を惹きつける力強さを感じた。僕は先程の判断を見直そうかと佐川さんの大太鼓のような腹を見つめながら考えた。
「おお、頼もしいな。それにしても、佐川、お前、ネクタイが曲がってんぞ。営業なんだからちゃんとしろよ。」
「へえ。すみません。うっかりしてました。」
佐川さんは慌てて、へこへこと頭を下げながらネクタイを直した。その様子はどことなく幼く愛くるしささえある。
「佐川、前の会社が倒産したらしいが、お前は貧乏神じゃねえだろうなあ。勘弁してくれよ。」
「へへ、ご冗談を。福の神と思われるように頑張ります。」
佐川さんは卑屈な笑い声で応じた。
「次っ。室山。」
部長が促すと紅一点の室山さんが半歩前に出た。
「室山でえす。自動車部品の検査装置を製造する会社の子会社の販売会社で輸出関係の事務仕事を五年していました。ええと、それで、横貫道ができたことで会社がそっちのジャンクション近くの物流倉庫内に移転しまして。それで、ええと、あのお、家から通勤できる距離としては、電車とバスの乗り換えで一時間以上かかるので、暫く勤めましたが…。」
「何が言いたいのかわからん。もっと簡潔に話せっ。」
気の短い部長が遮った。室山さんは驚き、怯えた様子で部長を見つめた後、僕の足元に視線を移して黙り込んだ。恐怖でこれ以上の挨拶ができないというわけではなく、話したいことを整理しているようである。
「そのう、通勤時間が長くて辛いのでここに転職しました。」
要するに前職では装置関係の貿易事務に従事しており、勤務先が遠くに移転したので辞めたのだろう。
「正直でいいじゃねえか。二人ともよろしくな。」
部長は新鮮な風が吹き込まれたように二人の入社を歓迎した。いつも新人が入ると上機嫌になる。だが、二〜三カ月が過ぎ、自分の思い通りに仕事をしてくれなかったり、売上等の実績が出なかったりすると、次第に喜びは怒りに変わり、最後は散々暴言を浴びせて辞めさせてしまう。僕はその光景を目の前で飽きるほど何十回も見てきた。中には心を病んでしまった人もいる。僕がこの会社に残ることができた要因は何だろう。自問自答をしてみることがあった。一つは、僕にこの歳になっても友人、知人と呼べる相手がほとんどいないためかもしれない。隣の芝生が青く見えることがない。友人がいないので自分の給与や職場環境と比較することができない。「こんな酷い上司のいる会社なんてさっさと辞めて、もっとましな所に移ろう。」という考えに至らない。「もっとましな会社」の基準がよくわからない。もう一つは、僕の中にカビのように根付いてしまった警戒心である。高校生の時、アルバイトで経験した恐喝によって、僕は用心深くなった。二十年程前、あの時僕を黒雲のように深く覆った不安と恐怖、衝撃は今でも僕の思考と行動を支配し続けている。僕はあの一件以来、自分が他人からどう評価されているのか、抜かりなく今の状態を継続するにはどう行動すれば良いのか、何が自分にとって利点なのかを常に考えながら生きてきた。要するに、重要なことは取るに足らない自尊心を捨てることである。僕は仕事をする上で何がこの極めて短気で利己的な部長を満足させることができるのかに主眼を定めて立ち振舞ってきた。この暴君が白を黒と言えば黒に塗り替えたし、手柄はほとんど渡してきた。部長の判断ミスで起きた業務上の過ちに対する尻ぬぐいも顔色一つ変えず処理してきたつもりである。その結果として、僕はこの職場に在席し続けることができている。部長は僕を決して仕事のできる営業として評価してはいないだろう。だが、自分をある程度満足させることができる駒ではあるのだ。そして二人が入社するまで、部長は自らの行いによりその持ち駒が僕一つしか残っていない状況に気付いたのだろう。
「松尾っ。何ボケッとしてんだ。」
部長に脛を蹴られた僕は我に返った。
「室山がお前に挨拶してんだろうがっ。」
「え、ああ、はい。すみませんでした。松尾です。よろしくお願いします。」
僕は頭をゆっくりと下げながら、佐川さんの時と同じようにその容姿をこっそり観察した。身長は僕より二十センチメートル近く小さく、体格はどちらかといえばふくよか。これまで内勤の仕事だったためか肌は白い。髪は肩に掛かる程度。顔はややふっくらしており、下唇が太く、瞳は子供のように大きい。薄水色のタートルネックのセーターに紺色のジャケット、白色のストレートパンツ、肌色のエナメルのパンプス。下げた頭を戻そうとした時、僕は一瞬止まった。特に目立たない服装に対して首飾りだけが際立っている。縄文時代の人達がかけていたような大きな貝殻や勾玉がびっしりと繋がれている。何故こんな奇妙な装飾品を身につけているのだろうと不思議に思う。ふと室山さんの顔に僕の視線が入った時、驚いた。室山さんが食い入るように僕を見ていたのである。僕の考えていることを見透かしているような気がした。僕は視線を落とし、動揺した。
「何だ松尾、お前、惚れたんじゃねえか。いい年してよお。」
部長は僕をからかい下品な笑い声を上げた。僕は頬が紅潮するのがわかった。僕が狼狽える様子を見せると、室山さんは顔を綻ばせた。よく見ると、室山さんは太ってはいないのだが、小さな体型に対して、顔がやや大きく、首が短いのでそう見えるのかもしれない。佐川さんも笑顔で僕を見ている。
「よし、今日は定時で仕事を終わらせて、飲みに行くぞっ。」
部長は張り切った。
終業後、部長に連れられて僕と佐川さん、室山さんは駅の近隣にある居酒屋へ向かった。会社の周囲は問屋街なのだが、数分進むと廃業した店舗が所々に目に付くうらぶれた商店街に変わる。前を部長と室山さんが、後方を僕と佐川さんが並んで歩いた。落ちかけた夕日が街を照らし、電信柱の長い影が伸びている。
「松尾君、松尾君。」
佐川さんが僕のコートの袖を引っ張った。
「ん、どうしたんですか。」
「あれ、あれだよ。」
佐川さんが小声で指差した先は路地裏にひっそりと近接し合っている性的なサービスを受けることができる数軒の風俗店だった。店舗の前には蝶ネクタイに黒のスーツで整髪料をびっしりつけてオールバックにした中年男性が立っている。
「ああ、あれですか。昔からあるんですよ。いつも人気がなくて、儲かっているんですかね。」
僕は部長と室山さんの長い影をぼんやりと見つめながら答えた。
「松尾君は行ったことないの?」
「はい?」
僕は立ち止まった。何を聞かれたのかよくわからず思考を働かせたが、理解すると佐川さんを睨みつけた。初対面で何という失礼な質問をする奴だろうと内心思った。僕の反応を観察しているのだろうか。もしくは僕が「なめられている」のだろうか。再び歩き出した僕は佐川さんを置いていくように歩調を早めた。
「え、あ、ごめん。失礼なこと聞いて。つい、ごめん。」
佐川さんは何度も頭を下げながらついてきた。僕は佐川さんを無視して早足で進んだ。前の二人に迫る。
「行ったことは、ありません。」
佐川さんと目を合わさず、冷たく機械的に答えた。本当は十年前に先輩が退職した際一度連れて行ってもらったことがある。この男の本性がまだよくわからないので僕は警戒した。
「佐川さんはああいうお店が好きなんですか?」
今度は僕が質問すると、躊躇せずに答えた。
「うん、俺は大好きなんだ。こんな年になってもね。」
意外な返答に驚いた僕は思わず振り返った。佐川さんは嬉しそうに僕を見ている。会社を出てから十分以上歩き続けているためか、まだ肌寒いのに汗が額に滲んでいるようで、佐川さんは左手の甲で拭った。その時、薬指に小さな指輪が見えた。既婚者なのか?
「よく行かれるんですか。」
「いや、もっと行きたいけど年に数回だよ。妻子持ちだし、お金がないからね。」
数時間前に初めて会った僕によくもそんなことを話すものだと呆れた。僕は冷淡な相好を崩さなかった。
「性風俗が好きなんですか。」
「ああ、自分でも困ったもんだと思っている。」
「接待で使ってたんですか?」
「そんな時もあったけど、今は一人で行く。」
佐川さんは笑った。風俗店に行く人達はたいてい先輩後輩の付き合いだの取引先の接待だのと理由をつけて、本音である自らの果てしない性欲を隠す。部長や辞めていった先輩がそうだった。先輩は「社会勉強」と称して僕を連れ出したが、入店した時に僕のことをそっちのけで目を輝かせて写真集から相手の女性を探していた。それでいて僕に対しては「お前のために来たんだぞ」と冷静を装っていたのだ。
「あの部長は好きそうだなあ。」
佐川さんは顎を上げて部長の大きな背中を見つめた。僕は無言で歩く。
「どうなんだい?」
「さあ、どうなんですかね。わかりません。」
僕は赤く染まった空を眺めながら言葉を濁した。佐川さんは再び左手で額の汗を拭った。ハンカチを持っていないのだろうか。
「それにしても、こんな街にもこんな店があるんだなあ。」
佐川さんは呟いた。
入店した居酒屋は串揚げが自慢で、古い三階建の雑居ビルの二階にあった。僕は部長に誘われて年に数回行くことがある。すべてテーブル席で広さは二十畳程度。机と椅子は木製で所々に煙草の火種が落ちた跡が残る。かつては白かったと思われる壁や天井は揚げ物や煙草の煙で黄色に変色している。
「ようし、お前達、まずはビールでいいな。」
店員がお通しを持ってくると、部長は有無を言わさず注文した。
「それじゃあ、まずは乾杯だ。佐川、室山。これからよろしくなっ。」
「乾杯っ。」
四人は中ジョッキの生ビールを三分の一程度まで飲んだ。
「さあ、好きな物を頼めっ。おい松尾、店員を呼べ。ようし、いつもの串揚げを四人前な。それから唐揚げ、キュウリと茄子の漬物。あと焼き餃子な。お前等何か頼むか?」
部長は三人に追加の注文を促した。僕はこの男が形式的に聞いているだけで本音は何も頼んでほしくないことをわかっている。言動とその裏にある真意を汲み取らなくてはならない。
「ああ、何もないです。お二人どうぞ。」
佐川さんと室山さんはお互い顔を見合わせた。そして、壁に画鋲で留められている手書きの黄ばんだメニューに顔を向けた。
「ええと、それでは私はポテトサラダを…。」
室山さんが注文しかけると、部長が遮った。
「それな、量が少ないんだよ。止めとけ。」
「え、ああ、そうなんですか。」
室山さんは困惑した。少量ならば二皿頼めば良いのでは、と表情に出ているようである。再びメニューを見回した。
「それでは、揚げ出し豆腐で…。」
「いや、まだそれを食うタイミングじゃないだろ。」
室山さんは驚き、助けを求めるように僕の方を向いた。揚げ出し豆腐を頼むタイミングが決まっている筈がない。個人の好みである。僕は知らぬ顔をして店内奥の天井から吊り下げられたブラウン管テレビの野球中継を観ている振りをした。
「ええと、ええと、それじゃあ…。」
室山さんが喰い下がるようにメニューを眺めていると、部長の眉間に皺が寄っていくのがわかった。
「えええ、とそれではタコのブツ切り…。」
室山さんが言いかけると、佐川さんが声を上げた。
「まあ取り敢えず部長の頼まれた分だけでいいですよ。ね?」
佐川さんは部長が不機嫌になりかけたのを察したようである。室山さんは口を半開きにして考えあぐねている様子だったが、佐川さんの目配せでようやく状況を理解したようだった。
「す、すみませんでした。私、お腹が空いていてつい…。」
室山さんはおしぼりを袋から開けて手を拭いた。
「おう。それでいいんだよ。じゃあ以上だな。」
店員が厨房に戻って行く。やや鈍感な室山さんと比べて、佐川さんはこれまでの営業経験からか相手の機微の変化を察して柔軟に対応できるのかもしれない。僕はビールを飲みながら考えた。部長は特にこうした自分の思いを察して指示せずとも思い通りに動いてくれる人間を好む。
店内の壁にかけられている時計を見ると午後六時。僕達以外に数組の男性客がいる。壊れかけた換気扇が時折ガタガタと音を立てている。暫くすると、注文した料理が出てきた。
「さあ、お前等、どんどん食えっ。」
部長は豚肉の大きな串揚げを一本取って頬張った。三人も後から続き、次々に串揚げを食べた。
「どうだ、美味いだろう?」
「ええ、肉が大きくて柔らかくて、美味しいです。」
佐川さんは感想を述べると串の真ん中あたりに刺さった肉を口に挟んで一気に引き抜き、口に入れた。
「衣がサクサクして美味しいです。」
室山さんは丁寧に箸で串に刺さった肉を皿に落とした。肉が大きいので刺さったままでは食べにくいのだろう。旨くも不味くもないことを二人ともわかっている。こんな高圧的で立場が上の人間に感想を促されたら答え方は一つしかない。
それから二時間、退屈な歓迎会は部長の独演会となった。自慢話と人の悪口で終始しており、二人にとっては辛い時間だったであろう。
「俺がいなければこんな小さい会社はとっくに潰れていたんだぞ。俺が椚工業のような大手を一から開拓して売上を伸ばしたんだ。」
「そうなんですか。すごいですねえ。」
二人は相槌を打った。
「会社の奴等は使えねえ。どいつもこいつも。倉庫から総務まで馬鹿ばかりだ。営業は俺の言う通り働けば大丈夫だからな。辞めていった奴等は能力のない奴等だったけど、佐川と室山ならいけるだろう。俺は直感でそう思う。俺が思うから間違いない。」
「そうですか。私達頑張ります。」
「明日から早速佐川には松尾について外回りをしてもらう。新規開拓もしてもらうぞ。それから室山、お前は営業のアシスタントとして見積や納期の回答をしてもらう。今は人手不足で他の部署の奴に手伝ってもらっている。二人とも早く独り立ちしてくれよな。」
「はいっ。」
「それにしても、俺がいなけりゃこんな会社はとっくに潰れて…。」
酩酊している部長は同じ話を繰り返した。酒に酔っているのではなく、自分の発する言葉に酔いしれている。この男の生きる原動力は他者への憎悪と自己陶酔なのだ。僕はこの光景をこれまで飽きるくらい何度も見てきた。「お前なら長続きする。俺が見込んだから間違いない。」と励ましても数ヶ月後には期待が憎しみに変わり、徹底的に排除していく。採用した自らの責任を棚に上げて。
僕は四人で食べ終えた串を何気なく小皿に集めた。まとめた串を半分に折ると二十本になる。僕は二十本の串を眺めながら、この本数以上の営業担当社員が十年間で辞めていったことを考える。この串のように使い捨てられていった人達。今目の前で部長の価値のない話を聞いている二人とて、後三ヶ月、いや一ヶ月も持つだろうか。特に室山さんは厳しいかもしれない。ふと顔を上げると室山さんは退屈そうに部長の方を向いたまま視線はその奥のテレビにある。左手でレモンサワーの入るジョッキを持ち軽くゆっくりと回して氷を溶かしている。一方、佐川さんは部長の自慢話に耳を傾けており、「へえ、そうなんですか。」「すごいですねえ。」「流石ですねえ。」と応じている。
「よし、そろそろ帰るか。」
飲み始めて三時間が過ぎた頃、部長は千鳥足でトイレから戻ると、壁に掛けてあるハンガーからコートを外した。僕達が部長に従い帰り支度を済ませていると、部長は会計伝票を持ってレジに向かった。三人も続く。
「ありがとうございます。お会計は税込で一万八三六〇円です。」
伝票を受け取った店員が請求金額を読み上げると、部長は鞄から安っぽい皮の財布を取り出した。
「よし、お前等、今日は一人五千円でいいぞっ。」
奥にいる室山さんにも聞こえるように部長は大声で叫んだ。金額を聞いたとき、佐川さんは顔をしかめ、室山さんは僕の顔を見た。僕は何も考えずに千円札五枚を部長に渡した。二人は躊躇している。だが、部長が急かすように咳払いをすると言われた通り五千円ずつ支払った。部長は僕達から一万五千円を受け取ると、財布から一万円札を二枚取り出して店員に渡した。
「ありがとうございます。千六四〇円のお返しです。お気をつけてお帰り下さい。」
「おう、また来るぜ。」
部長はお釣りを受け取ると何食わぬ顔で財布に入れて、揚々と店を後にした。外は暗く寒い。数軒の飲食店以外はシャッターが閉まり、静寂がうらぶれた街を包む。空には下弦の月に棚引く薄雲がかかっている。
「それじゃ、俺は向こうだから。お前等気をつけて帰れよっ。」
部長は右手を振りながら駅から逆方面に去っていく。バスで通勤しているので停留所に向かうのだろう。僕達は残された形になった。
「すみません。僕は駅の反対側に住んでいて、コンビニで買い物してから帰りますので。駅はすぐそこですから。それではまた。」
僕はさっさと踵を返して、帰路に就こうとした。本当はコンビニエンスストアに行くつもりはない。二人とこれ以上一緒に居たくないからである。兎に角、一人で歩きたい。僕は早足で進んだ。
「ちょっとっ。ちょっと待ってよ、松尾君っ。」
佐川さんが左手を僕の肩を掴んだ。室山さんも詰め寄ってきた。
「何ですか?」
僕は無表情で聞いた。
「『何ですか?』じゃないだろ。さっきの会計だよ。」
「会計がどうかしたんですか?」
僕はしらばくれた。
「合計で二万円に届いていなかっただろう。」
佐川さんは憤懣やるかたがないという様子。
「そうでしたっけ?酔っていてよく聞いていませんでした。」
僕は欠伸をした。
「嘘吐け。いつもあんな風なのか?」
「私達はあの人よりも多く払っているのよ。」
室山さんも入ってきた。
「あんだけ偉そうに三時間ぶっ続けて自画自賛しておいて、目下の俺達より支払が少ないんだぞ。普通なら部長のおごりだぜ、どういう神経してんだっ。」
二人とも立腹している。僕は鞄を持ち直して二人をゆっくりと眺めた。二人とも僕より十センチメートル以上小さいので、年上なのだが怒る様子がどこか子供っぽく感じる。警戒心は崩していないものの、憎めない。
「松尾君、もう一軒行こうぜ。」
「はい?今からですか?」
「飲み直すんだよ。室山さんもいいだろう?」
「ええ、もちろん、私も飲みたいっ。」
僕は二人に強引に誘われて近隣の居酒屋に入った。四席あるテーブルに着くと三人ともウーロンハイを注文した。僕の前に佐川さんが、佐川さんの隣に室山さんが座り、僕の横の椅子に三人の鞄を置いた。
「くそっ。あの狸親父。やられたよ。」
「松尾君、よくあんな上司の下で続けられるわね。最低な奴。」
二人は開口一番、部長に対する不平不満をぶちまけた。僕は酒をちびちびと飲みながら黙って聞いていた。この二人は僕の性格を知らないうちに上司の悪口をよく言えたものだと半ば感心しつつ半ば呆れた。もし、僕が底意地の悪い人間で今二人が言い放った内容を、部長に密告したらどうなるのだろうかと考えないのだろうか。僕が部長の従順な下僕のような立ち回りをしていたらどういうことになるのか。僕が二人の立場なら初対面の相手には決して話さないだろう。
「ねえ、松っつん。」
「はい?」
室山さんから唐突に「松っつん」と呼ばれて顔をしかめた。見下されているのだろうか。僕は彼女の丸い瞳を睨み、警戒心を露わにした。
「あ、ごめんなさい。なんか松尾君て言いにくいから。特に『つお』のとこ。」
室山さんは無邪気に笑った。
「いいじゃん。『松っつん』で。その方が良い。親しくなりやすそう。なあ、松尾君、『松っつん』って呼んで良いよな。」
佐川さんも笑い、突き出しであるほうれん草のお浸しをぱくりと一口で食べ終えた。
「ねえ、松っつん。」
室山さんは僕の了解を得ずに呼び始めた。屈託のない笑顔。年上だが、あどけなささえ感じる。たかが渾名で目くじらを立てることが馬鹿らしくなってくる。僕は心の中で「松っつん」という呼び名を反芻してみた。すると満更嫌でもないと思えてくる。これまで、仕事上の付き合いをする人達からは「松尾」「松雄さん」「松尾君」としか呼ばれてこなかったので「松っつん」は新鮮な響きである。振り返ると高校生の頃、アルバイトをしていた時もこんな呼び方はなかった。僕は少し嬉しくなった。中学生時代、川島さんは僕を何と呼んでいたのだろうか。確か「松雄君」だったか。思い出せない。
「お二人がそれでよいなら『松っつん』でよいですよ。」
僕は口元が綻ぶのを抑えて、無関心を装うように答えた。
「『お二人』なんて止せよ。堅苦しい。仲良くやろうぜ。松っつんの年齢は俺達より下だけど、この会社では先輩なんだから。」
佐川さんはウーロンハイを飲み干した。
「そうよ松っつん。仲良くやりましょうよ。」
僕達三人は奴、焼き茄子、出し巻き玉子を注文した。部長がいないので好き放題に選択できることが嬉しい。
「それじゃあ松っん。色々と教えてもらおうか。」
「何をですか?」
僕は再び警戒を強めた。酔いの勢いで将来自らが不利になるような言動を慎むよう自分に言い聞かせる。
「決まっているでしょ。この会社のことよ。」
二人は武森化学における営業部門の現状について矢継ぎ早に質問をしてきた。最大の関心は営業部の驚くべき離職率の高さだろう。自分達がこの会社で今後安定した勤務を継続できるか否か、それが絶望的であることをすぐに理解した様子だった。驚異的な高い離職率の原因が部長個人にあることを二人は当然のように認識した。僕は、自らの回答が直接的にも間接的にも部長への批判に繋がらないように、言葉を慎重に選び、客観的な事実だけを答え、主観を一切入れないよう心がけた。
二人は僕の話を聞いてすっかり意気消沈した。
「…つまり部長についていけなくなって、皆んな辞めちまったんだなあ。」
佐川さんは焼き茄子を息吹きかけて冷やしながら呟くように話した。
「松っつん。あの部長はどのタイミングで部下を虐めるようになるの?私、鈍感だから気付くのが遅くなりそうで怖いんだけど。」
室山さんはだし巻き玉子箸を半分に割り、片側に大根おろしを添えて醤油をかけた。僕は少し考えた。
「何というか。入社したばかりの時はとても期待して何も実績を作っていないのに評価が高いんですよ。それが一、二カ月経つと、次第に自分の思い通りに動いてくれないと感じるようになり、そうなるともう駄目ですね。」
「松っつんそこなんだよ。部長の思い通りにならないっていうのは何なの?営業なら実績、つまり結果を出せないっつうことなの?」
佐川さんはグラスを掲げて、店員に追加注文の合図をした。僕もグラスを上げた。
「もちろん、営業なので実績を上げることが評価の一つにはなりますが、部長の場合は少し違っていて、例えば、営業担当がある新規の契約を取ってき時に、その仕事をあたかも部長が獲得してきたかのようにお膳立てしてあげることが重要になるんです。」
「えええ、人の手柄を横取りするの?ひどいじゃない。」
室山さんは呆れた。僕は無表情で空いたグラスをテーブルの隅に置いた。
「他には?」
佐川さんは店員が持ってきたウーロンハイを僕に渡す。
「あとは、ううん、何でしょう。ええと、クレームが起きたときは部長に相談しないほうが良いかもしれません。機嫌を悪くします。」
佐川さんは両腕を組み、天井を見上げた。天井は雨漏りなのかシミが所々にできている。
「でもさ、松っつん。それは難しくないか?取引先との間で問題が起きたらまず上司に報告するのが組織のルールってもんじゃん。勝手に自分で処理する方が問題だし、俺みたいに入社したばかりの新参者はどう対処したらよいかわかんないよ。」
溜息を吐く佐川さんを見ながら、僕は肩肘を付いてウーロンハイの中に浮かぶ氷を割り箸で何となく掻き混ぜた。
「そこが難しいところだと思います。報告しにきた人にクレームの責任がないとしても、部長はクレームを報告されたことに対して怒るんですよ。でも、報告せず勝手に個人で処理をしてそのことで後から問題になると、やっぱりそれはそれで怒り出すんですよ。」
二人は唖然とした。
「それじゃあクレームが起きたらどうするの?相談も報告もできないし、勝手に対応もできないんじゃ八方塞がりになるじゃん。」
室山さんがわざとらしく大袈裟に頭を抱えた。
「…ええ、その通りです。そんなことが続いて辞めていく人が多いのだと思います。」
佐川さんが唐突に手を叩いた。
「じゃあ、松っつん。クレームが起きたら、俺達を助けてよ。いや、助けなくていいから助言してよ。」
「そうよ、松っつん。松っつんしか私達頼れないもの。」
僕は年下にもかかわらず二人から頼られているようで嬉しい反面、今後何らかのクレームが発生した時に僕が結果的に二人を庇った形になることで部長から憎まれることがないかと心配した。僕は酔いによる高揚を抑えた。
「頼ってもらっても…。いや問題があれば言って下さい。何かアドバイスできるかもしれません。でも、助けてあげられるかわかりません。おそらく助けてあげられないでしょう。」
素っ気なく答えた。「助けてあげられない」の語気をやや強めた。頼られると困るというのが僅かな時間で即座に達した結論である。二人は数秒間僕の顔をじっと見つめていたが、やがてその表情には失望と困惑が現れた。それでも僕は心を鬼にした。僕は後輩を庇ったことで部長から攻撃の対象にされて、退職していった人達を何人も見てきている。
やがて、二人の興味は部長から僕に移った。それは、僕の地味な経歴ではなく、絶望的ともいえる高い離職率の職場で僕だけが十年以上勤務できているという事実である。二人には理解しがたいようだ。
「松っつん。気を悪くしないで聞いてくれよ。松っつんとは初対面だけど、ぱっと見て君がやり手の営業にはどうやっても俺には見えない。よくこんな会社でやってこれたな。感心するよ。」
「よっぽどあいつに胡麻を擂ってきたんじゃないの?松っつんは。」
室山さんの嫌みな言い方に内心腹を立てつつ僕は平然とした。
「そうだとしたら、僕の前でこれだけ部長の悪態を吐いておいて、後で密告されたらどうするんですか?」
僕が意地の悪い眼つきで室山さんを見ると、佐川さんが笑った。
「松っつん。それはないよ。君がそんなことしないとわかっているから飲みに誘ったんだよ。」
「何でそんなことがわかるんですか?」
僕は氷が溶けて薄くなったウーロンハイを飲み干した。この男に初対面の僕の何がわかったというのだろう。
「わかるよ。俺だって二十年以上営業やってきたんだ。色んな人を見てきた。さっき部長が何度も同じ自慢話をしていたとき、松っつんは軽蔑したような顔でテレビを見てたろ。本音では部長が嫌なんだ。おそらく何回も同じ下らない話を聞かされているんだろうなって思った。テレビを見ている振りして誤魔化しても顔に出てたぜ。本音が。本当の胡麻擂りならあんな態度取らないよ。で、部長も酔っているから松っつんの表情に気付かないのさ。松っつんはそこんところもわかっているんだ。」
佐川さんは笑った。
「へえ。松っつんはそんな風だったの。気が付かなかった。」
僕は冷水を頼んだ。佐川さんは外見の緩さとは裏腹に観察眼が鋭く、油断できない。一方の室山さんは洞察力が鈍いようで僕にとっては脅威にならないだろう。
「私が話した二点を守れば、…多分続くんじゃないですかね。」
僕は素っ気なく話した。所詮、二人の心配は他人事なのである。
「ねえ、松っつん。私はどうすればいいの?私は業務だから営業とは別のコツがあるの?」
室山さんはテーブルに身を乗り出した。あの奇妙な首飾りが胸元で揺れている。
「僕は業務ではないのでよくわかりません。けれど、仕事をそつなくこなして、まあ、あとはそれこそ諂っていればいいんじゃないですかね。」
「私、気が利かないから大丈夫かしら。心配だわあ。」
僕は直感で佐川さんならばある程度の期間勤務できるだろうと思った。それでも高く見積もって一年だろう。特に品質関係のクレームはどんなに努力しても発生する。おっとりとしている室山さんは部長のせっかちな性格を考えると難しいだろう。長くて三カ月。僕は二人の勤務期間を予想してみた。
「逆に松っんは俺達に何か聞きたいことある?」
佐川さんは皿に残っていた冷奴、焼き茄子、出し巻き玉子を一気に食べつくした。なんとう旺盛な食欲だろうと太鼓腹を見ならが思った。僕は二人の経歴や趣味、家族関係等に一切興味がわかなかったが、一点だけ確認したいことを思いついた。
「僕はこの会社しか知らないんですけど、何というか、うちの部長のような上司は他の会社にもいるんですかね?」
二人はお互い目を見合わせた。
「松っつん。残念ながら、特に中小企業ではあんな奴が偶にいるんだよ。何処へ行ってもね。」
佐川さんは残念そうに答えて溜息を吐いた。
「まあ、でも、あそこまで酷い奴は珍しいな。こんな離職率の高さは滅多にないよ。」
「そうよ、私も色んな管理職を見てきたけど、あの人は度が過ぎていると思う。」
室山さんも同意した。
アパートに帰ると、風呂に入り、畳に布団を敷いて就寝の準備をしてから煎餅のように平らな安い座布団に座り、歯を磨いた。アパートは七年前から借りている。会社から徒歩二十分の住宅街にある木造モルタルの二階。キッチン、六畳リビング兼寝室、ユニットバスという間取りの小さな部屋である。営業部配属後の五年間は自宅から通勤していた。営業職の社員が次々に退職してからは業務が僕に集中して、仕事量が増加した。三〜四時間の残業が常態化したため会社の近隣で一人暮らしを始めたのである。建物が古いので家賃は安い。日当たりは良く、この物件を気に入っている。
窓から外の暗闇を眺めながら、ぼんやりと新入社員の二人について考えた。月が雲から出たり隠れたりを繰り返している。今回のような営業部門に配属された社員の歓迎会を何度も開き、数ヶ月後には会社を去っていく光景を飽きる程見てきた。佐川さんはこれまで辞めていった人達とは違っている。外見のだらしなさとは裏腹に、洞察力に優れている。仮に佐川さんが有能で上手く部長に取り入ることができたらどうなるだろう。恐らく僕は用無しになり、使い古された雑巾のように捨てられるのかもしれない。そうなると、佐川さんは僕にとって将来の脅威となる。僕は漠然とした不安を覚えた。一方の室山さんは僕にとっては問題にならない。彼女は注意力が散漫でおっとりしている。こうした人は部長から真っ先に憎悪の対象にされてしまう。おそらく今後数ヶ月の間に業務上の些細な間違いを起こし、部長から生きていることが嫌になる程の罵声を浴びせられて辞めていくだろう。まず社内で虐められるのは室山さんと考えて間違いない。そうなると、僕は室山さんが攻撃されている期間に佐川さんの動向を慎重に観察する余裕ができる。場合によっては佐川さんを蹴落とす必要があるのかもしれない。
「ごんっ。」
こんなことを考えているうちに転寝をしてしまい、畳に頭を打ち付けてしまった。その時、これまでの考えを振り返り、自分は何という下らない人間に成り下がってしまったのだろうと驚いた。
僕はつけていたラジオの音量を大きくした。
「…日付が変わりました。これから『深夜のひっそりラジオ』をお届けします。三月はまだまだ寒いですね。私の家の近所には梅の花が咲いていて、目白が花の蜜を吸いにきています。とても臆病で私が近くを通るだけで逃げてしまいます。小さくて可愛いらしいですよ。いつか仲良くなりたいものです。お便りを封書でいただいておりますので紹介します。ペンネームKさん、三十代の女性会社員からです。…こんばんは。初めて投稿します。まだ寒い日々が続いていますね。さて、私は去年長男を出産しました。現在、保育園に通わせながら県内の工場で働いています。育児との両立は難しいです。今、このお便りを書きながらラジオを聴いています。明日の朝食の準備をして、保育園に提出する日誌を書き終えたところです。色々と大変なことが多く、夫との間には少しずつ溝ができています。これからどうなるのか心配ですが、暗がりにうっすらと浮かぶ子供の愛くるしい寝顔を見ると、辛いことも何とか乗り越えられそうです。子供の健やかな成長を願うばかりです。リクエストはザ・キングトーンズの『グッドナイト・ベイビー』です。よろしくお願いします…。Kさん、お便りありがとうございます。文面から大変そうな様子が伝わってきます。私も子供が小さい時は苦労しました。どうぞ無理をなさらないでください。さあ、リクエストソングですが古い曲なのでレコード室にあるのか不安でしたが、ありました。『…涙堪えて、楽しい明日に夢見てグッドナイト』あたりの歌詞がKさんの心境を表しているかもしれません…。」
僕は目を瞑って聴いていた。投稿者は同世代。独身の僕にはこの人の苦労がわからない。恋人は七年以上いない。結婚なんて、想像したこともない。僕には結婚していたり、子供がいたりする友人もいない。そもそも、同世代の知人すらいない。だからなのか、結婚に対する願望や子供がいる家庭への羨望がない。三十代半ばに差し掛かろうとしているものの、独身でいることに焦りもない。部長は時折「男は所帯を持って一人前」だとか「お前は独身で守るものがないから仕事にいまいち責任感が足りない」とか言う。僕はその度に「はい、その通りです。」と答えながら、内心では馬耳東風だった。そういえばあの二人にはどうなのだろう。佐川さんは妻子持ちだが、室山さんは独身のように思える。僕はそんなことを考えながら眠ってしまった。


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