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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第8回   異動 二
異動後初めての休日になり、私は自転車を漕いで近所のスーパーマーケットに食品や日用品の買い出しに出かけた。加工課と異なり、組立課は深夜勤務がないので生活のバランスが良い。六月に入りじめじめとした天候が続いている。雨が降ったり止んだりを繰り返す。雨具を使うべきか微妙な判断を迫られるのが億劫である。弁当や飲料等の購入で重宝していた近隣のコンビニエンスストアは数年前に廃業していた。イヤホンを片耳に嵌めてラジオを聴き始めた。
「…気象庁より梅雨入りが発表されました。今年は去年よりも七日早いとのことです。洗濯物が乾きにくい、布団が干せないといった悩みが出てくる季節ですね。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。私の家では庭に紫陽花の花が咲き始めました。葉には蝸牛がいます。子供の頃、蝸牛が好きで学校の帰り道に道路脇に植えてある植物の葉を食べている蝸牛を捕獲しては自宅に持ち帰り机に載せて眺めていました。懐かしい思い出です。今日は雨にまつわる話がテーマです。皆様いつもたくさんのお便りをいただき本当にありがとうございます。一曲聴きましょう。内山田洋とクール・ファイブのヒットソング『長崎は今日も雨だった』。」
小雨が降っていたが、傘を差す程ではない。私は自転車を漕ぎながら曲名にある「長崎」とはどのような土地なのか想像した。歌詞に出てくる石畳の上を歩くと凸凹の感触なのだろうか。自転車では進みにくそうだ。この田舎町には平野にアスファルトの道路と砂利道か畔道しかない。手や耳に雨が落ちる。見上げると鉛色の空が広がっていた。加工課で夜勤のあった週は日中意識が朦朧としていることが多かったので、今は毎朝が清々しい。一方、技能手当が無くなったことに加えて夜勤手当もなくなったので、給与は二割近く減額となる。今月の給与明細を見るのが怖い。日々の生活費を少しでも抑える必要がある。腕時計を見ると九時。スカートのポケットの中には郵便受けに入っていたチラシが折り畳んである。チラシには早朝割引と銘打って午前十時までの来店が条件で割引するという商品が列挙されており、私は購入予定の食材等に丸印を付けていた。スーパーは自宅から自転車で十五分程。百台分の駐車場があり三分の一程度が埋まっている。ラジオを聴きながら入店した。チラシをポケットから取り出し、買い物籠を片手にまず野菜売り場に突入する。好物であるエノキダケ、ブナシメジ、エリンギを二袋ずつ籠に入れる。茸類は火が簡単に通るので料理しやすい。鳥の腿肉と炒める時もあれば、鮭と一緒にアルミホイルに包んで蒸すときもある。割引はいずれも十パーセント。続いて豆腐を三丁確保。こちらは二丁以上の購入で一丁あたり二十円の割引。食材を詰め込んだ後は日用品のコーナーへ。目的の食品包装用のラップフィルムは幅二十、長さ五十メートルのタイプが三十パーセントの割引対象。二本購入する。五十メートルというと相当な長さだと思うが一カ月で使い終えてしまう。米を一度に五合炊いてから十五食分に小分けして保存する時の包装として主に使う。この他、歯ブラシや衣料洗剤、行政が指定するゴミ袋等を次々に籠へ放り込む。行政指定のためかゴミ袋はいつも割引対象にならない。レジで順番を待っている間、見落とした商品がないかチラシの丸印と籠の商品を照合しつつ、店内を見渡した。他にも牛乳や鶏肉の特売品が目に留まったがいずれも十分な在庫が冷蔵庫にあるので購買意欲を抑制する。今必要はないが安いのでつい買ってしまうときりがない。特に食材は冷蔵庫の容量に限りがあるので買いすぎは禁物。容量限界まで入れすぎると冷蔵庫の負荷が大きくなり、電気代が増えてしまうと工業高校の電気関係の座学で習った。そういえば母親のいない私は子供の頃から自炊していた。就職してから仕事で面倒になり出来合いの惣菜が多くなったが小学校高学年頃から高校卒業まではほとんど毎日食事を作っていた。父は私の作る料理を無表情で食べていた。上手いとも不味いとも言わない。薄明かりの下で父の痩せこけた頬骨が不気味に光り、箸が食器に触れる音だけが記憶に残っている。家庭の食卓という言葉を想像しただけで心が温かくなるような経験がない。ふと見渡した時に、店内は高齢者が多いことに気付く。父が生きていたら六十代になるのだろうか。背中を曲げて買い物のカートを落ち着きなく押していたかもしれない。私の並んでいるレジでは七十代あたりの女性と五十代前後と思われる男性店員が何か言い争っており、一向に進まない。イヤホンでラジオを聴いているため何を話しているのかわからないが、女性客の身振り手振りで何となく理解できる。客は特売のチラシを片手に買い物籠の中の商品を指差して捲し立てているのだが、どうやらそのチラシは期限切れの古い広告のであり、店員は面倒臭そうに顔を引きつらせて説明している。私は隣の列に移ろうと思い数歩進んだ。
「あっ」
思わず声を上げてしまった。隣の列に三田さんが並んでいたのだ。三田さんは私に気付いていない。逡巡していると後ろで待つ客が訝しそうに私を見ている。三田さんに気付かれたくないので元の列に戻ったがイヤホン越しでもはっきとわかる舌打ちをされたため、仕方なく最後尾に移動した。午前中で従業員が限られているためかレジは三田さんの列と私の並ぶ二台しか使われていない。私は私生活で同じ会社の社員と付き合うことがなかったので気付かれたくないと瞬時に思った。うっかり挨拶をしてしまったら何を話せばいいだろう。「今日も嫌な天気ですねえ。」と当たり障りのない言葉が出る性分ではない。並んでいるレジではまだ客と店員が口論しており、三田さんが先に会計を終えて退店することを期待する。
こっそりと三田さんの後ろ姿を眺めた。大根のような太い片腕で買い物籠を持っている。籠には五キログラムの米、麦焼酎の一升瓶が突き出ていた。大きなキヤベツの頭も見える。野球帽を深めに被り、カーキ色の半袖のミリタリーシャツ、色褪せたブルージーンズという服装で黒いスニーカーを履いている。周囲は背の低い高齢者ばかりなので象のように大きく目立つ。重そうな買い物籠を床に降ろさずじっと順番を待っている。プラスチックの籠が商品の荷重に耐えられるのか心配になる。あれだけの重量だったらカートを使用すればよいのに。前者が会計を終えて三田さんはレジ前に進んだ。米、焼酎、キヤベツが次々とスキャナーでバーコードを読み取られていく。籠の下からはキュウリや高菜の漬物、鳥のから揚げ、干し芋、落花生が出てきた。いずれも酒の肴ではと思った。ふと、こうした勝手な想像を恥ずかしく思い目を伏せる。私はラジオのボリュームを上げた。
「…さあ、あっという間に一時間が経過しました。次のリクエストは封書です。ラジオネーム『田舎もやし』さんから。いつもありがとうございます。…僕は三十歳独身の会社員です。七年程前に別の部署から営業部に配属されました。上司は鬼のよう厳しく社員が長続きしません。売上成績が悪いと電卓を投げつけてきます。六月は雨が多く、営業不振で帰社する時に雨に打たれると一層惨めな気分になります。追い打ちを掛けるように半年付き合っていた恋人に先日振られました。泣きっ面に蜂ですよ。僕のリクエストはイルカの『雨の物語』です。どうぞよろしくお願いします…。『田舎もやし』さん、可哀そうに。仕事が上手くいかないときに彼女とも別れて…。何と言葉をかけたら良いのかわかりません。まあ、でも、そんな辛い時だってありますよ。私だって踏んだり蹴ったりの時期がありました。でも、いつか、きっと、何とかなる時がきますよ。きっと素敵な出会いだってこれからありますから。いや、そんな無責任なこと言えないか。申し訳ございません。それでは『田舎もやし』さんのリクエストでイルカの『雨の物語』をお聴き下さい。」
私がラジオネームに反応して顔を上げると三田さんは店を出て、駐車場へ歩いて行くのが見えた。紺色の軽自動車に乗り込むとエンジンを作動させて行ってしまった。その所作全般を見ていると何かについてその都度考えたり悩んだりする思考が全くないように思える。と同時に私の意識は移り変わり『田舎もやし』というラジオネームに刺激を受ける。何度も聴く名前だが思い出せない。再び意識を三田さんに戻す。私はさもしい想像を再開してしまう。三田さんの購入した食材から推測すると三田さんは一人暮らしなのだろうか。休日は総菜、乾物、漬物を摘みながら焼酎をちびちびと飲み、テレビでもぼんやり見ているのかもしれない。自動車で来店していたので住まいは遠くになるのだろうか。重い買い物なので近隣でも車なのか。考えを巡らす。
「お客様。聞こえていますか、お客様。」
私は慌ててイヤホンを外した。三田さんの並んでいたレジの店員が手を振っている。
「こちらが空きましたのでご利用下さい。」
翌週になり私は一通り製品の組み立て作業を体験したが、一つの問題が起きた。それは総重量二十キログラムを超える組み立てた製品については一人では完成品を台車に載せることができないのだ。部品単位では五キログラム以下でも組み付けると二十キロを超えてしまうことがある。私がどんなに力を入れても作業台から持ち上げて台車に載せることはできない。そこで、係長が検討した結果、十五キログラム以上の完成品については組立作業終了後、二係の男性社員に声をかけて、私の代わりに台車へ載せてもらうことになった。この決定事項は彼等にとって無駄な作業が一つ増えることになり、私は不評を買った。私としては何とか十七キロ程度までは持ち上げることができることがわかったのだが、怪我を恐れた係長の判断で十五キロまで基準を引き下げられた。この件以来、どうやら私は二係の一部の作業員から憎悪の対象になってしまった。
「チッ。面倒臭え。」
「何で俺がやらなくちゃなんねえんだよ。」
「忙しいからあっち行ってろっ。」
二係の作業員は係長と三田さん、私を含め十人程が在籍している。私が対象となる重量の完成品を台車に載せるよう頼むと大抵の作業員はこうした反応を示した。ただし、この規定を決めた係長と三田さんだけは文句を言わず引き受けてくれた。私は可能な限り二人に依頼するようにした。係長は管理職なので大抵の業務は工程の統括であり、他部署や外注先との打ち合わせも頻繁にあり不在が多い。必然的に私は三田さんに依頼することが多くなった。
「三田さん。失礼します。組立が終わったのでお手数ですがお願いします。」
「おう、わかった。」
三田さんは二つ返事で引き受けてくれた。私が声をかけると振り向かずに帽子のツバを左右にずらしてからゆっくりと私の作業台に来てくれる。無表情で製品を台車に載せて、何事もなかったかのように自分の作業台に戻っていく。マシニングセンターと旋盤の間で加工部品を自動で搬送していた感情のない関節ロボットのようだ。私が礼を述べても振り返りもしない。帽子を深く被っており表情の変化を読み取ることができない。怒っていないことだけは何となくわかる。私は自分に対して他の作業員のような敵意を抱いていないことが理解できれば十分であると割り切ることにした。
二週間が経過した。梅雨が本格的になり、雨が工場の天井に音を立てて降り注いでいる時、新しい作業を体験することになった。製品を梱包する前の最終的な工程で組み付け精度を測定する検査である。部品同士が図面通りの精度で組み立てられているのかダイヤルゲージや栓ゲージを使用して測るのが主な内容。製品の円形部の外周や内径にゲージを当てて振れの数値を測ったり、段付の棒状の測定器具が組み付けた加工部品と購入部品との穴に違和感なく挿入できるのか調べたりする。
後者の段付ゲージによる測定が難しいということが何となくわかった。というのも「違和感なく」というのは個人の感覚であり、数値管理のような合理的な判断ができないからである。私の感覚で違和感がなくとも、係長や三田さんの感覚では違和感があることだってある筈だ。こうした個人差の発生する可能性がある管理では品質の維持に支障が出るのではないだろうか。私は説明を一通り聞き終えてから思い切って疑問を係長にぶつけてみた。隣では三田さんが黙々と作業をしている。
係長はニヤリと笑った。
「わかってねえな。川島さんよお。そこが技術の味噌なんだよ。何で組立部門が外注されないのか考えたか。お前が指摘したところなんだよ。この違和感を手の微妙な感触でとらえるんだ。手が測定器みたいになるっつうんかな。ある程度の熟練でないとわからねえ。まあ、おそらく、海外はもちろん国内の外注先の作業員でも無理だろうな。だから、NCによる機械技術の進歩で加工精度を極限まで数値管理できる加工は海外工場に委託されちまっても、組立は社内に残したんだよ。経営陣はな。」
納得できなかったが、何も言わず頷いた。私の考えでは組み付け精度というのは結局それぞれの部品の加工精度で決まる。加工精度というのは突き詰めれば測定作業において例えば部品の穴の公差による。内径が三十ミリメートルの部品と同じく三十五ミリの部品を接続したときに両穴の同軸度の精度は穴公差がJIS規格でH七の場合〇からプラス〇・〇二五ミリなので両穴を合わせて〇からプラス〇・〇五〇ミリの間で精度を保てる筈である。部品同士を組み付ける作業ではこの公差の範囲に適合する棒状の冶具を使うので自動的に組み付け精度は〇から〇・〇五〇ミリの中に収まる。〇・〇五〇ミリ間の誤差の精度が緩いと判断するならばより厳しい公差に加工精度を変更すればいいだけではないだろうか。だが、加工精度を高めようとすればそれだけ仕上げの加工時間がかかり製造原価は跳ね上がる。原価が上がれば販売価格に反映させない限り利益を圧迫する。
「何だ川島。気に食わねえのか。少し仕事を覚えたもんで調子こいてんのか。お譲ちゃんよお。」
係長は顎を突き出して私を睨んだ。私は何も不満はないと取り繕おうとした。
「嘘吐け。お前は加工出身だから何か疑問があるんだろ。怒らねえから言ってみろ。」
私は段付ゲージを見つめながら、どうしようかと考えたが、当たり障りのないように訊いてみた。
「すみません。そもそも、冶具を使って組み付けた時点で誰が作業しても目標の精度は出ている訳で、さらに精度を高めようとするなら手の感覚で精度を判断するよりも加工精度を変更した方が良いのでは、と単純に思ったんです。」
係長は私の一言一句に顎を引いて聞いていた。天井に打ち付ける雨音が聞こえる。こんな質問は良く考えると組立の技術の蓄積を否定しかねないと思い、後悔した。だが、「怒らねえから言ってみろ。」と怒気を含んで促したのは係長である。
「…それは、違う。」
三田さんが低く重たい声で言った。私は三田さんが突然係長との会話に入ってきたので驚いた。三田さんは作業を止めて、作業台の大きな冶具をじっと見つめた。
「冶具を使った組み付け作業は、あくまで部品同士を図面通りに組み立てる作業だが、お前が今教わろうとしている測定作業は、同軸度が出ているのかいないのかに特化した作業だ。お前の言う通り精度は両穴の公差で決まるだろう。だがな、公差の中に収まっていれば何でもオーケーっつう考え方では駄目なんだ。俺達は公差がいくつだろうが誤差をゼロに近づける。それが、組立の腕の見せ所だろう。」
三田さんは「腕の見せ所」という言葉に語気を強めた。私は自分がその道を究める意識がなかったので三田さんの矜持をその時理解することができなかったが、その言い回しに懐かしい響きを感じ取った。十年以上前に他界した父が経営していた隙間風の入る小さな工場で最後まで働いていた浦田さんが語った仕事に対する誇りと合致する。私は一瞬追憶に浸りかけ、固まりそうになった。
「川島、わかったか。それじゃあやってみるか。」
係長は自分の考えを代弁してくれたことに満足したようである。測定器具と対象となる完成品を作業台に載せた。私はダイヤルゲージによる穴径と外周面の振れの測定を終えて、いよいよ、段付ゲージによる同軸度の検査に移った。同軸度検査では組み付けた二つの円筒形部品の穴径が中心線からずれていないか検査をする。用意されたのは二本の段付ゲージ。一本には何故か端に赤色のテープが、巻かれている。
「まず、何も巻いていないゲージを製品に挿入してみろ。こっちのゲージは図面の使用通りの公差に収まっているのか確認する検査だ。」
製品の穴径は四十ミリメートルと四十二ミリメートルの組み合わせである。ゲージを良く見ると太い方の側面に公差が小さく刻印さえている。ゲージは四十ミリ、四十二ミリで段付状になっている。製品にゲージを挿入すると問題なく入って行った。
「すんなり入ったろ。これでいい。公差の範囲から外れると段付の部分でつっかえてそれ以上入らなくなるんだ。」
私は心配で何度もゲージを穴に出したり入れたりして確かめた。
「おいおい、あんまりやりすぎんなよ。数十ミクロンの精度だぜ。やりすぎるとゲージが摩耗して狂っちまう。次、赤ゲージ。」
係長は私に赤色のテープが巻かれたゲージを手渡した。目を凝らすと同様に公差が刻印されていたが数値が最初のゲージの半分である。つまり、こちらのゲージの方が厳しい精度なのだ。
「さっき三田が言ったろ。図面通りの仕様以上の精度を目指すって。このゲージは所謂努力目標だ。社外にはここまで精度を追求していることは公表していないが、実際は規定の仕様以上の精度を確保している。こんなことが外注にできるか?できんだろう。奴等は言うだろうな。『何で図面の仕様以上のことをやんなきゃならないんですか。それなら追加料金を下さい』ってな。」
私は赤テープのゲージを製品の穴にゆっくりと通した。ゲージが四二ミリを超えて四十二ミリに達する段状まで届いた時、滑らかな感覚が鈍くなったことに気付いた。何かがつかえているような感覚である。これが「違和感」というものだろうかと思うと私は興奮した。
「何か、何かが変です。」
私は作業を止めて係長の顔を見た。
「わかったか。それだ。」
係長が顎を引く。
「でも、この誤差をどうやって補正するのでしょうか。製品は既に組み上がっていますし。」
私が訊くと係長は作業台の下から製品を固定する冶具を取り出し、棚からレンチを持ってきた。
「三田、見せてやれ。」
三田さんは作業を再び中断してゆっくりと私の立つ場所まで進んだ。私は後ろに下がった。三田さんは私が測定した製品に赤色テープのゲージを挿入する。そしてゲージを正転、逆転させた後、軸方向に上下させた。どうやら軸芯からどちらの穴がどの程度ずれているのか手の感覚で探っているようである。それから三田さんはゲージを製品から素早く抜き取ると、製品を係長が用意した冶具に固定した。私は興味深く顔を突き出して覗き込んだ。三田さんは木製のハンマーで製品の側面をコンコンと叩き始めた。何と言う原始的な補正方法だろうと、驚嘆した。三田さんは再び冶具から製品を外すと再び赤テープのゲージに挿入して正逆に回したり、軸方向へ出し入れしたりしてから、冶具に戻してハンマーで叩いた。そして再度ゲージに入れ直す。
「よし、やってみろ。」
三田さんは製品をゲージから外して私に渡した。私は補正が完了したのかさっぱり分からないが、慎重にゲージを製品に挿入してみた。すると、ゲージは滑らかに最後まで製品に入っていった。二、三回軸方向に出し入れしたが違和感がないことがわかる。補正が完了したのである。
「川島さんよお。わかったか。これが最終的な仕上げだ。」
係長は胸を張った。
「ハンマーで補正するんですね。すごいですね。」
「単純な方法だろう。だから逆に外注先には真似できねえんだ。何年も手の感覚を研ぎ澄まさねえとな。ウチみたいな規模の工場だってこうした技術力が蓄積させて、継承されてきているんだよ。」
私は唾を飲み込んだ。
「私にもできるようになるのでしょうか。」
係長は天井に向かうように顎を突き上げ、大きな鼻息を吐いた。尖った顎の先に誇りと自信が充溢しているように思えた。
「さあな、すぐにはできんよ。すぐ覚えることができるなら外注に委託できちまう。いずれはマスターしてもらわねえと困る。まあ、この作業は体験させようってことでやらせたんだ。明日からやれったって出来っこねえよ。じっくり覚えていけ。この工程にかんしちゃ三田が匠だから教えてもらえ。」
私は三田さんを見た。三田さんは帽子を深く被り私の視線を受け付けない。二十キログラムを超える大きな部品を黙々と組み付けている。
「加工から異動してきたのはもうお前しかいねえ。頼んだぞ。」
「えっ。そうなんですか。」
私は加工課の廃止に伴い同日に組立課に異動となった男性社員のことをすっかり忘れていた。私とは別の作業台で他の先輩社員から指導を受けていたのだ。
「いつ辞めたんですか?」
「先週。知らなかったのか。」
正午を知らせる鐘が鳴り、昼休憩となった。
休日になり、私はいつものように片耳で携帯ラジオを聴きながらスーパーマーケットへ買い出しに出かけた。加工課に在席していた頃は夜勤で、こっそりと深夜のラジオを聴いていたのだが、組立課に配属されてからは当然仕事中にラジオを聴くことができない。特に好きな番組がある訳でもなく、聴き流しているという程度なのだが、聴くことができなくなるのは慣れていた耳に寂しい。工場と寮を往復する日々が十年以上続いており、特に趣味も無く、変化のない毎日。父が亡くなってから一時期身を寄せていた伯父とは就職してから連絡を取っておらず向こうから連絡がくることもない。正月も寮でのんびり過ごしてきた。会社と寮の近隣から離れたことがないので、ラジオから流れる各地の天気予報、交通情報を聴くとどんな場所なのだろうと想像して胸が躍ることがある。深夜に横型旋盤の加工の段取りを行いながら、周囲に誰もいないことを確認してニヤニヤすることがあった。今在籍している組立課は加工課にいた頃の耳をつんざく金属の切削音や鼻を突く切削油の臭いがなく、職場環境としては健康に良いのかもしれない。しかし、私はまだどことなく居心地が悪く新しい職場に馴染めない。それは十年間で私の全身の隅々まで浸透してしまった今では懐かしさと心地良ささえ感じる轟音と悪臭が、清浄な空間への適応を拒絶しているようだった。大降りの雨の中、私は合羽を着ていた。フードを深く被っており視界が悪い。ぼたぼたとフードを打つ雨音が不快だったので、耳を塞ぐようにラジオのボリュームを上げた。
「…道路情報をお伝えします。高速道路入江インターチェンジから入江北インター間を交差する形で県の東西を繋ぐ新しい高速道・新横貫道が来月一日に開通します。二つの高速道路を繋ぐジャンクションの点検作業のため両インターチェンジ間は六月二十七日の午後十一時から午前五時まで通行止めとなるためご注意下さい。企業の物流拠点の誘致を進めてきた県は新横貫道の開通により経済活動が活発化することを期待している他、県内観光産業の活性化にも力を入れていく方針です。来月一日の開通式には県知事も出席して開通式が開かれます。なお、開通により以前から断続的に発生していた県道九号線の渋滞は横貫道の利用者増より解消されると見込まれています。」
道路インフラの整備は自動車免許を取得していない私にとって意味のない情報だったが、想像が膨らむ。入江インターはラジオの交通情報で良く耳にする。県内に海はないので、名前からすると川や湖が近くにあるのかもしれない。北部にある大きな湖だろうか。そんなことを考えているうちにスーパーマーケットに到着した。いつものようにポケットからチラシを取り出し特売商品を次々に買い物籠へ入れていく。今日の目玉は鳥の股肉。午前十時までの購入で十五パーセントの割引となる。レジで会計を済ませると、出入り口の横にあるトイレで用を足して、出口に向かった。
「おっ」
出口で大きな男と鉢合わせになった。低い声を上げたのは三田さんだった。
「あ、三田さん」
私は思いも寄らず固まってしまった。三田さんは以前見た時と同じ服装。私と同様、どうしたものかわからない様子で困惑している。体はピクリとも動いていないのだが瞳が行き場を失い小刻みに右往左往している。
「あ、あの、おはようございます。」
「おお、おう」
三田さんは口元をパクパクと動かしてようやく挨拶ともいえない声を発した。職場とは打って変わって動揺している様子が伝わってくる。買い物袋には紙パックの焼酎、米、キャベツ、惣菜が詰まっている。
「お前等、出入口で何やってんだ。邪魔だろっ。」
入店してきた農作業姿の年配の男性が注意した。私達は慌ててトイレの横に移動した。私は仕事以外の時間に会社の関係者と話すことが滅多にない。そういえば寮に住む人達はどこで買い物をしているのだろう。考えたこともなかった。車の所有者が多いので遠方にあるより商品が豊富な大型店舗に行くのだろうか。もしくはこのスーパーに来店していてもこれまで私が気付かなかっただけなのだろうか。そう考えつつ、次の言葉を必死に探した。
「あの、買い出しに来たんです。それでは失礼します。」
特に話すこともなく私は一礼すると足早に出口に向かった。
「あ、待て、乗ってくか?」
振り返ると三田さんはポケットから自動車のキーを取り出した。キーには茶色の小さな瓢箪のキーホルダーが垂れ下がっている。
「えっ。何ですか?」
私はイヤホンを付けていたことを忘れており、急いで外した。三田さんは少し苛々した口調で話した。
「いや、だから、俺の車で送ってやろうかと。」
「あ、そういうことですか。」
「雨で大変だろう。」
私は食材と日用品が詰まった重たいレジ袋を右手から左手には持ち替えた。会社では岩みたいに構えていている三田さんが見せる優しさは意外だった。三田さんはこうした気遣いに慣れていないようでたどたどしい。三田さんの別の一面を見た私は人間的な親しみを初めて感じた。余裕ができた私は自転車置き場を指差した。
「ありがとうございます。でも、自転車なんで。すみません。」
三田さんは数秒固まっていたが、太い首を上げてガラス越しに曇天を見た。
「ああ、そうか。そんじゃ、またな。」
三田さんはゆっくりと出入り口の自動ドアを出て、駐車場へ向かった。私はその壁のような後ろ姿を暫く見ていた。
七月に入った。工場の駐輪場横に植えてある百日紅が薄紅色の花を咲かせていた。梢にはよくヒヨドリがとまっている。木の前には来客用の駐車場があり、一台のライトバンがいつも駐車してあった。トランクには段ボールがびっしりと積んである。ボンネットには百日紅の小さな花弁が落ちていた。
スーパーで偶然三田さんと会ってから二週間が経っていた。職場で私と三田さんは何事もなかったように接した。スーパーで会ったことを話題に出すことをあえて避ける訳でもないが、職場では仕事以外のことを話す雰囲気ではない。同軸度の測定作業は前回の一度きりで、私は製品の組み付け作業をひたすら行っていた。十五キログラム以上の製品が完成すると私は三田さんに声をかける。
「すみません。終わりました。お願いします。」
「おう。」
こうしたやりとりの繰り返しだった。
ある日、私は係長に呼ばれて組立工場の奥に向かった。そこには検査を終えた製品を梱包するための作業場であった。長い作業台があり、周囲の棚には大小の折りたたまれた段ボールやポリエチレンの包装袋、緩衝材、製造番号を貼付するシール等が保管してある。
「基本的に組立課は梱包作業まで行うことはないが、出荷量が多いときには手伝うことがある。面倒だと思うなよ。」
係長は練習用の製品と梱包資材を用意しながら説明した。
「お前は重い製品を持てないからハンデがある。その分を補うために梱包を手伝ってもらう機会が増えるかもしれん。そうすれば、お前を快く思ってない連中も少しは納得するだろう。」
「快く思わない連中」とは三田さんと係長を除いた二係の作業員なのだろう。
所属部署以外の仕事を手伝うことを忌避する傾向がこの会社にはある。部署間の交流がほとんどないので一つの会社としての連携や連帯といった考えが希薄なのだ。私も加工課に在席していたときは他の部著の業務内容について興味がなかった。管理職にならないと部署間で関わる機会はあまりない。
梱包作業は生産管理部の管轄であり三人の社員が従事している。
「おい、ちょっとこいつに仕事を教えるから借りるぞ。」
係長は叫ぶと一人が「あいよー。」と返した。
作業ではまず製品に貼付された伝票と出荷用の伝票が一致しているのか確認する。出荷伝票は製品受注時に発行する製造伝票と同時に発行するので製造部門が生産した製品が取引先の発注内容と最終工程において間違いないか確認できる。次に材質が鉄製品の場合は短冊状の細長い防錆紙を巻きつけてテープで固定する。酸化による腐食を防ぐための措置である。アルミニウム材質の場合は必要がない。それから気泡の緩衝材を製品全体に巻き付けて、チャックのあるマチ付のポリエチレン袋に入れる。最後に段ボールの小箱に詰める。二個以上の注文の場合は大箱へ入れる。大箱は合計二十キログラム以下になることが条件で二十キロ以上の場合は二個以上でも個別梱包となる。これは受け入れ側への配慮らしい。
「最近では取引先の受け入れに女が増えているから重いと搬入できないんだよ。最も二係は重量物が多いから大箱にまとめて詰めることはあまりねえけどな。」
係長は作業台の隅にある重量計を指差した。私は係長の指示を受けながら標準的な梱包作業を体験した。一部の取引先によっては包装時に図面や検査成績書を添付する場合があるので、伝票の備考欄に必ず目を通すようにと釘をさされた。
作業台を見回すと「取扱注意」というシールが貼付されたダンボールが置いてあることに気付いた。ダンボールの上には「サンプル」という付箋が張られたポリエチレンの透明な袋が置いてある。
「ああ、それか。椚工業向けの特殊な包装袋だ。まだサンプルで試験的に使っている。問題がなければ本格的に採用するかもしれん。」
「あの椚工業ですか?」
椚工業はこの会社の主要な取引先の一社である。製造伝票の受注名でよく見かけた。品質管理の中でも特に加工精度に対する要求が厳しく誤差を十五ミクロン以下で求められたことがある。標準品の公差の半分以下であり苦労した一方、価格を上げることができず生産効率の大幅な向上が必要であった。
「そうだ、大口の取引先なんだが色々と面倒なことを要求してくんだよ。まあ、大手だから品質管理が厳しいんだろう。」
係長は愚痴りながらダンボール上の包装袋を指で摘まんだ。
「この袋を見ろ。俺もよくわからないんだが、これは特殊なフィルムなんだ。引っ張りと衝撃に強くて耐熱性もある。それだけじゃねえ。気密性に優れていて包装すれば製品に対して防錆効果もあるんだとよ。」
係長は包装袋を手渡した。一見すると他の袋と変わらないが、よく観察すると厚みがあり少し白色がかかっている。製品を入れると僅かな濁りから透明感がないことがわかる。チャックには薄い赤線が通っていることが大きな特徴だろう。
「椚工業がこの袋を採用しろっていってきてるんだよ。んで、この袋の製造業者を紹介されてな。その業者の営業が来てサンプルを使ってくれって提案してきている。今日も来社してるんじゃねえのか。」
係長は面倒くさそうに話す。そういえば、最近駐車場に商用バンが毎日のように駐車してあることを思い出した。
「でも、特殊なフィルムなら高そうですね。うちで購入するんですか。支給ではなくて。」
「そこなんだよ。一枚当たり従来品に比べて三倍はするらしい。その営業が言うには定期的に購入してくれれば値引きできるかもしれないと言うんだが。まあ、使いたくねえよ。購入になるから。椚工業は面倒だから支給しないだろうな。だが、大口の取引先からの依頼なんで最終的にうちは断れんだろうな。」
椚工業向けの製品は会社の売り上げのうち十パーセントを占める。加工課に在籍していたときからこの会社向けの製品は特に注意して生産するよう指示されていた。
「他の製品と混同しないように注意します。」
私はサンプルをダンボールに戻した。
「そうだな。出荷するときに気を付けろ。それと椚工業は指定伝票だからウチの伝票を絶対に使うなよ。」
私は練習用に包装した製品を台車に載せた。開封して元に戻す必要がないとのことで伝票を貼付して正式に出荷するという。
「おい、『取扱注意』っつうんなら、他の製品と間違わんように離して置いておけよ。紛らわしいだろうがっ。」
係長は奥で作業をしている三人に向けて叫んだ。
「うるせえなっ。わかってるよ。」
一人が怒鳴り返した。
その時、午後を告げるチャイムが鳴った。工場内の作業員たちは次々と作業を中断して、ぞろぞろと蟻のように列を作り、別の棟にある食堂に向かって出て行った。
「川島、お前今日は社食らしいな。」
「あ、そうなんです。今日お弁当を寮に置いてきてしまったんです。私の注文は間に合いましたか?」
係長は顎を搔いた。
「ああ、間に合ったよ。総務は怒ってたけど。『当日の追加は認められません。今回だけですよ』って。うるせえ奴等だ。」
組立課に配属されたことで給与が減額となった私は食費を節約する目的で社食を止めて六月から手弁当に切り替えていた。社食は業者に委託しており、前日に会社は一括して社食希望の社員数分を注文する。当日、業者は注文数分の食材と食器を持ち込み、会社の食堂を借りて調理をする。以前は会社で自前の調理師を雇っていたのだが、経費節減の一環で、廉価な外注に切り替えたのだ。考えてみると社内の至る所で「外注化」が進んでいる。私いた加工部門も原価低減を目的にすべて海外へ委託されてしまったである。そのうち、すべての業務が外注となり管理部門の数人を残して工場が無人になってしまうのではないかとさえ思う。そうなると整理解雇された人達はどこに行くのだろう。会社が持続的に発展した末の究極形態が工場の無人化だとしたら私達はその過渡期において振るい落とされた非効率な贅肉になるのだろうか。会社から放り出された人達はどこに向かうのだろう。身に付けた技能を活かすことができる同じ職種に再就職できるのか、全く別の業種に就いて新しい技能を習得するのか、再就職できずにもがき続けるのだろうか。空を覆う雨雲から光が差し込むように、放り出された人達の受け皿として、技術革新が新たな雇用を生み出す開かれた未来というものが到来するのだろうか。そんなことを考えながら私は係長と食堂フロアに向かった。
「弁当の方が安いのか?」
「ええ、作るの面倒ですけどおそらく安くなりますよ。」
食堂のカウンターで並んでいると係長は壁に貼付された献立表を見ながら聞いてきた。社食はA、B、Cという三種類の定食で順に二百五十円、三百五十円、四百五十円という価格帯。大抵Aは肉料理、Bは魚介類、Cは麺類になる。加工課に在席していた頃は廉価なA定食が多かった。出勤日が二十日間だとすると一カ月五千円の出費になり、給与から天引きされる。手弁当なら細かく計算したことはないが一食百円五十円程度だろう。
私も係長もA定食を選んだ。トレーの上には飯碗に麦入りの白米、汁椀に豆腐と昆布、刻み葱の味噌汁、小鉢に沢庵と小松菜、大皿にキャベツの千切りと豚肉の生姜焼きが盛られている。カウンターで盆を受け取ると係長の後に続いた。食堂は二百人程が入れる大きさ。入社した頃は混雑のため部署によって時間帯を強制的に分けて昼食を取っていたが、この十年間で新規雇用の抑制により社員数は半分以下まで減ったため以前に比べて並ぶ時間は少ない。築五十年以上の古さのため、木製の床は歩くと軋み、窓側は湿気によって木が腐り凹んでいる。天井は煙草の煙で黄ばんでいる。三年前に全席が禁煙になり煙草を食堂で吸う社員はいなくなった。
係長に続いて進むと日当りの悪い奥の席に二係の作業員がまとまっていた。三田さんもいる。食堂に席順はないのだが暗黙のルールように部署毎に座る席が決まっている。加工課に在籍していた時は窓際に座っており、副長や課長が何も話さず黙々と社食を頬張る様子を見ていて気が付くと取り残されていた頃が懐かしい。
「おい、さっさと座れよ。」
係長に促された私は係長の前に着座した。隣に三田さんがいたからである。三田さんと他の作業員達は私が椅子を引くと一瞥したが、すぐに食事を再開した。
加工課の工員もそうだったが、とにかく男性社員は食べるペースが速い。特に年配の社員。私の倍以上の早さで口の中に放り込むように食べていく。私は遅れないように食べ進めた。私は新しい部署に馴染んできたのだろうか。
「そういえば川島、お前、来週の金曜日空いているか?」
係長は爪楊枝で奥歯の間を穿りながらふいに聞いてきた。三田さんや他の二係の社員は先に食事を済ませて既に食堂棟から出て行ってしまった。私はまだ味噌汁を啜っていた。
「はあ、空いてますけど。」
私は椀をトレーに置き、紙コップに入ったお茶を飲みながらテーブルを台拭きで拭いた。係長は爪楊枝の先端に付着した食べカスを見つけると、ぱくりと口に入れた。
「そうか。わかった。あのな、二係でお前の歓迎会を開くことになった。」
「えっ。そうなんですか。」
私は驚いて顔を上げた。係長は背もたれに寄りかかり、大きな欠伸をした。
「お前がこっちに来て一カ月が経ったろう。係内では新しく入る奴がいると慣例的にやるんだ。よかったな。ただ酒が呑めるぞ。」
私は窓の外に広がる曇天を眺めた。お酒は滅多に飲まないので特に嬉しいとは思わない。むしろ、私を嫌悪している連中と同席することを考えると気が進まない。だが、今更断りにくい。「はあ、空いてますけど。」なんて何も考えずに回答する前に、問いかけられた理由を探ればよかったのだ。係長の私に対する態度はこの一カ月でずいぶん柔らかく、親しくなってきた気がする。私も少しは新しい部署の一員として認められてきているのだろうか。だから、親睦会を開くのだろうかと思ったが、「慣習的」ということなので部署に馴染んでいるのか否かは関係ないらしい。
「私はあまり係内で歓迎されてないようですけど、大丈夫でしょうか。」
私はお茶を飲み干した。係長は足を隣の椅子に投げだし、両腕を後頭部に回した。
「まあ、排他的な連中だから誰が入ってもあんな感じなんだ。特にお前は女だろう?今まで男以外で二係に配属された奴なんかいなかったからなあ。内心やりずれえと思ってんだろう。あまり気にするな。」
食堂を見回すと社員はまばらになっていた。何人かはパイプ椅子を並べてベッド代わりに昼寝をしている。外注先から寄贈された古い木製の掛け時計を見るとあと十分程で休憩時間が終わることに気付く。何故、「排他的な連中」が配属された社員の歓迎会を慣習により開くのだろう。その矛盾にすら気付かないのか。抵抗の少ないベアリングによって支持され慣性で回り続けるモーター用機械部品の回転体のように思える。
「わかりました。お気遣いありがとうます。」
私は台拭きでもう一度テーブルを拭いた。係長はくわえていた爪楊枝を二つに折り、小鉢に投げ入れた。思い返すと歓迎会を開いてもらえるのは入社した時以来である。入社時は十人程の新入社員がいてそれぞれの部署で歓迎会を行っていた。今は新卒採用を抑えておりまとまって社員が入社することはない。社員の平均年齢は確実に上昇している。ふと、子供の頃、友人の誕生日会に一度も呼ばれたことがなかったことを思い出す。当然、家庭環境から自ら誕生日会を催すこともなかった。そう考えるとこの歳になって私のために行事を開いてくれること自体に感謝しなくてはならないのかもしれない、と思うことにした。
「よし、場所と時間は後で伝えるから。皆に声はかけたけど何人くるかわからん。それでも開くからな。さあ、仕事に戻るぞ。」
私達は食堂を出た。
歓迎会はうらぶれた木造二階建ての居酒屋で午後六時から開かれた。場所は工場から自転車で三十分程の距離にある小さな私鉄駅の近隣にあった。暖簾を潜り、引き戸を抜けると縦長に十席のカウンターと調理場があり奥が和室になっていた。和室には八人が着座できる座卓が二卓あり、黄ばんだ屏風で仕切られている。入店した時、カウンター後部の狭い通路を進むと席の半分が埋まっていた。いずれも一人客のようで、工場の作業着や農作業用の服装の人達だった。駅周辺は商店が数店舗まとまっているが少し離れると田畑が広がっている。私がこの地域に来るのは十二年前に就職で引っ越してきた際にこの駅を利用して以来だった。当時の駅周辺の風景は覚えていない。何軒かの商店はあきらかに廃業していた。
結局、集まったのは係長、三田さんを含めて六人だった。係長を上座に、囲むように三人の作業員が座り、下座に私が、私の前に三田さんが着座。こうした歓迎会では歓迎される側が上座に着くと聞いたことがあるが特に気にしなかった。
「そんじゃ、乾杯っ。」
係長が音頭を取った。私は皆の前で一言挨拶をさせられるのではないかと怯えていたので安堵した。中ジョッキの私を除いて男達は生ビールが並々と注がれた大ジョッキを片手で持ち、口元に泡を残して一気に飲み干した。
「おい、大将、おかわり。」
係長の右向かいに座る四十代の作業員が叫ぶ。普段寡黙な人達が顔を紅潮させて酒を飲み、目を血走らせて漬物や揚げ物を頬張る姿は滑稽である。私はビールをちびちびと飲みながら周囲をこっそりと観察した。
「おい、川島、飲んでんのかっ。」
係長はジョッキを掲げて私を呼ぶ。私はジョッキを傾けてビールに口を少し浸けて飲んでいる振りをした。皆、私服は似たような格好である。上はスウェットで下はジーンズかチノパンツ。三田さんは以前スーパーで会った時と同じ服装だった。誰かの足のすえた臭いが漂う。所構わずゲップをする人がいる。
「それにしても、最近の納期は何だ。」
「ああ、酷えな。」
「んで、残業はすんなっていうんだろ。」
「それじゃ、納期ずらせってんだ。」
「安月給でやってらんねえ。」
「おい、係長の前で止めろっ。」
「いや、いいよ。聞き流しとくわ。」
「そう言えば係長、ご子息は高三でしたっけ?」
「ああ、来年はどっか就職してんだろう。」
「やはり製造業ですか?」
「そうだな。工業高校だから。お前んとこは?」
「ウチは長男が高一、次男が中二です。おい、大ジョッキもう一杯っ。」
「俺のも頼むわ。」
「あ、俺も、あと焼きうどん。」
「で、新台はどうだった。」
「全然駄目。五万近くすった。」
会話の内容は十年前に更衣室で聞いた加工課の二人の工員とたいして変わらない。仕事中は職人を気取っていてもアルコールが入った姿を見ると凡人が背伸びしていただけなのかと思ってしまう程、たいした人間ではないと思えてくる。所属組織への不満とギャンブル動向。気が付くと隣の座卓も埋まっている。全員が女性客で中には工場勤めと思われる作業着の姿も見える。
「で、数は決まったの?」
「ええ、向こうも四人。うち二人は自動車の一次下請け。」
「おお、すごいじゃない。残りは。」
「その下請け。」
「まあ、でもよかったわ。どっちかと付き合えれば…。」
「そうよ。もう派遣はしんどいわ。」
「工具が臭くて辞めたい。油は取れないし。」
「まあ、あんたら若い子は楽しそうねえ。」
「お孫さんは元気ですか?」
「もう二歳になるわ。」
「かわいんでしょう?私も早く結婚して子供欲しいな。」
「じゃあ、来週は張り切ろう。」
「痩せないと。明日から食事控えよう。」
「もう遅いっしょ。来週だし。」
「きゃはははははは。」
私は手首を軸にジョッキをゆっくりと回しながら二台の座卓で繰り広げられる話をぼんやりと聞いていた。小皿に食べ残したと思われる鳥の空揚げとキュウリの漬物が残っている。安月給、子供の進路、娯楽、恋愛、結婚、出産。私は周囲の会話から何となく単語を引き出す。これが彼等の向き合う現実なのだろう。こうした生活を支えるために働いているのだ。翻って私はどうだろうか。考えてみれば私こそ現実に向き合ってきたはずである。この十年間、酒に溺れることもなく、賭事にのめり込むこともなく、恋愛の愉楽にふける機会もなかった。私には余裕がなかったのだろうか。働いて生活を支えることで手一杯だったのだろうか。これこそが現実ではないのか。自らを問い詰めてみると私は急に不安になってくる。ジョッキの側面を額にあてて頭を冷やしてみた。これが浦田さんの話していた「生きていればそのうちいいことだってある」という淡い期待の結末なのか。この圧迫はなんだろう。周囲の会話が私への非難に思えてくる。すると、四方から疎外、虚脱、閉塞、虚無に襲われる。私は愕然とした。震える手を座卓の下に移し、尻の下で温める。私は間違っていたのか。私はどこで道を踏み外したのだろう。店内は酔っ払いの熱気と煙草の煙が漂い、喧騒が追い打ちをかけるように私を孤独にする。もしかすると、現実に背を向けてきたのは私ではないのだろうか。たわいない話で盛り上がるこの人達こそ現実の中で生きてきた。生活の機微にこそ生きる喜びがあり、その為に働いて何が悪い。何故、私に同じことができなかったのだろう。私の境遇の為だろうか。店内ではラジオが流れている。古い歌謡曲が聞こえる。一人で取り皿の縁を眺めていると、中学生の頃に昼休みの喧騒を離れて図書室の隅で同じ時間を過ごした松尾君のことを思い出した。松尾君もまた今の私のような気分に陥ることがあったのだろうか。松尾君が急に懐かしくなる。何故、松尾君は私に連絡をくれなかったのだろう。いや違う。何故私から連絡をしなかったのだろう。主体性のなさが今の私の現状を形成したに違いない。尻の下の手が痺れてきたので座卓に戻し、指で小皿を軽く突いた。
「川島…。川島…。」
前の方から私の名前を呼ぶ声が聞こえる。顔を上げると三田さんだった。三田さんはビールから焼酎の水割りに変えていた。帽子を深く被り、ツバの影から丸い目が私を見ているのがわかる。他の三人は係長の方を向いて話しており、反対側は仕切りがあるので、私と三田さんの空間だけ周囲から遮断されたようである。
「お前、大丈夫か?」
三田さんから「川島」と呼ばれたことが意外だった。名前で呼ばれたのは初めてである。考えてみると三田さんとの会話は「三田さん、終わりました。製品を台車に載せて下さい。」「ああ、わかった」の繰り返しであり、私から三田さんへ作業上の依頼をする以外何もなかった。
「気分が悪いのか?」
「あ、大丈夫です。すみません。ぼーとしてて。」
「飲み過ぎたのか?」
「ええ、そうかもしれません。普段は飲まないもので。」
私はハンカチで額に滲んだ汗を拭く振りをした。三田さんは私と目が合うと逃げるように視線を大皿に盛られた焼き飯に移した。醤油の香ばしい匂いが上っている。私はハンカチを広げて畳み直した。会話が続かず、じっとしていることが気恥ずかしい。私は色褪せた畳を見た。所々が擦り切れている。何十人、何百人もの酔客が座りアルコールと汗が染みついているのだろう。煙草を落とした跡もある。
「手品、見るか?」
「えっ。」
三田さんは唐突に切り出すと、冷水が入っていた空のグラスを私の前に置いた。私は何を言われたのか良く聞き取れず聞き直そうとした。
「手品を見るかって言ったんだ。」
「あ、そうですか。はあ、見ます。」
何故こんなことをしようとするのか意図がわからなかった。三田さんはグラスに敷いていたコースターをグラスの横に置くと、ポケットから財布を取り出した。財布は茶色のナイロン製で縁が擦り切れておりボロボロだった。二つ折りになっており三田さんは小銭入れから十円硬貨を一枚取り出した。小銭入れは面ファスナーで留めているのだが細かい繊維がびっしりと絡みついており蓋の役目を果たしておらず、口が開いたまま。何年も使用しているのだろう。経年劣化で相当傷んでいる。
「見てろ。」
「はあ。」
三田さんはグラスにコースターを被せた。コースターにはビールメーカーのロゴが印字されている。そのロゴの中心に十円玉を置き、大きな右手の指を広げて、硬貨の上にかざした。十円玉と手の間隔は数センチメートル程。私は座卓の上に顔を乗り出した。
「いくぞ。」
三田さんは叩くように手をコースターに勢いよく押し付けた。するとコースターの上にあった筈の硬貨がグラスの中に「カランカラン」という金属音を立てて落ちたのだ。
「えっ。すごい。どうして。」
本当は大して驚きはしなかったのだが、私は感嘆の声を上げた。三田さんは私の反応を確認するかのように私の表情の変化をじっと見つめた。そして、右手の甲と掌を何度も見せて何も細工をしていないことを示した。私はコースターを手に取り裏返した。グラスに入っていた冷たい飲料による結露で濡れていたが、他に目立ったことはない。
「もう一度見るか?」
「はい、見たいです。」
三田さんは同じようにグラスにコースターを載せて硬貨を置いた。指を広げてコースターの上にかざし、ぽんと叩く。再びコースターの上にある筈の硬貨がグラスに落ちる。三田さんはコースターを叩いた掌を私に見せた。ヤツデのように大きな手。長年握り続けたであろうトルクレンチのグリップの接触部位が隆起し、石のように硬くなっていることがそのくすんだ光沢から見ただけでわかる。
「もう一回見るか?」
「はあ。」
三田さんは同じことを繰り返した。残念ながら私は硬貨をあらかじめ二枚用意しているのがわかっていた。私から死角となるよう巧妙に硬貨を濡れたコースターに吸着させておき、叩いた衝撃で落とす。コースター上の硬貨は掌に吸着させておいて、私がグラスの底の硬貨に注目している間に素早く取り外して隠すという仕掛け。十五年以上前に父親の経営する工場で浦田さんが披露してくれたのを思い出した。
三田さんは手品を終えると下を向いた。私と目が合わないように。私は手品という行為が不器用な三田さんなりの意思伝達の取り方なのだろうと何となく気付いた。私は嬉しくなった。
「他に何かないんですか?」
「何が?」
「手品。」
「ない。」
三田さんは口惜しそうに声を落とし、残っていた焼酎を飲み干した。私は心にゆとりができた。三田さんのグラスを引き寄せてアイスペールの氷をトングで足して、四号瓶に入った芋焼酎を注ぐ。どの程度まで注いだらよいのかわからなかったので取り敢えずグラスの半分まで入れる。これまで三田さんがどの程度の分量で飲んでいたのか見ておけばよかったと少し後悔する。グラスを差し出すと、三田さんは何も言わず受け取り黒色のプラスチック製マドラーで三回掻き混ぜた後、一口啜った。私は頬杖を突いてその様子を見ていた。
「あの、あそこのスーパーにはよくいらっしゃるんですか?」
「は?何が。」
「あそこのスーパーですよ。以前出入り口でお会いした。」
「ああ、あそこか。うん、行くよ。」
「私もよく利用するんです。」
私は焼酎の烏龍茶割を一口飲んだ。入社以来十年以上あのスーパーを利用してきたが、組立課に配属される以前に三田さんと店舗で会った記憶がない。いや、お互い通り過ぎていたのかもしれない。その頃私は三田さんの存在を知らなかったのだ。中小企業なのだが管理職でも就かない限り部署間の交流がないので、長年同じ会社で働いていても知らない社員は多い。
「朝の割引を狙ってんのか?」
「ええ、そうです。少しでも安く買おうと。三田さんは?」
「ああ、俺はあんまり気にしない。朝はドライブするのが好きで、そのついでの買い物。川島は自転車だったか。この季節は雨で大変だな。寮から来ているのか?」
「はい、免許持っていないんですよ。雨と雪と風は辛いです。」
そういえば三田さんは独身なのだろうか。工場の近隣に居住しているのだろうか。
「寮に住んでいるんですか?」
「いや、十年前に出た。独身寮は三十五までだから。規定でな。」
「え、そうなんですか。私、後五年ですか、寮に住めるの。」
「男の規定だから女は知らない。どうなんだろうな。」
三田さんは四十五歳前後なのだろう。それよりも私は寮に年齢制限があることを初めて知り、将来が不安になる。そのことは後からゆっくり考えようと自分に言い聞かせた。
「あの、この前はすみませんでした。」
「何が?」
「送るっておっしゃったのに。私自転車だったんで。」
私が頭を下げると、思い出したように三田さんは一度目を大きく開いてから頷いた。
「…別にいいよ。しょうがないだろう。」
私にとっては仕事以外の新鮮な会話だった。酔いのおかげで想像していたよりも上手く話すことができる。私と三田さんはお互いに問いかけ、応答する。一方通行ではない。これが「おしゃべり」なのだろう。隣では係長達が短納期、安値で製品を受注する営業部に対する愚痴で盛り上がっている。工場では寡黙な職人を気取っていても、酒が入ればどこにでもいる会社員と大差ない。職人とは公私ともに不満を表に出さず自らの技能向上を追求し続けるものではないのだろうか。私は幻滅し、呆れつつも、絶え間ないぼやきの中に人間らしさを感じて納得した。
「あの、私、自転車しかないんです。遠出したことがないんです。」
「電車にも乗らないのか。」
「駅まで自転車で三十分近くかかるんで。休日はずっと寮でのんびりしてます。」
三田さんは自動車でどこまで行くのだろうか。県外に出る機会はあるのか。仕切の向こうの女性客達の話声が聞こえてくる。話題は近く催される他の企業に勤める会社員男性達との酒席。一人でもこのうちの男性と交際できていずれ結婚できれば、それは玉の輿と言えるのかという内容である。一人は相手の所属企業が所詮一次下請けなので大げさだと主張すれば、もう一人は例え下請けでも従業員が千人を超える工場で働いているので大袈裟ではないと反論する。するともう一人が事業内容や規模ではなく問題は男性の年収であると割り込む。私は小皿の漬物を口に入れた。
「ドライブは楽しいですか?」
「いや別に。気分転換程度で乗っているだけ。」
「何処まで行かれるんです?」
「何処までだって。近所の県道を走ったり、時間があれば高速に乗ったりもする。」
「羨ましいです。」
「何で?」
私はよく聴いているラジオについて話した。ラジオが伝える天気予報や交通情報からそこがどんな場所なのだろうか興味があると。県道九号線、入江インターチェンジ、七月に開通したばかりの横貫道…。私は思い出す限り並べてみた。三田さんは飲み干したグラスに焼酎と氷を入れてゆっくり混ぜた。私は気が利かず少し後悔する。三田さんは帽子を脱ぎ、お絞りで額に滲んだ汗を拭った。頭髪には白髪が僅かに混じっている。髪の毛は太く耳に掛かる程度まで伸びている。丸顔は浅黒く目尻には皺がくっきりと出ている。下唇はナマコのように太い。青年期が遠く過ぎ去り中年に差しかかろうとしている様子がはっきりとわかる。それまでの苦労が白髪や目尻の皺に醸し出されているのかもしれない。若くはないが肉体的な衰えは感じない。不器用ではあるが精神的に成熟して物事をじっくり思考できる経験値を持っているのだろう。三田さんはグラスの焼酎を一気に飲み干した。グラスにはコースターが貼りついたままである。
「今度、行ってみるか?」
「何処にですか?」
「ドライブ。」

私はやや肩を強張らせながら、車窓の外に広がる灰色の空を眺めていた。シートベルトに慣れておらず、何度も肩の位置を直した。置き場所に困ったように両手を太腿に添える。雨がフロントガラスに降り続けており、古いワイパーが「キュッキュッキュッ。」と一定のリズムで不快な音を立てている。私はバックミラー越しに恐る恐る三田さんの様子を窺った。三田さんはいつもの服装で、野球帽を深く被っている。太い厚い下唇の皺が目立つ。左手でハンドルを握り、右手はドアのアームレストに置いている。乗っている軽自動車にはどう考えても大きすぎる体格。頭と天井の間は数センチメートルもない。私は白地のティシャツに黄色の半袖シャツを着て、ストレートのブルージーンズを穿き、黒色のスニーカーを履いた。張り切っていると思われるのが気恥ずかしいので、出来る限り普段通りの服装にした。かといってここぞとばかりの目を引く衣服を持っている訳ではない。
「暑いか?」
三田さんは私の答えを待つことなく冷房のスイッチを入れた。暫く生温かい風が流れた後で冷風に変わった。風の臭いは洗濯物があまり乾いていない状態で畳んでしまった後に使用した時の臭さに似ており、車内に充満していた汗の乾いた臭いと混ざることで鼻をつく臭気となって私の緊張を高めている。シフトレバーにはゴミ袋代わりのレジ袋がひっかけてあり、後部座席には地図帳と箱型ティッシュペーパー、車内を拭くと思われる雑巾一枚以外は何もなく、車内は全体的にこざっぱりとしている。三田さんはいまひとつ弾まない会話から逃げるようにラジオのボリュームを上げた。
「…放送センター屋上に設置された温度計によりますと、只今の気温は二十五度、湿度は七○パーセントを超えています。せっかくの休日ですが今日も雨が続いています。気象庁によりますと今年の梅雨明けは前年より五日遅い七月二十三日頃ということです。さあ、じめじめとした天気が続いていますが、夏を先取りして本日のラジオショッピングではエアコンをご紹介します。昨年の最新型高効率タイプを型落ちにより割安で販売します。サイズは八畳用。下取り価格で税込み十万五千円のところ、今回特別に九万四千五百円にてお届けします。それだけではございません。何と今回は工事費も込みとさせていただきます。工賃込みのこの価格は今だけ。只今オペレーターを増員して注文をお待ちしております。梅雨が明けて本格的な夏が訪れますと業者の取り付けや修理作業が集中して、購入から設置まで納期がかかる恐れがあるため、お早目にご購入下さい。」
平坦な土地に田畑が延々と続く県道を二十分程東へ進むと高速道路のインターチェンジが見えてきた。軽自動車はインターチェンジに入りY字の分岐を北方向へ進む。標識に「入江方面」と表示されている。「入江」という地名はラジオで頻繁に耳にする。私は心が弾んだ。
この日、三田さんとの待ち合わせ場所に決めたのは寮の近所にあったコンビニエンスストア跡地。店舗は取り壊されており駐車場以外見る影もない。当初、三田さんが寮まで迎えに行くと提案してくれたものの、私は寮に住む他の社員に見られるのが嫌だったので断った。コンビニ跡地で傘を差して待っていると、三田さんは待ち合わせの時刻より五分遅れて到着した。補助席側に乗り込もうとしてドアに手をかけようとしたところで三田さんが降りてきて素早く開けてくれた。私は女性に対する男性の紳士的な対応かと思ったが「ぼろい車で上手くドアノブ引かないと開かねえんだ。」と気まずそうに話した。軽自動車のボディは所々に擦れた跡があり塗装が剥げ落ちて錆が発生している。
「外は楽しいのか?」
高速道路を北上する中、顔を張り付けるように車窓からの風景を眺めていると、三田さんが声を掛けてきた。田畑の中に雑木林や農家が点在する世界が広がる。広大な平野はもし天気が良ければ地平線まで見渡せるのかもしれない。
「ええ、楽しいです。車に乗ることがないんで。」
中央分離帯や路肩にはレッドロビンや椿、雪柳、柊等の低木が植えられており、葉が雨で濡れて鈍く光っている。自動車の往来は少ない。思い返すと自動車に乗ったのは加工課に在籍していた頃、技術研修で工作機メーカーの研修所を訪問して以来、五年振りである。その時はメーカーが手配したマイクロバスに工員が鮨詰めになって乗っていた。その人達は一人も残っていない。
「何か見えるのか?」
三田さんはバックミラーに映る私を一瞥した。
「いえ、『入江インター』という標識が出ていたので、よくラジオの交通情報で耳にするなあと思ったんで、他に何かないかと。」
三田さんは右手の親指で顎を摩った。
「入江なんて何もないぞ。ほんとラジオをよく聴くんだな。」
「ええ、そうなんですよ。入江は何もないんですか。ああ、そうですか。」
入江インターチェンジ近辺が何の特徴もない地域であることを知らされた私は特に落胆しなかった。目的地で楽しむことが目標ではなく、目的地への到達に満足する訳でもない。道中のその過程に喜びを見出したいと思う。それが仕事ではない、私的な時間の過ごし方の一つなのかもしれないと考えた。私は夜勤の際に携帯型のラジオをこっそり聴いていたことを話した。
「普段何処にも行かないんで、ラジオで聴く地名がどんなところなんだろうかなあと思うことがあるんです。」
私の話を三田さんは親指で顎を摩りながら黙って聞いていた。この仕草は耳を傾ける時の癖なのかもしれない。顎髭がうっすらと生えており摩る度にじょりじょりと音が出る。
「がっかりするぞ。何にもないから。」
「それでもいいんです。」
それから私と三田さんはお互いの身の上話しについて語り合った。三田さんは隣接する県の出身で高校卒業後に今の会社に就職したという。実家には盆休みと正月休みに帰省する程度。両親が既におらず親族付き合いもない私には少し羨ましい。
「いや、そうでもねえ。面倒臭いよ。」
「え、何でですか。実家に帰れば食事は作らなくて済むし、掃除や洗濯もご両親がやってくれるんじゃないんですか?」
「前はそうだったけど、今はもう八十近くになってな、だんだん呆けてきてんだよ。忘れっぽくなるし、金を取られたと騒ぐときもある。」
三田さんには三歳年上の兄がおり、兄は結婚していて子供もいるという。実家の近隣に住んでおり、両親の面倒はこの兄が定期的に見ている。
「川島は親がいないみたいで、それはそれで辛いときもあるかもしれないけど、いたらいたで介護とか色々あるんだよ。この歳になると。」
気が付くと入江インターチェンジの五百メートル手前まで来ていた。三田さんの指摘した通り何もない。近くに湖があるらしいのだが竹林が壁になり自動車から見ることはできない。湖と地名に関係はあるのだろうか。いつも地名を聞くたびに想像を膨らませていた割に本当に何もないらしいので、こんな程度なのかと思った。
入江インターチェンジを過ぎた時だった。インターから進入してきた軽トラックがウインカーも出さず強引と思われる程の勢いで私達の前に入ってきた。私達の車両の前後は特に混んでおらず、無理に入り込む必要もない。三田さんは急いで減速した。軽トラックはそのまま追越車線に移りあっという間に速度を上げて北上した。
「チッ。」
三田さんは舌打ちすると、追越車線に移り、猛スピードで軽トラックを追いかけ始めた。速度計の針が一気に右側に振れる。アクセルを最大にまで踏みこんだことでエンジンが唸り声を上げる。驚いた私はバックミラー越しに三田さんを覗いた。三田さんは猛禽類が獲物を狙うような鋭い目つきで前方の軽トラックを凝視している。急激な増速で胸が圧迫される。
「大丈夫ですか?」
問いかけに三田は無言で速度を上げ続ける。速度計の針を見ると時速百三十キロメートルを超えていた。振動で車内はガタガタと揺れた。慣性が効いて体が後方に引っ張られる感覚に恐怖を感じた。
「あの、怖いです。」
私の声は振動音にかき消された。酒席で感じたあの「精神的に成熟して物事をじっくり思考できる経験値」はどこに行ったのだろう。十数秒で三田さんは軽トラックに追いついた。車間距離は五メートルもない。三田さんはクラクションを鳴らして相手を威嚇した。時速は百四十メートルに近づいている。怒りで冷静さを失っている。先が見通せないのだろうか。こんなことで事故を起こしたらどうなるのだろう。怒りの行為とそのリスクを天秤にかけて、一瞬の感情の激化を四十年間で培った理性により制御しようとする思考を持ち合せてないのだろうか。
「お願いです。止めてっ。止めて下さいっ。」
私は叫んだ。三田さんは私の声を聞くと、はっとなった様子で私を一瞥してアクセルを離した。軽トラックはクラクションに気付いたようで走行車線に移り減速していく。三田さんは暫くアクセルを踏まず、自動車は惰性でゆっくりと速度を落としながら追越車線を進んだ。
「悪かったな。」
三田さんはぼそりと答えた。私は恐怖で全身が冷たくなるのを感じた。汗が脇の下に滲む。三田さんは動揺した様子で果てしなく真っ直ぐと続く道路の先をぼんやりと見つめている。ハンドルを握る手は怒りから冷めていないようで赤い。その時、前方に「新横貫高速道路ジャンクション この先四キロメートル」という標識が見えた。今月開通したという新しい高速道路である。
「仕事は、慣れたか?」
「えっ。」
「組み立て作業は慣れてきたか?」
車内の重苦しい雰囲気を打ち消す為、三田さんが話題を設けようとしていることがわかった。私はこれまで気づかなかったこの人のもう一つの側面を垣間見た気がした。親しくなるということはこういうことなのだろうか。今起きたことを忘れようとした。
「まだ、慣れてません。」
「そうか…。」
三田さんは帽子を深く被った。冷房の運転音が頭に響く。乾いた喉を潤す水を求めるように、私は言葉を探した。
「あの…。ボルトの、締め忘れが怖いです。」
三田さんは走行車線に移った。
「ボルト?ああ、偶に締め忘れる奴がいるな。」
「締め付けたつもりでも、例えば十本のうち一本くらい忘れているのではと思うことがあり、気になるんです。」
私は習いたての者が起こしやすいとされる所謂「凡ミス」について話してみた。
「そうやって心配しているうちは締め忘れない。慣れてきて、もう大丈夫だろうと思う頃にやらかすんだ。」
三田さんは空気を入れ換えるためだろうか、手動ハンドルを回して運転席側の窓を数センチメートル開けた。湿気を含んだ生温かい風が入ってきた。田畑ばかりの景色は終わり北部の工業地帯に移っていた。田畑や森林を潰して建てた工場群や物流倉庫が目立つ。横貫道の開通に伴い建設されたと思われる新しい建物も多い。工場の煙突から白煙も見えており、煙は鉛色の空に溶け込んでいく。工場の屋根や外壁も灰色が多く、空と地上との色彩がほとんど同じで変化に乏しくどこか陰気な地域に思える。やがて訪れる夏の鮮やかな青空の下で眺めれば今とは違う印象を受けるのかもしれない。
「あの、家の鍵をかけ忘れたかもしれないっていう感覚に似ているんですよ。」
「ん、何だそれ。」
「何て言うか。外出する時に扉の鍵をかけた筈なのに、気になって戻ろうかと思うときありません?」
「いや、ないな。」
三田さんは顎を摩った。
「私は時々あるんですよ。で、戻って鍵を確認するとちゃんとかかっている。一人暮らしを始めてから何年も同じことを繰り返していますが、かけ忘れたことは一度もない。それでも気になっちゃうんです。」
こう説明しつつ、頭の中に先程見た猛禽類のような三田さんの目つきが浮かんでくる。
「神経質なのかもな。」
三田さんはハンドルを回して窓を閉めた。
「ボルトも同じで、締め忘れていないかもう一度トルクレンチで締め上げるんですけど、規定通りの数値で締まっているんです。すると、今度は逆に締め付け過ぎているんじゃないかと心配になります。」
「それはないだろう。物にもよるがトルクレンチの誤差は大きくてもプラスマイナス五パーセント程度だから。」
「そうですか。それでも心配で一度緩めて始めからやり直そうかと思うことがあるんです。」
「緩めてみたことがあるのか?」
雨の勢いが強くなってきた。三田さんはワイパーの往復速度を速めた。灰色の空はより黒みを帯びてきている。
「いえ、ないですよ。」
「締め付けトルクと戻しトルクは違う。締め付けた時のトルクより低いトルクで回せばボルトは緩む。それを知らないと規定値で締めているのに、思ったより簡単に緩むんで締め付け不足だと勘違いするんだ。」
「何度も締めたり、緩めたりするのは良くないんですか?」
「ああ、よくないな。ネジ山が削れてくるし。要注意なのは締め過ぎだ。何でも強く締めればいいってもんじゃない。締結力は締めつけようとするボルトと締め付けられる穴側が引っ張り合って綱引きのような状態で保ってんだ。一方の力、ボルト側の締め付けトルクが強すぎると逆に緩んでくる。」
私は高校生の頃に浦田さんから教わった金属の塑性変形を思い出した。恐らく、締め付けられる穴側はボルトの締め付ける力によって変形して元に戻ろうとする弾性変形を起こすのだが、限界を超えると元の状態に戻ることができない塑性変形が起こる。そうなると引っ張り合おうとする力が無くなり、緩むのだろう。
「組み付け作業は奥が深いんですね。」
この言い方に、加工部門にいた私が組立部門を見下していたような性質が含まれていなかっただろうかと、言い終えてから少し懸念した。三田さんは特に気にしていない様子である。
「ああ、他の部署から見ればマニュアル通りの誰にでもできる作業と思われがちだけどな。」
三田さんは無表情で答えた。
ボルトが入り込もうとする力と、反発して戻ろうとする力が綱引きのように引っ張り合うことで締結力を保つ。締め付け力が弱すぎても強すぎてもボルトは緩む。考えてみると人間関係のようだ。私と三田さんは車内という部品ユニットを構成するための組み付けるボルトとボルトを挿入される穴なのかもしれない。三田さんは感情を直接表さないものの想像していたより良く喋る。私もそれに応えて話す。どちらかの思いだけが一方通行にならない意思の疎通。何年振りだろう。工場の窓から入る西陽を浴びて浦田さんと語り合った十代のあの頃に戻ったようだ。いや、松尾君の話を聞いていた中学校の図書室の私達以外誰もいないあの空間に似ているのかもしれない。目的もなく外の景色を眺めながらたわいもない話を交わすことに喜びを感じる。それで十分ではないだろうか。
新設された高速道路のジャンクションが見えてきた。北上する車線の上を跨ぐ横貫道が東西に伸びる。三田さんは左側のウインカーを点滅させて、ジャンクションに入った。急な環状の勾配を上り、Y字の分岐を右側に進む。その時、透明の防風壁から下界を見渡すことが出来た。空の果てまで続く曇天の下、森や田畑が平地に広がる中、それらを切り開いて建設したジャンクションの周辺に機械や化学品、繊維、食品等の製造工場や物流センターが点在している。悪天候だが気分は良い。三田さんの一瞬の豹変も忘れかけることができた。
「川島。」
三田さんは横貫道に入ると、走行車線をゆっくりと進んだ。
「はあ。」
「お前は、この先もずっと一人で暮らしていくのか?」


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