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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第7回   異動
「辞令 製造部加工課 川島幸子 六月一日付で製造部組立課への異動を命ずる。」

古い工場の加工課のフロア。掲示板に正式な人事の連絡が張り出された。梅雨の季節で雨が一日おきに降っている。ポタポタと屋根を打つ雨音が静かに響く。私は副長に挨拶を終えた後、やや緊張しながら同じ敷地内の組立課のある工場へ向かおうとした。
「川島、元気でな。上手くやれよ。」
私を見送りに来た副長は無表情を装っている。
「副長、お世話になりました。次の職場は決まっているんですか?」
私は振り向き、帽子を脱いだ。
「いや、まだだ。俺の歳だといいところが見つからなくてよ。暫く退職金と貯金で食い繫ぐと思う。」
副長は平静を保とうとしている様子だが悔しさが伝わってくる。
「組立はどうしても嫌ですか?」
副長は下を向いて黙り込み、電圧二百ボルトの配線がすべて外された旋盤やフライス盤、マシニングセンターを順に眺めた。
「…嫌だね。お前はまだ三十路前だからいいけど、俺はこの歳で、年下の奴等から経験の無い仕事を教わるのはまっぴらだ。それに、俺にだって意地があるから。」
悔しさを押し殺して話す様子を見て、私は職人気質が染み付いた副長らしい決断だと思った。
「お前は大丈夫なのか?お前の歳ならNC加工機のオペレーターを募集している会社がたくさんあるんじゃないのか?」
私は床に残る掃き残したキリコを見つめた。工作機械から稼働している間延々と吐き出された鉄屑。担当しているときは掃除が面倒だったが今は愛おしくさえ思えてくる。
「よくわかりません。多分、あるかもしれません。未経験の作業は心配ですよ。でも、やっぱり辞めることはできません。この会社は寮付きじゃないですか。女性寮付きのオペレーターとなるとないんじゃないですかね。両親がおらず疎遠の親族にも頼れないんで賃貸物件を探すのは苦労すると思います。」
いつもより口数が多くなっていることに気付いた。高校を卒業してから十年以上働いてきた部署から異動となり、部署の先輩とも別れることは辛く、不安である。既に後戻りや軌道修正ができない過去に対して少しでも引き留めようとする力が働く。
「そうか、お前は親がいなかったもんな。アパートだと入居時の契約条件に保証人が必要になる。女だしな。」
「そうです。だから組立は不安ですけど、暫くは続けてみます。いや、嫌でも続けないと駄目なんですよ。」
私は自分に言い聞かせるように答えた。工場の窓の外には曇天が広がっている。窓の横には手垢が付いたカレンダーが掛けてある。副長が本日付けで退職することになっていることに気付いた。
「そういえば、課長はどうしていますか?」
不安が強くなった私は話題を変えた。
「ああ、昨日中国からわざわざ電話をくれたよ。俺が辞めるってんで。大変みてえだ向こうは。考え方が現地の工員と俺達とでは随分違うようだ。」
副長は異国の空を想像するかのように天窓を見上げながら、既に必要のなくなったウエスを折り畳んだ。
「ここの機械、全部中国に持って行くんですか?」
私はAラインからDラインの製造ラインにずらりと並んだ工作機械を眺めた。一台も稼働していないフロアは静寂に包まれている。金属を切削する音も加工物を自動搬送するコンベアの音もしない。天井から役割を終えた大型加工物を台車に移すためのホイストクレーンが寂しげに鈍い光沢を放ちながら垂れている。
「ああ、Cラインの壊れそうなマシニングセンター以外は全部移すってよ。コンベアも含めて。」
センター長は寂莫が滲む表情で答えた。
「このフロアはどうなるんですか?」
普段業務以外で積極的に自分から話しかけることがない私が矢継ぎ早に質問をするので、副長は少し戸惑っている。
「んん、俺にはわからん。こんな広いスペースを何に使うんだろうな。倉庫にするのか、組立工場に使うのか。事務用には向いていないだろう。こんな高い天井は。」
副長は天窓を見上げたまま動かない。そのくすんだ瞳に鉛色の空が映っている。
始業のチャイムが鳴った。すると副長は諦観したかのように大きなため息を吐くと私から背を向けた。
「それじゃ川島。元気でな。もう行け。」
私は副長の切り替えの早さに驚きつつ、慌てて帽子を被った。
「はい。副長もお元気で。それでは失礼します。」
私は北側にある組立工場に向かった。NC旋盤やフライス盤の横を通り過ぎながら、ふいに私は入社してからこの十二年間、副長がこの役職のまま昇進しなかったことに気付いた。私も役職には付くことはなかった。それが私達に対する会社の評価なのだろう。
北側にある組立工場は私が所属していた加工工場と十メートル程の渡り廊下で繋がっている。緊張しながらコンクリートの廊下をゆっくりと歩いた。廊下の屋根の軒樋を伝う雨水の音が聞こえてくる。樋の継ぎ目からポタポタと滴が落ちて、左手にかかった。新しい職場に向かう私を何ともいえず不快な気分にさせた。春の桜並木を歩く新入社員とは違う環境であることを思い知らされる。
十年程前、二十歳の頃に私が漠然と恐れていた事態は時代の変化に合わせて、思いもよらない形で現れた。工場の加工部門の生産ラインは技術革新による機械の自動化の促進に伴い無人化してゆき、数人のオペレーターで管理できるようになっていた。私はオペレーターとしてこの歳まで加工部門に所属し続けることができた。しかし、会社が最終的に決定した方針は加工部門を丸ごと人件費のより廉価な海外工場へ移管するということだった。具体的に中国の協力工場に生産の全面委託を決めたのが三年前。光陰矢の如く、この日を迎えることになった。加工課に所属する工員達は中国の協力工場に技術指導で駐在している課長を含む数名以外、全員が組立課に異動することになった。最もこの人事異動に応じたのは私と三十代の男性工員一名だけで、他の社員は副長を含めて退職の道を選んだ。
私はこの十年間、独身寮と工場を往復する以外、特に趣味もなく毎日を過ごしてきた。日勤、夜勤の繰り返しである。駐輪場横の百日紅のように変わらない時間を刻んできた。同じ部署の工員の中には私や副長のように長年在籍している者もいれば、給与が安いと不満を漏らし数年で転職していく者もいた。確かに給与は低かったのかもしれない。だが、私は同じような年齢で同じような業種に従事する知人がおらず比較のしようがなかった。年収は総額で三百万円に満たないのだが、寮生活のため住居費がかからず、光熱費もたいした出費にはならなかったので、特に経済上困窮することはなかった。この会社での勤務を継続して、寮に住み続けることができれば、あの時浦田さんが述べた通り「何とかなる」のであった。
組立工場の入り口に立ち、懐かしむように加工工場を振り返った私はあることに気付き、はっとなった。私が十年間かけて蓄積してきた工作機械のオペレーターとしての技能が今から足を踏み入れる職場では全く意味を成さず、通用しないのだ。挫折と敗北が私を覆った。入口の両側に植えてあるクチナシが大きく真っ白な花を咲から、甘い香りを放っている。私の心境とこの香しさとの差に呆然とする。屋根の横から頭や肩に落ちてくる雨粒が私を一層意気消沈させた。
組立工場に入る機会は分業体制が確立したこの会社においてほとんどなかった。入るときは加工した部品に不具合があり、組立部門において発見されて、呼び出される時くらいである。奇妙なもので十年以上この会社で働いているにもかかわらず組立課にどのような人達が在籍しているのか知らない。仕事の内容も加工課で加工した部品や外注先から仕入れた部品を組み付ける以外把握していない。私は機械加工以外に興味がなかったのである。
「おい、何突っ立ているんだ。邪魔だろうが。」
後ろから声がした。驚いて振り返ると身長が百八十メートル以上はある大柄の男が険しい表情で私を見下ろしている。体は浅黒く、作業着の半袖から大根のような太い腕が伸び、黒い毛がモジャモジャと生えている。顔は丸く鋭い鷲鼻が伸びており、瞳は大きい。
「あ、はい、すみません。」
私は謝り、扉の横に移動した。大男は一度鉄の扉に手を掛けたが、開けずに私を訝しそうに見回した。私は縮こまり下を向いた。
「お前、もしかして今日からこっちに配属される加工の奴か?」
大男は片手を扉にかけたまま聞いた。
「そ、そうです。加工課から来ました川島幸子です。」
私が救いを求めるように答えると大男はもう片方の手をポケットに突っ込み私の腕を一瞥した。雨が激しくなり、軒樋を伝う雨水の流れが速くなるのがわかった。私は扉の横に移動したため屋根先の下側に立っている状態になり、雨が作業着にかかってきた。
「なんだ女かよ…。」
舌打ちと呟きが聞こえた。大男は扉のノブを回して勢いよく開けた。錆びた小豆色の古い扉はギイイと鈍い音を立てる。大男が入ると扉は軋みながら音を立てて閉じていった。私は取り残された。クチナシの香りと雨で濡れた土の臭いが漂う。その時、再度扉が開いた。
「おい、なにやってんだ。さっさと入れよ。」
大男は扉から顔だけ出して私を中に入るよう顎で促した。
「す、すみません。」
私は急いで組立工場に入った。
「係長のところまで連れて行くからな。」
「あ、はい、ありがとうございます。」
大男は振り返らずに、ずんずんと歩いていく。私は遅れないように後に続いた。大男は脇見をせず工場中央の通路を進んだ。私は何もかもが珍しく、不安を抱えながら、怪しまれないように顔を動かさず視線だけを上下左右にギョロギョロと動かして、周囲を見回した。入口付近はバリ取り作業のスペースで嘱託と思われる高齢の工員数人がグラインダーでバリを除去している。グラインダーの砥石がバリにあたる度に「ヴイイイ」と摩擦音がけたたましく聞こえる。私は中学、高校時代に父の工場でバリ取り作業に従事した頃を思い出した。
私が周囲に気を取られている間にも、大男はずんずんと進む。私は慌てて続いた。男の背中はコンクリート塀の様にずっしりと大きく、よく見ると不思議にもどこか懐かしさを感じた。歩行速度は速く無いのだが、大柄なので一歩一歩の間隔が私に比べて倍近いため、同じペースでは遅れてしまう。作業帽子から僅かに白髪の混じった襟足が見えている。
組立の工場棟のフロアは五十平方メートル程の広さがあり、奥行きがある。天井は加工工場より低く、約三メートル。加工課のように更新する工作機械を搬入したり搬出したりする必要がないため低いのだろう。中央の通路を隔てた左右に組立の作業台が合計十台配置されており、三十名近い作業員達が黙々と組立作業に従事している。帽子の鍔が影を作り顔の表情を隠しているため感情のない機械のように見える。左右の壁側には工具が整然と棚に並ぶ。蛍光灯の光は弱くうす暗い。視力が悪くならないのだろうか。一部の照明は切れかかり点滅している。作業台では入口から手前に女性、後部に男性の作業員が部品の組み立てを行っている。良く見ると女性は小型で軽量なアルミ材質の部品を、男性は大型の鉄鋼部品を担当している。中央の通路を歩いていると一人の年配女性の作業員が私に気付き、作業を止めて私を凝視してきた。顔を上げると帽子の影から不信と敵意が剥き出しの表情が現われた。闖入者を見るような視線に、私はどうやら歓迎されていないことが分かる。この女性は隣で作業をしている三十代ぐらいの作業員の肩を叩き、女性が顔を上げると私を指差して、耳元でなにか囁いた。通り過ぎるまで二人はじっと私を見つめていた。私は二人と目線が合わないように帽子をより深くかぶり大男の腰あたりを見ながら小走りで進んだ。
作業台を通り過ぎると、奥には事務処理用の小さなスペースがあった。木製の細長い事務机があり、四十代の眼鏡をかけた男性が組立計画の工程表を見ていた。顎が長く横からみると三日月のように見える。大男と私が近付いても気付かない。
「係長、今日から配属された奴です。」
大男は工具棚の方を真っすぐに見ながら低い声で話した。すると、係長は眼鏡を額にずらしてゆっくりと顔を上げた。
「おお、そうか。今日からだったな。」
係長は私の爪先から頭までじろりと眺めた。大男の方は私を紹介すると踝を返した。作業場に行くのだろうか。
「おい、三田、明後日出荷予定のあの大口分、明日に前倒しできねえか?」
背を向けていた大男が振り向いた。「三田」という名前なのか。そういえば入口で自己紹介をしたときに、氏名を教えてもらっていなかった。
「…確約できませんが、やってみます。」
「悪いな。営業がどうしても一日早めてくれって言ってきているんだ。」
係長が話し終わるのを前に、三田さんは再び背を向けて作業場に戻って行った。
「さて、お前が川島だな。」
私は急いで帽子を脱いだ。
「はい、加工課から来ました川島幸子です。よろしくお願いします。」
係長は座したまま、顎をぐいと突き出した。
「お前に一つ言っておくことがある。」
こう言うと眼鏡を外した。
「お前ら加工の連中は俺達組立課の社員を馬鹿にしていただろう?」
唐突な問いに私は驚いた。
「えっ。そんなことありません。なんでそんなことを…。」
係長は机を叩いた。
「嘘吐け。知っているんだぞ。お前達が組立を見下してたのがよ。それが何だ、この様は?はっ。笑っちまうじゃねえか。加工課全員仕事がなくなっちまったじゃないか。」
作業場から聞こえてきていた工具を使い部品を組み立てる時の接触音が小さくなった。作業員達が聞き耳を立てているのがわかる。係長は堰を切ったように罵り始めた。
「お前ら加工は組立なんて誰でもできると思ってたんだろう?ええ、やってみろってんだ。誰にでもできるんなら何で組立部門を中国でもベトナムでもインドネシアでも海外に委託しなかったんだ?いいか、よく聞けよ。お前達加工部門が全部海外の工場に外注されたのはお前らの技術力がその程度だからだっ。何で組立は外注されないと思う?それは委託できる技術力が他にはないからだ。お前ら加工の能力なんてのはな、機械の技術革新で誰にでもできるようになっちまったんだよ。どの国でもな。たがな、組立の最後の工程は人間の力量で精度が変わるんだ。ある程度までは多軸の間接ロボットにできても細かい作業はできん。だから組立は重要なんだ。わかったか、このカス。」
係長は激しく息を吐きながら、言ってやったぞと言わんばかりに勝ち誇った意地の悪い笑みを私に向けた。私は机上の作業工程表から視線を動かさずに苦々しく聞いていた。
「川島っつったな。覚悟しておけよ。しっかり扱いてやる。」
私は歯を食いしばって「はい」と答えた。係長は私のにがりきった顔つきを見て取ると嬉しそうに眼鏡をかけ直し、今度は小声で話した。
「でもよ。やっぱり本当は組立の事を馬鹿にしてたんだろう?怒らねえから俺にだけ教えてくれよ。誰にも言わねえから。」
「私は本当にそんなこと一度も考えたことがないんです。信じて下さい。工場が別でしたし、加工以外の担当のことをどう思うなんて…。」
私はこう答えたものの、本音は係長の指摘した通りだった。組立作業を見下していた。それはNC旋盤やマシニングセンターのオペレーションを担当しているという自負であり、言い方をかえれば優越感とも言える。同じ課にいた副長も課長も同じ思考である。図面通りの加工を効率的に高い精度で行う動作をNC装置に入力できる技能を有しているのだ。段取時間は十年の経験で早くなり、鉄やアルミ等の原材料に関する知識もある程度はある。土俵が異なるため比較はできないが部品を組み付けるだけの組立部門に同じような能力が求められるのだろうか。こうした考え方を加工課の工員が皆無意識に共有していた。私はここで先程副長が漏らした「俺にも意地がある」という言い分を何となく理解できた。副長が退職せずに組立課に配属されたら、これまで見下していた組立課の社員から、今私が顎男から浴びたような罵声で追いつめられることが予測できたのだろう。私は唇を噛んだ。
「結局、加工から来たのは二人だけか。ざまあねえな。まあ、全員移ってきたら、こってり絞ってやろうと楽しみにしてたんだがなあ。」
係長は右手の親指と人差し指で、突き出た顎の先を摩りながら、悔しそうに話した。
この部署で新しい仕事を覚えて、継続していくことができるのだろうか心配になった。組立工場前でクチナシの葉に落ちた冷たい雨の滴が跳ね返り手の甲にあたったときに感じた不安が現実となって迫ってきたようだった。係長は唇をへの字に曲げて私の反応を窺っている。よく見ると池から口を出して餌を強請る鯉にそっくりだ。ふと、組立の作業場に視線を向けると、先程通路を通り過ぎた際に私を指差してヒソヒソと話をしていた二人の女性がまだ私をじろじろと見ている。何と意地の悪い人達なのだろう。背筋が寒くなった。天井が加工工場に比べて低いのでどことなく圧迫されている気分になる。私もいずれはここで働く作業員のように陰湿な人間に成り果てるのかもしれない。
「さあ、そろそろ仕事に入ってもらうか。」
係長は立ち上がり帽子を深く被った。
「簡単に説明する。知っているかもしれんが組立課は一係と二係に分かれている。一係はアルミ部品が中心で主に小型の製品を組み立てる。入口手前の作業台がそうだ。見てみろ。女が多いだろう。小さい部品の組み付けは手先が小さく器用な奴に向いている。んで、二係はその逆。男ばかりだろ。入口から見て奥の作業台な。こっちは大型製品が多い。器用さより力が必要だ。住み分けができているんだ。」
私は組立フロア中央の通路を歩いた際に男女が作業台によって分かれていたことを思い出した。入口手前の作業台が一係、奥が二係の作業場になるのだろう。
「それでは、私は一係に配属されるのでしょうか。」
すると、係長は唇を再びへの字に曲げて顎をぐいと突き出した。
「ところがな、一係は人手が十分足りている。余っているくらいだ。一方、ニ係、こっちは不足している。だからお前、川島っつったな。お前は二係に配属する。」
「えっ。」
「『えっ』じゃない。二係で働いてもらうんだ。」
係長は工程表を机の隅に置いて、私の顔を覗き込んだ。
「はっきり言う。二係は精度だけじゃねえ。力が必要なんだ。そういえばお前は確か加工でCラインを担当してたんだっけ?」
「そうです。」
「んじゃ、よかったな。Cラインで造った部品を二係で組み付けているんだ。」
私は担当していた部品の大きさを思い出した。中型が中心だが大型もあり、最大で直径が二百ミリメールに達して重さが十五キログラムを超える重量物もあった。工作機械から取り出して台車に移すのに一苦労だった部品もある。部品に開けたタップ穴はM十四という大きさもあり、これはネジ部の直径が十四ミリにも及ぶ。
「最も加工部品は海外に外注しているからお前が加工した物じゃねけどな。」
係長は嫌みたっぷりに話した。
「部品はどこにあるんですか?」
私は海外で生産された部品が無性に見たくなった。外観だけでなく面粗度と呼ばれる内径の加工の粗さも測定してみたい。図面通りに加工されているのだろうか。公差は許容値内のどの程度で仕上げているのだろう。
「部品は別のフロアに保管してある。以前お前達が仕上げた部品を一時在庫として保管していた場所だ。」
私は見せてほしいという欲求をぐっと我慢した。
「それじゃあ、さっそく作業に移ってもらうか。今流行りのオンザジョブトレイニングというやつだ。その前に言っておくことがある。」
再度、係長は顎を突き出した。癖なのだろう。威圧しているつもりだがどこか滑稽に見えてくる。
「後で文句を言われても困るからな。今、お前の給与に付いている『技能手当』ってのがあるだろう。確か三万か四万か、おれは経理じゃねえからよくわかんねえけど。あの手当、今月の給与から無くなるから。今言っとくわ。」
「えっ。そんな、急に…。」
私は驚いて声を上げた。正確には五万円の技能手当である。年間で六十万円の減額。顔から血の気が引いていくのがわかる。私が動揺する様子を係長は見逃さず顎を突き出して薄ら笑いを浮かべた。
「『え、そんなあ』じゃねえよ。あの手当はお前の加工技術、工作機械のオペレーターとしての技量に対して会社が支払ってきたもんだ。今日からお前は組立で働くんだろ。そんな技術は求められないんだ。当然だろうっ。」
私は落胆した。この会社には毎年の定期昇給がない為、技能手当が付かないと何年働いても給与が上がらない。私が十二年かけて築いた五万の手当が無くなる。これでは入社時の給与と変わらないではないか。近年の社会保障費の負担増を考えると手取り額はむしろ減っているのではないだろうか。何という仕打ちだろう。作業場からは相変わらず二人の女性が私の方を見て何か話しており、係長は私が狼狽する様子を楽しんでいる。
「何だ?不満でもあるのか?嫌なら辞めていいんだぜ。途中まで仕事を教えて辞められても迷惑だからな。」
係長は顎をぐいと引き、胸を突き出した。これが相手を打ち負かした時の彼の仕草なのだろう。
「いや、やります。頑張ります。」
私は心の整理がつかないまま勢いに任せて答えた。
「それじゃあ、行こうか。」
私は作業場に向かう係長の後に続いた。二係は係長の座っていた事務スペースと一係の作業場との間にある四台の作業台にある。二十代から五十代の男性社員が十人程黙々と大型の工具で鉄の加工部品を組み付けている。すると一係は倍の二十人ほどいて全員が女性。係長は奥の五メートル程ある作業台の隅に案内した。ここでは二人が組み立てを行なっている。ふと見ると一人は三田さんだった。
「おい三田、今からこいつに教えるけど、なんか単発ものってあるか。」
三田さんは作業を止めて台の上に置かれた複数の加工物をじっと見つめた。
「あります。」
三田さんは通路側に置いてある台車から中型の部品を数点持ってきて、私の前に置いた。その一つは以前私が加工課で旋盤やマシニングセンタを使って製造していた段付きで直径八十ミリメールの円筒形の加工部品である。中心に三十ミリの内径加工が、端面に四箇所タップ加工がそれぞれ施してある。側面には凹状に両側二カ所のフライス加工を行っている。他には加工部品に取り付けるスプリングやフランジ、ボルト、座金等が無造作に置いてある。私が興味深そうに部品を眺めていると、係長は工具棚からトルクレンチ、ノギス、ウエスを持ってきた。そして、作業台の下から金属の冶具を取り出すと「よいしょ」と声を上げて置いた。三田さんは既に作業へ戻っている。
「まず、冶具の上に加工部品をセットしろ。あ、その前にパーツリストに記載されている部品が揃っているか確認な。」
こう話すと係長は作業スペースと事務スペースの間にある仕切りに磁石で留めてある製品用の部品一覧表を私に渡した。そこには製品の識別コード、受注番号、納期、数量、部品の対象となるJIS規格等が詳細に記載されている。私は小声を出しながら人差し指で部品と一覧表の内容を照合した。
「確認できたらさっさと冶具に加工部品、フランジ、スプリングをセットしろ。」
係長は急かした。冶具というのは大まかにいえば製品を組み立てるときに、部品同士を固定する器具のことである。冶具を使えば、どの作業者が組み付けても、均一の組立精度をほぼ確保できる。「ほぼ」と付けたのは、冶具を使用したからと言って、誰でも製品の図面通りの完璧な仕様にできる訳ではないらしい。係長によると、組立時の微妙な力の加え方やバランス、マニュアルには記載できないような加工製品の僅かな誤差を作業者が補正することによって、より精密な製品が完成するという。このマニュアル化できない工程こそが組立部門の要諦であり、海外等に外注できない作業なのだ。係長は仰々しく説明した。
「組立のマニュアルはあるが、まずは言った通りやってみろ。マニュアルで指示できないような手順もある。まずは加工部品とフランジをボルトで固定しろ。」
フランジとは直径に対して高さが短い円筒型の部品である。加工部門で製造した部品より外径が大きい。以前から国内の外注先に製造を委託しており私は初めて見た。加工部品と繋げると刀のツバのようになる。フランジには加工部品と同様に端面四カ所にタップ穴が開いており、ここにボルトを挿入して締結する。
「まず、六角レンチで締め付けろ。仮締めでいいからな。」
私は四カ所のタップ穴に六角穴付きボルトを挿入し、たすき掛けに軽く締め付けていった。時計回りのような手順で締めていくと力の比重が偏りバランスが悪くなるため、たすきを掛けるように締め付けていくというのは工業高校の実習で学んだ。自動車のタイヤ交換でボルトを締め付ける時と同じ要領である。
「よおし、次は本締めだ。」
「本締め」とは規定のトルクで締結する作業を指す。私はパーツリストに記載されているトルクの数値を確認した。
「M十ボルト…。六…十…七、六十七ニュートンメーター。」
私は吃驚した。六十ニュートンメートルという回転力は軽自動車のタイヤのホイールナットを締め付ける力に近い。
「二係の扱う締付トルクでは中級サイズだぜ。さっさとやれよ。」
係長は作業台に散らばる座金を指先でいじりながら顎を突き出した。私はトルクレンチのダイヤルを回し数値を規定値に設定した。レンチはシグナル型であり、規定のトルクまで達すると「カチン」という音とともに感触が手に伝わり規定値を満たしたことがわかる。
私はトルクレンチをボルトに差し込み、レンチの柄に力を入れた。冶具は凹凸によってそれぞれの部品を固定しており、力を入れてもずれないようになっている。私は息を止めて思い切りレンチを回したが規定値を超えない。一度息を吐いて、作業を中断した。
「何やってんだ。力入れてんのか。まだ一本目だぞ。もっと力を入れろっ。」
係長が急かす。私は冶具を抑えていた手を離して、両手でトルクレンチを握ることにした。冶具がずれないか心配したが、金属製で思ったよりも重量があり相当力を入れても作業台上を滑ることはないことがわかった。私は重たい扉を開けるようにレンチを時計回りに回した。回すというよりも引くという感覚である。すると「カチン」という音が聞こえた。ようやくトルクが規定値に達したのだ。
「ふーっ。」
私は大きく息を吐いた。両手の掌にはレンチのグリップの跡がくっきり残っている。
「おっ。できたな。次のボルトに行け。まだ七本のあんぞ。」
係長は間髪を入れずにボルトを手渡した。
掌が痛くてレンチを握る力がでない。もう一度深呼吸をして、グリップを掴んだ。
「うーん。」
私は唸るような低い声を出してボルトを締め付けた。再び指先が真っ赤になる。力が出ない。
「何やってんだ。一本で終わりか?お前はこれから毎日この作業を何台分も行うんだぞ。早く締め付けろっ。」
係長は叫んだ。ふと、横目で周囲を見ると一係の社業員達が私に視線を向けている。私はレンチを握り直したが、もう規定のトルクを満たす力が出ないだろうと何となくわかった。締め付け作業の動作が緩慢になっていく。
「お前、やる気あるのか。」
係長の怒号が工場内に響く。私は情けなくて項垂れた。六角穴付ボルトの頭が濁った鉛色の光沢を放っている。周囲の耳目が私に集まるのがわかる。彼等はぞれぞれの作業に集中する素振りをしながら実は興味深く私を観察しているのだ。係長はわざと大声を出して、私を叱りつけている様を見せつけることで、組立作業員の溜飲が下がるようにしているだろうか、とさえ思えてくる。
「ちょっとどけ。よく見ていろ。」
係長は私を押しのけて、レンチを引っ手繰った。ボルトを穴に差し込んだかと思うと、あっと言う間に次々と残りの分を締め上げてしまった。規定値に達したときの「カチン」という音がテンポ良く聞こえた。係長は三田さんのような大柄で屈強な体格ではない。どちらかと言えば痩せ形である。作業着の半袖から出ている色白の細い手でわかる。一体、この長ネギのような体からどうやって六十ニュートンメートル以上もの締付力が衰えず出るのだろうか。
「見ただろう。がたいのでかさが問題じゃねえ。力の加え方にコツがあるんだ。」
係長は自慢気に話すわけでもなく、私にトルクレンチを戻した。
「コツというのは…。」
私は咄嗟に発してしまった言葉を引っ込めたが遅かった。
「んなもん自分で覚えろ。俺の作業を見てただろう。」
職人気質の指導者による紋切り型の怒声が返ってきた。係長の組み立て作業は速すぎてどこに特徴があるのか一目では理解できなかった。周囲の先輩作業者達から盗めということなのだろうか。
「もう一回やってみろ。」
係長に指示された私は再度ボルトの六角穴にトルクレンチを挿入した。一つだけ係長の作業から学べたことはテンポが良かったことである。時計の秒針が一秒一秒を正確に刻むかのように「カチン」「カチン」「カチン」と音を立ててトルクレンチを締め付けていった。私は試しに係長を真似てテンポありきで締め付けてみた。当然力が入っていないので一本目から作業が止まってしまった。
「全然力が入ってねえじゃねえか。何やってんだ。」
係長が呆れる。
「係長、電話です。」
一係から女性の作業者が呼びかけた。
「あん?誰だ?」
「よくわかりません。製品の梱包材の業者みたいです。」
「ああ、そうだ。電話するって言ってたなあ。」
「どうします?」
「ああ、出るよ。俺の内線番号に回してくれ。」
この間、私は何度もボルトを締め付けたが規定のトルクに届かず四苦八苦していた。
「おい川島、ちょっと席を外すから続けていろ。俺が戻るまでに終わらせろよ。次に進めねえからな。本来その作業は一セット一分以内に終わらせることになってるんだ。」
係長は足早に事務スペースへ行ってしまった。残された私は途方に暮れた。手は真赤に腫れ上がり力が出ない。周囲では作業員達が黙々と組み付けを行っている。私だけが取り残された気分である。何もしていないと怠けていると思われそうだ。取り敢えずトルクレンチを握り直して、グリップを指でなぞった。
「ちょっと貸してみろ。」
太い腕が私の前に現れ、大きな影が私を覆った。顔を上げると三田さんだった。作業用の帽子を被り、私を見下ろしている。私が後ろに下がると三田さんはゆっくりと私のいた位置に着いた。
「よく見てろ。」
威圧するでもなく、優しくもない、かといって突き放した言い方でもない。淡々としている。大きな岩のようだ。私は身を乗り出して覗き込むように三田さんのトルクレンチを握る太い手を注視した。
「いや、違うんだ。俺の全身を見ろ。もう少し離れた方が良いかも。」
私は二歩下がった。三田さんは私が退いたのを確認するとトルクレンチをゆっくりとボルトに挿入した。
「…いくぞ。」
三田さんがトルクレンチを回ると、すぐに「カチン」という音が聞こえた。
「何となくわかったか?」
三田さんは振り返った。帽子の影から丸い瞳が覗く。
「は、はい。何となくですが全身で力をかけている感じがしました。」
私が答えると三田さんは二本目のボルトにレンチを挿入した。
「そうだ、お前、川島っつうんだな。お前は腕の力だけで締め付けようとするからトルクが足らないんだ。全身を使って力をかければ女でも簡単にトルクを満たせる。もう一度やるぞ。」
「はい、お願いします。」
コツがわかりかけた私は嬉しくなった。三田さんは再度ボルトを締め付けた。今度はよりゆっくりと作業をしてくれたので私はその様子をよく観察できた。まず、トルクレンチを一時あたりの位置にしておき、レンチを手前に引き込むように力をかける。その時、鉄棒にぶら下がるように体重をレンチの柄の先端にかける。トルクレンチを内側に引き込んでいるようにも見える。
「どうだ、わかったか?試してみろ。」
「はい、やらせて下さい。」
三田さんはゆっくりと下がり、私にレンチを手渡した。グリップには掌の温もりが残っている。大きな掌で私の倍はある。指の甲には太くて黒い毛が生えている。私はボルトを挿入後、三田さんを真似て一時の位置に柄がくるようにレンチを挿しこんだ。六角穴付きボルトなので六方向に任意の角度で位置決めができる。
「よし、締め付けてみろ。」
「うーん。」
私は思い切りトルクレンチを右の脇のあたりまで引き込んだ。先程よりトルクがかかっているのが分かったが規定値までは達していない。力をかけ続ける。レンチは一時から三時の方向に回りネジ山の奥にボルトが入りこむ程重たくなる。
「少し体を浮かせるようにしてから、力を入れ直してみろ。斜め上から左下にぶら下がるような感じで体重をかけてみろ。」
私は三田さんの助言通りに、つま先立ちになり体重が上から下へとレンチにかかるように意識をして力をかけた。すると「カチン」という音がした。思わず私は破顔した。
「よし、次のボルトを締めてみろ。」
「はい。」
私は次々にボルトを締め付けていった。トルクレンチは「カチン」「カチン」「カチン」と心地良い音を立てる。一度、コツを掴むと先程までの苦労が嘘のように上手く進む。その様子を三田さんは無表情で見ていた。
「そうだ。要領がわかったのならテンポ良く、一本一本締めていけ。作業時間は製造原価に反映されるから手際良く進めることだ。」
練習用として用意されたすべての部品の締め付けが終わった。係長の電話の話し声が聞こえる。仕事がなくなり取り敢えず工具を机に並べていると、私の手持ち無沙汰に気付いた三田さんが手招きした。
「手が空いたなら今度はこっちのボルトを締めてみろ。」
三田さんは私が練習用として組んでいた部品と同じ種類で一つサイズが上のタイプを組んでいた。ボルトのサイズも一枠大きいM十二である。
「締付トルクはどの程度なんですか?」
「百二十。」
「百二十ニュートンメーターっ。」
M十ボルトよりも二倍の力が必要である。
「試しに組んでみろ。」
「無理じゃないですか。M十でやっとだったんで…。」
「何言ってんだ。これからもっと上のサイズもやってくだぞ。」
三田さんが退く。私は冶具の前に立った。渡されたトルクレンチは先程使用していた物より柄が長く二百ニュートンメートルまで規定値を設定できる大型である。
「俺達でもきつい。レンチの端の方を持て。遠心力で回すんだ。」
私は言われた通り柄の先端を握ったが回すのに躊躇した。というのも、全体重をこの先端にかけたときに何かの弾みでボルトの六角穴からレンチが外れたら、おそらく私は後ろに吹っ飛ぶだろうと恐れたからである。力のかけすぎでボルトの頭を舐めてしまい外れるかもしれない。その恐怖で思い切った力が入らない。
「怖がるな。全身で体重をかけないと回せないぞ。」
促された私は覚悟を決めた。運動会の綱引きのように思い切り体重をかけてトルクレンチを手前に引いた。すると、レンチがボルトから外れ、支えの無くなった私の体は海老のように後方へ飛んだ。私は尻餅をつき、後ろの作業台に頭をぶつけた。「ゴッ」という鈍い音が鳴る。一瞬、目の前が暗くなり、すぐに鈍痛を感じた。周囲の社業者達の部品を組み立てる音が止まる。三田さんは微動だにせず私を見下ろしている。
「怖がるからそうなるんだ。怖かったろ?怖いと無意識にボルトの頭に力が入らないような力の入れ方をするんだ。だからレンチがすっぽ抜けた。それとな、絶対に目を瞑るな。」
三田さんは泰然と話した。私は立ち上がり、ずれた帽子を被り直した。三田さんの指摘した通り、私は恐怖でボルトに力が本格的に入る瞬間、力がボルトから逸れるように右下ではなく右上に回したような気がする。再度、レンチのグリップを握った。周囲の作業者達は組立を再開している。
「えいっ。」
私は腹に力を入れて全身でトルクをかけた。また、トルクレンチはボルトの頭から外れた。今度は吹っ飛ばなかったが二キログラムのレンチが胸部にぶつかった。
「痛っ。」
呼吸ができなくなる。私は崩れ落ちるように蹲った。気持ちでは覚悟を決めているのに体が無意識に締め付けようとする力を拒絶しているのだ。
「三田、やりすぎだぞ。」
電話を終えた係長が戻ってきた。私の悲鳴を聞いたのだろうか、少し困惑している様子。私は呼吸を整えながら立ち上がった。
「あんまりしごくなよ。怪我されたらかなわんからな。労災に気を付けろって今朝も総務に口酸っぱく言われてんだ。」
係長は苦笑いした。三田さんは床に私が落としたトルクレンチを作業台に置いた。
「自分はそうは思いません。むしろ怪我をして、体で仕事を覚えた方がいいと思います。そうやって自分も学んだんですから。」
三田さんの反論に係長は顎を引いて顔をしかめつつ、ボルトの頭が舐めていないか確認した。
「まあ、俺だってそうやって覚えたけど…。どうせこいつは女だぜ。」
係長は一度眼鏡を外してハンカチでレンズを拭き、再びボルトの六角穴を見た。私は二人の様子を窺った。最初に三田さんと組立工場の扉の前で会ったときに「なんだ女か…」と呟かれたことが脳裏に浮かぶ。私は女性ということで男性社員に比べて技能習得までの水準を低く設定されるのだろうか。それは私にとって得なことであるかもしれない。いや、しかし、ここで「女だから」と理由付けされてしまうと、今後作業上の壁にぶつかったときに「あいつは女だから」ということで諦められてしまう恐れがある。加工部門では女性だからという理由で仕事を制限されたことは十年間で一度も無かった。そう思うと私に闘争心が沸く。奥歯を噛みしめた。
「あの、もう一度やらせて下さい。」
係長は驚いた様子で私を直視した。顎を少し突き出したり引いたりを小刻みに繰り返す。判断を決めかねている様子である。私は自発的にトルクレンチを握った。
「無理すんなよ。怪我されると上から怒られるのは俺だからな。」
係長は諦めたように許可した。三田さんは作業に戻ろうとしている。
私は一瞬の躊躇も頭の隅から排除した。レンチを両手でしっかりと握り、鉄棒にぶら下がるようにグリップを全身で引いた。全体重と遠心力がボルトにかかるように回した。
「ガチンっ」
重い鉄の扉が閉まったような鈍い音がしてトルクは規定に達した。闘争心が恐怖を御したのだろう。私は二人を見ず、歓喜する心を抑えて平静を保ちハンカチで首筋を拭いた。次のボルトにトルクレンチを挿入した。おそらく、職人気質の二人はあからさまな感情表現を嫌悪するだろう。私は黙々と残りのボルトも締め上げていく。「ガチン」「ガチン」「ガチン」と小気味よい音が続く。二人の視線だけを背中に感じる。
「わかったか、要領が。じゃあ、後は三田に任せるから。俺はもう行くぞ。包材業者が来社するっつうから。よろしくな。」
作業台の部品を私がすべて組み付けるのを見届けると係長は去って行った。一係の作業者は既に私を見ていないことに気付く。
「ひとまず作業はここまでにするか。」
三田さんは作業台から冶具を外すと、完成した製品を台車に載せた。今日の作業は終わり、残りの時間は三田さんが空いた時間で完成品の保管場所や組立伝票の管理方法等を教えてくれた。
「明日からM十四のボルトを使う製品で試してみるか。」
「締付トルクはどの程度ですか?」
「ざっくり百九十くらいか。だが、他の工程も見てもらう。その前に…。」
「あ、工具の場所を教えていただけると。」
「そうだな。今から案内するからついて来い。」
私は小走りで三田さんの後に続いた。


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