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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第6回   人間関係 三
高校を卒業すると、学校からの紹介で僕は隣町にある包装資材の販売会社に就職した。会社はアルバイトを三年間続けた清掃会社と駅を挟んで反対側の市街地にある。職種は会社が仕入れた包装資材を倉庫で管理するという内容。就職試験は最初に面接があり、本社事務所に隣接する百五十平方メートル程の倉庫の二階で行われた。二階と言っても倉庫の二階部分は吹き抜けになっており、実際は三〜四階程の高さにある。上るだけで一苦労だ。古いモルタルの壁伝いに急峻な階段を上ると小さな事務室があった。面接官は二人でスーツ姿の社長と作業着を着ており倉庫の業務を統括するセンター長とよばれる年配の男性。生年月日や得意科目、趣味、学校生活での思い出等簡単な質疑応答があり、僕は緊張でやや震えたもののそつなく答えた。高校三年間で最も力を入れたことは何かと聞かれて僕は躊躇なく清掃のアルバイトを挙げた。少し熱っぽく「かっぽぎ」やヘラを使ったガムの除去作業の難しさについて述べたが、二人の反応は薄い。面接後に簡単な数学と漢字の筆記試験が十五分程度あり、試験は終わった。僕以外に試験を受けに来た高校生は見かけなかった。翌週には高校に採用内定の通知が書面で届いた。
四月一日付で僕は入社した。配属された部署である「倉庫管理部」の業務内容は面接時に聞いた通りだった。会社が販売する包装資材が梱包されている段ボールが毎日大量に入荷、出荷を繰り返す。作業員は所定の位置に入荷した箱を移動し、営業部門から伝票で出荷の指示を受けると今度は倉庫の出口付近に移す。僕は支給された茶色の作業着を着て、毎日段ボールと向き合った。大小のトラックから降ろされた段ボールを台車に積みこみ保管場所まで運び込む中で、段ボールを持ち上げる作業が最も辛い。大小の差はあるが、一箱あたり十〜二十キログラムはあり、入社一カ月で僕は腰を痛めた。更に毎日段ボールに触っているので手が荒れてしまい痒くてたまらなかった。センター長によると段ボールが手の油を吸ってしまい肌が乾燥するらしい。軍手等の手袋で作業すればよいのだが、これでは手が滑ったり、伝票に必要事項を記入する際に書きにくかったりという難点があり、着用を止めてしまった。僕の掌は中学生の頃見た川島さんの手のように赤く爛れた。僕は自分の掌をまじまじと見ながらこれが働くということなのかと思った。
倉庫にはセンター長を含めて十人の社員が在籍していた。二十代から六十代で全員男性。センター長は白髪で後頭部が禿げ上がっており神経質だった。倉庫に空調設備はない。夏は蒸し風呂のように暑く、冬は凍てつくような体の芯から冷える寒さである。十五メートル程の高さにある天井には天窓が何カ所かあり、小さな陽射しが入る。嬉しいことに、倉庫では一日中ラジオが流れていた。演歌や歌謡曲中心の音楽番組を四六時中流しており、どうやらセンター長の趣味であった。
「手を掻くのを止めろっ。気になるだろう。」
掌を掻きむしる僕を見つけるとセンター長は怒鳴った。
入社して四カ月が経ったある日、僕は二階の事務室に呼ばれた。入室すると段ボールが二箱あり、センター長が開封していた。
「松尾、お前は段ボールばかり運んでいるからウチの会社がどんな商品を販売しているのかよくわかってねえだろう。」
指摘された通りだった。販売する商品は常に梱包されているので現物を見たことがない。倉庫の隣にある事務棟に行けばカタログや商品サンプルがあるのだが、僕は興味がなかった。伝票や段ボールに記載されている「TK45」「RD90」「AZ120」といった商品の型式からは中身がどのようなものなのか連想することはできない。
「今の業務では不要な知識からもしれんが、将来必要になるかもしれない。だから商品の一部を紹介する。よく覚えておけ。」
所謂、座学だった。その頃、高校生から使用していた革のベルトが腐ってしまう程、全身汗だくになって作業をしていた。毎日が肉体労働の繰り返しで帰宅すると夕食も取らずに寝てしまうことがあった。夏の暑さに空調設備のない倉庫の湿度が疲弊に輪をかけた。このため、冷房の効いた事務室は天国のようだった。
「松尾、この二種類の袋を見て違いがわかるか?」
センター長は両箱から一袋ずつ包装袋を取り出した。それは三十リットル容量の家庭用ゴミ袋だった。僕はセンター長が置いた二つの袋を見比べた。いずれも半透明の色だが良く見ると一方は表面に光沢があるのに対して、もう一方は濁っている。
「触ってみろ。一方はツルルツしていて、もう一方はザラザラしているだろう。」
僕は触れてみた。何となくセンター長の説明するような感覚があるような気がしたが確信は持てない。
「何とか言えよ。違いが分かるか。」
センター長は苛立たしそうに指で机をトントンと叩いた。
「何となくわかるような気がします。」
本当はよくわからなかったが、僕はセンター長が怖かったのでこう答えた。
「そうか。二種類はな、この業界では『ハイデン』と『ローデン』と言われている。袋を製造する時の工程の違いから性質が異なることでこう名付けられたが、詳しい説明をしてもお前には理解できんだろう。だがら違いだけは理解しておくんだ。」
「ハイデン」とは「ハイデンシティ(Hi density)」の略で高密度ポリエチレンを指し、「ローデン」は「ロウデンシティ(Low density)」で低密度ポリエチレンを意味する。同じ原料から製造されるが、製造工程において原料にかける圧力の違いから性質が変わると説明を受けたが、僕には難しくて理解できなかった。そもそも原料からどのように袋が製造されるのか知らないのに工程の違いを説明されてもわかる筈がない。原料すら何かわかっていないのだ。
「これだけ覚えておけ、『ハイデン』は引っ張り強さに優れていてコシがある。熱や寒さに強いが、針や刃物等の尖ったものに触れるとすぐに裂けてしまう。そんで、『ローデン』のは前者に比べて熱に弱く引っ張ると伸びやすいが、衝撃には強い。」
僕は二つの袋を触りながらセンター長の説明を聞いていた。
「決まりはないが『ハイデン』は引っ張り強さがあるからゴミ袋やレジ袋に使われることが多い。一方、『ローデン』の方は野菜を入れるための用途なんかが多い。」
「野菜ですか?」
「ああ、野菜は植物だから葉っぱが呼吸をしているんだ。『ローデン』は密度が低く野菜の息が袋の外に出るから鮮度を保てる。」
センター長は袋の表面をなぞりながら説明した。それよりも僕は一袋数グラムの袋が何千枚、何万枚も詰まることでダンボールが十キログラム、二十キログラムという重量になることに驚いた。
「それじゃあ松尾、わかったんなら今度は目を閉じて触ってみろ。どちらが『ハイデン』か当ててみろ。」
僕は瞳を閉じた。するとカサカサと音がした。センター長が二種類の袋の位置を入れ替えたり戻したりしているようである。
「そら、触ってみろ。」
僕は二種類の袋を交互に触ってみた。「ローデン」のツルツルとした滑らかさに対して「ハイデン」はザラザラとした感触らしい。僕は袋を摘んで擦ったが違いがいまいちわからない。どちらもザラザラしているように思える一方、滑らかにも感じる。
「こちらでしょうか?」
僕は適当に初めに触った袋を選び、目を開けた。すると、センター長の形相が険しくなった。
「馬鹿っ。逆だ。全然わかってねえな。」
センター長はダンボールを叩いた。
「いいか、『ハイデン』はザラザラ、『ローデン』はツルツルだ。これくらいすぐ覚えろっ。」
「はい、わかりました。」
僕はこう答えたものの、微妙な感触の違いがわかるまで三カ月かかった。
商品説明の後、センター長は会社の取引先について教えてくれた。顧客は法人が中心で、卸売業者や小売業者が多く、一部が製造業者。袋の種類は家庭用及び業務用のゴミ袋や食品袋、包装袋、機械部品等の工業用包装袋が主力の商品である。商品は自社の設備で生産するのではなく、すべて外注したものを仕入れているが、商品開発や簡単なデザイン設計は自前で行なっている。生産のみを外部に委託しているのだ。
「つまり、うちは工場を持たない販売メーカーっつうところだな。」
センター長はダンボールに袋を入れ直しながら説明した。僕は「メーカー」や「委託」、「卸売」という用語の意味がよく分からなかったが取り敢えず頷きながら聞いた。疑問に思うことを口に出すと怒り出しそうだからだ。最後にセンター長は社内の組織について説明した。僕が所属する部署の他に、隣の社屋の本社に総務部や営業部、企画部等があり社員は倉庫の人員を含め合計五十人程度という。事業拠点は他にない。
「まあ、俺達倉庫の人間が隣の社屋にいる連中と顔を合わすことはあまりないけどなあ。」
センター長は何故か自分を卑下するように話すと、窓から見える社屋を見た。
座学を受けてから一カ月が経つと、僕はこれまでの運搬作業から新しい業務を任されるようになった。それは注文の入った商品が梱包されているダンボールに発注伝票を添付する作業だった。添付する伝票と発注した取引先、商品の型式、数量、納期に誤りがないか確認していく。間違いが起きたまま出荷してしまうと後でクレームになる。従来の何も考えずに指定された場所にダンボールを運ぶ作業に比べて精神的に辛い。中には自社で発行する伝票ではなく、取引先から支給された専用伝票を使用する作業もあり、こちらは「指定伝票」と呼ばれていた。
「取引先の中には競合する小売や卸売もある。そんな会社同士の伝票を入れ違えるとな、お互いのうちからの仕入れ価格がわかっちまうから注意しろよ。以前、これをやらかした奴がいてよ、お客が怒鳴り込んできたんだ。」
センター長は菓子折りを持って取引先に謝罪に行ったときの様子を話してくれた。
僕は伝票の添付作業を通じて、この会社が県内全域に何百社もの取引先を持っていることを知った。僕は地元から離れたことがないので、伝票に記載されている県北地方等の住所を見ては、この商品の発送先はどのような景色が広がり、どのような会社が購入しているのだろうかと、ダンボールを台車に積みながら考えることがあった。
三年が経過して、僕は二十一歳になった。二十歳でフォークリフトの免許を取得しており、二十フィートの大型コンテナ車から大量のダンボール箱をパレットに積載して運搬する作業にも携わるようになっていた。相変わらず倉庫内にはラジオから演歌が流れていて、肉体的に疲弊する毎日が続いていたが、どことなくゆったりとした時間が流れている。僕は入荷された商品が発注した通りの数量、型式、仕様か確認する「ピッキング」という作業を最近会社が導入した電子端末で行い、出荷する際には同様に端末で商品コードや数量を入力して払い出し作業を行う。大きな問題もなく、倉庫の天窓から同じ時刻、同じ場所に差し込む陽光のように変化のない日常が続いている。僕は仕事に満足していた。社内に友人はおらず、先輩や上司は僕に干渉することはなかったので、仕事さえ覚えてしまえば会話せずに黙々と業務をこなし、帰宅してからはラジオを聴く日々だった。偶にラジオ番組に葉書を投稿することがあったが、疲労のため中学、高校時代に比べて投稿回数は減少していた。
蒸し暑い八月の昼休み、僕は冷房の効いた倉庫二階の事務室で涼んでいた。イヤホンを付けてラジオを聴きながら折り畳み式パイプ椅子に座り、机に頬杖をついて窓の外に広がる深く青い空や遠くの入道雲をぼんやりと眺めていた。転寝に入りそうな時だった。
「松尾、ちょっといいかっ。」
センター長が息を切らして事務室に飛び込んできた。僕はイヤホンを外した。
「どうしたんです?」
「先週送った指定伝票扱いの会社でな、誤発送があったみたいだ。今電話で連絡が入った。」
発送伝票を管理する部屋は一階にあり、僕はセンター長と共に階段を駆け降りた。すると白いワイシャツに紺色のスラックスを履いた中年男性が仁王立ちで待ち構えていた。大柄で太っており、目付きが悪く威圧するような迫力がある。片手に伝票の複写を持ち、僕を睨みつけた。短髪の丸顔に黄色に着色した眼鏡をかけており眼光が鋭い。僕は冷や汗をかいた。
「松尾、お前初めてか、挨拶しろ。営業部長だ。」
センター長はどことなく緊張している。
「は、初めまして、松尾です。」
僕は促されて頭を下げた。
「挨拶はいいっ。商品はどこにある。すぐ持ってこいと客が騒いでんだっ。何とかしろ。」
営業部長は怒鳴った。センター長は困った顔をして、複写を受け取ると僕を連れて倉庫の奥にある管理室に向かった。後から営業部長がついてくるのが大きな足音でわかる。センター長と僕は管理室に入ると棚から台帳を取り出して、複写の内容と照合する作業を始めた。
「いつわかるんだっ。何のために電子端末を導入したと思ってんだ。」
営業部長が叫んだ。台帳を捲るセンター長の手が微かに震えているのがわかる。
「まだあれは使い慣れてなくて、台帳で見た方が早いんだよ。」
電子端末の情報が保存してあるパーソナルコンピューターの電源を入れず、センター長は汗を拭いながら必死に台帳を確認している。汗が机に数滴落ちた。
「お前等のミスで営業活動に支障が出てんだぞっ。わかってんのか。さっさと調べろ。」
僕は複写の製品コード等の内容をメモ用紙に取った。センター長がその様子に気付いた。
「松尾、ちょっと在庫を見てきてくれ。」
僕は小走りで在庫の確認に向かいながら、横目で営業部長を見て、なんてせっかちな男だろうと思った。
調べてみると、誤って発送したと思われる商品に対して本来発送すべき正しい製品は注文数量が少ないので基本的に在庫品として保管していないのだが、緊急用として保管している可能性がある。棚卸でその存在に気付く程度の少量ではあるが。
十分後に僕は管理室に戻った。
「すみません、在庫はありませんでした。」
センター長は溜息を吐いた。
「わかった。松尾、そこでだな、お前が戻ってくるまでの間に話し合ったんだが…。」
センター長はここまで話すと俯いた。すると、営業部長が身を乗り出した。
「お前、松尾。運転できるな。」
「えっ。」
「『え』じゃねえよ。車を運転できるか聞いているんだ。」
僕は就職が内定して高校を卒業するまでの期間に普通自動車の運転免許を取得していたが、職務上倉庫から出ないので仕事で自動車を運転することはなかった。倉庫でフォークリストを動かす程度である。何故、部長がこのようなことを聞くのだろう。疑問に思いつつ僕は運転できますと答えた。
「それなら今から間違えた客のところに正しい商品を納品しに行け。」
「えっ」
「いちいち聞き返すなっ。ここからそんなに遠くないんだ。」
僕が不在の間に判明したことは、二社から受注した商品を僕が互い違いに発送してしまったのだ。電子端末に入力してから出荷するまでの間に発送伝票の貼付を間違えており記録に残らなかったことに加えて、二社とも指定伝票のため気付かなかったようで、片方の取引先から指摘されるまでわからなかった。二社は近隣にあるため、誤発送した商品をそれぞれの取引先から回収して正しい商品を本日中に納品するという。
「運転免許は持っているな。今すぐ準備しろ。」
「僕が行くんですか?」
「当たり前だろっ。お前のミスだろうがっ。」
営業部長は声を荒げた。僕は住んでいる実家の近辺に買い物へ出かける以外に自動車を運転したことがない。通勤には自転車と電車を利用している。仕事で自動車を運転した経験がないので困惑した。センター長を横目で見ると下を向いたまま僕と目を合わそうとしない。営業部長の迫力に圧倒されて、屈服したようである。
「俺が同行してやるから安心しろ。」
営業部長は頬の肉を揺らして笑った。ようやくセンター長が僕の怯えた表情を見てくれた。僕は疑問に思った。何故、部長が同行するのだろう。商品を回収して届けるだけなら一人で行けばよいのではないだろうか。だが、何か聞けば怒鳴られるので言う通りにすることにした。
僕は部長に促され営業用のライトバンに乗り込んだ。部長は助手席に座ると、座席を最後部まで下げて背もたれを倒して寝転んだ。そして、目的地までの簡単な道順を説明すると、自分の会社に対する悪態を吐き始めた。
「どいつもこいつも使えねえ。若造はすぐ辞めるし、倉庫の馬鹿は間違えるし、やってらんねえな。ああ、暑い。おい、冷房の温度をもっと下げろ。」
仕事で初めて自動車を運転する僕は緊張しており、部長の話をほとんど聞いていない。部長は後部座席に置いてある団扇で扇ぎ始めた。すると生ゴミが腐ったような部長の体臭が漂ってきた。冷房の温度を僕が下げないので部長は舌打ちすると自分で空調のダイヤルを回した。暫くすると部長は業務用掃除機のような大きい音で鼾をかきはじめた。太っているからなのか全身から汗が噴き出している。
運転に慣れてきた僕は部長が熟睡している様子を見て、こっそりと自動車のラジオをかけた。
これが部長との最初の出会いだった。自動車は殺風景な県道を北上した。周囲にはパチンコ店、自動車販売店、飲食店、物流倉庫が田畑の広がる県道沿いに点在している。ラジオを聴きながら僕は味気ない景色を眺めた。取引先に到着すると部長は降車せずに、僕一人を引取に行かせた。僕は御客から怒鳴られることを覚悟していたが「わざわざ引き取りにきてくれたのか」と驚かれたのが意外だった。こうして次の取引先へ向かい、引き取った商品をそのまま納品した。今度はこちらの取引先から回収した商品を最初の取引先に納品して、一日の仕事が終わった。この出来事から三カ月後、僕は営業部に異動することになる。あの一日の同行で部長に対する僕の印象がどうであったのか、わかりたくもない。僕は人事異動の内示をセンター長から知らされた時、絶望した。
「松尾、申し訳ない。俺の権限ではどうしようもなかったんだ。とにかく押し切られた。お前の性格上、営業に向いてないことはわかりきっている。倉庫は人手不足でとても営業には回せないと説明したんだ。たぶん、あいつが社長を取り込んでお前を…。」
僕はセンター長の釈明を細目でじっと聞いていた。センター長は申し訳なさそうに頭を掻きながら僕と目を合わそうとしない。
「あとで聞いていないと言われるのもあれだから話しておくぞ。営業は次々に中堅社員が退職して人手が足りないんだ。新卒も毎年採っているんだが、まあ、あいつの下だと長続きしねえんだろうな。すぐ辞めちまうみてえだ。」
他人事のような言い方に幻滅した。
「そんな部署で僕が続く訳がないですよ。倉庫作業員ということでこの会社に入社したんですよ。」
僕は泣きついた。二階事務室の窓から隣の営業部が入る社屋が見える。僕の身体にはこの三年で倉庫の雰囲気が染みついており、仕事に満足している。他の部署に異動することは考えられなかった。
「辞めます。無理です。」
辞意を伝えるとセンター長は両腕を組んだ。
「そう言うと思った。だからな、暫く営業部で働いてみて、もう無理だと思ったら言ってくれ伝えてくれ。そうしたら倉庫に戻してやるから。」
「そんなことができるんですか?」
「普通は無理。だが、お前が営業をやってみて自分に合わないんで辞めるっつうなら、そのまま退職してもらうよりは倉庫の経験があるから戻してもらえるだろう。倉庫だって慢性的な人手不足なんだ。人件費が抑えられているから増員できないだけでな。社長も了解している。」
僕はセンター長の説明を聞いて少し安心した。営業職には就きたくないが、今の会社を辞めたくない。
「まあ、少し営業部で働いてみて、駄目だと感じたらすぐ戻してやるよ。」
センター長は気楽に答えた。
こうして僕は営業部に配属された。不思議なことに働いてみるとセンター長との約束とは裏腹に僕は辞めたいと思うことがなかった。営業職の仕事は大別して二つあり、一つは所謂「ルート営業」という担当している取引先を回って注文をもらう単純な仕事。担当先の中には性格の悪い人もいたが大抵の客は問題ない。僕が満足しているのは営業車での外回りで一日中ラジオを聴くことができるという点だった。倉庫ではラジオ番組の選定権限がセンター長にあったが、営業車では僕一人がラジオを独占できる。昼の休憩時間には社内で投稿する葉書を認めることも可能だ。取引先への訪問を除いて移動時間は気楽なもので、僕にとって外回りは楽園のようだった。
社内の営業部門の雰囲気は予想していた通り絵にかいたような重苦しい雰囲気だった。営業部長は何かと理由を付けては社員に怒鳴り散らし、机や椅子を蹴飛ばすことが日常茶飯事。異動初日には先輩が部長の机の前に立たされて延々と営業成績の不振をなじられていた。僕もいずれ先輩のような罵倒されるのだろう。そう思いながら、あらためてアルバイトをしていた頃の心構えを思い出した。自分の価値がある程度まで低いことを認識した上で、一定の限度を超えるまでは我慢すること。我慢ができなければいつでも辞めよう。ところが、こうした道筋が見えると意外に続くものである。僕が営業部門に配属されて気が付いたことは、学生時代にコミュニケーション能力があると評価されていた人がこの会社で営業として長続きしないということだった。他者との意思疎通が上手な人達程、次々に退職していくのだ。こうした人々はプライベートで友人が当然多く、どうしても他者と自分の境遇を比較してしまう。暴力的な営業部長から捲し立てられる毎日を捨て、よりよい境遇の会社に移ろうと考える。僕には友人がいないので「隣の芝生は青く見える」という感覚がない。営業部長から怒鳴りつけられている間にふと自分が社会人の中の最底辺にいるのかもしれないという不満が芽生えることがない。僕は人との会話が上手ではない。しかし、それは営業上たいした欠点でないことがわかった。包装資材を売ることがこの会社の営業部門での目的であり、ようするに会話が下手でも包装資材が販売できればよいのである。何の共通目的のない他者と会話をすることは話のきっかけを作ることが難しい。ところが、包装資材の需要がある会社と供給する会社とでは共通の目的があり会話のきっかけを設ける必要がない。身だしなみをある程度整えて「御世話になります」「ありがとうございます」「失礼します」等の必要最低限の挨拶さえできれば営業上特に問題はないのだ。営業配属の三週間前に紳士服店で購入した規格品の無地で紺色の地味なスーツのように一定の「営業マンらしさ」があれば通用する。需要と購買意欲は価格、品質、納期で大方決まることもわかった。最低限度の礼節と需要動向に対するある程度の判断ができれば、この会社では営業としてある程度勤まる。後は車内でラジオの聞き放題なのである。
結局、営業成績が秀でていても、営業部長から好かれなければ攻撃目標にされてしまう。あまりに卓越していると部長から却って自らの地位への挑戦とみなされて潰されてしまうのである。反対に実績をたいして上げていなくても部長から嫌われなければ虐められない。要するに売上よりもいかにこの悪漢に目を付けられないように行動するかが永続勤務するためのコツになる。僕はアルバイト時代に金髪から強請られた経験から学んだ慎重さと観察眼でなんとなくこの状況を把握するに至った。部長は虚栄心が強いので大きな受注につながる営業案件があれば同行してもらい、いかにも営業部長が受注を獲得したという流れをお膳立することが重要になる。幸いなことに金髪のような陰湿な性格ではない。短気ですぐ怒鳴ったり、事務用品を叩いたりするが単純なのでその思考は予想しやすい。僕はできるだけ目立たないように行動した。営業成績は芳しくは無いが最下位には落ちないように注意して部長から目をつけられないことに努めた。
営業部への異動から半年が経ち、仕事に少し慣れてくると僕は他の営業部員と同様に新規開拓の業務を命じられた。営業部長が作成したA四版の電話帳のような一覧表が配布された。包装資材の需要がありそうな会社の住所と電話番号が横書きに羅列してある。一週間のうち何日か決められた時間帯に営業担当は一斉にこの一覧表の会社に電話をかけまくり、アポイントを取り付けるという作業である。初めて電話をかける会社の反応は既存の取引先と打って変わって厳しい。大抵は取り付く島がなく断られる。アポイントが取れるのは二十社中一社程度。辛いのはアポイントがどの程度取れたのかその都度部長に報告する必要があり芳しくないと口汚く罵られること。僕は自分の心を肉体から分離することに努めた。電話で受けるけんもほろろの応対に自分の小さな自尊心を滅して、電話をかけ続けた。そうしないと心が折れてしまう。一社でもアポイントを取ることができれば外回りの機会が増える。外回りができれば社内でラジオが聴ける。僕はこの流れを金科玉条として部長の圧力に耐えられず先輩社員が次々と辞めていくのを後目に、遮二無二新規開拓に取り組んだ。
営業に配属されて三年が経過していた。
眼が覚めると朝になっていた。僕は机に置いた原稿用紙の上に寝てしまっていた。窓から朝日が差し込み、涎の付いた用紙を照らしていた。


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