20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第5回   人間関係 二
原稿用紙にここまで綴ると僕はそのまま机に突っ伏して寝てしまった。
高校に入学して暫く経つと僕には友達とまではいえないが休み時間や昼食を共に過ごすことができる同級生が出来ていた。「友達とまではいえない」と考えるのは、高校卒業後に連絡を取り合う同級生が二十代半ばで既に一人もいないためである。少し控えめな表現かもしれない。卒業間際になって同級生達と仲が悪くなったからではなく、何時の間にか関係は消滅していた。卒業後に僕から連絡を取ることも、彼等から連絡が届くこともなかったのだ。入学後、クラスの生徒は一週間程、知らない者同士緊張してそれぞれ互いの動向を注意深く探りながら、自分と性格の合いそうな相手を探していたが、半月も経つと、小さな集団が形成されていった。どこの学校の一学年にある春の風景だろう。明るい生徒、スポーツが得意な生徒、勉強好きな生徒の集団。僕はすんなりと大人しい連中が集まる数人の中に入ることができた。振り返ると初めが肝心だった。川島さん以外に話し相手がいなかった僕には少しの進歩だったのかもしれない。中学一年生の時、緊張と人見知りで入学当初から壁を設けてしまい友達作りに失敗した僕は、同じ轍を踏まないように慎重かつ抜け目なく行動したのだ。この大人しい小集団に滑り込んだ僕は周囲の動静を観察して、可能な限り彼等の行動に合わせた。積極的に自分の意思を主張することはせず、相手の考え、好みに対して無批判に賛同した。僕は受け身に徹したのだ。ラジオの話は一切しなかったし、そもそもラジオを聴く同級生もいない。僕から勧めることもしなかった。時代遅れの風変わりな人間だと思われることで仲間から外されることを恐れたためである。この小集団の連中が漫画、ゲーム、テレビ番組の話をふれば、「へえ、そうなんだ。」「すごいね。」「羨ましいなあ。」と感嘆する素振りをする。相手も単純なので僕が本当に楽しく話を聞いているのか確認しようとはしない。こうした表層的な人間関係は僕にとって楽なことだった。ある物事について深く洞察する必要がなく、自分の趣味、伝えたいことを他人に理解させるための努力をしなくて済む。一人孤高の三年間を過ごすこともできただろうし、それにより、何らかの罰則を受けることはない。だが、学校というある意味では閉鎖的な共同体の中で、休憩時間や修学旅行等の行事で共に行動するための所属集団がないということは死活問題なのだ。「あいつは友達がいない」と後ろ指を差されることを僕は恐れた。
入学から二カ月を過ぎた頃、僕は川島さんに連絡を取ろうとした。卒業アルバムの住所録に記載されている電話番号に僕は思い切って電話を掛けてみたが応答がない。それから数日後の平日に掛け直したが同じだった。
そこで、次は休日に掛けてみると大人の男性と思われる低い声が受話器から聞こえた。おそらく工場を経営している父親だろうと僕は思った。脇の下に汗を滲ませながら、辿々しく自分が川島さんの中学校の同窓生である旨を伝えた。
「幸子は今いないよ。」
ぶっきらぼうで明らかに不機嫌そうな口調だった。
「あのう、何時頃戻りますか?」
「何であんたに話す必要があるんだ。」
怒気が込められた返答を受けて、僕は酷く動揺して黙ってしまった。電話は一方的に切れた。受話器を握る掌から汗がでて、指先が小刻みに震える。僕は暫く電話の前に立ち尽くした。どうしたら川島さんと連絡を取ることができるのだろう。川島さんが放課後に手伝いをしているという父親の工場までは住所録に載っていなかった。
結局、僕は葉書を一枚書いて、アルバムの住所に送った。葉書のサイズ上、記入できる文字数が限られているので伝えたいことだけを簡便に記した。僕は元気にしているけど、川島さんはどうしているのか。投函から一週間が経ち、一カ月が過ぎても返信はない。僕は落胆した。
七月になり、もう一度川島さんに葉書を送ろうかと迷っていた時、中学生の頃から三年以上愛用していた携帯ラジオの具合が悪くなってきた。プラスチックの筐体の所々に亀裂が入り、電池の消耗が早い。新しい物を購入しようか迷っていると、ラジオの通信販売のコーナーで偶然新型の携帯ラジオが紹介された。それは現在使用している製品よりも小型でかさばらず、高感度の機能を有しており、何より周波数がデジタルで表示されるという画期的な商品である。僕は購買意欲を掻き立てられたが販売価格が二万円を超え、毎月の小遣いではとても手が届かない。放送日の翌朝、僕は母親に強請った。
「部活動していないんだから時間があるでしょ。もうすぐ夏休みだからアルバイトでもして自分のお金で買いなさい。」
母親に一蹴された僕は渋々新聞の朝刊に折り込んである求人広告でアルバイトを探すことにした。労働によって賃金を得ることは未経験で怖かったが、外出先でラジオを視聴できなくなることへの心配が内気な僕の不安を凌駕した。コンビニエンスストアや飲食店等のサービス業関係の接客は多く掲載されているものの、人づき合いが苦手なので避けた。一、二週間辛抱強く探したところ清掃作業の補助という求人を見つけた。内容はビルや工場といった商業・工業施設の床清掃であり、土曜日、日曜日、祝日に勤務できる人材を特に求めている。夏休み期間のみの限定勤務でも可能とのこと。勤務時間は午前八時から午後五頃まで、時給は八百円。勤務先は隣町の事務所でそこから車で県内各地の作業現場まで移動するという。他の求人募集に記載されていたコンビニ等の高校生の時給に比べて百円程高い。重労働のため時給を平均よりも高く設定しないと人材確保が難しいのだろうか。単純に計算すると昼間の休憩時間を除いて一日八時間の労働であれば四日間の勤務で携帯ラジオの予算二万円確保を達成できる。
僕は早速この清掃会社に電話を掛けた。僕が家族や学校といったこれまでの所属集団から初めて外部に出ようと試みる瞬間であり、全身を緊張が駆け抜けた。
「高校生?これから夏休みか。土日、祝日は出てもらわないと困るけど大丈夫?」
電話に出たのは男性で僕が求人募集を読んで電話を掛けたことを伝えると早口で質問をしてきた。
「土日OKなんだな?わかった。勤務時間は広告の募集内容通りいかない時もあるけどいいか?よし、それじゃ、どうしよう。そうだな、明日八時に取りあえず事務所に来てくれる?」
僕は翌日、筆記用具と壊れかけた携帯ラジオをリュックサックに入れて自転車で隣町まで向かった。電車を利用した方が早いのだが運賃を節約した。東の空には大きな入道雲が浮かんでいる。近隣の田圃の稲は早朝からの強い日射しを浴びて力強く伸び、穂先が垂れ始めている。田畑の中に小島のように建つ神社の椎の木から油蝉がけたたましく鳴いている。朝露の残る湿った空気が頬にあたり陽光の強さの割に気持ちがよかった。
隣町は僕の住む地域よりも発展していて、清掃業者は市街地にある五階建て雑居ビルの二階に事務所を構えていた。大通り沿いではなく車一台が通れる程度の裏道にあった。一階は駐車スペースが設けてあり一台の黒色のワンボックスカーが駐車してある。事務所に入ると作業着姿の三十代から四十代前半と思われる体格の良い短髪の男性が清掃用具の手入れをしていた。僕がどう声を掛けたらよいか迷っていると男性は僕に気付いた。
「ああ、おはよう。時間通りに来てくれたな。さっそく現場に行くからこれに着替えて。」
電話の声の人だった。僕は支給された薄水色のつなぎの作業着に着替えようとしたが更衣室がない。そこでトイレで着替えてよいでしょうか尋ねると、
「男なんだから便所で着替える必要もないだろう。そこら辺で脱げよ。」
と笑われた。僕は赤面した。そこで、窓際の書類棚の前にある椅子に作業着を掛けて着替えた。
着替え終わると男性はナイロンの手提げ鞄を持ち、僕を外にでるよう促し、扉に鍵を掛けた。階段を早い足取りで降り、ワンボックスの運転席に乗り込んだ。僕は両親以外の車に乗ったことがないので体が強張った。
「何やってんだよ。助手席に早く乗りな。」
急かされて僕は乗車した。車内は煙草と清掃用洗剤の臭いが充満している。二列の後部座席は全て折り畳まれて平にしてある。男性によると業務用掃除機、電動ポリッシャー、モップ、床用水切りスクイジー、自在箒、三つ手ちりとり、ヘラ、洗剤の入った一斗缶等の清掃用具がぎっしり詰まっている。このため、バックミラーから後方を見ることができず、男性はサイドミラーを頻繁に見ていた。
「現場に着くまでに作業の流れを簡単に説明するから。」
男性は片手で運転しながらくわえた煙草にライターで火を点けた。ハンドルを握る腕が胴体に対して異常に太く見える。清掃作業は想像以上に力仕事なのだろうか。視線を下に向けると備え付けの灰皿には吸殻が山のように積まれていた。
「あ、その前に、俺一応社長だから。別に偉そうにするつもりはないけど、社長って呼んで。お前、コーヒー飲む?」
社長は窓を数センチメートル程開けて煙草の煙を外に出してから、僕の反応を確認せずダッシュボードの凹状のスペースに置いてある缶コーヒーを一方的に差しだした。それは僕が飲んだことのない無糖なので躊躇したが、怖くて断ることができなかった。とにかく話し方が少し乱暴なのだ。コーヒーの苦みと煙草の煙とで吐きそうになったが無理やり喉に流し込んで、一気に飲み干した。
作業内容は想像よりも面倒そうだった。現場は商業ビルや会社事務所、官公庁や教育関連施設、大小の工場。主に作業面積によって労働時間は変動するが、高校生の僕は作業が完了しなくとも残業はなく、ある程度の時刻になれば最寄の駅まで車で送ってくれるという。ただし電車に乗って自転車の置いてある事務所に到着するまでの移動時間は賃金に含まれない。作業は工場以外の場合、現場の床清掃で邪魔になる椅子をすべてひっくり返して机に載せる。工場の場合椅子がほとんどないのでこの工程はほぼない。次に箒でゴミを取り、ガムやテープ等の床に付着した粘着物を金属のヘラで削り取る。これが前工程のようなもので次の作業から重要になる。バケツに業務用洗剤を入れてモップに浸し、滑るくらい床に満遍なく塗布する。それから洗剤入りの電動ポリッシャーを使って回転ブラシで擦る。依頼内容によっては洗剤ではなく剥離剤で床のワックスを剥がすことがある。ワックスの剥離作業にもポリッシャーを使う。ブラシで擦り終わると、床の汚れた洗剤をスクイジーで塵取りに入れてバケツに捨てる。残った床の水分は乾いたモップで綺麗に拭き取る。剥離作業を行った場合は、最後にワックスを掛け直す。アルバイトが主に担当するのは前工程である椅子の移動、床の異物のヘラ取り、ごみ拾い、そして後工程のモップ拭きである。バケツに溜まった汚水をトイレや側溝等で定期的に捨てるといった細かい雑用もアルバイトが担う。
「まあ、口で説明してもよくわかんないだろう。一度体験してみて流れを理解してくれ。後は『O・J・T』、オン・ザ・ジョブトレーニングってやつだ。」
社長は笑った。僕は「オン・ザ・ジョブトレーニング」の意味が理解できなかったが取り敢えず大きく頷いた。働きながら仕事を覚えていくということだろうか。コーヒーの苦味がまだ口の中に残っている。
現場は郊外にあり三十分程で到着した。建設会社が所有する一階建ての事務所で広さは五十畳程度。所内には正面にカウンターがあり、奥には事務机、椅子が並び、壁には書類棚が設けてある。僕の想像した通り、どこにでもあると思われる会社の事務所だった。
「松尾君、いや松尾でいいな。ここは取引先の中でも一番簡単な現場だ。ここで仕事の流れを何となくでいいから掴んでくれ。」
僕は社長の指示でまず椅子を引っ繰り返して事務机の上に次々と載せていった。床にある円筒形のゴミ箱や書類の束も机に置いていく。
「松尾、ゴミ箱や書類の束は置いてあった位置を覚えておけよ。元の場所に戻すんだぞ。偶にクレームがくるんだ。」
社長はウレタン塗装の床にへばりついたガムテープをヘラで擦りながら指摘した。
「あと、椅子を引っ繰り返す時に脚をパソコンの画面にぶつけないよう注意しろ。もし、壊したら弁償してもらうから。給与から天引きだぜ。」
「えっ。」
僕は驚いて社長の方を向き、作業を中断した。僕はここで生まれて初めてパソコンを見た。
「ギャハハハハ。嘘だよ。注意しろってこと。何びびってんだよ。」
床に落ちている埃や消しゴムのカス等のゴミを箒と塵取りで取り終えると、社長はバケツの中に数種類の洗剤を入れてモップに浸した。そして、事務所の右奥からゆっくり床にモップで洗剤をたっぷり塗り始めた。満遍なく床に塗り終えると電動ポリッシャーで擦る。すると洗剤が次第に汚れで灰色に変色していく。その様子を僕は箒を右手に持ちながらじっと見つめていた。
「おい、かっぽいでみるか?」
唐突に社長は僕に声を掛けた。
「『かっぽいで』って何ですか?」
社長によると『かっぽぐ』とはポリッシャーの研磨後に残る廃液を柄の長いスクイジーで塵取に入れる作業を指す。社長にスクイジーを手渡された僕はおぼつかない手で廃液を塵取りに流し込んでみた。液体を塵取りに入れることは初めて。当然上手く出来ない。塵取りの下や側面に廃液が逃げてしまう。加えて、スクイジーのゴムに残った水分が滴り落ちて床を再び汚してしまう。スクイジーと床が密着していないので隙間から液体が流れて床に残る。
「松尾、こうやってやるんだ。」
社長は僕からスクイジーと塵取りを引っ手繰ると手本を見せてくれた。スクイジーを上下左右に素早く動かして廃液を一箇所に集める。すると集められた液体は巨大な一粒の雫のようになり、微かに揺らぎながら傾斜を探して流れだそうとする。そこを社長は僕の何倍もの速さで一気に押し込むように塵取りに入れていく。スクイジーと床が完全に密着しているので廃液が床に残ることはない。左右の側面から流れ出た廃液もスクイジーを小刻みに動かして一つにまとめて塵取りに入れていく。その速さに僕は舌を巻いた。
「まあ、この作業は熟練にならんと無理だな。こんな風な流れということを理解してくれればいいから。」
後で聞いたところによると、床への洗剤の塗布、ポリッシャーによる研磨、「かっぽぎ」、ワックスの塗布が特に重要な工程であり、この作業を迅速に行いながら綺麗に仕上げることが清掃事業者の腕の見せ所という。
「今日は小さな現場だから二人だけど、通常はもっと広くて、三、四人でこの工程を流れ作業のようにこなしていく。次はもう二人来るから。」
社長はワックスを塗布した床を凝視しながら説明した。身を屈めてモップを右手で垂直に立て、塗り残しがないか目を皿のようにして確認している。確認が終わると業務用の大型扇風機で床を乾かした。社長は「かっぽぎ」工程の後は床を汚さないようにするため土足で歩かないように注意すること、と付け加えた。
作業は三時間で終わり、正午前には清掃用具を車に積んで帰路に就くことができた。帰りの車内で話すことがなかったのか社長は仕事の受注方法について長々と語った。往路と同じようにブラックコーヒーを勧められ、僕は断ることができず、目を閉じて一気に飲み干した。
社長は起業前に社員が十人程度の清掃会社に勤めており、五年前に独立したという。仕事はその在籍していた会社から受注しており、
「所謂、下請けってやつだ。」
と話した。下請けのメリットは自社で取引先を開拓する必要がないこと、問題が起きたときに元請けがリスクを背負ってくれること、デメリットは元請に「中間マージン」と呼ばれる手数料を取られることと説明されたが高校生の僕には内容が理解できない。そもそも、労働という行為が生まれて初めての僕には「受注」と突然言われても良く分からない。社長は僕が理解していようがいまいが気にしていないようで思ったことを口に出しているように見える。面白いことに社長が在席していた会社の社長も昔、従業員が三十人程度のこの業界では中堅規模の清掃会社に勤務しており、そこから独立して今の会社を立ち上げたという。更に、社長が仕事を請ける会社も実は別の清掃会社から仕事を受注しているというのだ。この構造に僕は驚いた。
「つまり、俺の会社の仕事は大元の依頼主からすると孫請ということになるな。」
社長は鼻の穴を穿りながら説明した。車内ではFMラジオが流れている。放送内容は国内外の流行歌が多く、僕が良く聴いているAMラジオとは異なり新鮮だった。英語の曲紹介ではパーソナリティの発音が外国人のように滑らかだ。社長は自分の好きな曲が流れるとハンドルを握る掌でリズムを刻み鼻歌を歌う。
「次は来週の土曜日、同じ時間に来てくれ。」
帰路、僕は自転車を漕ぎながら聞き忘れたことがあることに気付いた。当初、僕の予定では二万円分のアルバイト代を稼ぐことができたら辞める予定だった。土日勤務であれば夏休みの期間中には目標予算を達成できる見込みである。社長は僕をいつまで雇うつもりなのだろう。就労の契約期間が特に示されていない。僕としては一日働いてみて、初めてのアルバイトだったが特に問題なく終えたつもりだ。社長は口調がやや乱暴ではあるが二度と会いたくないような怖い人物でもない。もし、雇い続けてくれるなら夏休み以降も継続できないだろうかと思った。まだ、今後の事まで考えるのは早いだろうか。僕は畦道を通りながらぼんやり考えた。
翌週の土曜日になり、僕は前回と同じ時刻に出社した。社長に挨拶をしてから事務所の奥で壁の方を向いて着替えていると突然、後ろから頭部を小突かれた。
「おい、松尾じゃねえかっ。」
僕が驚いて振り向くと、S君が立っていた。僕と同じつなぎを着ており、袖を肘まで捲り、ガムを噛んでいる。髪は短く刈り込んでおり、鋭い眼つきは中学生の頃と変わっていない。S君の後ろには僕と同じくらいの体格で金髪の男がポケットに両手を入れて覗き込むように僕を睨んでいた。
「何、知り合い?」
「おう、こいつ、同じ中学なんだよ。」
「へえ」
金髪は首を伸ばして僕を見つめた。S君と同様ガムを噛んでおりクチャクチャと音を立てている。
「何だっけな。確か、こいつの尻を蹴り上げたことがあってな。すげーびびってたよ。何で蹴り上げたか忘れたけど。」
S君は笑った。
「へっ、そうなんだ。」
金髪はS君の話を聞くと薄笑いを浮かべた。靴の先から頭まで舐め回すように僕を観察している。僕をこれからどう扱おうか品定めをしているように見える。僕は狐のような金髪の細い目の奥に狡猾で残忍な濁った光を即座に感じ取り、ぞっとした。
「あ、あのう、松尾です。宜しくお願いします。」
僕は頭を下げて挨拶した。金髪はポケットに手を入れたままニヤニヤと見つめるだけで、返事もしなかった。
「よし、お前ら行くぞっ。」
ワンボックスカーに清掃用具を詰め込み終えた社長が事務所に戻って来て、大声を上げた。今回、車内では二列目の後部座席にS君と金髪が座り、助手席に僕が乗った。僕は恐る恐るバックミラーから二人の様子を伺った。二人はドアを閉めると直ぐに煙草を吸い始めたが、社長は特に注意しない。バックミラー越しに金髪と目が合った。というよりも、金髪はバックミラー越しに僕をじっと見ていたのだ。僕は背筋が寒くなる思いがした。
「お前ら同級生だったのか。仲良くしろよ。」
社長も煙草に火を点けた。車内に煙が充満する。
「松尾、よろしくな。」
S君は後ろから僕の頭を軽く叩くと窓を開けて勢いよく痰を吐いた。後で社長が話したところによると、S君は高校入学から三ヶ月で何らかの問題を起こして中退してしまったらしい。S君は入学と同時期にこの清掃会社でアルバイトを始めていたが、中退後は正社員として働いている。金髪は僕と同じ年齢であり一カ月前にS君の紹介でアルバイトとして入ったという。学校には通っていない。金髪は色白の痩せ型で良く見ると両耳にリングのピアスを付けていた。僕がこれまで関わったことのない部類の人間であるし、これからも接点を持ちたくないと思った。
この日の現場は電子部品の製造工場でフロア面積は前回の事務所に比べて十倍以上の広さ。作業は社長とS君が重要工程を担当して、他の作業を僕と金髪が補佐するということになった。
僕が屈んで刃が金属のヘラを使い床に付着したテープを削り取っていると、背中を軽く蹴られた。
「おい、それ貸してよ。」
金髪だった。両手をツナギのポケットに突っ込みガムを噛みながら僕を見下ろしている。僕は戸惑った。蛍光灯が金髪を照らし白く見える。照明を背にすることで影がかかった顔は暗く、細い目が不気味に光っている。
「あの、今、僕も使っているから…。」
断ると、金髪は素早く片手を取り出した。
「すぐ返すから貸せよ。」
僕は怖くてヘラを握る手の力が抜けてしまった。金髪は僕からヘラを取り上げると自分の担当するフロアに行ってしまった。仕方なく僕は自在箒と三つ手塵取りで埃を集めたが、暫く経っても金髪はヘラを返しに来ない。僕は行きたくなかったが金髪のフロアへ向かった。テープが付着したままでは洗浄作業時に注意されるだろう。
「うるせえな、社長から借りろよ。」
僕が声を掛けると金髪は声を荒げた。そもそも、僕が貸したヘラを使用しておらず椅子に座って爪先の垢を取り除こうとしている。僕は腹が立ったが何も言い返せない。そこで僕は社長に事情を説明してヘラを借りることにした。バケツに水を満たしている社長に声を掛けると面倒臭そうに頭を掻いた。
「あのな、松尾、お前はガキじゃないだからいちいち俺にそんなこと頼むな。ヘラは貸せないし、忙しいんだ。自分で何とかしろ。」
「何とかしろ」とは自分で金髪からヘラを取り返してこいということなのだろう。僕は情けなくなった。だが、金髪はヘラを返却してくれそうにないし、ヘラがなければ作業は進まない。そこで、少し考えてから、財布から十円玉硬貨を取り出して、硬貨の側面をヘラの代わりにして付着物を削っていった。試しに途中で一円硬貨に交換してみたらこちらの方が良く削れることがわかった。電子部品の製造工場は空調が効いていて暑くなかった。精密部品を扱うため休業日でも室内温度を一定にしているらしい。
「よおし、お前ら昼飯にすんぞ。」
正午になり、一時間の休憩を取る事になった。四人は現場に到着する前にコンビニエンスストアで購入した弁当を食べた。食堂フロアのエアコン付近に僕以外の三人が集まって涼みながら昼食を摂る中、僕は金髪に近寄りたくなかったので少し離れた自動販売機を背もたれにして床に座った。麦飯にそぼろ肉がのった弁当を頬張りながら、僕は求人募集に記載されていた土日に勤務できる人材を歓迎する理由を何となく理解した。この清掃会社の担当現場の多くは一般企業であり、平日は営業、稼働しているので清掃活動ができない。逆に土曜、日曜、祝日はほとんどの企業が休業日のため書入れ時なのだろう。廊下に響く三人の談笑以外は何も聞こえず、自動販売機が時折、冷却運転で怒ったような音を立てる程度である。僕は弁当を食べ終えるとイヤホンを耳に嵌めて携帯ラジオを聴きながら、どうやって金髪からヘラを取り返そうかと考えているうちに、眠ってしまった。
「おい、松尾。」
僕はS君の声で目を覚ました。見上げるとS君が両腕を組んで立っており、その横には金髪がガムを噛みながら憎たらしい眼つきで薄笑いを浮かべて僕を見下している。僕は寝惚け眼で「はあ」と返事をした。腰を屈めて作業をしていたので足の節々が痛い。
「松尾、悪いんだけど缶コーヒーを買ってくんねえか?」
「え」
「俺達は財布を車に置いてきて金がねえんだよ。」
S君は自動販売機の微糖入りコーヒーのサンプルを指差した。
「後で金は払うから立て替えてくれ。」
S君の口調はやや高圧的だった。僕は寝惚けたままフラフラと起き上がり、ポケットから財布を取り出してコーヒーを購入した。S君は「悪りいな」と言って受け口から缶を取り出した。S君は「俺達」と話したので金髪の分も買わなければならないのだろうか。そう考えているうちに金髪が前に出てきた。
「俺も、同じのな。」
金髪のガムを噛む不快な音が耳障りだった。僕は惨めな気持ちを押し殺して、自動販売機のボタンを押した。すると金髪は「お前が取り出せ」と言わんばかりに右手を差し出した。僕は腰を屈めて受けから缶を取り出し、屈辱で眠気が一気に覚めるのを感じながら金髪に手渡した。二人はコーヒーの蓋を開けると礼も言わず立ち去った。
休憩が終わり、作業は再開となった。使用した清掃用具を出口付近に集めてから、フロアにゴミの取り忘れがないか歩いて確認していると、社長とS君が重要な工程に入っていた。社長は剥離剤の入ったポリッシャーで床を研磨して行き、直ぐ後ろからS君が猛烈な速さで「かっぽぎ」を行う。S君は床に溜まった廃液をあっという間に塵取りに集めていく。頭にタオルを鉢巻のように巻いて作業をしており職人のようだ。廃液はほとんど残らず、研磨された床は見事に薄い光沢を放つ。僕は社員とアルバイトの能力の差を見せつけられた気がした。
一方、金髪は僕と同様にこのバイトを始めて一ヶ月程度であり、作業に慣れていない。ヘラで削り落とし切れていない粘着物がいくつもあり、埃も目立ち、S君から何度も注意されていた。S君は仕事になると容赦がなく、不備があれば金髪も僕も怒鳴りつけた。金髪は一時間の中で何度もトイレに行き、戻るまでに時間がかかる。社長もS君も金髪が仕事を怠けて休んでいることをわかっているようだった。
その日の作業が終わり四人はワンボックスに乗り込んだ。僕はS君と金髪に缶コーヒー代を貸していたことを思い出した。二人は車に戻れば財布があるので僕が立て替えた金額を返すと約束したはずだ。だが、二人は煙草を吸いながら談笑に耽っており代金を返す気配は一向にない。僕は怖くて自分から言い出すことができない。一度このことが気になり始めると他のことが考えられなくなってきた。何故、二人は返してくれないのだろう。やはり僕から言い出した方がよいのだろうか。しかし、僕から言い出すと何をされるかわからない。やはり、自分から返金を要求することは避けよう。とにかく二人が怖いのだ。だか、心にモヤモヤとしたものが残る。こちらが金を貸しているのに何故こうまで悩まなければならないのだろうか。その一方で、わずか二百円弱の金額なのだ、とも思う。こんな小銭で思い詰めることが情けない。それでも、金額の大小に関係なく貸した金を返してくれないことは、不愉快だった。
「松尾、どうした。ぼんやりして。気分でも悪いのか?」
運転している社長が不意に声をかけてきた。
「あ、いえ、別に大丈夫です。」
咄嗟に僕はバックミラー越しに二人を一瞥した。二人とも居眠りをしている。
「何かあったか?」
「あのう。」
僕は喉まで出てきた缶コーヒー代の話を引っ込めた。もし、社長が二人に注意をしたら、告げ口をしたとして後で咎められるかもしれない。また、社長に伝えてもヘラの件のようにそんなことは自分で解決しろと断られるとも考えられる。僕は我慢した。
車は事務所に到着して、仕事は終わった。結局、二人は返金してくれなかった。僕は忘れようとしたが、忘れることができず小さいことで悩む自分を責めた。
翌週のアルバイトも同じメンバーだった。現場は市街地にある医療器具を製造する会社の本社ビルで十階建。これまで経験した現場の中で一番新しく床は汚れていない。こんなに綺麗な状態で何故清掃作業を依頼するのか疑問に思う。おそらく毎日、社員が床の清掃を怠らないのだろう。
「まあ、金のある会社なんで汚れていなくても俺達みたいな業者と契約して三ヶ月に一回は清掃させるんだよ。」
柄に巻きつけているポリッシャーの電気コードを解きながら社長が教えてくれた。
「よくわかんねえけど、医療器具は少しでも異物が入ると人体に影響を与える可能性があるから、いつも社内を清潔にしておく必要があるあらしい。会社のイメージとかもあるんだろうな。」
今回の現場では床が綺麗なので前工程でヘラを使う必要がなく、掃き掃除程度で済み、作業が早く進んだ。しかし、一階から十階まで何度も同じ工程を繰り返すことになり、どの階も同じような机や棚の配置なので、四階まで進んだ頃には飽きてくたびれてしまった。
「おい、松尾、これを見ろっ。」
モップ掛けをしていると、S君が僕の尻を蹴り上げた。僕は衝撃で前のめりになり手を床についた。見上げるとS君は右手に白色で太い紐のような物を摘んでいる。よく見ると、モップから抜けた繊維である。
「お前が落ちているのを見落としたんだろ。ワックスかける前に気付いたんだ。気を付けろっ。」
「ごめんなさい。」
僕はS君に頭を下げた。S君は今日も頭にタオルを巻いている。S君によると床にゴミが付着したままワックスを塗布すると床に張りついてしまい、剥離するまで当然除去することができなくなる。清掃業者としは恥ずべき見落としになるらしい。S君は仕事に対して厳格であり、身勝手に暴力を振るい先生や生徒を困らせていた頃と比べると随分大人びて見えた。
正午になり昼食を摂ることになった。四人は七階にある社員用の食堂で弁当を食べた。百畳程の大ホールに十人掛けの長いテーブルが五十台整然と並ぶ。奥にはカウンターの先に厨房があり、窓側には自動販売機が設置してある。僕は食べ終えると、陽光が差し込む窓際のテーブルに移り、イヤホンを両耳に嵌めて携帯ラジオを聴いた。夏の強い日差しが背中を射したが、食堂は冷房が効いているので涼しい。僕は両腕を枕にして眼を閉じた。昼休みにこうして陽光を浴びながら何をするでもなくぼんやりしていると、中学生の頃に川島さんと過ごした休み時間を思い出す。川島さんは元気にしているのだろうか。もう一度、葉書を送ってみようか。僕はのんびりと考えながら浅い眠りに入った。
「おいっ。」
僕は足を蹴飛ばされて起きた。驚いて立ち上がると金髪だった。人を小馬鹿にしたような目つきでガムを噛みながら僕を見ている。社長とS君はいない。大きな食堂の中で金髪の嫌らしい狐目が不気味に光っている。
「コーヒー買ってくれよ。」
「え。」
僕は唾を飲み込んだ。空調の音が耳障りにはっきりと聞こえる。
「また財布を車に置いてきちまったんだ。」
金髪は薄ら笑いを浮かべた。僕のつま先から頭までジロリと眺めているのがわかる。僕はラジオの電源を切り、イヤホンをポケットにしまった。おそらく、金髪は財布を忘れておらずポケットに入っているのだろう、と僕は思った。
「でも、昨日のコーヒー代がまだ…。」
言いかけたところで金髪は声を荒げた。
「後で車に戻ったらまとめて払うから。」
声の大きさに僕は怯えた。金髪は僕の怖がる様子を見て、威圧するように一歩進んだ。
「いや、でも…。」
僕が俯くと同時に「バンッ。」という音がした。金髪がテーブルを叩いたのだ。僕が驚いて後ずさりすると、金髪は椅子を蹴り上げた。僕は恐怖で顏が引きつった。
「いいから早く出せっ。」
金髪は怒鳴った。広い食堂の中で自動販売機がグオングオンと稼働音を立てている。僕は冷や汗をかき、手足がブルブルと震えた。そして、財布から直ぐに小銭を取り出して、金髪に手渡した。金髪は右手に安っぽいビーズの腕輪を嵌めている。金髪は僕から小銭を受け取ると、口笛を吹きながら自動販売機で缶コーヒーを購入し、意気揚々と出て行った。
僕は金髪の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、もしかすると僕はあいつのカモにされているのではないのだろうかと訝った。何も言い返せない自らに憤ったが、机や椅子を叩かれたり、脅されたりすると、どう対処してよいかわからず委縮してしまうのだ。こうした経験に全く慣れておらず怖気づくだけの自分が不甲斐なかった。
夕方、作業が終わり四人は車に乗り込んだが、金髪はコーヒー代を返してくれなかった。後部座席で、何もなかったようにS君とふざけている。僕は助手席に座り奥歯を噛みながら、明日も同じことが繰り返されたらどうしようかと懸念した。後二〜三日働けば目標としていた二万円を達成できる。当初は問題がなければ予算確保後もアルバイトを継続しようと考えていたが、金髪に強請られるのが嫌なので辞める決心を固めた。だか、あと数日のアルバイトで毎日金髪から半ば脅されてお金を取られることは耐えられない。僕は腕を組んで思案した。ふと、車のダッシュボードを見ると社長の革製の財布が無造作に置いてある。それを見て僕は思いついた。同じように財布を車内に置いて作業をすれば良いのだ。そうすればどう脅されても無い財布から小銭を出すことは不可能である。金髪は諦めるだろう。だが、財布のような貴重品を車内に置きっぱなしにしても大丈夫なのだろうか?金髪が忘れ物を取りに車内を開けた時に僕の財布を見つけたら盗みかねない。本当にやりかねない輩なのだ。このため車内に保管する案は取り消した。
翌週は広さが体育館の数倍もある機械部品製造工場が作業現場だった。プラスチックの部品を成形する機械や原料を搬送するコンベアが一つのフロアに整然と並んでいる。天井の高さは二十メートル程度ある。今回、床は汚くて油やプラスチックの小さな粒が落ちている。空調が稼働しておらず、工場内は蒸し風呂のように暑く、作業する前から汗が全身から噴き出してきた。
「社長、先に油を拭かねえと駄目ですね。」
「ああ、やっかいだな。」
S君と社長の会話からどうやら今回の現場が面倒であることがわかった。
まず、前工程のゴミ取り作業が進まない。油にゴミがへばりついて塵取りに入らないのだ。このため、油の付着が酷い床はその都度雑巾やモップで拭いていくことにした。一手間増えるので時間がかかる。更に、拭き取る度に油が雑巾やモップに付着するので小まめに洗わなければならない。作業は捗らなかった。真夏の容赦のない日射しが工場を焼くように照らすので、屋内は酷く蒸している。僕は何度もハンカチで額を拭ったが、拭いきれない汗が雨水のようにボタボタと床に落ちる。プラスチック原料の臭いが鼻を刺し、気分が悪くなった。
「松尾、ちんたらやってんじゃねえぞっ。さっさと拭かねえと次の作業に移れねえだろがっ。」
S君の怒声が飛ぶ。しかし、拭き残しがあるとそれはそれで罵倒されるので僕は慎重にならざるお得ない。
「松尾、ここを見ろっ。油が残ってんじゃねえかっ。しっかり拭けよっ。」
S君は屈んで雑巾がけをする僕の尻を蹴り上げた。僕はS君に怒鳴られる度にすみません、すみませんと頭を下げた。何度も立ち上がったり、屈んだりを繰り返すので足腰が痛く、目眩がする。怒声と暑さとプラスチックの臭いで作業に集中できない。作業が捗らずS君は苛立っている。
「おい、お前ら、あいつどこに行ったか知っているか?」
業務用洗剤が入る十八リットル缶を両手に持った社長が、僕とS君が作業をしているフロアに入ってきた。「あいつ」とは金髪のことである。
「えっ。随分前に『便所行く。』つって出て行きましたけど。まだ戻って来ねえんすか?」
S君は驚いた様子で答えた。
「何処にもいねえんだよ。あいつ、ヘラの取り残しが結構あってよ。クソっ。」
社長は苛立ちを隠さない。S君は困った顏で頭を掻いている。
「あいつ大丈夫なのか?お前の紹介で入れたんだぞ。サボってばかりじゃねえのかっ。」
社長は怒りの鉾先をS君に向けた。
「すみませんっ。きつく言っときます。」
正午になり休憩に入った。僕は金髪を避けるためにコンビニで購入した弁当を持って工場の外に出た。工場の周囲は田畑で駐車場の端に植えてあるポプラから蝉のけたたましい鳴き声が聞こえてくる。駐車場のアスファルトを蟻が行く宛てのないようにウロウロと這っている。
僕は日陰ができている裏手の北側に回った。ここなら幾分か涼しいだろうし、金髪に発見されないだろう。僕はアスファルトに腰を下ろし竹輪と揚げた鮭、金平牛蒡が盛りつけられた海苔弁当を食べ始めた。海苔と白米の間に鰹節が入っていて香ばしい。前方には田圃が一面に広がり、畦道と工場の間を用水路が通る。耳を澄ますとせせらぎが聞こえる。空は深く青く、遠くに入道雲が見える。田圃の稲穂は自らの重みで垂れ下がり、微かな風で穂先が擦れ合っている。僕は弁当を食べ終えると工場の壁に寄りかかり、イヤホンを両耳にはめて携帯ラジオを聴き始めた。疲労で眠くなってきたが、僕は金髪を警戒して午睡を避けることにした。僕は穂の揺らぎをぼんやりと眺めながら川島さんのことをふと思い出した。川島さんが放課後に父親の手伝いで通っていた工場は、今僕が清掃している工場と同じような雰囲気だったのだろうか。いや、おそらく川島さんが通っていた工場はもっと小規模かもしれない。川島さんからの便りは未だにない。今夜にでももう一度葉書を書いてみようかと思う。
昼の休憩が終わり清掃作業は再開された。僕は金髪に集られなかったので安堵した。フロアに戻ると金髪が社長とS君から叱責されていた。おそらく、何度もトイレに行っては戻ってこないため注意されたのだろう。
午後の作業はポリッシャーによる研磨と「かっぽぎ」、その後工程のモップ掛け、ワックス塗布である。僕と金髪はモップ掛けを担当して、他の作業を社長とS君が手掛けた。社長とS君の息はピタリと合っており、社長のポリッシャー作業の後からS君がスクイジーで素早く汚水を塵取りに集めていく。S君はスクイジーで一ヶ所に集めた汚水が床の上で行き場を失い揺らぎながら僅かな傾斜に流れようとする刹那に素早くスクイジーで塵取りに入れていく。その早さに僕は舌を巻いた。一方、僕と金髪のモップ掛けは緩慢で、拭き残しも多く、社長とS君から何度も注意された。
六時近くになり、ようやく最後のワックス塗布作業が終わった。僕は社長の指示で清掃用具を車の近くに移していた。西の空は落陽で茜色に染まる中、むさ苦しい暑さはしっかりと残っている。剥離剤が入っていた空の十八リットル缶にブラシや石鹸等を入れて車のトランク前まで運んでいると、肩を叩かれた。振り返ると金髪だったので僕はぎょっとした。社長とS君に厳しく叱責されていたためか、明らかに不機嫌な顔付きである。社長とS君は仕上げの最終確認でフロアの床を細かく点検しており、近くにいない。そう思った途端、僕は後退りした。
「なあ、小銭貸してくれよ。」
金髪は駐車場の隅にある自動販売機の方へ顎を向けた。残忍な細目が夕日で不気味に光っている。
僕は目眩がした。脇の下に滲んでいた汗が腰に滴り落ちるのを感じる。暑さと疲労で気力がない。汗が額に噴き出して、瞳に流れているが、拭う気にもなれない。金髪はいつもの意地悪く貪欲な笑みを浮かべ始めた。
「ごめん。今日はお金を持っていないんだよ。」
僕は金髪と目が合わないように、アスファルトを這う蟻を見つめながら、絞り出しように答えた。金髪は西日を背にしており、僕はその長い影が不気味に僕の足元まで伸びていることに気付いた。
「嘘つくな。朝コンビニで弁当買ってただろう。」
金髪はガムを噛みながらゆっくりと一歩前に出た。金髪の細い体は蛇のように気味が悪い。僕はこの一週間で何度も検討した回避方法を思い描き、声に出した。
「弁当を買ったお金が全部なんだよ。もう、本当に無いんだよ。」
僕は心臓の鼓動が大きくなるのを感じながら、恐怖で顔を上げることができなかった。金髪が僕の回答に対してどのような反応を示すのか怖いのだ。金髪の長い影が小刻みに動いている。おそらく上半身を左右に動かしているのだろう。
「本当にないんだな。」
金髪は詰め寄った。僕は思わず顏を上げた。金髪は瞬きせず僕の目を睨めつけている。そして、痰をアスファルトに吐き出すと、煙草に火を点けた。僕は呼吸を整えた。
「うん。ないんだよ。」
僕はか細い声で答えた。すると金髪はすっと前進して僕の胸ぐらを掴み煙草の煙を僕に吹きかけた。
「何するんですか。」
僕は思わず叫んだ。
「『え』じゃねえよ。本当にないんだったら、お前の体を調べるんだよ。」
金髪は僕が着ているつなぎの左側のポケットに手を突っ込んだ。
「ちょ、何するんですか。止めて下さい。」
僕はポケットを弄る金髪の手を振り解いた。と、同時に「ぱんっ」という乾いた音がして、目眩を覚えた。金髪が右手で僕の左の頬を引っ叩いたのだ。僕はS君に尻を蹴り上げられることはアルバイトで何度もあったが、顏を叩かれるのは記憶にある限りこれが初めてである。頬が次第に赤く腫れ上がると共に、恐怖が全身を覆った。
「じっとしてろ。次はマジで殴るからな。」
金髪は低い声で脅した。僕は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。膝がぶるぶると震えて、唇の乾きを感じる。僕は蛇の餌食になったのだ。金髪は慣れた手付きで僕のつなぎの後ろのポケットに手を突っ込み荒々しく調べていった。おそらくこうやって弱者から金を巻き上げてきたのだろう。ポケットが深いため手首まで入れないと奥まで届かないのだが、金髪は抜け目なく蛇が木を伝うように隈無く小銭を探した。金髪が手を抜くとポケットが裏返って外に出る。
「ちっ。」
金髪は何も見つからないことがわかると、煙草を投げ捨て、痰を吐いた。金髪が次のポケットを調べている間、僕は反撃できない不甲斐無さと金髪の暴力に対する恐怖とが入り混じり、立ち尽くした。服の間から金髪の生温かい手の感触が不気味に伝わる。
「ん、何これ。」
僕の胸ポケットに手を入れた金髪が動きを止めた。金髪が取り出したのは携帯ラジオだった。接続したままの黒色のイヤホンがダラリと垂れ下がっている。金髪は最初それが何かわからないようで裏返したり、かざしてみたりしたが、目的の財布でないことがわかると、アスファルトに叩きつけた。
「あっ。」
携帯ラジオはコンクリート製のタイヤ止めの角にぶつかり、ケースが砕け散った。中から細かい部品が露出し、夕日を浴びて濁った光沢を放つ。そのありさまを見た瞬間、僕は金髪へ無我夢中で体当たりをした。金髪は自動販売機に背中からぶつかり駐車場の上に仰向けになって倒れた。僕は金髪に覆いかぶさるように馬乗りの状態になった。金髪は何が起きたのか理解できていないようで、細い目を何度も瞬かせている。僕は力の限り拳を金髪の顎めがけて振りおろした。甲高い悲鳴が上がった。そして、両手で僕の攻撃を防御しようとした。
「わーっ。」
僕は叫びながら夢中で金髪を殴りつけた。金髪は両手で防御しながら必死でもがく。し今度は金髪の両手をすり抜けて僕の左拳が金髪の鼻に命中した。
「いてーっ。」
金髪は大声を上げて全身を揺すった。その弾みで馬乗りになっていた僕は振り落とされた。僕はすかさず立ち上がり、うつ伏せになって鼻を押さえている金髪の頭を右足で思い切り踏みつけた。金髪はアスファルトに顔面を直撃した。その時、僕は金髪が右手に何かを持っていることに気付いた。顔を上げた金髪の鼻から血が流れ落ちている。金髪は「わーっ」と叫んでしゃがんだままの状態で右手を振り回した。何かが僕の左膝に当たり、鋭い痛みを感じる。僕はそれでも蹴りを止めなかった。僕の足は金髪の肩や胸を掠めたが命中はしない。金髪が右手を振り回しながら後退した時、右手に握る物がヘラであることがわかった。おそらく、僕から奪ったヘラだろう。金髪は最初に崩れ落ちた自動販売機まで下った。僕はヘラに当たらないように距離を保ちつつ、駐車場のタイヤ止めの横に置いていた清掃用具を入れた空の十八リットル缶を持ち上げて顔をめがけて投げつけた。金髪は両腕で缶を防いだ。缶はカラカラという音を立てて転がり清掃用具がぶちまかれる。金髪が両手で顔を庇っていたので、腹部ががら空きになり、僕はすかさず腹に蹴りを食らわした。
「うーっ。」
金髪は縮こまって両手で腹を押さえた。
「お前等、何やってんだっ。」
その時、社長とS君が工場から飛び出してきた。二人は忽ち僕と金髪の間に入り、S君は僕を後ろから両手で抑えつけた。
「おい、こいつ血が出てんぞ。」
蹲っている金髪の顔を覗き込んだ社長が驚いた。
「松尾、どうしたんだ?何があったんだ?」
S君は僕を抑えつけたまま問い質した。
「ふー、ふー、ふー。」
僕は興奮と疲労に緊張と怒りが重なり言葉を発することができない。息苦しくて辛い。僕は体を捻ったり、よじったりしてS君の拘束から抜け出そうともがいた。
「松尾、まず落ち着け。」
S君は僕の尻に膝蹴りをした。僕は暴れることを止めた。
「こいつがしかけたんだっ。こいつが殴ったんだ。」
金髪が鼻血を右手で拭いながら叫んだ。僕はアスファルトの上で砕け散ったラジオを見た。悔しいが、興奮していて言葉が出てこない。
「おい、松尾、本当なのか?お前が手を出したのか?」
「ふっ、ふー、ふ、ふー、うー、うう。」
社長の問いに、僕は鼻息を荒くするだけで答えることができない。感情が理性を覆いつくし、金髪への怒りと自らへのもどかしさで涙が出てきた。
「ラジオ、ラジオ…。金、金を、うう、うー。」
僕は絞り出すように答えようとした。
「ん、ラジオ?ラジオがどうしたんだ?」
S君が僕に聞き直した。僕を拘束するS君の力が弱まる。ふと、割れたラジオの筐体が視界に入り再び怒りが込み上げてきた。僕はS君の両腕を振り解き、金髪に飛び掛かった。金髪の怪我の具合を見ている社長の横から金髪の右の頬を蹴り飛ばした。金髪は吹っ飛んだ。
「松尾っ。」
今度はS君が僕を殴り飛ばした。僕はアスファルトに崩れ落ちたが興奮しており、今度は痛みをほとんど感じなかった。だが、腰が抜けたように立ち上がることができない。顎を殴られて、軽い脳振盪が起きているようだった。
「ラジオってこれのことか。」
社長が壊れたラジオに気付いた。
S君は倒れている僕をもう一度殴りつけた。S君の拳は大きく、重たい鈍器で打たれたようだった。僕は完全に戦意を喪失した。
「これはラジオか?お前のか?壊されたのか?」
社長が聞き直した。僕の目から再び涙が溢れ出てきた。
「知らねえよ。手を出したのはこいつですよ。俺、被害者ですよ。コイツまじでやばい奴ですよ。」
金髪が反発した。
「お前は黙ってろ。」
社長が遮った。
「何でですか、何で俺が黙らないといけないんすか。俺は何もしていない。松尾が殴ってきたんすよ。この血、見てくださいよ。卑怯な奴だ。」
「お前は黙ってろつったろ。後で話があるからな。」
「何で、何でですか。何で俺なんすか。」
金髪は食い下がる。金髪と社長が言い合っている間、僕は悔しくて涙が止まらず、視界がぼやけてきた。
「松尾、何もしねえから落ち着いて答えろ。何でこいつと揉めたんだ。」
S君は僕をうつ伏せにしてから僕の両腕を後ろに回して抑えつけながら聞いた。
「あれ、お前、血が出ているぞ。」
僕をうつ伏せにした時、アスファルトの駐車場の白線に血が付着していることに気付いたようだ。僕も自分の出血に初めて気づいた。金髪にヘラで切られたつなぎの右膝部分は裂けて、皮膚が真一文字に切れており、血が垂れている。それでも、興奮が大きくて痛みはほとんど感じない。
「ふー、ふー、金を貸せと言われて…。」
僕は泣きながら答えた。
「金?それで?」
「ふー、ふー、ポケットに手を入れられて。」
「そうか。それから。」
「ううう、ラジオを、ラジオを壊された。ああ、ラジオ、ふー、ラジオ、ラジオ。」
僕は幼児のように泣いた。日中に夏の激しい日差しで熱せられたアスファルトから熱気が全身に伝わってきている。涙がボタボタと白線に落ちる。S君に抑えつけられたときに顔面をアスファルトに押し付けられたので、砂が唇や頬、額に付着して痒い。
「ああ、そうか。何となくわかった。社長、どうします。」
S君は腕の力を弱めて社長に顔を向けた。
「そうだな、取り敢えず、松尾は帰らせよう。おい松尾、聞いているか?お前は先に帰れ。この前の道を西に歩いてくと国道にぶつかる。そしたら左に行け。暫く歩くと駅だから。悪いけど電車で帰ってくれ。」
僕はゆっくりと西の空を見た。日が沈みかけている。遠くで椋鳥の群れが鳴き声を上げながら飛んでいる。
「松尾、立てるか、ゆっくりでいいぞ。」
S君は僕を立たせてくれた。ふらふらと立ち上がるとつなぎに付着した砂粒がボロボロと落ちる。心配した社長がもう一度、駅までの道順を教えてくれた。S君が車から僕のバックパックを持ってきた。
「納得いかねえよ。何でこいつを帰すんすか。警察呼べよっ。」
つなぎの袖で鼻血を拭きながら金髪が抗議した。
「警察?お前、マジで言ってんのか?」
社長が金髪の襟を掴んだ時、工場から年配の警備員が出てきた。
「どうかしましたか。何かありました?」
警備員は驚いた様子で怪我をしている金髪と僕を交互に見た。
「あ、どうもすみません。何でもありません。それより、こいつですよ。本当に申し訳ございません。何とお詫びしたらよいか。」
社長は急いで立ち上がり、頭を何度も下げた。握っていた金髪の襟を引っ張り、金髪を強引に立たせた。
「痛てえな。何すんだよ。」
金髪は抵抗したが社長の力は強く襟を揺さぶってその足掻きを止めた。
「お前、わかってんだろ。」
「何だよ、知らねえよ。」
警備員が二人に近づいてきた。
「取り敢えず事務室に行きましょう。映像で本人に確認してもらって、警察への連絡はそれからかな。」
警備員はやや威圧的な口調で金髪を見ながら話した。その時、金髪の顔が引きつるのが見えた。S君にバックパックを渡された僕は社長と金髪と警備員が工場に向かって歩いて行くのを背にして、足を引き摺りながら工場の門へ向かった。S君が後ろから何か言ったが振り向かずに黄昏に染まる小道を国道に向かって歩き出した。
僕はぼんやりと殆ど惰性のように歩きながら、頬の乾きかけた涙を拭った。初めての殴り合いの後は全身が重く、鈍く、だるい。一人になると興奮が収まり疲労があっという間に出てきた。時間が経過するにつれて、金髪に切り付けられた膝やS君に殴られた顔が痛み始めた。僕は一度足を止めて右膝の裾をたくし上げた。五センチメートル程の切り傷から滴り落ちた血は脛のあたりで固まっている。泣き腫らした後の乾いた目脂で視界が悪い。田圃から虫や蛙の鳴き声が喧しく聞こえてくる。湿度が高く、夕凪で暑苦しい。周囲は果てしなく稲穂の海が広がる。遠くの山に日が沈み、真っ赤な残光が地上を鮮やかに彩っている。視界の奥に数台の車の往来を望むことができた。信号が点滅している。おそらくあれが社長の話した国道だろう。僕は信号に向かって足を引き摺りながらのそのそと歩いた。空には上弦の月が見えた。
僕はぼんやりと今後のことを考えた。アルバイトを継続する意思はなかったが、今まで働いた分の給与を受け取らなければならない。社長は支払ってくれるだろうか。僕は金髪に怪我を負わせたのだ。この責任はどうなるのだろう。金髪は僕に慰謝料を請求してくるかもしれない。金髪は警察を呼べと叫んでいた。様々な不安が頭を過る。
社長の説明通り国道に出ると左折して二十分程進んだところで無人駅に到着した。僕は靴底から隠しておいたビニールの小袋を取り出した。金髪の恐喝対策として中に小銭を隠しておいたのだ。
乗り継ぎが悪く二十一時頃に帰宅すると母親が心配して玄関まで出てきた。僕は疲労困憊で帰宅が遅くなった理由を説明する気力がない。気力があっても説明したくもない。母親は怪我には気づいていなかった。靴を脱ぐと、疲れているのでもう寝るとだけ伝えて自分の部屋のある二階に上がった。母親は何か言いたそうだったが、階段を上がる僕の背をじっと見つめるだけで、何も言わなかった。
部屋に入ると畳の上に突っ伏してそのまま深い眠りに就いてしまった。意識が無くなる前に、そういえば川島さんに葉書を書く筈だったと思い起こしたが、体は動かなかった。
翌日、社長から電話があり、翌週に事務所へ来ることができないか聞かれた。僕はアルバイトなのか先日の一件に対する始末についての話し合いなのか判断しかねたが、前者を前提に答えた。
「すみません。もう無理です。辞めます。」
受話器を持つ手は筋肉痛で震えた。全身が痛い。
「わかった、わかった。取り敢えず給料を払うから来てくれよ。」
僕は「給料」という単語にはっとした。これまで働いた分の賃金を支払ってくれるらしい。月末締めの月末支払いという条件だったことを思い出す。仕事中金髪に怪我を負わせたことは不問なのだろうか。僕はそのことについては触れず、「わかりました。」と答えて電話を切った。
翌週、僕は事務所に向かった。道中、自転車を漕ぎながら、もし事務所に金髪がいたらどうしようかと心配になった。僕は金髪に謝罪すべきなのだろうか。怪我の治療費を請求されたらどうしよう。給与から天引きされるかもしれない。あれこれと考えを巡らす。畦道の端に何本もの向日葵が太陽に向かって僕の背丈よりも高く伸びている。
事務所に到着して、恐る恐る扉を開けると社長は事務机で伝票の処理をしており、S君は清掃用具の手入れをしていた。僕は洗濯したつなぎをバックパックから取り出して社長に返却すると共に、あらためて辞意を伝えた。
「まあ、座れよ。はい、これ。」
社長は笑って机の引き出しから長方形の茶封筒を取り出し、僕に渡した。僕にとって初めての給料である。外からは当然中身がわからず、封筒の厚みからも予想がつかない。労働時間と時給から計算すればわかることなのだが何時間働いたのか覚えていない。僕は震える手で茶封筒を受け取るとズボンのポケットに突っ込んだ。直ぐにでもトイレの個室に入って封を切りたいという衝動を必死で抑える。社長は薄笑いを浮かべてその様子を見ていた。
「なあ、松尾、もう少しバイトを続けてくんねえかな。」
僕は突っ立ったまま社長の顔を見た。よく見ると白髪が所々に見えた。社長は僕が金髪を殴ったことを咎める様子がない。僕は重労働ですっかり荒れた社長の手に視線を移して少し考えた。
「やっぱり無理です。もう、あいつに会いたくないです。怖いんです。」
僕がゆっくり答えると、社長は作業着の胸ポケットから煙草を取り出して火を点けた。煙草を深く吸い込み黄ばんだ天井に向かって煙を吐く。煙はエアコンの風でふわりと広がる。社長はクスっと笑った。
「ああ、安心しろ。あいつはもう来ないよ。クビだ。」
「えっ。」
社長は両足を机に載せた。
「まあ、お前に言うことじゃないけど、あいつな、現場に行く度にな、色んな所の事務室に入っては机の中から小銭を盗んでやがったんだよ。」
「なっ。本当ですか。」
社長は溜息を吐いた。机には伝票が散らかり、丸い銀の灰皿には吸い殻が積もっている。
「いや、まいったぜ。んでな、お前とやり合った現場ではな、警備員が常駐していてそこら中に監視カメラが付いていたんだよ。でけえ会社だからそういうことをするんだ。んでな、あいつが片っ端から机の引き出しを開けて小銭を盗んでいるところがばっちり映っていて、警備員がモニターで全部見てたんだよ。」
僕は金髪が仕事中にトイレに行くといって頻繁にフロアから出ていくことを社長やS君が訝しんでいたことを思い出した。
「そんでよ。鍵がかかった引き出しはヘラを使ってこじ開けてやがったんだよ。まじでこそ泥じゃねえか。」
社長はやや興奮気味に話した。僕は金髪が僕から金属のヘラを取り上げた理由を理解した。
「まあ、色々問い詰めて最後には全部白状したよ。全部かはわからないけど。それでだな、お前がぶち切れた理由もある程度わかったから。」
社長は灰皿を手前に移した。
「治療費は…。僕が殴ってあいつは血が…。」
社長は煙草の灰を灰皿にぽんぽんと落として笑った。
「松尾、お前は馬鹿か?そんなもんあいつが請求してきたら俺はあいつを警察に突き出すぜ。だからチャラだ。お前もこれで少しは安心したろ。だから、お前の切られた傷も我慢してくれよな。」
僕は膝から崩れ落ちそうになるくらい安堵した。あの狡猾で憎たらしい金髪と金輪際会わなくて済む。初めての給与よりも嬉しくて飛び上がりそうになった。僕の強張った顔が綻ぶのを社長はにやにやしながら見ていた。
「だから、もう少しバイトを続けてくれないか。人手が足りねえんだよ。」
僕は喜んで継続すると伝えた。
「よし、それじゃああいつに新しいつなぎを貰ってきな。洗ってくれて悪いんだけどこれはもう捨てるぞ。」
社長は顎をS君の方にぐいと向けた。
S君は数種類の業務用洗剤の在庫を数えてはA四判の用紙に何かを記入している。僕は何と声をかけてよいかわからずS君の後ろで佇んでいた。だが、S君は社長と僕の会話と聞いていたようだった。
「ほら、これ、お前は確かLサイズだろう。」
S君はくるりと振り返ると奥の棚から新しいつなぎを持ってきてくれた。実はこれまでMサイズを着ていたのだが洗濯する度に縮んで小さくなりきつくなっていたのでLサイズに変更できて良いと考えた。S君は在庫確認を再開した。
「あのう、この前はごめんなさい。」
僕は怖じ怖じと謝罪した。するとS君は作業を中断して、僕の顔をじっと見た。僕は困惑した。
「別にいいよ。それと…。」
S君はポケットから財布を取り出し、ぶっきらぼうに小銭を僕に突き出した。
「これは…。」
「あん?前にお前から借りた缶コーヒー代だろ?悪かったな。忘れてたんだ。」
僕は急いで受け取った。実際に貸した金額には少し足りなかったが黙っていた。貸した金を返してくれるという本来当たり前の行為が嬉しかったのだ。
「それと、ラジオを壊されたみてえだけど、あれは諦めろよ。お前もあいつを殴ってんだから。」
S君は在庫数を記入していたボールペンを胸ポケットに入れた。
「うん、もういいよ。バイト代で新しいやつ買うから。」
僕が答えるとS君は在庫の数の再確認を始めた。
「そんなに大事なもんだったんか?」
「えっ。」
S君は僕に背を向けて作業を続ける。
「お前がぶち切れたのは驚いたぞ。中学の時から知っているけど、お前は大人しかったからな。」
僕は赤面した。確かに僕はS君のような乱暴者に小学生、中学生の頃意味もなく何度も叩かれたことがあったが反撃したことは一度もない。こうした連中には腕力では勝てないことが明白であったからだ。
「あいつはどうなったの?」
僕は金髪のことを思い切って聞いてみた。するとS君はくるりと振り返って僕を睨んだ。
「あん?知らねえよ。」
「えっ。でも友達なんでしょ?」
「ああんっ。もう関係ねえよ。あんな奴。」
「現場でお金を盗んだから?」
「ちげえよ。馬鹿かお前は。」
僕はS君と金髪の関係が良くわからなくなった。S君のこの様子では既に金髪とは縁が切れているようである。その理由は、自分の紹介した仕事先で盗みを繰り返していたからではないらしい。
「だってよ、だせえだろ、あいつ。」
「何が?」
「何がじゃねえよ。お前みたいなもやし野郎にボコられたんだぜ。くそだせえだろう。そんでよ、あの後俺に『やられたっ』って泣きついてきたんだぜ。ごみ屑以下だろ?」
S君が金髪を見限った理由がこれらしい。S君は金髪を負傷させた僕に対して仇を討つという考えは起きなかったようである。それどころか、僕に殴られた金髪をS君は心底軽蔑している様子だった。
「社長、こんなもんでどうすか。」
S君は持っていたA四判の用紙を社長に渡した。社長は背もたれに寄りかかり用紙を天井に掲げた。もう片方の手で煙草を吸った。S君は立ったままじっとその様子を見ている。
「これだと少し発注量が多すぎやしねえか。あんまり頼み過ぎると来月の支払いがきついから、気持ちもう少し減らしてくれ。あとはこんなんもんでいいんじゃねえの。」
「了解っす。」
社長が用紙を突き返すとS君は嬉しそうに答えた。
結局、僕は高校を卒業するまで清掃のアルバイトを続けた。清掃の技能は全く上達せず、三年間、「かっぽぎ」の前工程となるゴミ掃きやポリッシャーの後工程であるモップの空拭きばかり担当してきた。S君は僕の作業が遅かったり、ゴミの取り残しが見つかったりすると容赦なく僕の尻を蹴り飛ばした。しかし、S君は金髪のように金を強請るような陰湿な行為は一切行わなかった。S君は人手不足になると素行の悪そうな知人を連れて来て日雇いでアルバイトをさせることがあり、その度に僕は金髪のことを思い出して緊張した。それは杞憂に終わった。S君の知人は僕を虐めることはなかった。S君が僕にちょっかいを出さないよう忠告していたのかもしれない。真相は不明だ。わかる気もない。僕は可能な限り彼等と距離を置き、昼休みは混ざらずに現場の隅で食事を摂った。そして、買い換えた携帯のラジオを聴いていた。僕はS君とさえ三年間仲良くなることはなかった。S君も同じで積極的に話しかけることはなかった。僕は自分の尊厳をある程度認めてもらえれば、仕事のミスを理由に多少暴力を振るわれようが気にすることはなく、それで十分だった。
金髪との一件は未熟だった僕という人格の形成に深い影響を及ぼしたのだろう。十年近く後、居酒屋で先輩に指摘を受けた特定の経験によってその人の性質が作られていくという話が間違っていなければ、おそらくこの件が該当するのかもしれない。まず、僕は用人深くなった。僕は金髪から受けた屈辱、それに対する反撃、その後の金髪に対するS君の軽蔑から、これから経験するだろう社会の縮図を見た気がした。S君は時折「人間舐められたら終わりだ」と独り言のように話すことがあった。僕は初めて金髪と出会った時の自信のない謙った僕の態度が、どれだけ奴を付け上がらせたか考えるべきだったのだ。もっと毅然としていれば金髪の餌食にならずに済んだのかもしれない。だが、僕の気の弱さは生れ付きであり、三つ子の魂百までと言われるように終生変わることのない性格なのだろう。だから僕は「こいつを怒らせると怖い。」と相手に悟らせる方法を選んだ。窮鼠猫を噛むと思わせるにはどうしたらよいか。僕が感情を剥き出しにして金髪に襲いかかったのは、大切にしていたラジオを破壊されたことがきっかけだった。あの時は怒りの感情が恐怖を圧倒して金髪に一撃を負わすことができたのだ。僕は自分にある一定の限度を設けることにした。最低の尊厳を設定して、そこを超えたら怒りを爆発させることにした。だが、それでは、何をされてもある程度までは我慢をすることになり、精神的にも肉体的にも負荷が溜まる一方である。そこで、僕は他人と目が合うときや会話の中で、自信の無さの中にも、何か鋭く尖ったものを醸し出す術を作り出そうとした。それは、自分でもどうしようもないと思う細い垂れ目を時折急に鋭くしてみたり、会話の中でほんの少し口調を厳しくしたりするという程度のものだった。こうした微妙な変化で相手に「こいつは普段は大人しいが、何かあったらやばそうだぞ。」と何となく思わせようとしたのである。こうした態度が他人にどのような影響を与えたのかわからないが、意識して行うことで僕は眼つきが少し鋭くなった。
金髪との一件から暫く経った後、S君の金髪に対する幻滅について考えてみたことがあった。僕はS君の「舐められたら終わり」という言葉をもう一度思い出し、咀嚼してみた。金髪は僕に殴られた後でS君に泣きついたことで、却って侮蔑されるようになる。その前に、弱者である僕に敗れたという事実の方が効果は大きかったのかもしれない。僕は容姿と性格によって「舐められていた」のであり、金髪は自ら起こした失態によってS君からすっかり「舐められてしまった」のである。この点について僕は考えた。結果、僕は用人深くなった。自分の容姿、性格、行為によって他人からの評価が決まるのだ。当たり前のことかもしれないが僕はこの残酷な結論について身を以て経験したのである。それはアルバイトという狭い人間関係にのみ当てはまることではないと思った。僕がこれから経験するだろう職場等の共同体の中で展開される人間関係でも同じことが起きるのだろう。僕は人付き合いが苦手だ。できればずっとラジオを聴いてダラダラと日常を過ごしていきたい。だが、生きていくには働いてお金を稼ぐ必要がある。ラジオを買い換えるのにもお金が必要なのだ。僕は清掃作業のアルバイトを選択した理由の一つが、接客業のような不特定多数の人達と接する業種ではないことであったことを思い出した。それは間違った判断ではなかったと思う。ところが、僕は限られた特定の狭い人間関係の中で卑劣な金髪の標的になったのだ。飲料費を奪われ、断れば叩かれて、私物を壊された。この事実を受け入れなければならない。結局、生きていく為には働かなければならず、就労先では大小の規模の違いはあっても人間関係が存在する。人付き合いが苦手であっても、生きていくにはこの繋がりから逃れることはできないのである。いつまた金髪のような卑劣漢に遭遇するかわからない。だから、僕のような貧弱で根暗が我が身を守るには人一倍注意して生きていかなければならない。
平日は学校、休日はアルバイトという日常を繰り返す中で、次第に川島さんのことを忘れていった。何度か葉書を送ろうかと思い立つことがあったが、今日はアルバイトで疲れて億劫だから明日にしようとか、何故向こうから連絡を一度寄こさないのにこちらから連絡しなければならないのだろうか等と思い直し、止めてしまった。僕と川島さんはその程度の友人関係だったのかもしれない。と思う一方、金髪との一件を通して僕の中に芽生えつつあったあらゆる他者への疑心暗鬼が影響したのかもしれない。僕はあの件以降、自分を突き放して見つめる癖がついてしまった。悪意のある人間から標的にされないためには常にどう立ち振る舞えばよいのか考えるようになる。すると、他人が僕をどう見ているのか気になりだす。一度目は川島さんの父親と思われる男性に電話を切られたが、次に僕は根気よく葉書を送っている。これ以上僕から何をするのだろうか。川島さんから僕に連絡がないのは、僕があの人にとって連絡を取るに足らない人間だったのだろう。これ以上、僕から連絡を取ろうとするのは馬鹿らしい。僕は清掃作業中にヘラで床にこびりついたガムを削りながら考えた。
こうした猜疑心が奥底に芽生えてから、僕は愛想笑いをするようになった。それは僕の根底にある不得意な人付き合いに対して、生きていく上で避けられない人間関係の均衡を保つために自然と身に付いた手間のかからない方法だった。だが、いくら口元に笑みを浮かべても本心ではないので瞳は連動しない。だから、時折「何を考えているのかわからない奴」と思われることがあった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 1485