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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第4回   人間関係 一
「あのさあ、前からお願いしているんだけど、価格どうにかならないの?」
「はあ、一度会社に持ち帰り、検討させていただきます。」
「いや、それ何回目?一年以上経つよね。いい加減にしてくれないかな。」
「私の一存では回答できませんので上司に相談致します。申し訳ございません。」
「だったら上司を連れてこいよ。こっちはもう待てねえんだよ。松尾君、よく聞け。あんたの会社が販売する袋なんてどこからでも買えるんだ。相見積取って安いところに切り替えられんだよ。わかってんのか?」
「え、いや、しかし、三年前に大幅な値下げを実施させていただきまして、弊社としましては非常に厳しい、ほとんど利益の出ないような金額で販売させていただいているんですよ。一年前にご依頼をいただいたときは、もうこれで最後の値下げ要請だとお聞きしましたので何とか会社から特別価格での販売許可がもらえたんですよ。それが一年も経たないうちに、更に安くして下さいとおっしゃられましても…。」
「だからっ。状況が変わったんだよっ。何度も言わせんな。この馬鹿が。はっきり言うぞ。お前んとこの同業他社が毎週売り込みに来てんだよ。お前んとこの商品とほとんど同じ規格でな、安いし、納期も短いんだよ。一度、サンプルもらって、品質にも全く問題ねえんだっ。お前の会社とは付き合いが長いから穏便に頼んでんだけどな、本当だったら何も言わずに他社に切り替えてんだっ。ありがたく思えっ。」
購買担当の男はスチール製の机を蹴飛ばした。その衝撃で反対側に座っていた僕のみぞおちより少し上に机がぶつかり思わず呻き声を上げた。「どこが穏便なんだ」と思いながら次の答えを必死に考える。どうしたらこの男をある程度まで納得させることができるだろう。蛍光灯が眩しい。いや、無理だと諦めた。しかし、言い訳が必要だ。何か適当な言い訳が。
「…わかりました。あらためて必ず回答します。」
男の顔が綻ぶ。
「おお、わかったか。それじゃいつまでに回答してもらえるんだ。」
「一カ月後でいかがでしょうか。」
「ふざけんなっ。遅えんだよ。来週中にしろっ。」
この反応は織り込み済み。初めから一週間以内と回答するとおそらく二日で回答せよと捲し立てられただろう。
「しかし、私はどうやって会社に説明したらよいのでしょうか。」
「知らねえよ馬鹿っ。んなもんてめーで考えろ。」
僕は最後に何と馬鹿なことを口走ったのだろうと後悔した。肌の白い男は大柄で髪は癖毛、目が異様に細く狐のように嫌らしい。白色の作業着の袖からでっぷりとした腕が出ており、高価そうな腕時計が喰い込んでいる。商談室には仕切がなく、打ち合わせ用の机と椅子が二十セットずつ並べており、大勢の人々が商談中だ。おそらくこの男はこれまで、僕を恫喝したように来訪する営業担当を何人も震え上がらせてきたのだろう。僕は悔しいやら情けないやら気分が重くなった。もう、どうやら逃げ切ることはできないらしい。いよいよ上司に相談しなければならなくなった。僕は一礼して商談室を退室したが男はこちらを見向きもせず足早に出て行った。
外は蒸し返るような湿度と暑さで、真夏の日差しが容赦なく僕を照らした。駐車場へと向かう芝生の間のアスファルトで舗装された道を歩いていると尿意を催した。僕は小走りで守衛所裏のトイレに駆け込む。用を足して、手を洗っていると顔が入る程度の小窓があることに気付き、覗いてみると、青空の遠くに大きな積乱雲が見える。汗が背中や脇、尻に滲みワイシャツとスラックスがぐっしょりと濡れている。
僕は社用車に乗り込み、エンジンを作動させると、ラジオの音量を小さくした。守衛所で来客用の首から下げる名札のカードを返却してから、再び音量を戻した。守衛に聴かれることが恥ずかしいのだ。車は白色のライトバンで後部には営業用の商品カタログやサンプルの入った段ボールが数個積んである。付け忘れていた空調冷房の風量を急いで最大にする。暫くは熱風しか出ないが我慢だ。車を走らせて数分で次第に冷えてきた。
「…気象庁から梅雨明けの発表がありました。スタジオ屋上の気温は三十度、湿度七十五パーセントです。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。いやあ、暑いですねえ。強い日差しが窓から入ってきています。外出される方は水分補給をこまめに行い、帽子を被る等直接の日差しがあたらないようにご注意下さい…。」
僕は会社へ戻るために県道を南下した。県道は片側二車線で平地を真っ直ぐに伸びている。道沿いには自動車の販売店や修理業者、ガソリンスタンド、パチンコチェーン店、飲食店、物流倉庫などが田畑の中に点在するという景色が延々と続く。遠くに高圧電線の鉄塔が何本も見え、太い電線が遥か彼方まで伸びている。道路標識には夏の陽光を浴びて勢いよく育った蔓が絡まりついている。暫く進むとやがて断続的な渋滞に巻き込まれた。僕の前を走る砂利を積んだ大型のダンプカーに視界を遮られたため、交差点に進入したところで信号機が黄色から赤色に変わったことに気付かず、横断歩道上で僕の運転する車は止まってしまった。横断歩道を渡る人々が邪魔臭そうに僕を一瞥している。僕は視線をハンドルの下側に向けて、歩行者達と目が合わないようにしながら、帰社後に先程取引先から要求された販売価格見直しの件を、上司にどう報告しようかと考える。信号が再び青色になると焦げ茶色に日焼けをした男子高校生の漕ぐ自転車が颯爽と僕の自動車を追い越して行く。坊主頭で自動車の籠にはスポーツバッグと野球のキャッチャーグローブを載せていた。真っ白のワイシャツと日焼けした肌が若さを象徴しているようだ。僕は自分が高校生だった頃を思い出そうとしたが、部活動に励むでもなく、勉学もいま一つで何か特定の事に打ちこんだことがないことに気付いた。ダンプカーから落ちる砂埃がフロントガラスにかかり視界が悪くなる。洗浄液を噴射した上でワイパーを動かしガラスを拭いても次から次へと砂塵が飛んでくる。僕は諦めてワイパーを止めた。上司には脚色せずに言われたことをそのまま伝言板のように伝えることに決めた。
「ふざけんなっ。昨年下げたばかりじゃねえか。何でまた下げるんだ。つっぱれよっ。ななめられてんだよ。」
帰社後、取引先の要望を伝えると、開口一番で部長は僕を怒鳴りつけた。部長は浅黒い肌のでっぷりとした巨漢で体重は九十キログラムを超える。丸顔で頭を短く刈り上げ、瞳は大きく、怒ると鋭く威圧的に釣り上がる。フレームが大きな金縁眼鏡のレンズには薄紫色がかかっており、一見すると堅気とは思えない。何かあると机を叩く癖があり、気に食わないことがあると筆記用具や電卓を投げつけることもある。
「はい、私もそう思いますが、競合先がより廉価で短納期の商品を売り込みにきていて、ウチが下げないと切り替えると言うんですよ。」
デスクワーク用の椅子に座り足を投げ出しながら聞いていた上司は机を叩いた。周囲の社員の事務作業の手が一瞬止まり、緊張が走っていることがわかる。
「はったりじゃねえのか?更に下げてどうするんだ。一年後にどうせまた下げろって言ってくるんだろう。きりがねえよ。」
吐き捨てるように話すと部長は右手をダラリと垂らして、左手の人差し指で机を連続的に小突き始めた。部長の机は整理整頓が行き届いている。というのも営業の担当を持たない管理職なので担当持ちの営業職のような見積書、注文書、納期回答等の書類がないため、机が散らかる要因がほとんどない。
「私もそう思います。」
「だったらもう断われよ。赤字垂れ流してまで売るつもりはねえからな。」
僕は取引先に「回答します。」と話したことを後悔した。「回答する」とはあの場の雰囲気では「値引きに応じます」という意味合いが明らかに強かった。今度は取引先にどう説明したら商品価格の引き下げが困難であるかを納得してもらえるのか考え直す必要がある。僕は部長と取引先の間で板挟み状態になっていた。こうした状況では取引先と部長とで直接話し合うしかないと思う。営業職ではよくある話かもしれない。
「あのう、一度、上司を連れてきてほしいと言われているんですけど、どうしま…。」
と言い終わらないうちに、僕の右太腿に鈍痛が走る。部長は座したまま、黒色の革靴で僕を蹴飛ばした。
「何で俺がお前のケツを拭く?担当のお前が一人で断ってこいよ。」
僕は壁に貼付してある今期の担当別売り上げ目標の縦棒グラフを横目で見つめながら考えた。この取引先は僕の担当の中では大口の部類に属しており売上に占める割合が高い。僕がどう返答するのか周囲の社員が聞き耳を立てていることがわかる。
「わかりました。私一人で行きます。」
「当たり前だろ。お前は小学生か?保護者同伴みてえなこと俺にさせんな。」
「しかし、値下げを断って本当に他社へ切り替わったら…。毎月平均百万、年間一千万円の売り上げがゼロになり…。」
再び机に拳が振り落とされた。
「だったらてめえが新しい客見つけてきて、百万取り戻せばいいだろうかっ。それが営業だろうっ。」
商品の平均販売単価から考えると毎月百万円の売り上げを立てられる取引先を新規で開拓することは容易でない。しかし、これ以上何かを話しても激高するだけなので僕ははいとだけ答えて自分の席に戻った。
席に戻ると、隣で事務処理作業を行っている先輩が小声で話しかけてきた。
「おい松尾。今日仕事終わったら一杯行かないか?話しがあるんだ。」
先輩から酒の誘いを受けたことは度々あるが「話したいことがある」という含みは初めてなので少し気になった。事務所には入り口から八台の事務机が2台ずつ長方形に並んでおり一番奥の上座側に部長の席がある。下座側から僕、先輩が順に座っており、部長に気付かれないように僕は頭を屈めて答えた。
「いいですよ。何かあったんですか。」
先輩は僕に顔を近づけた。
「後で話すから、な。」
その時、部長が大声で叫んだ。
「よし、お前等、四時になったぞっ。ゴールデンタイムだっ。」
僕等営業職は直ちにそれぞれの事務机の引き出しからA四判の「新規開拓一覧」と題した用紙を取り出す。部長が作成した所謂営業用の電話帳である。横書きで企業名、住所、電話番号、従業員規模が地域別に羅列してありその数は営業一人当たり三百社程度。五頁に上る。
「それでは、始めっ。」
僕達社員は一斉にそれぞれの事務机に備えつけられた固定電話の受話器を取った。
「もしもし、武森化学の松尾と申します。ご多忙の中、まことに申し訳ございません。」
「はい、何のご用でしょうか?」
初めて聞く社名に相手がやや警戒していることが低い声からわかる。
「弊社、包装用資材を販売しております。御社で扱う製品の包装や廃棄物の処理で包材を大量にご利用されているようでしたら、製品を紹介させていただきたいのですが、ご担当者様はいらっしゃいますか?」
一言一句僕は淀みなく説明した。
「…はあ、少々お待ち下さい。」
保留音が鳴る間、僕は唾液を飲み込み、ボールペンの先で小刻みにリストの企業名横をトントンと軽く叩く。大抵初回の電話では冷淡に「新規セールスお断り」と拒絶されるので、「お待ち下さい」という返答は僅かな可能性を期待できる。だが、保留音の先で断りの方法を考えたり、上司に受付を拒否するよう指示されたりしている場合があるので大きな期待は禁物。周囲から受話器を置いたり、取ったりする音が聞こえる。
「お待たせしました。」
「はい。」 
僕は直ぐに担当者の名前を記入できるよう電話番号横の余白にペンを近づけた。
「申し訳ないですが特定の業者から購入しており、お受けすることはできません。それでは失礼します。」
電話が切れると、僕はリストの企業名に定規で取り消し線を引き、余白に「既存の購入ルートがあり、新規購入不可」と乱雑に素早く記入する。間髪を容れず、下段の企業に電話をかける。
「もしもし、武森化学の松尾と申します。お忙しい中、申し訳ございません。」
「はあ?何?何の会社?何の用?」
今度は年配の女性の声。いかにも面倒臭そうな応対だ。これまでの経験から年配の女性が出ると難しいと推測する。
「弊社、包装資材の販売をしております。御社で扱う商品を包装する際に…。」
「ああ、営業の売り込みか。結構です。ウチはそういうの、一切お断りしているから。二度とかけてこないで。」
叩きつけるように電話を切ったことがわかる。電話の向こうで受話器を本体ぶつける音が耳に響く。再び企業名に取り消し線を引く。「一切お断り」という言葉を強調されたことが癪に障った。
「もしもし、武森化学の松尾と申します。包装資材の販売をしており、御社で必要な…。」
「申し訳ございません。生憎担当者が不在です。日を改めてお掛け直し下さい。」
僕は余白に小さく「不在」と記入する。毎度のことだと開き直りつつ、三件連続で担当者まで辿りつけないことに焦燥する。頭を屈めて縦に並べた書類のファイルの間から部長を覗く。部長はスポーツ新聞を読んでおり、右手の中指には金色の太い指輪を嵌めている。メッキ処理の安物だが、威圧感をより強化しているように見える。僕には意気消沈する暇がない。
「もしもし、武森化学の松尾と申します。弊社は包装資材の販売をしており…。」
「ああ、当社では間に合っています。それでは。」
「もしもし、武森化学の松尾と申します。包装資材の…。」
「ん、お宅、前にもかけてきただろう。いらないって言ったよ。しつけえな。」
おそらく部長が他の営業担当のリストに僕のリストと重複して記入した会社だろう。僕は軽く舌打ちをして、取り消し線を引く。
「要りません。」。「担当が不在です」。「よくわかりません。結構です。」。「間に合ってます」。「しつこいんだよっ。」。壁にかかる針時計を見ると電話営業終了時刻の五時まで残り十分。一時間近く電話攻勢を行い現在収穫がない。電話を掛けた企業数は二十社程。「ゴールデンタイム」とは部長が名付けた、午後四時から五時までの比較的営業先の担当が在席している可能性が高い平日金曜日の時間帯を指す。この会社では部長を除く全営業担当が「ゴールデンタイム」に一斉に新規のアポイントの電話を掛ける決まりになっている。時計の下には大きな張り紙があり「現状維持とは後退である」と太筆で横書きされている。既存の取引先との商いだけでは限界がありいずれ売上が減少するので新たな需要となる新規開拓が必要という意味なのだろう。僕は一呼吸を置いて受話器を取った。あと一、二社程度しか掛ける時間はないだろう。
「もしもし、武森化学の松尾と申します。弊社では包装資材の販売をしております。御社で商品の包装や、廃棄物の処理用として袋をご利用されているようでしたら、弊社の商品を是非とも紹介させていただきたいのですが、担当者様はいらっしゃいますか。」
言い終わらないうちに僕は次の企業の電話番号に目を通そうとした。
「わかりました。担当に代わりますので少々お待ち下さい。」
意外な反応だった。保留音「エリーゼのために」が流れる。様々な会社が採用しており、何度も聴いた後にアポイントを断られたために僕は好きでない。ここで断られたら電話をかけることができるのはあと一社だろう。「ゴールデンタイム」にアポイントが比較的取りやすいと言われている理由は曖昧だ。翌日が休みのため金曜日の夕方は気が緩む担当者が多く、新規の電話でも対応してもらいやすいという部長の憶測からである。だがこの時間帯でも三十社に電話を掛けて全くアポイントが取れないときもある。僕はこのままでは後のアポイント状況の報告で部長に痛罵されるだろう。そのとき、保留音が止まった。
「もしもし、資材部調達課の樋口と言います。電話の内容を聞きました。おたく包材を扱ってるの?」
僕は思わず顔を上げた。ボールペンで素早く所属部署及び担当者名を余白に書き込む。
「はい、特にポリエチレン系の包装が充実しております。」
「ふーん、いいねえ。単刀直入に聞くよ。安いの?」
販売価格は実際に見積を提出しなければ現在この会社が購入している包装資材と比較できないのだが、そんなことを馬鹿正直に話せばアポイントは取れない。
「はい、価格競争力には自信かあります。」
「本当だな。」
「ええ、勿論です。」
僕は何の根拠もなく自信ありげに明言した。
「よし、わかった。部品を包装するのに袋を大量に使うんだ。調達コストを少しでも抑えたいと思っていた。いつ来られる?」
余白の企業名に力強く丸印を付けて、僕はスケジュール帳を開いた。
「来週は月曜日を除いて空いております。」
「それじゃあ、水曜日のゴゴイチはどうかな?」
「承知しました。水曜日午後一時に伺います。商品のサンプルとカタログをお持ちします。」
電話が切れると同時に、定刻を告げる五時の鐘が鳴った。部長は立ち上がり、ずかずかと事務所の入り口まで歩くと、カウンターの隅に置いてある営業社員のタイムカードをタイムレコーダーに入れて「退勤」を打刻した。こうしておけば、勤務記録上は定刻通りに退社したことになり、残業代が発生しない。僕達営業は五時以降も、見積の作成や注文残分の納期回答、注文書の伝票作成等の事務処理があり、ニ、三時間は残業をしている。部長は管理職として人件費を抑制したいのだ。
「お前等、成果を報告しろっ。」
部長は営業社員を自らの机の前に呼び寄せ、扇状に並ばせた。
「松尾から。」
部長は顎をぐいと僕に向ける。最年少の僕からいつも報告することが慣例になっている。先程ようやく取れた一社のアポイントを伝えた。
「一時間かけて一社だけかっ。訪問したいという意気込みが伝わんねえからアポが取れねえんだっ。もっとしっかりやれっ。」
部長の唾が飛散して僕のワイシャツのボタンに付着するのが見えた。僕を見ないように、先輩や他の社員は下を向いている。
「んで、その一社はどこだ?」
「はい、椚工業です。」
部長は握り拳で机を叩き、前のめりになった。
「何っ。椚工業だと。ちょっと見せろっ。」
部長は僕の右手からリストを引っ手繰った。そして、椚工業の規模や僕が走り書きした部署、担当者名にさっと目を通した。でっぷりとした太鼓腹が膨れすぎてワイシャツのボタンとボタンの間が菱形に開き、今にもはちきれそうに見える。体を揺すると椅子が軋む。
「椚工業といえば、五千人規模の大手だ。そんな会社にお前がよくアポをとれたな。」
部長はリストを僕に突き返した。僕は企業名と余白の記載が一段ずれていないか確認した。
「はい。間違いありません。来週の水曜日に訪問します。」
「何っ。来週行くのか。それなら俺も連れて行け。」
部長は興奮して再度机を叩いた。
「はあ。」
「お前みたいな若造が一人であの大手に行ったって舐められるだけだ。」
部長は嬉しそうに話したが鋭く残忍で攻撃的な瞳は変わらなかった。終始、僕の反応を観察しているように見える。運転が下手だの売り上げが悪いだの道中何かと理由をつけては罵ってくる部長と同行するのは嫌だったが僕は不満の表情を出さないよう努めた。
「次っ。」
今度は先輩の番となった。先輩はバツが悪そうに部長の足元を見ているだけで、一言も発しない。
「おい。お前だっ。早くしろっ。俺がせっかちなことは知っているだろっ。」
先輩は僅かに視線を部長の太鼓腹に移し、消え入るような細い声で答えた。
「あの、申し訳ございません。もう少しで取れそうだったんですけど、最後に取引先から電話がかかってきて…。」
部長は座したまま先輩の脛の横を蹴った。
「結果だけ言えっ。過程はどうでもいいんだ、馬鹿がっ。」
「一社も取れていません。」
部長は先輩を暫く睨みつけた。この数秒の沈黙はこれから始まる罵声の合図であることは皆これまでの経験から理解している。面罵される側は当然だが、その場にいる者も居た堪れない気分になる。監督者として指導するのではなく非難対象をただ精神的に追い詰めるだけの罵詈雑言だからだ。
「てめー。営業何年やってるんだ。この間抜けっ。アポも取れねえ奴が営業勤まると思ってんのか。だいたい、お前の電話は聞いているとイライラするんだよ。やる気あんのか?何が『宜しければ一度お会いして商品を紹介させていただけないでしょうか。』だ。んな長たらしい言い回しで相手が会おうって気になると思うのか?このクズっ。絶対にアポを取りてえなら『三分でも時間を下さい。必ずお役に立ちます。』ぐれえ言えねえのか。俺が若い頃はな、飛び込み営業もやったし、商品買ってもらうために土下座みてえなこともしたんだ。それを何だてめえは?女みてえにボソボソ喋りやがって。あんまり出来が悪いと、倉庫に異動すんぞっ。ぐ、ぐぐう。」
部長は顔を紅潮させて捲し立て、その挙句にむせた。僕達は部長と目が合わないようにひたすら蛍光灯が反射する床を見つめる。百八十度首を左右に回す扇風機の風が時折僕の首筋に吹き付ける。
「チッ。」
その時、はっきりと舌打ちする音が聞こえた。他の社員も聞こえたようで頭を微かに上げた。先輩を見ると、右肩をだらりと垂らし、部長を睨みつけることで、いかにもという明らかな不貞腐れた態度を示している。足を崩して、左手の中指で鼻の下を掻き始めた。
「何だ、お前?」
部長は先輩の反旗に素早く反応した。
「はい?」
「『はい。』じゃねえよ。今、お前、舌打ちしただろ?」
部長は先輩を凝視した。怒りで瞳は燃え上がるように釣り上がり、拳を再び机に叩きつけようとしていることがわかる。
「してないっすよ。勘違いじゃねえんすか?」
先輩の返答には人を食ったような色合いが含まれていた。そして、語尾に「っす。」と付ける話し方は部長が最も憎悪することを先輩は認識している筈なのだ。従来の面従腹背でなく、僕は先輩の中で起きている会社組織に対する何らかの変化を感じた。
「てめー、俺を舐めてんのかっ。」
部長は立ち上がり、机の一番下の引き出しを革靴で蹴飛ばした。スチールが凹むと思われる程の大きな音が事務室に響く。先輩は動じず、気怠そうな表情で部長の目をじっと見ていた。物理的な恫喝に効果のないことに気づいた部長は先輩に詰め寄り、三十センチメートル程まで迫った。
「何だその態度はっ。」
「何の態度です?」
「てめえのその態度だ、馬鹿っ。」
部長は先輩の胸倉を掴んだ。
「暴力振るうなら警察呼びますよ。」
先輩は落ち着き払い、諌めるように話した。部長は鳩が豆鉄砲を食らったような表情でその場に立ち尽くした。するりと胸倉を掴む手が落ちる。部長の荒い鼻息が聞こえた。胸倉を部長に掴まれることは僕達営業社員にとって日常茶飯事であり、それを暴力とするなら先程の脛回りへの蹴りも暴力だ。それを言ってはお終いなのである。僕は先輩がこの会社に見切りをつけたことを何となく悟った。そうなるとあらゆる恫喝は先輩に通用しない。当然、部長にも先輩の意思が伝わる。
「もういい。あっちに行け。今日は終わりだ。」
部長は鞄を持って退社してしまった。僕と先輩は窓から部長が駅に向かって歩いて行く様子を見ていた。夏の夕日が駅を中心に雑然と立ち並ぶ低層の雑居ビルや集合住宅、電信柱を茜色に照らしていた。
「あれ、さっきの。凄かったですね。」
「その前に注文しよう。生二つでいいかな?」
先輩が手を上げて大声で店員を呼ぼうとしたので、僕は慌てて「すみません。」と叫んだ。会社の最寄り駅から徒歩で十五分近く歩く居酒屋は築四十年以上の雑居ビルの一階にある。歩くにはやや遠いため会社の関係者にはまず会わないこと、立地条件が悪いため駅前の居酒屋より比較的空いていることから、僕と先輩は一カ月に一、二回は利用している。どこの会社員とも同じように、上司を始めとする仕事の愚痴を言う。主に先輩が不平不満を並べ立て、僕は聞き役だ。和食を中心とした料理が多く、店内は手書きのメニューが所狭しと壁に貼付してある。カウンターが五席、四人掛けのテーブル四卓の小さな小料理屋である。入口の引き戸は建て付けが悪く、いつも三十センチメートル程まで開けると何かに引っかかったように戸は重くなり、力を込めないとそれ以上開かないのだ。力を入れすぎると勢いがついて縦枠に戸がぶつかり大きな音を立ててしまう。
直ぐに年配の女性店員が注文を取りに来た。僕達は中心ジョッキの生ビール、胡瓜の漬物、冷奴、焼き茄子、鯖の味噌煮込を矢継ぎ早に注文した。この居酒屋には突き出しがなく、多めに注文しても思ったより高額にならない。僕は鯖が好きなのでみりん干しも後で追加しようかと考える。
「松尾、実は話ってのは、ついに決まったんだよ。」
先輩はぽりぽりと漬物の胡瓜を噛みながら話した。おそらく自前で漬けたものではなく近所のスーパーマーケットで購入したのだろう。実家でも食べたことのある味だ。僕は軽く酔えて、腹をある程度満たすことができればそれで構わない。工場で量産されて、複雑な流通経路を経てスーパーに並べられた袋に密封された漬物であり、癖のない濃くも薄くもない歯ごたえが良い万人受けすると思われる味だ。自家製独特の人によっては濃すぎたり歯ごたえが足りなかったりという違和感がない。
「もしかして、辞めるんですか?」
僕は冷えたビールを一気に飲み干した。
「何でわかったの?」
先輩は笑った。店内ではラジオから野球中継が流れている。僕も先輩も野球を始めスポーツに興味がない。いつもヒットを連発して活躍する主力選手の名前を覚えることもない。
「だって、あいつにあんな口の利き方したんですもん。もう、後には引けないんじゃないかなと思って。」
僕達は社外で部長を「あいつ」と呼ぶ。僕は店員が運んできた焼き茄子に醤油をかけた。醤油瓶の口元に醤油の塊ができており、液体が滞って中々流れ出ない。口元を下に向けて上下に揺さぶるとようやく数滴が出てきた。勢いをつけすぎると服に飛び散るので注意する。
「やっぱわかったか。来週締め日だろ。その翌日、あいつに辞表を叩きつけてやる。俺ビールお代わりするけどお前もどうか?」
僕は空のジョッキを二つ通路側のテーブルに置き、追加の注文を出した。
「次の会社はどんなところなんですか。」
「まあ、同じような包装関係だよ。次のところは紙包装がメインになるから今の会社とはあまり競合することはないと思うけど。全くの別業種って訳でもないな。」
先輩は焼き茄子に刻んだ茗荷を載せた。
「驚くでしょうね。あいつ。」
僕は部長が驚かないだろうと予想していたが、先輩の反応を見たくて、聞いてみた。
「いや、あいつは俺が辞めることわかっていると思うよ。あの時、あいつは引き下がっただろ。まあ、マジで殴ってきたら警察呼んだけど。あそこで帰ったつうことは、あれ以上俺を威圧しても効果ないし、あの見下した態度を俺に取られ続けられたら、お前等の前で上司としての立場がないよなあ。」
先輩は意地の悪い笑みを浮かべた。
「なんか悲しそうでしたね。なんだか。」
僕は夕日の中を一人で帰路に就く部長の後姿を思い浮かべた。
「はあ?どこがっ。大体、倉庫出身のお前を前にして倉庫へ左遷させるなんて本当に失礼な奴だよ。」
先輩は吐き捨てるように話した。
「あまり気にはしてないですよ。」
僕は冷奴を半分に分けた。刻みネギかかっているが、先輩ネギが嫌いなのですべて僕の豆腐に載せて醤油を垂らす。
「少しは気にしてるんだろう?」
先輩は追加で注文したビールを飲みならが僕を見つめた。上唇にビールの泡が付着していることに気付いておらず、僕も指摘をしない。
「そりゃ、少しは気にしますよ。あ、鯖がきました。」
大皿盛られた二十センチメートル程の鯖の切り身がテーブルの隅に置かれた。僕は食べ終えた胡瓜と焼き茄子の皿を重ねて店員に渡し、空いた中央のスペースに鯖の大皿を移した。
「お前はいつまで続けるんだ?」
先輩はビールを飲み干すと、レモンチューハイを頼んだ。
「僕も辞めたいですよ。」
僕は鯖の骨を丁寧に取り除きながら話した。
「お前、そんなこと言って、どうせ辞めないんだろうな。」
「そんなことないですよ。先輩がいなくなると寂しくなりますよ。」
僕は鯖の骨を除去し続ける。
「そんなこと一ミリも思ってないよ。お前は。」
笑う先輩を見て僕は話しを逸らした。
「次の会社はよさそうなんですか?」
ようやく骨を取り終えた僕は鯖の下身の最も肉厚のある部位を箸で摘まみ、味噌だれをたっぷりと付けて食べた。味噌と鯖の油が絡み合った味が口の中に広がる。
「待遇?そりゃ今の会社より良くないと行かないだろ。月給は今とあまり変わらないけど、賞与が決算分と合わせて五、六ヶ月分出る。」
先輩は誇らしそうに話した。
「へえ、決算賞与も出るんですか。」
僕は残った鯖の皮に味噌を満遍なく付けて食べた。戸が開く音が聞こえて、八人の団体客が入店してきた。途端に店内が窮屈になる。古いエアコンの冷房の効きが悪く、戸が開いた際に入ってきた熱い外気が体を温める。
「この会社だと業績がいくら良くても夏冬併せて二ヶ月だから、倍以上になるな。」
先輩はウーロンハイ、焼き鳥六本、野菜炒め、ほうれん草のお浸しをまとめて注文した。団体客への対応で店員が忙しくなる前に頼んだのだろう。団体は奥のテーブル二卓を繋げて席に着いた。酒が来るとすぐ賑やかな談笑が始まり五月蠅くなった。先輩は声を大きくした。
「俺は来年で三十だ。今付き合っている女と結婚を考えている。正直、年収四百万は欲しい。手取りじゃねえぞ、総額だ。高望みじゃないだろう?周りの連れはちらほら所帯持って子供もいる。そいつ等と偶に飲むと所得の話になるんだけど、俺だけ肩身が狭いよ。ああ、二十三でこの会社に新卒で入社して七年だし、三十前に転職するタイミングなんだろうな。そういえば松尾は幾つだっけ?」
「今年で二十五です。」
僕は備え付けの台拭きを使い、皿やグラスで雑然としたテーブルを徐に拭いた。
「え、意外と若いんだなあ。」
「ああ、でも僕は十八から働いているんで。」
「あれ、そうだっけ。待てよ、ってことは…。」
頰が赤くなった先輩は天井の蛍光灯を眺めながら、右手の指を一本ずつ上げてぶつぶつと二人の勤務年数を数え始めた。天井は煙草の煙で黄ばんでいる。狭い店内では人が通る度に椅子をテーブル側に引いて詰める必要がある。トイレに行くには僕の座る席の後方を通らなければならず、客の酔いが進むとほぼ絶え間なく出入りがある。その度に会話を中断して、僕は椅子を引く。気持ちよく酔っているためか、その繰り返しに苛立ちはない。
「じゃあ、俺と松尾は五歳違いだけど、社歴は一年くらいしか変わらないんだなっ。」
先輩は声を荒げた。口を大きく開いたので咀嚼された野菜炒めや焼き鳥が口内に見えた。
「だとすると、俺が入社してから一、二年後にお前が入ったのか。」
「たぶん、入社当初、僕は倉庫に配属されたのでお互い知らなかったんですよ。僕は営業部に異動したのが三、四年程前、確か二十一の時なんで。」
「おお、そうだった。思い出した。あいつが営業部長に昇格してから無茶苦茶になったんだよ。課員を虐めまくって三十、四十代の中堅が皆辞めてったんだ。んで、営業が若手の俺ともう一人しか残ってなくて、そいつも半年後にノイローゼになって退職しちまったんだ。すっかり営業が不足したから、急遽お前が倉庫から補充されたんだ。倉庫だぞ。前代未聞の人事だよ。」
先輩は両腕を組み背中を海老のように反った。こうして感慨深く数年前を回顧できるのも、転職の目処がついて、心に余裕ができたからだろう。「倉庫」と連呼する言い方にはどこか侮蔑の色合いが含まれていたが本人は無意識のようで僕は苦笑いした。ふと視線を厨房に向けた。ぶんぶんと音を立てる換気扇は長年の使用で油がべっとりと付着しており、特にプロぺラ付近は黄ばみが濃く厨房の歴史の年輪を刻んでいるようである。三人の調理担当が汗だくで注文をさばいている。カウンターの上の壁には注文を受けた伝票が貼付してある。
「お前、よく営業に来たなあ。普通辞めているぞ、あいつの噂だって聞いていただろう。」
「何となく聞いていました。何度か辞めようと思いましたよ。」
グラスが空いたので僕は梅サワーを頼んだ。店員が注文を取りに来たが、団体客からも声が掛かり、面倒臭そうな表情を隠さない。僕はグラスをテーブルの隅に置き、空いた皿を重ねた。
「何度かだろ?良く続いてんな。」
「いや、僕もいずれ辞めますよ。」
「いいや、松尾は何となく辞めなそうな気がする。何だかんだぼやいても、続けそうだよ、お前みたいな奴は。」
気が付くと店内は満席になった。冷房はほとんど効果がなくなり蒸し暑い。額に汗が滲み、酔いが暑さに拍車を掛ける。僕はおしぼりで額を軽く拭いた。先輩は焼うどんを注文したが、僕は満腹で後は酒だけで充分だった。
「そうですかねえ。でも、僕も三十前には…。」
「まあ、お前の人生だから俺はどうこう言うつもりはないけど、このままだと、あいつにいいように使われるだけだぞ。今日だって酷かったじゃないか。お前が苦労してアポを取った企業に同行営業するとかぬかしていたな。どうせ商談が上手くまとまったらまた自分の手柄にしちまうんだろう。んで、社長も馬鹿だからそれを信用して益々重宝するし、あいつは更に図に乗って部下を虐めんだよ。こんなに営業が入れ替わって定着しねえのになあ。酷えのが、クレームが起きると途端に逃げたすだろ、あいつ。お前が担当なんだから俺は関係ねえって怒るし。嫌な仕事からは逃げて、美味しい内容だけ全部自分の手柄にするんだから、やってられねえよ。」
先輩は酔いが回り指先まで赤い。酔うと僕も先輩も同じ話しばかりする。わかっていて繰り返すのだ。二人の年齢や勤務年数もこれまで何度確認したことか。先輩は僕に初めてするかのように語り、僕は初めて聞くように相槌を打ち、何度も同じ質問を投げかける。こうして、三年も付き合ってきた。おそらくこれが「サラリーマン」の習性なのかもしれない。
「あいつは本当に若い頃、飛び込み営業やっていたんですかねえ。」
先輩はその問いを待っていたといわんばかりにジョッキを持ち上げて、勢いよくチューハイを呑んだ。
「馬鹿野朗っ。んな訳ねえだろ。あいつは口だけの嘘吐き。新規開拓なんてできねえよ。どうやって今の地位まで昇ってきたかわからないけど、後輩にアポを取らせて、商談まで漕ぎ着けたら、自分の手柄にして役員に取り入ってきたんだ。人を踏み台にしてなっ。」
先輩はジョッキをテーブルにドンと勢いよく置いた。彼にとって「人を踏み台にしてな」がお気に入りの決め台詞のようなもので、この話になるといつも最後にジョッキを掲げて叫ぶ。僕が一言一句覚えるくらい聞いてきた言葉だ。僕はそれが面白くて酔うと何度も同じことを聞く。
「転職したら、結婚するんですか?その人と。」
先輩は据わり始めた瞼をジロリと僕に向けた。
「すぐにはしないけど。新しい会社で落ち着いてきたら、まあ一年くらいかな、そうしたらするよ。」
「今度はいい上司だといいですね。」
僕は新たに注文していたウーロンハイをちびちびと呑んだ。
「あっ。言ってなかったか。次の会社な、前にこの会社で勤めていた俺の先輩がいて、その人が上司になるんだ。まあお前が営業に異動してくる前だから知らないだろうけど。」
おそらくその上司になるという人も部長に嫌気が差してこの会社を辞めていったのだろう。
「じゃあ、その先輩の紹介で入社するんですね。」
「そう。だから次の会社はあいつのようないかれた奴はいないってさ。」
「それは良かったですね。本当に。」
先輩は大皿に盛られた焼うどんを小皿に移した。僕はもう食欲が無い。焼きたてのうどんは熱く湯気が立っており、振りかけられた鰹節がヒラヒラとイトミミズのように揺らめいている。
「なあ、松尾、お前も、俺の会社これば?人事に紹介するぜ。」
僕はジョッキの側面の水滴を人差し指でなぞりながら、話半分で聞いた。
「さっきも言ったけど、このままこの会社にいても、あいつにいいように扱き使われて、給与も上がらず燻り続けるだけだぞ。安月給で三十を迎えたら結婚できんよ。まあ、お前はまだ二十半ばだからまだ先か。でも十八から働いているだから、社会人としては五年越えている。そういえばお前彼女とかいんの?」
「いませんよ。」
僕は即答した。
「そうか。まあ、俺みたいに三十前で、女がいて、さあどうしようかという時期がくれば、松尾も今の会社で働き続けていのかと考える時が来るよ。なんせ、周りの友達が…。」
先輩はいつものように同じ話しを繰り返し始めた。僕は頷いて話を聞く振りをしながら、徐に店内を見回した。奥の団体客も同じように会社への不平不満を話している。厨房では給仕と調理担当が伝票を指差して言い争いを始めている。どうやら注文と料理の内容に齟齬がでたらしい。僕は先輩の話す口元に視線を移した。先輩の話をまとめるとこうなる。今の会社に入社して八年。学生時代の友人は結婚して、子供もいる。友人の年収は総額で四百から五百万円。対して自分は三百万円台を燻っていて上がる見込みはない。おまけに上司は毎日暴言を部下に吐き、酷使するので離職率が極めて高い。三十歳を迎えて今の彼女と籍を入れるまでに、少なくとも四百万円の年収と狂った上司のいない安定した就労環境を確保したい。だいたいこうした考えをぐるぐると螺旋階段を登ったり降りたりするかのように展開する。僕には気軽に所得額を言い合える友人がいない。所帯を持ち、妻と子供の生活を支えるためには少なくとも四百万円以上の給与が必要であるという根拠がわからない。先輩のこの思考は友人から見聞きしたことから構築されたのだろう。僕には恋人がおらず、この先結婚するのかもわからない。差し迫って今の会社を辞める動機がない。結局先輩は隣家の庭を横目で覗き自分の家とどちらが立派であるのか比較せざるを得ない人間関係に縛られているといえるのかもしれない。だが、僕は単純に先輩をこっそりと見下げることができない。このまま今の会社に居座り、あの凶悪な上司にボロ雑巾のようになるまで酷使させられた挙句、使い物にならなくなれば捨てられるという漠然としてはいるが確実性の高い行末を待つだけでいいのだろうか、と思うことがある。
「おい、松尾、お前、聞いているのか?」
先輩は猫背になり虚ろな瞳を曇らせて僕を呼んだ。瞼が二重になり眠たそうである。
「松尾、何かお前さあ。」
「ん、何ですか。」
僕は先輩の真っ赤な頰を見た。
「何というか、お前は大人しいし、あまり営業には向いてないと思う。本当は倉庫に戻りたいんじゃないのか?」
僕は食べるつもりがないのに、残ったうどんを皿の隅に掻き集めた。
「いや、正直良くわからないです。もう営業に異動して何年も経つので。」
先輩は僕の答えを聞きながら、今にも瞑りそうな目で僕の箸の動きを追っている。
「お前、あいつにあれだけ罵られてよく我慢できるな。倉庫出身なのに。俺は入社当初から営業だから、あんな奴が上司になるんだろうってことはある程度覚悟していたけど。あそこまで酷いとは思ってなかったよ。」
先輩はこう話すと既に他人事のように欠伸をした。実際、もう部長から罵声を浴びせられることもないのでこの人にとっては人事なのだ。店員が食べ終えた食器を次々と片付けていき、伝票を置いて行った。僕はその伝票を一瞥すると、倉庫で勤務していた頃に出荷する商品の梱包箱に封筒を貼付して伝票を差し込んでいた時の作業着姿の自分をぼんやりと思い出した。
「松尾はさ、一見すると大人しくて気が弱そうなのに、良く続いていると思うよ。」
先輩は爪楊枝で歯間を突きながら出口の暖簾を見ている。
「何かお前は打たれ強いというか、あいつにボロクソ言われてもあまり動揺しないよな。どこか瓢々としていて。なんでも他人事みたいなんだよ。」
「そんなことないですよ。きついですよ。」
「いや、そんなことあるよ。気にしていないんだよ。」
「気にしますよ。引きずる性格ですから。」
「口ではそう言うんだけどな。お前は嘘つきだよ。気弱な性格だったらとても耐えられないよ。あいつの扱きには。」
僕は嘘つき呼ばわりされてそれ以上否定をしなかった。
「お前、俺が辞めてからどうする?他の営業も二十代しか残ってねえんだぞ。そいつらだって半年後には残っていると思えねえ。そうなると、お前しか残らんよ。お前が二十代で最年長の担当営業になるんだぞ。歪すぎている組織だろ。」
「まあ、そうなるでしょうね。」
僕は伝票を机の中心に置いた。
「ほら、他人事なんだよ。お前、何か過去にあったんじゃないの?よくわかんないけど。」
「何でですか?」
「俺は頭が良くないからよくわからないけど。人はさ、大なり小なり何かしらの経験があってこの歳ぐらいまでに性格というか人間性が無意識に固まってくると思うんだ。でな、お前は何か大きな経験、お前にとっての大きな経験だぞ、他人から見ればたいしたことではないのかもしれない、でもお前にとっての経験だ。何かのきっかけがあって、それ以来、松尾は何があってもどこ吹く風という感じなんだ。」
僕は何も答えず先輩の口元を凝視していた。
「そんな目で見るなよ。何か気に食わないこと言ったか俺?」
「いや、もう帰りましょう。」
先輩と店の前で別れた僕は電車に乗ると携帯ラジオのイヤホンを耳に嵌めた。車内はやや込んでいて空いた座席は無い。吊革を握っていると僕のような週末の酔客のアルコールの臭いが車内に充満している。天井の扇風機が効いておらず蒸し暑い。僕は目を瞑った。
「…さあ、そろそろお別れの時間です。最後までお聴きいただきありがとうございました。次回のテーマをお知らせします。いよいよ来週は海の日です。夏も本番。そこで来週のテーマは『夏の思い出』です。部活動、恋愛、仕事何でも構いません。夏に経験した出来事をお寄せ下さい。お待ちしております。投稿が採用された方には千円分の図書カードを差し上げておりますので住所、電話番号をお忘れなく。それではまた来週。」
僕は帰宅すると風呂に入り、水をたくさん飲んで酔いを覚ました。時刻は二十三時を過ぎておりで家族は床に就いている。僕は自分の部屋に入ると机に向かいライトスタンドを点けた。原稿用紙を引き出しから取り出すると、窓を開けて網戸を引いた。隣が田圃になっており蛙の鳴き声が聞こえる。思ったほど蒸し暑くはなく、夜風が酔いを覚ましてくれるようだ。五分程ぼんやりと窓から家々の灯を眺めてから、鉛筆を持った。遠くで電車が鉄道橋をガタゴトと音を立てて渡る音が心地良い。
「夏の思い出と言えば…。」
原稿用紙にここまで綴ると僕はそのまま机に突っ伏して寝てしまった。


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