20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第3回   工場 二
父親の経営する小さな工場は私が現在働いているような工業団地の隅にあった。町外れにあり町を東西に流れる川の大きく湾曲したあたりの内側に位置する。住居は工場から徒歩十分程度の宅地にあり、私は中学生になると部活動やクラブに所属せず、父の指示により帰宅すると工場の仕事を手伝うようになった。
駐車場を含めて二十坪程の工場は一階建のプレハブ造り。設備は横型旋盤、同縦型、フライス盤が一台ずつ、ボール盤が二台。いや、ボール盤は三台あったかもしれない。いずれも古い。奥に事務室がありそこはいつも煙草臭かった。構内の西側には工具置き場があり、東側には加工するために仕入れた数メートルの棒状の鋼材や掌サイズの角材や丸材を保管する棚があった。
私の仕事は主に工場で工員が加工した部品を出荷するための梱包作業をしたり、不要となった衣類を断裁してウエスにしたり、加工で出た廃材を小まめに工場裏の廃棄置場に一輪車を使って捨てたりするという雑務だった。特に前者の梱包作業は高齢の社員が定年で退職してから人件費を抑制するために作業員を補充することはせず、加工を担当する工員が兼務していたのだが、加工の繁忙期には私がほぼ一人で張り付いて荷作りをすることになり、重労働だった。父は寡黙で私に対して作業の指示を具体的にすることがあまりなかった。代わりに工員が仕事を教えてくれたが社長の一人娘だからといって特に優遇されたり可愛がられたりすることはない。むしろ父の不在時に本来私が行う必要のない作業を手伝わせることさえあった。鋼材の搬入や加工部品の移動で油の付着した金属に触れることが多くなると私の手は荒れて爪の間に汚れが残り、スニーカーの爪先は黒くなった。加工した部品の汚れをシンナーでウエスを使い落していくようになると手が臭くなった。私が手伝うようになった頃、社員は事務職として経理担当の五十代の女性が一人いる以外、残り四人は機械加工担当の三十から五十代の男性工員だった。社員数は最盛期の四分の一程度まで減少していたため、工場の広さに対して不釣り合いな感じがした。工員の作業着は薄い灰色、工場の壁や天井も灰色で、工作機械はどれも深緑色。このため工場全体がくすんでいてどことなくうらぶれた雰囲気だった。工場裏にはベンチと空缶で作った吸殻入があり、午後三時の十分間の休憩になると工員達はベンチに腰掛けて煙草をふかしていた。春になると工場前にある数台分の駐車場ではアスファルトに入った亀裂の間からタンポポが顔を出す。夏になると稼働する機械の熱と強い日差しで構内は蒸し風呂状態。エアコンはなく業務用扇風機二台を最大風力で動かしていたが、温風が現場に吹き込むようなもので涼しくはない。冬は石油ストーブが用意されていたが、裏手の川から吹き込む北風が壁の隙間から入り込むとともに、コンクリートの床から冷気が足元を上り、体を芯から冷やした。
秋。四季の中で私にとって思い出の深い季節だ。
「幸っちゃん。窓、開けてくれんか。」
加工の浦田さんが荷作りに向かう私に声をかけてくる。私は重い網ガラスをレール上に力いっぱい引いて全開にする。秋の心地よい風が吹きこんできて工員達と機械を冷やした。窓の外は土手の斜面が広がり、外来種で繁殖力の強いセイタカアワダチソウが群生している。
気さくな浦田さんだけは私に何かあると話しかけてくれた。浦田さんは身長一八〇センチメートルを超える巨漢で体格のがっちりとした工員だった。汗かきでいつもハンカチで額を拭いている。目は大きく、鷲鼻で、首はその丸顔と同じくらい太い。作業着の袖を肘まで捲り、機械を動かしていた。頭が大きいので作業用の帽子が頭の四分の三程度までしか入らず窮屈そうだった。
「浦田さん、ノギスどこにありますか?」
「ん、工具箱の近くにほかっとったと思うけど。」
「『ほかっとく』ってなんですか?」
「ん、ほかっとくはほかっとくだよ。わからんかなあ。」
浦田さんはどこかの地方出身のようで時折私には理解できない方言を使うことがあった。一見するとプロレスラーのような体格で迫力があるのだが、この方言と外見とのギャップに親しみやすさと感じた。
浦田さんは私が中学三年の頃、三十代半ばあたりと思われたが正確な年齢はわからない。工場近くの辺鄙な場所にあるアパートで一人暮らしをしていた。工業高校卒業後、金属加工会社に就職して旋盤工として技術を磨き、実力が付くとより待遇のよい職場を求めて複数の加工会社を渡り歩いてきたらしい。父の会社に就職したのは私が小学生の頃で、その時私は仕事を手伝うことがなく浦田さんの存在を知らなかった。
浦田さんが没落しつつある父の会社に入社した背景は父の境遇と似ていた。工作機械の加工をNC制御で行う技術が主流になり始める中、職人芸ともいえる旋盤工が自らの経験と知識を基に手動で部品や刃物の位置決め作業を行うことで金属を加工していく従来の手法は時代の流れにそぐわない。NC制御という技術革新によって旋盤工という職種は淘汰されつつあり、浦田さんは放逐される側だった。父も浦田さんも一時は我が世を謳歌した自らの職種が次第に不要となりつつある時代をどう感じていたのだろうか。私は機械の自動化によって自らの立場が危うくなるまで深く考えることはかった。NC制御では図面通りの正確な加工を行うようにNC工作機械のコンピュータに指示するプログラミングを設定することができればよいのである。従来の職人による経験と知識はほとんど不要となる。更に、やっかいなことに、手動で加工する工作機械よりも高い加工精度を追求できて、加工時間も従来よりも短い。メリットしかないといってもよいくらいだ。加工対象の部品を自動で工作機械に供給するフィーダーという周辺装置と組み合わせれば二十四時間の稼働が可能になる。日進月歩でNCの技術は向上しており、加工精度はより高まり、加工時間はより短くなった。精度を維持・向上したまま加工時間が短縮できれば製造原価は低減する。需要側は従来品よりも高精度で廉価な機械部品を購入できるようになった。
浦田さんはNCの設定技術を習得する機会がなかったが、自らの境遇を悲観している姿を私に見せることはなかった。時折思い立ったように苛立ち、私に怒りをぶつける父とは違った。与えられた仕事を泰然とこなし、余裕があれば私に話しかける。私も浦田さんと話ができることが楽しかった。浦田さんは親切だった。
初秋のある日、私は汎用モーターのシャフトに接続するフランジという加工部品を出荷するための梱包作業していた。この作業では部品を梱包するダンボール箱へ貼付する伝票の備考欄にモーターの軸径寸法を記載する必要があった。軸径はモーターの容量によって異なるので、その都度図面と現物の実寸法を確認しなければならず苦労する。私は浦田さんに相談した。浦田さんは機械を止めて、ハンカチで額を拭いながらパイプ椅子に座った。座ると私と同じ程度の目線になるのだ。
「幸っちゃん、汎用モーターには規格があるんだよ。日本の工業規格で『JIS規格』って呼んどる。〇・四キロワットのモーターなら軸は十四ミリ、〇・七五なら十九、一・五なら二十四、ってな。この規格を覚えちまえば間違いねえわな。」
浦田さんは古い木製の事務机の引き出しから汎用モーターの規格の一覧表を取り出して、私に渡した。この表があれば梱包作業時の確認が楽になる。規格を暗記すれば尚更だ。私は一覧表を一読した。
「浦田さん、この表の軸径横に細かく書いてある『公差』って何ですか?」
私が表を指差すと浦田さんは丸太のような両腕を組んで表を覗き込んだ。浦田さんの首筋からすえた汗の匂いがした。喉仏から汗が滴り落ちている。
ああ、公差か。なんて説明したらええかな。例えばモーターの軸径が三十ミリとするぞ。で、俺達が作るモーター軸に挿入する部品の穴径も三十ミリだとする。同じ三十でもオスに対してメス側に僅かな隙間があるから入るんだ。」
「オスとメスって何ですか?」
私は間髪いれず質問した。浦田さんは目を大きく開き、困惑した表情になった。
「んんん、何つったらええか。オスっつうのは軸側で、メスは軸を入れる穴側のことだよ。」
私は一瞬意味わからず考えたが、すぐに自分の顔が赤面するのがわかった。そして思わず吹き出してしまった。部品の形状を男女の陰部に例えているのだ。浦田さんも破顔して私の肩を叩いた。
「何て例えなんですか。」
浦田さんは右手で後頭部をポリポリと掻きながら笑った。
「何もそんな笑う事ないがね。この業界では普通にオス、メスって言うんだよ。」
私は背筋を伸ばした。
「まあ聞け。軸の径と穴の径がお互い三十ミリなら僅かな隙間があるから入るんはわかるな。隙間が大きすぎれば緩いし、隙間がなければきつくて入らんかもしれん。だから、この僅かな隙間を規格として国内で統一したんだ。例えば見てみい。軸径三十ミリの公差がh六だと軸径の加工精度は三〇ミリの1ミリ以下はゼロからマイナス〇・〇一三ミリ、つまり十三ミクロン内に仕上げる。んで、穴側が例えばH七公差だとすると、穴の加工精度は1ミリ以下がプラス〇・〇二一ミリからゼロ、つまり二一ミクロン以内だ。こう図面上で指示すれば、誰が加工しても隙間のルールを統一できるよな。これが公差だ。m 六、j六とか規格がある。軸側はアルファベットの小文字、穴側は大文字で表記して区別するんだ。」
私は「オス」と「メス」という隠語が金属加工業の中でごく普通に使われていることが可笑しくて、浦田さんの詳細な説明をほとんど理解できなかった。多感な思春期の私には極めて衝撃的な表現であり、度を超えていいたのでただ笑うしかない。
 「幸っちゃんは公差なんてまだ覚えんでええ。中学生だから。」
 浦田さんは残業で一人工場に残っているとき、いつもラジオを机に置いて古い歌謡曲ばかり流す番組を聴いていた。機嫌の良いときは鼻歌を歌うこともあった。
「浦田さん、ラジオ好きなんですね。」
 私が忘れ物を取りに工場へ戻った時、浦田さんはラジオから流れる曲に合わせて頭を軽く振りながら加工部品の寸法を測定していた。
「どうしたん?」
「忘れ物。」
私は折り畳み式のパイプ椅子を浦田さんの隣に持ってきた。
「私の友達にもね、ラジオが好きな子がいるの」
「へえ、幸っちゃんにも友達がおったんか。」
浦田さんは少し驚いた様子で私を見た。
「え、私だって友達くらいいますよ。」
私の話に耳を傾けるように、浦田さんはラジオのボリュームを少し下げた。
「中学生だろ?テレビよりラジオが好きなんか?」
「うん、松尾君っていうの。ラジオばかり聴いていて、好きな番組に葉書や封書で投稿してる。たまに読まれることもあるみたい。」
浦田さんは測定用の栓ゲージを工具箱に入れた。指一本一本が太いので箱の蓋を固定する小さな引っ掛けを開けるのにも一苦労をしている。
「へえ、幸っちゃんに男がおったんか。」
「ただの友達ですよ。『田舎もやし』って言うペンネームで投稿してるの」
私が慌てて否定すると浦田さんは私の動揺する様子を見て笑った。
「もやしみたいにひょろいんか?」
「うん。ちょっと押しただけで飛んで行っちゃいそう。」
「羨ましいなあ。」
浦田さんはハンカチで首筋を拭いた。ハンカチはどこかの景品のようで企業のロゴと製品が刺繍してある。どうやらビールメーカーの宣伝用のようだ。詳しく聞こうと私は鞄を膝の上に置き、両手を添えた。
「何で?」
「俺は手足だけでなく、指もぶっといから細かい作業が苦手なんだよ。特に測定とか。」
浦田さんは右手の親指と人差し指の先を互いに擦った。油で黒くなっている。
「え〜、絶対に太いというか大きい方がいいですよ。松尾君はひょろくて大人しいから同級生から見下されているみたいだし。」
「幸っちゃんが守ったれよ。」
「え、私、女ですよ。」
「いじめとる奴がおったら、幸っちゃんがレンチでぶん殴ったらええ。」
浦田さんは机に置いてある柄の長いトルクレンチに左手を添えた。
「なんてこと言うんですか。」
私は腹を抱えて笑った。窓から西日が差し込み、心地良い風が入ってきていた。
中学校二年生の九月末頃のある日、私は工場の敷地内にある金木犀の花が咲いているのを見つけ、その一本の枝を切り、透明の空瓶に入れた。そして、浦田さんがいつも使う機械の横にある作業台に置いた。日中はまだ暑い日が続いていたが、朝と夜は涼しく、寒いとさえ感じる日もあった。寒ければ寒い程、金木犀の香りは強くなるように思えた。
「幸っちゃん、この花ありがてえけど、少し俺には臭えなあ。」
浦田さんは右手で鼻を擦った。窓から見える土手の斜面には真っ赤な彼岸花が所々に咲いている。羊雲が広がる秋の青空と真っ赤な花弁との対象が美しい。
「ごめんなさい。なんか殺風景な工場だから、花を活けたら少し変わるかなあと思って。」
確かに浦田さんの指摘する通りだった。金木犀の強い芳香と機械の脂の臭いが混ざり合い、何とも表現できない独特の臭いが漂っている。
「まあ、ええよ。気を使ってくれて。それより、この前教えたバリ取りは上手くできたか?」
浦田さんはフライス盤の工具を取り替えながら聞いた。
「ああ、バリね。グラインダーがまだ上手く使えなくて。あ、ちょっと見てもらえます?」
バリとは金属等を加工したあとに削り取り切れずに残っている細かい屑である。私は倉庫から出荷前の加工物を持ってきた。実は、一ヶ月程前に私がヤスリで除去していた部品にバリが残っており、販売先からクレームを受けたのだった。 私は工員達の前で父から叱責されていた。その様子を見た浦田さんが後で私のバリ取り作業を見てくれたのだ。これまで私はヤスリを使い手作業で行っていたが非効率な上に大きなバリは除去しきれないため、グラインダーという小さな工具サイズの研磨機の使い方を教えてくれた。スイッチを押すとモーターで砥石が回転してバリを簡単に削り取ることができる。以前、バリ取り作業は一人の工員が片手間で行っていたが二カ月前に退職してしまったため、私が担当することになっていた。気が付くと、私は様々な作業を担っていた。
「うん、ええんじゃないかな。よく取れとるよ。」
浦田さんは円筒形の加工物をひっくり返して細かく目視確認を行った。
「でもな、グラインダーは電動工具だから扱いに気を付けろ。砥石っつっても刃物みてえなもんだから。怪我せんようにな。」
浦田さんは一呼吸置いてから続けた。
「…だが、最後は俺達のような正社員がきちんと確認しなくてはならんかった。社長に酷く言われてたな。すまんと思っとるよ。」
その言葉だけで私は救われた気がした。夕方になり、定刻から一時間以上が過ぎていた。工場には他に誰も残っていない。秋の涼しい風が入ってきている。私は再び浦田さんの横に腰を下ろし、浦田さんの太い腕にもしゃもしゃと生える毛をぼんやり見つめた。
「ねえ、浦田さん。」
「何?」
私は前から聞きたいことがあった。
「浦田さんは一人暮らしなんでしょ?」
「そうさ。」
 料理や洗濯等の家事はどうしているのだろうかといつも考えていた。一人っ子の私は母がおらず父も遅くまで仕事をしているため、近所のスーパーマーケットで加工食品や米等の食品を購入して簡単な料理で済ませている。小学生の頃からだ。生活費は毎月父が一定額を与えてくれていた。物心が付いた頃から掃除や洗濯もある程度できる。家事が雑でも父は仕事とは違い怒ることがほとんどなかった。というよりも、仕事に追われて家にあまりいない。私も家に帰れば一人暮らしのようなもので浦田さんに妙な親近感を覚えた。
「ずっと一人なの?言葉が私達と少し違うし…。」
「ずっと一人っていうと…。まあ、高校を卒業して、就職してから色々あったけど、一人といえば一人だわな。」
「家族はいないの?」
浦田さんは黒くなった指先をハンカチで丁寧に拭き取り、私の視線を逸らすように窓の外へ目を向けた。美しい羊雲が相変わらず空に広がっている。
「おったよ。かみさんも、子供も。」
「えっ。そうなんですか。」
私は驚いた。浦田さんは苦虫を噛み潰したような表情で、視線を天井から釣り下がった蛍光灯に移し、じっと見つめている。
「ずっと前に別れてな。今はもう暫く会っとらん。」
それこそ私はトルクレンチで後頭部をぶっ叩かれたような鈍痛に襲われ、頭がグラグラと揺れた。言葉が思うように口から出ない。唇がピクピクと震えた。
「何で…、何で…。」
私は混乱して、うなされるように呟くことしかできない。浦田さんは両腕を組み、足を伸ばし、大きな溜息を吐いた。私がこれまで聞いた中でも一番大きくて苦しそうな溜息だった。
「幸っちゃんはまだ若いからわからんと思うけど、大人になると色々あるんよ。思い通りにならんことも。」
工場内に数か所設置されている業務用の大きな換気扇が耳障りに唸っている。いつもなら気にならないはずの運転音が不快だった。私は気分が酷く滅入ってしまったが、その原因は、浦田さんが過去に幸か不幸かは別にして家庭を築いていたという事実を突き付けられた為なのか、あるいは一時期は幸福であったと思われる妻子と何らかの理由で別れてしまったという結果を知ってしまったためなのか、わからなかった。理解しようとする気力がその時残っていなかったのかもしれないし、理解できるような経験を蓄積していなかったのかもしれない。私は驚愕と、余計な質問をしてしまったことに対する心底の後悔とで、これ以上、口が開かなくなってしまった。
「だもんで、今は一人。家族とは、もう家族じゃないけど、連絡もとっとらん。息子は小学校の高学年になっとると思う。」
私は無意識にコンクリートの床に入った二メートル程の長さで数ミリメートル幅の亀裂をなぞるように見ていた。浦田さんに顔を向ける勇気がない。私は意気消沈してしまったのだ。
「この話はもうおしまい。もう二度と聞かんでくれよな。」
その夜、私は布団の中で泣いた。だが、何故、涙が落ちるのかよく分らない。豆電球の薄い燈色の灯りをぼんやり見つめては浦田さんに訊いたことをひたすら後悔し続けた。
翌日の夕方、工場で梱包作業をしていると、父に呼ばれた。
「幸、こっちにこい。」
私は浦田さんが作業をしている機械の横にある作業台に連れて来られた。
「お前が置いたんだろ。」
父は作業台に置いてある瓶に入った金木犀を指差した。
「これは何だっ。」
私は俯いた。浦田さんが心配そうに機械を止めた。父は当時五十代前半だったが頭頂部から額にかけて見事に禿げ上がっていた。顔は青白く痩せこけた頰から眼球が飛び出しそうな程ギラギラしている。指は細くて枝みたいだ。よく見ると、中学生の私でもこの人は老けたと感じた。汚れた作業着の間から胸の皮膚から血管の青い線が見える。
「作業に関係ない物を置くな。落ちて割れたらどうすんだ。それに、臭えだろ、何だこの臭いは。」
吐き捨てるように言うと父は金木犀の入った瓶を乱暴に取ろうとした。すると浦田さんが大きな手で包み込むように瓶を握る父の腕を掴んだ。
「社長、何と言いますか、これは俺が自分で置いたんですわ。へへ。周りがあまりに殺風景だもんで。気分転換に花でも、と思って。」
父は鋭い視線を浦田さんに向けた。
「嘘吐くな。お前何年この殺風景の中で働いてきたんだ。余計な口を挟むな。」
浦田さんは困った顔をして瓶をじっと見つめた。他の工員達が機械を動かしながらこちらをこっそりと観察しているのがわかった。
「幸、もうこんなくだらねえことすんじゃねえぞ。」
「ごめんなさい、もうしません。」
父は事務室に戻って行った。
その日、仕事が終わると私は浦田さんの所へ飛んで行った。浦田さんは私に背を向けて横型の旋盤を動かしていた。右手で位置決めのハンドルを慎重にゆっくりと回し、体を前屈みにして、切削している加工物をじっと見つめている。壁のように横幅の大きな背中には襟から腰上にかけて汗が滲んでいた。窓から入る秋風が、浦田さんのすえた汗の臭いを風下の私に運んでくる。私は昨日の浦田さんとの会話を思い出した。浦田さんが妻子持ちだったという過去が私の脳を再び揺さぶり、息苦しくなった。
「ん、どうしたんだ?」
浦田さんが私に気付いた。私は気を取り直し、先日花瓶を置いたことを謝罪した。
「別にええよ。まあこの花はせっかくだから俺のアパートに持って帰るでな。」
浦田さんは加工物をウエスで丁寧に拭き取りながら答えた。父は取引先に製品を納品するため軽トラックで外出しており、直帰している。他の社員は帰りの支度をしていた。
「幸っちゃん、ちょっとすわりゃ。」
浦田さんは折り畳み式のパイプ椅子を持って来た。そして帽子を脱いで作業台に置いき、緑色の古い旋盤をじっと見つめた。右腕の捲り上げた袖で額の汗を拭いており、今日はいつものハンカチを忘れたのかもしれない。私はいつもと違う雰囲気を感じ取り、いくらか緊張した。昨日の一件を持ち出されるのかもしれない。
「幸っちゃん。俺はあまり口が達者でないから、上手く説明できんかもしれん。けれど、冗談でないから、どうか気を悪くせんで聞いてくれよな。」
「急にどうしたんですか?」
私は心配になって浦田さんを見つめた。浦田さんは私と目が合うと疲れたように目を細めて、窓の外に顔を逸らした。空には鰯雲が広がり、秋の夕日を浴びながら十羽ほどの渡り鳥がくの字に隊列を作り悠然と飛んでいる。浦田さんは視線を旋盤に移して一息吐いた。
「俺は色々考えとった。まだ、幸っちゃんは中学生だでな。こんな若い子に同じ血の通っとらん俺がとやかく言う資格があるんだろか。おそらく、これから俺が話すことは幸っちゃんを傷付けるだろう。俺は教育者でも何でもねえから、俺の判断はもしかすると間違っとるかもしれん。それでも話すことにした。だが、ああ、くそっ。何でこんなことをっ。」
浦田さんは汗で濡れた大きな頭を両手で引っ掻き回した。その表情は苦悶に満ちており、濁った丸い瞳には何かの重い決意に対する悲壮感さえ漂っている。
私は浦田さんが私のために苦しんでいることを何となく悟った。
「話して下さい。私、何でも聞きますから。」
私は無意識に右手をそっと浦田さんの大木のような左腕にのせた。太い毛は束子のような肌触りで、鉄のように硬い腕だが温もりがあり、私を落ち着かせた。
浦田さんは暫く沈思黙考をしていたが、やがて決然たる態度で背筋を伸ばし、深呼吸した。
「回りくどいことは言わんから。今、この会社、つまり幸っちゃんの親父の会社だが、わかっとるかもしれんがな、経営状況が非常に悪い。社員の減り方を見てもわかるだろう。この国全体が以前から同じよう状況でな、不況ってやつだ。学校で習わんかったか。何故悪いかはいちいち言わん。俺もようわからんからな。このままだと、この会社は早ければあと数年で潰れるかもしれん。そうなると当然、俺達は給与がもらえなくなる。生活に関わってくる。死活問題だ。俺達社員はまあ経営者でねえから他の会社に移ることもできるが、幸っちゃん、あんたが心配でな。俺は倒産した会社の社長の子供が未成年の場合どうなるかようわからん。周りにそういう経験した奴もおらん。だが、きっと今より厳しい生活になるだろう。幸っちゃんはまだ中学生だからすぐには自立して働けんだろうし。」
浦田さんは一息吐いて右手で額の汗をゆっくり拭いた。これから話すことをわかりやすくするため咀嚼しているように見える。私は「自立」という単語の意味が良く分からなかった。
「それだけじゃねえ。社長の身体だ。どうも最近よくねえみたいだ。ずいぶん痩せたと思うし、前より怒りっぽくなった。昔からあんな感じだったといえばそうだけどな。特に顔色が悪りい。一度、じっくり精密検査した方がええんだろうけど仕事で時間が取れんのだろうな。」
私も父の健康が気になることがあった。とにかく少し動いたり怒ったりするだけで動悸や息切れが激しくなるのだ。
「もし社長に何かあったどうなる。おそらく社長は幸っちゃんの父親だから保険に入っとると思う。幸っちゃんにお金が出るだろう。生活に困らんようにな。未成年だから後見人経由になるかもしれんが、んなことはどうでもええ。けどな、自転車操業しているこの会社みたいなところの経営者は、ときに、とんでもねえことをしでかすんだ。金は人間を狂わしよる。どうしても、少しでも会社の運転資金が欲しいとなると、保険を解約してその払戻金をぶっこむことだってあるんだ。俺はそうした会社に以前勤めとったことがあるでな。」
私は「保険」や「自転車操業」、「払い戻し金」といった単語の意味がさっぱりわからなかった。しかし、私の生活が近い将来厳しくなる可能性があることだけは何となく理解できた。それだけの強い意志が浦田さんから伝わったのだ。夕日が西の空に沈みかけることで、東の空は暗くなっている。窓側の機械の影が伸びて、私の膝元まで覆ってきた。私はその影を見て思わず身震いした。それはこれから私を襲う可能性のある境遇が不気味な影となって近づいてきているように思えたからである。実際、この影は人の細長い手のように見える。父の骸骨のような手にも思える程だ。私は咄嗟に浦田さんの左腕の捲りあげた袖を強く摘まんだ。そして、最近は特に顕著になってきた父の突発的な癇癪と痩せこけていく身体のことを思い出した。浦田さんはじっと工作機の加工物の位置決め用手動ハンドルを見つめながら話を続けた。
「幸っちゃん。将来の夢はあんのか?何か就きたい仕事とかあるんか?」
私は特にないと答えた。小学校六年生の時、卒業文集に寄せるために回ってきたアンケートに記載する将来就きたいと思う職業が思いつかず困ったことを思い出す。あの時は隣の席の女子を真似て「かんごふ」と適当に記入した。
「そんなら兎に角、すぐ技術を習得したらええ。『手に職』ってやつだ。社長に何かあったときに一人で生きていけるようにするんだ。まだ中学生だから俺の言うとることはよう分からんと思うけど聞いてくれ。隣町に工業高校があるだろ。そこの機械科に行くとええ。旋盤やフライス盤の扱い方を技能実習で学べる。俺も工業高校機械科の出や。工具の使い方も教わった。でな、卒業したらどこかの工場に就職するんだ。工作機械を使う製造業のな。この会社の規模よりもっと大きいところだ。就職先は工業高校が紹介してくれる。俺も高校に来た求人募集で就職した。んでな、就職先はできれば社員寮があって住み込みで働けるところがええ。仕事と住居さえあれば親がおらんくても何とかなるがね。今、景気が悪いもんで求人は少ないかもしれんけど、まじめに三年間勉強すれば、あんたが女でも学校がどこかの会社に推薦してくれるやろう。」
浦田さんは話し終えると大きな足を組み直し私を見た。経年で色褪せた黒い安全靴の紐が解けかかっている。私は何とも答えようがなかった。ただ、何となくわかったことがある。私は今、世界という荒野の中に立ち、社会という得体の知れない異世界の前に引かれた境界線に立たされているのだ。そして、境遇という冷たく細い影が手になって私の背中を今にも向こうの世界に押し出そうしている。突如として、しかし確実に現れたこの境界線を前にして、私は漠然とした驚きとじわじわと迫る不安に慄然としていた。しかし、浦田さんが私を支え、この恐るべき境界線を越えるだけの気概を与えようとしていたのだ。私は目を瞑り、引き返せないことを悟った。
「俺もこの会社にいつまでおるかわからん。けどな、ここにおる限りできる限り、機械のことならあんたに教えるつもりだ。だから…。」
浦田さんは大きく深呼吸をして、安全靴の靴紐をきつく結び直した。
「だから、自分の境遇を恨むな。決して捻れんでくれよな。真面目に生きてりゃそのうちいいことだってあると思う。」
窓の外に広がる土手は夕日で深紅に染まっていた。冷えた風が頰にあたる。私は浦田さんの袖を掴む手の力を弱めた。
「浦田さん、わかった。私、浦田さんの言う通りにする。やってみる。」
翌日以降、私は父の不在時で浦田さんの仕事が一段落してから、時間を作ってもらい少しずつだが機械の基礎知識について教えてもらうようになった。機械用語から始まり、時間に余裕があるときは旋盤の操作方法を学んだ。浦田さんは所謂職人的な気質が染み付いており、マニュアルのような教え方を否定する傾向がある。機械の加工精度や品質に特に厳しかった。
「幸っちゃん。内径二十ミリの加工精度が百ミクロンの公差だとするな。」
「ゼロから百ミクロンの間で仕上がっていればいいんでしょう?」
「ああ、でもな、俺等は五十ミクロンの精度を目指すんだ。」
私は首を傾げた。
「え、何でそんなに厳しくするんですか。だったら五十ミクロンって図面に書けばいいんじゃないですか。」
「それが職人ってもんよ。要求される精度よりも厳しい精度を追求すればそれにこしたことない。まあ、あまり厳すぎるとコストも上がるからやりすぎは禁物だが。これがこの国の技術を支えとるんだぞ。」
浦田さんはこう言うと胸を張るでもなく、私への指導を淡々と続けた。
父の仕事の影響により私は元来機械に興味がない訳ではない。しかし、従来は積極的に知識を習得したいという意欲がなく、仕事を手伝う中で何となく覚えていくという流れだった。金属の切削加工で必ず付いて回る切削油の臭い、この油が手に付着することによる肌荒れ、時折耳をつんざく機械の稼働音等は小さい頃から機械に接する機会があったので、あまり気にならない。一方、私の身体や衣服に残る機械油や、製品の汚れを落とすためのシンナーの臭い、手肌の荒れは多感な年頃の生徒が集まる中学校では嫌悪や嘲笑の対象になることがあった。彼女等や彼等からすると私は異質だったのかもしれない。友達はほとんどできなかったし、自ら積極的に交友関係を深めようとする意欲もなかった。しかし、要は公差と同じで「普通」や「標準的」な中学生の枠の中に収まっていればよいのだ。私は確かに同級生の中では異質かもしれないが、この小さな町で暮らす人々の中では私なんか特に風変わりな存在でないはずだ。公差の範囲がJIS規格で規定されるように、私が異質だとするとそれは学校という狭い空間の同級生の子達が定めた曖昧な基準の中だけであって、世間という広い範囲の公差から見れば少し臭く、肌荒れが目立つだけで特段異常な人間ではないはずだろう。罪を犯したわけでもない。この点について、私が傷つくことがなく、ある程度開き直ることができたのは、やはり放課後の時間の多くを工場の手伝いに費やすことで、気にする程の時間のゆとりがなかったからである。それはある面においては良いことだったのかもしれない。私の将来の見通しについて浦田さんから説明されたあの日以来、ゆとりは一層なくなった。反比例するように機械加工の技術習得に対する意欲はより強くなった。
「浦田さん、紙やゴムは湿度や温度で変形するって前に聞いたけど、金属もそうなの?ずっと同じ硬さと大きさでいるような感じがするけど。」
「実は金属も温度の変化で伸び縮みするんだわな。目視じゃわからねえ。測定工具で見んとな。よほど熱ければ膨張するし、真冬で寒ければ伸縮する。真夏の特に暑い日で機械の加工による摩擦熱によって変形するとかな、あるんだよ。図面通りの寸法で加工しとるはずなのに現物の加工寸法を測定すると精度がでとらん時がある。鉄とアルミのように材質が違えば膨張率、伸縮率が異なる。そういうことを想定して、その分の補正をかけて加工するのも俺達の技術だわな。」
つまり金属が微妙に変形する割合を想定して、変形した分の加工を僅かに調整するというのだ。何度の熱でどの材質の金属が何ミリ程度変形するのか長年の蓄積した経験から算定するという。
浦田さんは加工した部品同士を締結するボルトや工具の使用方法についても詳しく教えてくれた。私は自動車や機械等の部品をボルトで組み付ける時に締め付ける力をトルクレンチで数値によって管理していることを初めて知った。設計された規定のトルクで締め付けることで均一の品質を確保するらしい。私は学校の工作の授業でボルトを使用したことがあるが、特にトルク管理をしていなかったことに気付いた。
「幸っちゃん。ボルトっつうのは何でも力任せに締め付ければいいっつうもんじゃねえ。適正なトルクが必要なんよ。力を加えすぎると締め付けられる側の物質が塑性変形を起こしてな、締め付ける力が失われてまう。ずるずる緩みだすんだ。」
浦田さんは散らばったトルクレンチを整理しながら話した。
「塑性変形ってなんですか。」
私は浦田さんが加工した部品を一つずつ台車に載せた。額や脇に汗が滲むが秋の風が窓から入り乾かしてくれる。
「例えば…。そうだな、鉄の薄い板に少し力を入れて曲げても元に戻るだろ。これが弾性変形だ。でも、力を掛けすぎると元の状態に戻らなくなるな、これが塑性変形。ボルトの締め付けは物質の弾性変形を利用している。ボルトの締め付け力が弱いとボルトの力が弾性変形に負けてしまい緩んでまう。この締付力、つまりトルクは大体ボルトのサイズ・大きさと締め付けられる側の物質の種類で決まる。俺にその計算はできねえ。機械工学を学んだ設計がやる仕事だ。」
浦田さんは最後に自分を卑下するように述べた。
窓から入る西日を浴びた私は眩しくて目を細めた。
「でも、工作の授業で懐中電灯を作った時にはボルトをケースの組立で使ったけど、トルク管理なんてしてなかったわ。」
浦田さんは笑った。
「そりゃ、そうやろ。懐中電灯のような日用品の組み立て作業にトルク管理をいちいちしてたらコストが上がってまう。トルク管理は自動車やその関連部品のような、品質管理が重要な作業で行うんだよ。ボルトの締め付けが甘かったり、きつかったりして部品が外れて事故が起きたら大問題だろ?」
私はこのように浦田さんから少しずつ機械に関する知識を学んでいった。一つの目的に向かって集中しているとあまり他のことには気を取られなくなる。このため、学校生活は放課後の仕事の手伝いに比べてあまり記憶に残らなかった。友人と呼べる同級生はほぼできなかったが工作の授業がきっかけで仲良くなった松尾君という男の子がおり、親友とまでは言い難いものの談笑できる相手だった。松尾君は私より少し身長が高く、もやしのようにひょろながい体形。何より気が弱い。時々、素行の悪い生徒に意味もなく小突かれることがあり、気弱さは猫背によってより強調されていた。短髪で顔は細長く、目は開いているのか閉じているのかわからない程細く、いつも八の字に垂れている。制服の丈が体格に合っておらず、スラックスは足の長さに対して短すぎるし、その幅は逆に大きすぎる気がする。
私と松尾君は昼休みになると図書室の隅で椅子を並べて意味もなく時間を過ごした。松尾君はラジオが好きで、よくラジオ番組の話しをしてくれた。「田舎もやし」というペンネームを使い頻繁にラジオ番組へ投稿している。校内で体験した理不尽な出来事を素材にしており、番組で採用されると照れながら報告してくれた。私は長い肌色の机に頬杖をつきながらふんふんとその話しを聞いていた。窓の外にはプラタナスの大木が十メートル間隔でそびえており、大きな薄緑色の葉がまだ強い初秋の日差しを防いでくれた。私達の座る場所は高さ二メートル程の本棚で仕切られており入口から見えない。昼休みに図書室のこの場所まで入り込む生徒はほとんどおらず、喧騒を逃れてのんびりと過ごすことができた。
松尾君は父母、弟の四人家族で、自宅は学校を起点にして私の家とは逆方向にあり、それ以外のことを私は知らない。聞くこともなかった。勉強も運動も不得意で温厚な性格だった。一度だけ、中学校の卒業式後、土手の川縁側の斜面に寝転んで一緒にラジオ番組を聴いたのが、学校以外で松尾君と過ごした唯一の思い出だ。その日以来、私は松尾君と会っていない。別れ際に松尾君は私に暫くしたら連絡をすると話したが、結局便りはなかった。私から連絡することもなかった。卒業アルバムの名簿に住所が記載されているかもしれないが、お互い連絡先すら交換していない。松尾君もまた私のように友達がおらず教室の隅で息を潜めているような暗い生徒だったが、私は松尾君との間にある救い難い断絶を常に感ぜざるを得なかった。時折、松尾君が意図せずに見せる寂寞を私は表面的に受け入れつつも内心では拒否した。その時の子供のような眼差しを見ると何とも松尾君が幼稚に見えて、腹が立ったのだ。それは、私が中学生の頃から自らの将来に対する不安を感じ始めている中で、同時に浦田さんのような大人と過ごす時間が増えたことにより、自立や責任といった自己を管理しようとする意識が自然と培われたためなのかもしれない。自らを律しようすることで忍耐や努力、考察といった力が育まれる。学校の授業で黒板に先生が綴った文字や、国語と英語、歴史の教科書で覚えようとした単語がことごとく身に付かなかったのとは違い、経験によって有無を言わさず徹底して体に刻みこまれていった。とにかく、松尾君が遠まわしに私と共有しようする疎外感について、私はたいして問題視していなかった。私は松尾君に好きなラジオ関係の仕事に将来就く気はないのかと聞いたことがある。すると、松尾君は自分の好きなことを仮に職業とすることになると、仕事上嫌なことにも目を向けなければならず、唯一の楽しみで苦しむようなことはしたくないと答えた。あの時、私は笑って感心する振りをしたが、内心では、まだ何も始めていないのに松尾君には好きなことに挑戦したいという意欲すらないことに幻滅した。だが、この考えは私のある程度の限られた選択肢しかないという境遇と比較した時に私の中で沸いた彼に対するある種の僻みだったのかもしれない。私はこうした感情が頭にちらつくのが嫌で、可能な限り気分が表情に出ないよう、いつも機械のことを考えるようにした。意識して無表情、無関心を繕いうようにした。
こうして私の中学校生活は過ぎて行った。
浦田さんの助言通り、私は隣町にある工業高校の機械科に進学した。工業高校は圧倒的に男子生徒が多く、女子は四十人のクラスで三人だけ。機械科では初めて旋盤やフライス盤、ボール盤等の工作機械を操作するようになった。機械工具については、中学生の頃から浦田さんに取り扱い方法を教わっていたので新鮮さはないものの、父親の工場にはないデジタル式の測定器があり、浦田さんに報告するのが楽しみだった。
「デジタルのノギスはええな。最近視力が落ちとるもんで、目盛が良く見えん。今度一つぐれえこっそり持ってきてほしいなあ。」
ノギスとは部品の全長や内径等の寸法を精密に測る測定器であり、デジタル式は寸法の数値が画面に表示される。〇・〇五ミリメートルの単位まで測定できる。
「来年には中古だけど三次元測定機がくるみたい。加工した部品の寸法を自動で測定できるんだって。」
「そうか、すげえなあ、そんな測定機がくるなら温度や湿度が一定の部屋も設けんとな。」
浦田さんは興味深そうに聞いてくれた。
私は高校二年生になった。初秋のある日、工場の出荷作業を終えて加工現場に行くと、浦田さんはパイプ椅子に座り鼻歌を歌いながら図面を入れたクリアファイルを団扇代りに首筋を扇いでいた。すべての窓を開けていたが風が凪いでおり現場は蒸し暑い。何にもしていないのに額に汗が滲む。稼働を終えたばかりの機械の余熱が一層工場内を蒸し風呂のように温めている。
「浦田さん、こんな暑いのによく歌えますね。」
浦田さんは私を見ると微笑した。
「今さっきな、まとまった加工が終わったんだ。五十個だぜ、ああ、しんどかった。今日が締日だろ?ひと段落だ。」
浦田さんは作業台に置いてある缶に口を付け、グイと一飲みした。よく見ると容量が三百五十ミリリットルの缶ビールだった。
「ちょっと、浦田さん。大丈夫なんですか。父が帰ってきますよ。」
浦田さんはニヤリと笑い、勝ち誇ったようにビール缶を掲げた。
「心配ねえ。今日、社長は得意先に納品して、そこの社長を飲み行くらしいから。直帰だに。」
安堵した私は浦田さんの横に椅子を持ってきて腰を掛けた。足元を見ると小さなクーラーボックスを置いてあり、少し開いたファスナーから数本の缶ビールが見える。工場には私と浦田さんしか残っていない。この頃になると社員は浦田さん一人。他の社員は皆退職していた。数年前に浦田さんが予測した通り、父の経営する工場は年々確実に業績が悪化。半年前に給与の支払いが一カ月滞ったのをきっかけとして他の社員は皆去ってしまった。父は求人募集を行わなかった。ジリ貧の売上に対してこれ以上の人件費の支出が限界だったのだろう。
「浦田さん、ちょっと待ってて。」
私は事務所から通学用の鞄を持ってきた。
「これ見て。」
私は高校の実技の授業で製作した金属の湯飲み用の容器を取り出した。旋盤とフライス盤で作った学生としては本格的な工作物である。容器は外径五十ミリメートル、高さ百ミリの円筒形で持ちやすいように外周の一部を平に加工していた。
「へえ、幸っちゃんが作ったのか。」
浦田さんは金属の容器を手に取ると、上部からゆっくりと観察した。ひっくり返して容器の裏側まで丹念に見てくれた。時折、人差し指で容器の内側の側面を擦った。
「ようできとる。面取りもしとるし。バリもほぼない。」
私は嬉しさを隠すように足を伸ばし、窓の外を眺めた。
「ねえ、浦田さん。機械部品ばかり作らないで、このコップのような日用品を作れば儲かるんじゃないのかな。」
浦田さんは容器を慎重に作業台に置いて、缶ビールを飲み干した。
「幸っちゃん。そりゃ無理だわ。この容器を機械で切削加工すんのにどのくらいの製造原価になるか計算したことがあるか?湯飲みなんて五百円も出せば買える。機械加工のような精度はいらん。陶器で十分だろう。切削加工したらとんでもねえ金額になるぞ。それに、鉄は錆びるから飲用には向かんな。」
「ステンレスとかチタンを加工したら。錆びないんでしょ?」
浦田さんは笑った。
「サスやチタンは錆には強いけど材料費が鉄の倍以上だ。それに鉄より粘り気があるから加工時間がかかる。加工用の刃物を壊しちまうこともあって扱いが難しいんだ。つまり、製造原価が馬鹿高けえ。」
私は溜息を吐いた。
「まあ、もしどうしても飲用の製品を金属で作るならサスかチタンかな。金型おこしてプレスのヘッダーでズトンと一気に大量生産するのがベターだな。」
金属の中でも鉄やアルミニウムの切削加工が専門の父の会社には当然金属プレスは無いし、プレスに関する実績と技術も無い。
「切削ってそんなにコストが掛かるんですか。やっぱり思い付きは駄目ですね。」
浦田さんは作業着のシャツのボタンを一つ外した。少し酔って熱くなったようである。
「でも、何か目的意識を持って仕事をすることは大事だぞ。そういう閃きはいつも持っとった方がええと思う。」
私はこの言葉にすっかり気を良くした。
「浦田さん。私に注がせて。」
私は鉄の容器に浦田さんが飲んでいた缶ビールを注いだ。上手く注ぐことができずに泡ばかりができた。それでも浦田さんは喜んでくれる。
「おお、ありがてえな。いただくよ。」
私も熱くなったので上着の作業着を脱ぎ、Tシャツ姿になった。
「おいおい、あんまり柔肌出すな。惚れてまうがな。ギャハハハハ。」
今振り返るとあの時間、あの瞬間がこれまでの短い人生の中で最も満ち足りていたのかもしれない。先行きに不安はあった。高校卒業後に展開するだろう社会という荒野について、窓から見える眩い橙色の落陽をぼんやりと見つめながら考えると憂鬱になったが、浦田さんの丸太のような腕が近くにあると何故か心が穏やかになった。それは、おぼつかない足取りで小学校の入学式に臨む小さな子供が期待と不安を抱えながら両親の手をしっかりと握り心を落ち着かせようとしている時の感情に似ているのかもしれない。そういえば、父親はほとんど私の面倒を見てくれたことがなかった。そうだとしても、浦田さんは決して私の親代わりになりえない。しかし、私が精神的にも経済的にも自立しようとする過程を柱のように支え、限られた条件の中で、その時最良と考える選択を、不器用ながら示してくれた。窓の時から蜩の鳴き声が聞こえている。西の果てにほとんど沈んだ夕日が絞り出すように空を深紅に染めた頃、ようやく涼しい風が工場の中に入ってきた。私は浦田さんのもみあげの先から滴り落ちようとする汗の滴をぼんやりと眺めていた。浦田さんの頬はほんのりと紅潮している。アルコール混じりの吐息と二人の汗と機械の油がごったになった臭いが漂っていたが、何故か心地良かった。
「痛っ。」
その時、浦田さんが呻いた。私の製作した容器を握る右手の親指の先から血が滲んでいる。私は驚いて椅子から立ち上がった。容器の側面をフライス盤で平に加工した部分にバリが残っていて、指を切ってしまったのだ。私は急いで作業着のズボンのポケットからハンカチを取り出して浦田さんの親指を包んだ。腕と同様に指も私の親指の倍近くあり鉄鋼のように硬く、黒くて太い毛が指の甲から生えている。指紋の右下あたりは豆が出来ており特に硬く、機械油の汚れで黒ずんでいた。私の手が浦田さんの手首に触れて、その力強い脈動が伝わってきた。
「ごめんなさい、バリが、バリが残っていたんだわ。」
私は狼狽した。あれほど父からどやされたバリの取り残しを見落としていたのだ。
「ええて。それよかハンカチが汚れるから、もう離せ。洗濯しても落ちんようになるぞ。」
浦田さんは困惑した表情で答えた。
「…ほんとにごめんなさい。」
「わかった。もう気にすんな。実技の授業は楽しいか?」
浦田さんは私をなだめようとして話題を出してくれたのかもしれない。私は浦田さんの指を抑えたまま、学校の実技で初めて旋盤を扱った時のことを説明した。バイトを刃物台に、円筒の加工対象をチャックにそれぞれ固定し、主軸を回転させて芯押し台のハンドルを回していく。主軸に取り付けられた加工対象は回転しながらバイトにあたり徐々に切削されていく。鉄の切子がスーっと鉛筆を削るときのように加工対象から出てくる。大根や人参の皮を剥く時の様子にも見える。
「以前、テレビで見た陶器を作るための轆轤回しに似ていました。」
「まあ、同じような原理だな。」
浦田さんは容器のバリを片手でやすりを使い丁寧に削り取った。そして再びビールを注ぎ、ちびちびと飲みながら私の話に耳を傾けた。
「何しているっ。」
工場の扉が突然開き、怒鳴り声を上げて父親が入ってきた。私と浦田さんは寝耳に水で、驚き、暫く動けなかった。父は目を血走らせて見る見ると近づいてくる。顔は青白く、目が痩せこけた頬から飛び出しそうなくらいぎょろぎょろと動く。ミイラのような指は小刻みに震え病的に細く、その腕は胴体から辛うじてぶらりと垂れ下がっているようだ。頭は以前に比べて更に禿げ上がり、頭頂部は天井から釣り下がる蛍光灯の灯りで不気味に光っている。頭の側面に離れ小島のように残る髪は所々が白い。作業着の上から一番目、二番目が外れており、胸骨が筋肉のない薄い肌から浮かび上がるように出ている。
浦田さんはゆっくりと缶ビールを父の視界に入らない位置に隠そうとした。
「浦田、お前、酒飲んでんのかっ。」
「いや、社長、これは、何といいますか…。」
浦田さんは頭を左手で掻いた。口実を必死に考えているのがわかる。その時、私はまだ浦田さんの指を握っていることに気付き、急いで離した。
「あのう、社長、今日は直帰なんでは…。」
頬から飛び出しそうなくらい父の瞼が大きく開いた。
「納品書を忘れたから取りにきたんだ。…何だお前、それじゃ俺がいねーからって酒盛りしようとしてたのか。」
浦田さんは俯いた。私は室内が急速に肌寒くなったような気がした。Tシャツの袖から入ってくる風が脇の汗を冷やしていく。父は仁王立ちで私達を睨めつけた。
「いや、社長、本当に申し訳ないです。締日だもんで気が緩んどりました。つい…。」
「お前、人の娘に酒を注がせてたんか。」
「お父さん、違うの、私が勝手に注いだの。信じて。本当なの。」
私は震えながら間に入った。
「お前は黙ってろ。ん?」
父は何かに気付いて私の顔をじろじろと見た。私は自分の頰が赤くなっていくのがわかった。
「お前。化粧してんのか?」
父は驚愕した様子で叫んだ。その表情にはある程度まともに向き合ってきた親ならば何となく気づくはずであろう思春期の我が子の予期せぬ変化に対する困惑とそれを見たくもないという怒りが混濁していた。突拍子に突きつけられた娘の情念の現出にうろたえならが、どうしたものかと瞳孔を小刻みに動かしているように見える。私は逃げ出したくなった。父の視線が私と浦田さんを交互に行き来している。自分の知らない間にこの小さな町工場という空間で従業員と娘との関係がどの程度まで構築されてきたのか見定めているようだ。しかし、こうした特に仕事とは関係のない色恋に対する判断を行うこと自体を最も憎悪する種類の人間なので、拙い思考はやがて中断され、怒りのみが増幅されたようだった。
「幸っ。お前、色気づいたのかっ。」
父の怒号が天井にまで響いた。
全身を羞恥心が覆い、私は泣き出しそうになった。
「社長、何つうことを言うんですか。この子はまだ思春期なんですぜ。そんな言い方はないでしょう。」
浦田さんが諌めようとすると、父は唾を吐き散らしながら怒鳴った。
「お前がよくそんなこと言えるなっ。おおっ。人の娘に酒を注がせてやがって、俺の工場で。お前こそ何様だっ。」
痛いところを突かれて浦田さんは黙ってしまった。すると父は私の作った容器を掲げると力一杯床に叩きつけた。コンクリートに乾いた金属音が響く。容器がガラガラと音を立てて慣性で転がり続ける中、父は私の耳を引き千切れそうな力で引っ張った。
「痛いっ。」
私は思わず悲鳴を上げた。
「幸、ちょっと来いっ。」
父は私の耳を掴んだまま、事務室へ連れて行こうとした。私が父の手を振り解こうとすると父はもう片方の手で私の頬を力強くひっぱたいた。
「止めろっ」
浦田さんの怒声が天井に響いた。それは太く大きく、低く地響きのように聞こえた。浦田さんの大きな手が私の耳を掴む父の右腕を覆った。浦田さんが父の手首下を親指で強く押すと、父は呻き声を上げて手を離した。
「浦田、てめえ、何すんだ。」
父は後ずさりしながら右手首を抑えた。浦田さんの突然の反旗に対して狼狽している。浦田さんの表情は険しく、毅然と父を見下ろしている。よく見ると、浦田さんと父では親子程の体格差があった。
「おい、社長、お前いい加減にせえよ。」
浦田さんは顎を引き、肩を怒らせて父の方へ一歩進んだ。父が震えているのがわかる。私は高圧的な態度を取る浦田さんを初めて見た。
「何だ浦田、何のつもりだ。その態度は。俺はお前の雇い主だぞ。」
父の口調は恐怖でおぼつかない。父の身長は浦田さんの胸ぐらいまでしかなく、腕の太さは半分以下である。それでも、父は私の手前なのか、経営者及び父親としての威厳を示さずにはいられないようであり、鼻息を荒くしながら浦田さんをきっと見上げた。深緑色の旋盤が日没で黒くなり、土手からコオロギや鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。虫の鳴き声はこの張りつめた空間に対して何とも場違いに感じた。
「社長、そんなもん関係ねえよ。あんたに前から話したいことがあったんだ。ちょっと事務室行こうや。」
浦田さんは右肩を事務室の方へグイと上げた。
「幸ちゃんは家に帰れ。また明日な。」
私は立ち尽くしていた。父に叩かれた頰が赤く腫れていることに気付く。父は小刻みに頭を震わせている。恐怖によって憤怒が圧倒されているようだった。
「何だ、何の話だ。ここで言えんのか。」
「ええから黙ってついて来い。びびってんじゃねえぞ。」
憤然として浦田さんは父の作業着の襟をぐいと掴み、一気に持ち上げた。それはホイストクレーンが重量物を用意に昇降する様子に似ていなくもない。父は首を吊られて床から数ミリ浮いてしまい、爪先立ちになって必死に安定を保とうとした。
「わかったっ。わかったから降ろせ。幸子、家に帰れ。」
首が圧迫されて呼吸ができなかったのだろう。浦田さんが襟を離すと、父はの顔が急激に紅潮した。このような情け無い父を見たのは初めてだった。
「幸っちゃん。帰りな。」
浦田さんはもう私の方を見ない。初めて見る大人同士の諍いに怖くなった私は作業着を着て、更衣室で鞄に制服を詰め込むと、一目散に工場を飛び出した。扉の前で一度振り返ると、閉められた引き戸の磨りガラスから二人の入る事務室の灯りが漏れている。誰もいない作業現場は薄気味が暗く、窓から入る月明りで古い工作機械が不気味に鉛色の光沢を放っている。考えてみると私を除けば当事者同士しかおらず、人目をはばかり事務室に移動する意味がないのではと思う。
その夜、父は帰宅しなかった。
翌日、授業を終えていつものように工場に入ると、浦田さんがいないことに気付いた。これまで浦田さんが会社を休むことは一度もなかったので、私は驚きとともに胸騒ぎがした。作業着に着替え現場に行くと、工場の隅にあるボール盤で父が一人黙々と部品に穴加工を施している。浦田さんの作業台にはいつも置いてある工具やウエス、部品の加工図面がない。私は心配になった。
「御父さん、浦田さんは?」
父は私を無視して、黙々と作業を続けている。振り返ることすらせず、聞こえない振りをしている。
「ねえ、御父さん、浦田さんは?」
私はもう一度、今度はより張りのある声で聞いた。すると父は作業を中断して少し間を置いてからゆっくりと振り返った。私はぎょっとした。父の左目から左頬が青く腫れあがっており、目が充血しているのだ。頬の腫れが酷く瞳が右目の半分程度までしか開いていない。呆然としつつ、父は私を恨めしそうに凝視した。顔が病的に色白なので痣が余計に目立つ。
「お父さん、その顔…。」
恐る恐る聞く私の声を無視して父は話した。
「浦田はな、昨日付けで辞めたよ。」
「えっ。」
「辞めたんだよ。もう来ない。会うこともないだろう。」
父は独り言のように加工図面を見つめながら話した。私は父の説明がよく理解できなかった。アブラゼミの鳴き声がけたたましく響いている。窓から差し込む陽光が昨日から床に落ちたままの容器を寂しげに照らしている。浦田さんが会社を辞めた、もう会うことはない。私は父の発言を反芻してみた。これまでも、これからも工場に行けば浦田さんが額に汗を滲ませて働いている光景は、私にとって日の出や日没のように日常となっていた。それが唐突に断たれたのだ。以前、ぼんやりと考えたことのある荒野の境界線を一人で超えたということなのだろうか。私は焦燥と脱力を入り混ぜながら酷く喉の渇きを感じた。全身がだるいのだが意識は鋭敏になっている。私は父が次に発する言葉をじっと待った。浦田さんの担当していた旋盤は周囲に労働の痕跡ともいえる工具や図面、ウエス等が何もなく寂しげに佇んでいるように見える。父はそれ以上何も答えず、私を睨みつけてから、再び作業を開始しようとした。
「辞めたって何で?もう会えないって何?どういうこと?」
作業に戻った父は右手を添えていたボール盤のハンドルから視線を私に移した。唇が怒りで痙攣している。
「うるせえ。もう辞めたんだ。お前に関係ねえだろう。」
私は父が怖かったがどうしても聞かずにはいられなかった。
「何で辞めたの?何でもう会えないの?お願いだから教えて。」
「うるせえっ。うるせえんだよっ。これ以上あいつのことを話すな。不愉快だっ。」
父は声を荒げた。父の唇は乾いて白い皮が所々で垂れ下がっている。目は虚ろで充血している。骸骨に皮膚が辛うじて僅かについているように見えた。その異様な様子に私は一寸たじろいだが、怯まなかった。
「何で、何で?今浦田さんはどこにいるの?どうしたら会えるの?」
自ら発した言葉にはっとなった。私は浦田さんが工場の近隣に住んでいると聞いているだけで住所も電話番号も把握していない。今まで平日は毎日工場で顔を合わせていたので知る必要性がなかったのだ。浦田さんはあの日を除いて私生活についてほとんど語ることがなかった。だが、事務室には社員の住所録がある筈。住所録!私は心中で歓喜した。事務室には古い履歴書もあるだろう。浦田さんの連絡先を探すことができる。私は父に背を向けて事務室へ歩き始めた。数歩進むと、後方から何かが飛んできて、私の横にある資材用の棚にぶつかり、鈍い大きな音を立てた。それは長さが五十センチメートル、重量が三キログラム程あるプーリー抜き用のスラストハンマーであった。私は振り返った。
「幸子、これ以上あいつにかかわるな。ぶん殴るぞ。マジでなっ。」
父は唾を吐き散らしながら怒鳴り、再び作業を始めた。
「ちきしょう。あいつ。警察に突き出してやろうか。傷害罪じゃねえか。」
唸る父を見て私は諦めた。翌日、私は父の不在時に事務室へ入り、住所録を探した。ところが社員名簿は書類棚で見つかったものの、浦田さんの住所と電話番号の記載箇所だけが黒く塗りつぶされていた。退職した社員の履歴書のファイルも見つけたが浦田さんの分だけがない。抜き取られているのだ。いずれも父の仕業だろう。
私は二度と浦田さんに会うことはなかった。
私は工場を手伝いながら浦田さんからの便りを一日千秋の思いで待ち続けた。この工場が私と浦田さんを繋ぐ唯一の接点である。しかし、待てど暮らせど連絡はない。浦田さんが退職してから工場には私と父しか働いていない。父は一層やつれ、没落していった。人手が足りないのに補充するだけの利益が出ていない。部品を加工できる戦力が父一人なので療養で休めば納期が遅れて売上が更に落ちる。売上が落ちれば仕入先への代金が支払えなくなる。支払が滞れば原材料を購入できなくなる。原材料を調達できなければ製造が成り立たない。故障した機械を修理する予算もなく生産性は悪化する一方。学生の私から見ても悪循環、負の連鎖を理解できた。
高校三年生の晩秋のある夕暮れ、父は脳梗塞で他界した。虫の鳴き声がなくなり窓を閉めなければ夜風が寒く鳥肌が立つ日だった。私が事務室で伝票整理をしていると電話が鳴った。取引先から父宛の電話で、私は「お父さんですね。今替わります。」とうっかり答えてしまい後悔した。父は日ごろから仕事の関係先に私が「お父さん」と呼ぶことを禁止している。仕事上の言葉遣いに厳しく「社長」もしくは「父」と呼ばせており、「お父さん」とうっかり使ってしまうと叱責されるのだ。父に聞かれていないか心配した。私は事務室の隣にあるバリ取り用のスペースで作業をしている父に声を掛けた。父は木製の小さな椅子から崩れ落ちるように仰向けで倒れていた。わずかに開けた窓から風が入り犬の遠吠えのように音を立てている。グラインダーの砥石は回転したまま空を切っており、研磨する対象も無く父の手に握られたままだった。父の痩せこけた白い手に添えられるように油と汗で変色した灰色の帽子が落ちている。切れかかった蛍光灯が父を照らしていた。周囲の工作機はほとんどが埃をかぶり、旋盤とボール盤、フライス盤しか使われていない。床には壊れた工作機から油が漏れており、僅かな亀裂の中へ逃げ込むように流れていこうとしている。外は真っ暗で遠くに街灯がポツリと見えるだけ。私は自分の吐息が少し白いことに気付き、我に返った。救急車の呼び方が良く分からないので、工場を飛び出し隣の工場に助けを求めた。駆け付ける近隣工場の関係者、救急車、病院、葬儀場。目まぐるしく時間は経過した。
遂に浦田さんの予見通りになったのだ。
父が亡くなると工場は閉鎖された。私は伯父に引き取られたものの、高校を卒業するまでの数カ月、経済的な理由で親族間をたらい回しにされた。伯父は父が会社の経営のために金融機関から借り入れた資金の返済に関する保証人になっていたようで、私に対しては優しかったが、家族もおり養育する余裕はないようだった。私には将来を悲観する余裕がなかった。近隣の親族に引き取られてから間もなく就職活動の時期を迎えた。浦田さんの助言通り、担任の推薦で学校に求人を募集してきた企業へすんなり就職することができたのだ。この町から三十キロメートル程北にある独身寮付きの金属加工会社で、NC工作機械の運転技術も働きながら習得できるという。父の他界から就職まで月日は目まぐるしく変わり、親族間の行き来はあまり苦にならなかった。ただ、工場が閉鎖されたことで、浦田さんからの連絡の可能性は絶たれた。
高校卒業後の三月末、私は就職先の独身寮に転居した。引っ越しの当日、叔父が周囲に田畑の広がる最寄りの無人駅まで自動車で送ってくれた。
「幸っちゃん。元気でな。借金の保証人にだけはなるなよ。」
伯父は冗談のように笑って私を見送ったが目つきは険しい。私は転居先まで送ってほしいとは言えず、作り笑いをしながらこれまでの恩義に対する拙い礼を述べた。電車の扉が閉まると伯父はそそくさと踝を返した。親族に会うことはもうないだろう。
私は単線の北へ向かうディーゼル車に乗り込む瞬間、ホームの白線を跨いだ時、これがあの時心に浮かんだ自立への境界線なのだろうと考えた。

「どさっ」
窓の外で大きな音がした。嘴太烏が枝から枝へ飛び移る時に積もった雪が揺さぶられて落ちたのだ。カーテンを閉め忘れた窓から鳴き声が見える。今は何時だろう。どのくらい寝ていたのだろうか。午前だろうか午後だろうか。付けっ放しのラジオが聴こえる。私は布団に包まり仕事と住居があることのありがたさをあらためて身に染みて感じた。座卓の置時計を見ると二時間も寝ていないことがわかり安堵する。私は再び瞳を閉じた。
「…ペンネーム『田舎もやし』さんからのお便りです。今日は成人式ですが僕は仕事です。僕は会社の倉庫で商品を入荷したり出荷したりする作業を毎日繰り返しています。腰が痛いです。夏の倉庫内は蒸し風呂のように暑くなり、冬はコンクリートの床から凍るような冷気が昇ってきます。今年の目標はフォークリフトの免許を取得することです。仕事は辛いですが倉庫では一日中ラジオが流れていて楽しいです。それではまた。『田舎もやし』さん、ありがとうございます。仕事場でラジオが聴けるんですね。今も聴いているのかな?頑張って下さい…。」
田舎もやし。松尾君のペンネームだ。松尾君はどうしているのだろう。まだラジオに投稿しているのだろうか。高校を卒業してから就職したのだろうか。そんなことを考えながら私は再び深い眠りに入っていった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 1467