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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第2回   工場 一
ウィーンウィーン。シュ、グイーン、グイーン、ガガ、ガガ、ヒュッ、シュー。
「…続いて交通情報です。情報センターの佐々木さんどうぞ。おはようございます。佐々木です。高速道では入江インターチェンジ付近で昨晩に発生しました軽自動車とトラック、乗用車計三台による玉突き事故の後処理により上り二車線のうち追い越し車線が規制されて片側通行になっております。渋滞は発生しておりません。続いて一般道です。県道九号線は酒詰橋付近で実施している水道管の工事のため下り車線が規制されている影響により五分程度の渋滞が発生しております。以上、交通情報センターからでした。佐々木さん、ありがとうございます。次の交通情報は六時にお伝えします。次はショッピングコーナーです。本日ご紹介するのは昭和歌謡の名曲を全五十曲、十枚入のCDボックスにてお届けする「懐かしの名曲ベストセレクション」。昭和の伝説的な作詞家による特別インタビューが付録という特典付きです。販売価格は税込み一万三百円。受付電話番号は…。」
その時、工場のチャイムが鳴り響いた。構内の壁に掛けてある埃まみれの古い時計を見ると午前五時。プレハブの壁の隙間から凍てつくような真冬の風が入ってきて、犬の遠吠えのように悲痛な音を立てている。NC旋盤のシャッターの開閉ボタンを押して、加工物を挟むチャッキングの解除ボタンを押した。「プシューッ」という圧力が抜けた音がして油圧で円形の加工物を固定していた鉄製の三つの爪が外れる。私は加工物を素早く取り出した。切削時に加工物に自動で供給していた切削用の工業油が付着していてぬるぬるとした感触がある。比喩し難い独特の臭いが漂う。加工物は工作用刃物による切削時の摩擦でまだ温かい。私は白い息を吐きながら、ノギスと栓ゲージを使い加工物の外観検査を行った。円筒形の加工物は直径八十ミリメートル、全長五十ミリメートル。端面の中心から内径三十五ミリメートルの穴加工を施してあり、外周には全長の中心部から段付状の加工と側面にボルトを挿入するためのタップ加工が施してある。私は加工物をゆっくりと新聞紙を敷いた水色のトレーに載せた。油の付着した新聞紙の断片には「大学センター入試 今年も大雪」という見出し。私はトレーを台車に載せて「Dライン」と呼ぶ複数の工作機械と搬送コンベアが連結した製造ラインへ移動させようとした。その時、機械と機械の間の通路に横百センチメートル、縦五十センチメートル程のポスターが落ちていて、行く手を阻んでいた。このポスターは一カ月に一度の割合で落ちる。いつも工作機械横のボードに貼付しているのだが、テープの粘着力が弱まっており、貼り直しても暫くすると剥がれてしまう。新しいテープに張り替えればよいのに、誰も直さない。誰もが「いつか誰かが替えてくれるだろう。」と思っているのだ。一度台車から手を離して、ポスターを貼り直す。四隅のテープを力強く親指の先で擦るのだが、黄ばんだテープの先は捲れかけており、今にも再び落ちそうで心許ない。白地のポスターには「五S(整理)(整頓)(清掃)(清潔)(躾)の徹底」「労働災害撲滅へ」と大筆で書かれている。ポスターの横に視線を移すとA三サイズの用紙に縦の棒グラフがあり「不良品発生率 十月〇・一%  十一月〇%  十二月〇・ニ%」という表示。「〇・二」という数値で視線が止まる。
「おい、川島。」
棒グラフを凝視していたら後ろから声がした。振り返ると副長だった。
「あがりだぞ。日報書いたらさっさと帰りな。」
私は作業用帽子の鍔を右手で少し上げて、軽く一礼して台車を動かし始めた。副長は台車の載せた部品を一瞥して事務所に戻ろうとしたが、何かに気付いたようで踵を返した。
「もう少しラジオの音量を下げろ。主任に見つかったら面倒だからな。」
私は慌てて作業着の胸ポケットのボタンを外し、中にある掌大の携帯ラジオの電源を切った。
「いや、別に消さなくていいよ。他の作業員に聴こえないようにしてほしいだけだから。ちくる奴がいるからな」
「もう帰るからいいですよ。すみませんでした。」
副長は事務所に戻らず目を細めて私を見ている。ボロボロの帽子を被り、機械油で汚れた上下の作業着姿。特に袖の先は真っ黒だ。中肉中背で、顎には無精髭が生え、帽子から出ている髪は脂ぎっている。片耳には鉛筆をかけており、胸ポケットからは煙草のソフトケースが見えた。黒色の安全靴が電球に照らされて黒光りしている。白い息が微かに口元から出ているのがわかる。
「そういえばお前、今二十歳だよな?」
私は急に何を聞き出すのかと思った。納期の短縮でも指示されるのかと考えていたからだ。
「はあ、そうですが。」
「今日、成人式じゃねえのか。」
「えっ。」
私は顔を上げた。電球の灯りが眩しい。
「だから、成人式だよ。公民館とかでやるやつ。行かねえのかい?」
私は少し考え込んだ振りをしてから答えた。
「…行きません」
「え、行かないの?」
副長は意外そうに目を丸くして私の顔をじっと見つめている。私は少し困惑した。副長は通路の横にある六角レンチを右手に持ち、その先を指で徐になぞった。その時、構内放送のベルがスピーカーから鳴り響いた。副長へ事務所に戻るよう促す合図である。副長は慌てて私に背を向けた。一度振りかえり、
「考えてみればそうだなあ、夜勤明けだし、明日も夜勤だからなあ。」
と言って戻って行った。
私はDラインに台車を移動させた後、作業台の横にある事務机の椅子に腰を降ろし、蛍光灯を点けた。引き出しから複写式の製造日報とボールペンを取り出す。日報を書こうとしたが指先が冷えてボールペンを上手く握ることができない。作業ズボンの右側のポケットから懐炉を取り出して両手を温めてから、ようやくペンを握る指先が安定した。
「製造日報/日付:一月九日/勤務時間:PM八時〜AM五時/所属部署:製造部加工ニ課/氏名:川島幸子/担当製造工程:Cライン/作業内容:切削加工/製造製品:型式AQ136S 部品管理番号789654/加工数量:百七十個/ 詳細内容(気付いた点)…」
途中まですらすらと考えずに記入していたが、「気付いた点」で筆が止まった。周囲には誰もいない。他のラインを担当していた工員達は既に更衣室へ行ってしまったようだ。私は立ち上がり先程まで操作していた工作機械を眺めた。縦、横幅、高さいずれも二・五メートル程の旋盤である。ケーシングが白色なので所々に手垢が付着しているのが目立つ。加工物を出し入れする引き戸の扉は透明で、加工物を切削する主軸、主軸の位置決めを行うX軸、Y軸、X軸、θ軸が見える。一通り機械の中を観察してから再び事務机に戻った。
「気付いた点:時折、ウィーンというような異音がする。共振とまではいかないが何かが振動しているかもしれない。どの軸かは不明だが、スピンドル(主軸)もしくはY軸の可能性があると思われる。気付いて機械を止めようとする頃には異音は止まっている。加工後の寸法を測定すると図面通りの数値のため現時点で特に問題はないと思われるが、最近に気にしている。以上。」
複写式の日報の一枚目を自分のファイルに綴じて工作機の横にある棚の小箱の中に入れて、もう一枚は提出用のファイルに綴じて黄色のプラスチックケースに入れた。黄色のケースは定期的に事務室の管理職へ提出するためので「通い箱」と呼ばれている。
私は日報を記入していてふいに心配になり、再びDラインへ運んだ加工物を見に向かい、デジタルノギスで穴径を測り直した。穴の公差は加工図面通り規格H七の範囲内であったが、別の位置からもう二回測定して、問題ないことを確認。今度はダイヤルゲージで外周を測定したが、こちらも公差の範囲内である。工作機に貼付してある表の不良品発生率がどうも気になってしまう。気が付くと五時半近くになっていた。日報を記入する時間も労働時間に含めてもらえれば五時十分にタイムカードを押すことができるのに。私は更衣室へ向かうため工場の真ん中の通路を足早に歩いた。五百平方メートル程の東西に長い長方形状の工場は天井まで十五メートル程の高さで、天井には重量物を移動するためのホイストクレーンが垂れ下がっている。天井には窓が数箇所あり、強い風が吹く度にガタガタと音を立てて揺れる。私は構内を通過している途中で、先程まで稼働していた工作機械から排出された切削後の鉄の切り屑が溜まっていることに気付いた。シャベルですくって一輪車で工場裏の廃材置場に廃棄しなければならない量である。しかし、労働時間外になってまで作業をしたくないので、そのままにしておくことにした。次の日勤の担当者に片付けてもらうことにしよう。後任はきっと怒るだろう。「川島の奴、切粉(きりこ)を捨ててねえなっ。」と。私だって前任者が溜めた鉄屑を真夜中に手が悴みながら毎日運んでいるのだ。今日くらい許してもらえないだろうか、と自分に言い聞かせる。
更衣室は工場の南側にある購入部品を保管する倉庫の二階にあり、女性の更衣室は男性用の奥隣にある。作業着のボタンを外していると、先程日報に記入した機械の異音が再び気になり出した。工務保全課に直接伝えた方が良いだろうか。日報には異音について記載したので課長が一読してくれるはずだ。だが、課長が見落としていたらどうしよう。翌週になれば、今週提出した日報に課長名の印鑑が押印されて、まとめて返却される。課長が読みもせず事務的に捺印していることもあるだろう。やはり、直接所属部署の上司に報告だけはしておこう。私が決意した時、薄いベニヤ板で仕切られているだけの隣の男性用更衣室から声が聞こえてきた。三十代と五十代の同じ加工課に所属する二人の工員だ。どちらかが喫煙している。天井まで仕切の板がなく三十センチメートル程空いているので白煙がもやもやと上がっており、ヤニの臭いが伝わってくる。私は気配を出さないよう静かに着替えた。
「おい、あの納期は何だっ。」
「ああ、無茶苦茶ですよ。出来っこねえっす。」
「営業が何でも無理な納期で注文とってくるからだ。」
「そうっす。生産管理も営業に言われた通り指示してきやがる。何考えてんだか。」
「やってられねえな。こんなクソ忙しいのにまた冬のボーナスなかったじゃねえかっ。」
「月給だってここ数年全く上がってねえっすよ。税金だけ増えるから実質的に給与減ってますよ。」
「はああ、眠くなってきた。やっぱ夜勤はこの歳になると堪えるわ。」
「でも、夜勤の方が金はいいじゃないすか。」
「はあ、まあそうだけどよ。でも昼はやっぱり長く眠れねえな。どうしても一、二時間毎に起きちまう。」
「歳なんじゃないっすか。」
「失礼なこと言うな。俺はまだ五十だぞ。そう言えばお前、先週行くっつてた新台入替のところ、どうだった?」
「何ですか、なんか言いましたっけ。」
「パチンコだよっ。」
「ああ、行きましたよ。全然駄目。今月もう金欠っす。」
「そうか、俺は勝ったぞ。」
「競馬ですか。」
「三連単当てたぞ。」
「マジでええっ。」
「十万だぜ。外れ馬券もかなりあったけどよお、まあ五万円は儲けたな。」
「少しわけてくださいよお。」
「それがよ。その後いつものあそこに行って気持ち良く抜いてもらったら…。」
「ちょっと、ちょっと、待って下さい。川島が向こうにいるかも。」
「ああん?川島?あいつはまだ現場じゃねえのか。まあいいや。それにしてもクソ寒いなっ。ストーブぐれえ置けってんだよ。」
「経費節減つっても限界がありますよ。これじゃあ労働意欲も湧きません。」
「お前、川島のとこ行ってあっためてもらえ。」
「俺が?勘弁して下さいよっ。あんな女。」
「ギャハハハハハハ。」
私は縦に細長いロッカーの扉を開けたまま息を潜めていた。あの男達は私が更衣室に入ったことに気付いていないのだろうか。もしくは気付いていて話しているのだろうか。私はそっとハンガーに作業着を掛けた。彼等が着替える度に床が軋む。私が入室した時の扉の開閉音は伝わっている筈だが、お喋りに夢中で気付かなかった可能性もある。どうしたら良いだろう。力一杯にロッカーの扉を閉めて、その音で私の存在を悟らせようか。もしくはこのまま静かにしていて彼等が帰るのを待とうか。こんなことなら機械の異音なんかで逡巡せず、さっさと着替えて帰れば良かったのだ。そもそも何故私が気付かれないよう息を潜めなければならないのだろうか。腹が立ってきた。そして寒い。私は再び懐炉で両手を温めたとき、自分の手をまじまじと見た。指は機械の油で黒くなり荒れている。痒いので睡眠中無意識に掻いてしまい、火傷のように爛れたような跡が残っている。特に右手の親指と人差し指が酷い。部品の出し入れで良く使うからだ。肌荒れの対策として一度ゴム手袋を使用したことがあったが手袋の指先が機械のチャッキングに挟まり抜けなくなりかけたことがあったので止めた。爪に詰まった汚れは石鹸で洗っても落ち切れず黒く残っている。私はバックパックのポケットから軟膏を取り出して満遍なく両手に塗った。そして、男性工員達が退室するまで待つことにした。
「話しを戻しますけど、何でこんなに忙しいのに給与が上がんないんすか。夜勤と残業が無ければマジで生活できないっすよ。」
「製品を短納期で安売りばかりしているからだよ。薄利多売ってやつだ。」
「何で営業の野郎どもは安売りするんすか。給与上げてほしいっすよ。ああ寒いっ。」
両手を擦り合わせる音が聞こえる。
「そりゃお前、安く短納期で売らねえと仕事を他の会社に取られちまうからだよ。俺らみたいな数百人規模の町工場に毛の生えた程度の会社なんてどこにでもあるし、同じような部品を造るところなんていくらでもあんだから。」
「なんかいい手はないんすか。会社辞めたいっすよ。社食は不味いし。ああ、寒いっ。」
「それは製造の俺達の考えることじゃなねえな。他の会社に真似できない製品を開発するこった。経営者、それが駄目なら設計、営業の考えることだ。付加価値ってやつだ。」
「なんか前にも同じ話しをしてませんでしたっけ。お先真っ暗ですよ。俺なんか独り者だからまだいいですけど、子供が二人いて生活きつくないんすか?」
「厳しいに決まってんだろ。かみさんが介護施設で働いてっから共働きだけどよ、それでもきついぜ。煙草は値上がりするしよぉ。」
「馬券買ってる場合ですか。」
「俺の唯一の楽しみだぞ。あ、あと酒と風俗な。誰にも文句は言わせねえ。まあ、でも息子は去年独立したし、娘はあと一年で専門学校卒業して就職するからあともう少しだな。」
「ご苦労様でしたね。」
「まあな。お前はどうなんだ。三十過ぎただろう。結婚しねえのかい。誰か相手はいねえのか。」
「いないっすよ。いてもこんな安月給じゃ結婚できねえっす。工場は男ばっかだし。」
「川島がいるじゃねえか。」
「だから、あの女だけは勘弁して下さいよっ。」
「ギャハハハハハハッ。」
「生産管理や営業なら女の社員がいるんですけどねえ。あと組立。うちの会社は部署間の交流がないから。」
「そうか、寂しいなあ。」
「娘さん俺に紹介して下さいよ。」
「馬鹿言えっ。お前なんかに会わせるかっ。」
「俺と結婚させて下さいよ。俺は真面目ですよ。競馬やらないし。」
「毎週パチスロ打ってんだろっ。お前みたいな貧乏人と結婚させられるか。」
「ギャハハハハハハッ。」
一体、いつになったら退室するのだろうか。私は呆れた。時計の針は既に六時を指していた。気付かれないようにそっと帰ろうか。いや、ここまで待ってまで痺れを切らして出たら彼等も出てきて廊下でばったり出くわしそうだ。私はもう少し待つことにした。
何気なく更衣室の東側の壁に視線を向けると会社のカレンダーが貼られていた。カレンダーには会社の製品が掲載されている。一月は昨年末に発売したばかりの新製品で写真の下に特徴を大きな横書きのゴシック体で紹介している。
「BC8Xシリーズ 業界屈指の高剛性・低慣性を実現 最大8〇〇〇〇N・mまで対応!。」
この新製品の一部に私が加工した部品が使われている。この製品をどのようなユーザーが使用するのかわからないし、興味がない。おそらくは機械製造会社だろう。組立にも興味がなく、関心があるのは加工だ。それも切削。私は設計の作図通りの正確な加工精度を追求している。
「さあ帰るぞ。一杯やりてえなあ。」
「朝ですよ。どこにそんな元気があるんすか。」
「なんか夜勤明けは体力の限界を通り越して妙なテンションになるんだよ。」
「六時から飲める店なんてこの辺にないですよっ。」
バタバタと足音を立てて二人が階段を駆け降りていくのがわかる。彼等が忘れ物を取りに来る可能性を想定して、私は五分程待ってから退室した。
階段を降りると早足で工場内の事務室に向かった。
「何だお前まだいたのか。」
事務室に入ると副長は驚いた様子で私を見た。室内には事務机が八台あり本棚が西側に置かれて図面や伝票の分厚いファイルがぎっしり整然と並べてある。部屋は二十畳程の広さ。木の床は所々が腐っており歩くと弾力がある。副長の机の灰皿には吸殻の山ができていた。奥の机では製造課長が書類に目を通している。課長は管理職のため直接機械を扱うことがないので、作業着姿だが私や副長のように油で汚れていない。白髪で後頭部が禿げ上がっている。通常勤務の場合出社時間は午前八時なのだが、いつも二時間以上早く出社して新聞を耽読している。この新聞は機械関係の製造事業者が購読している専門紙である。私はほとんど読んだことがないが、加工の原材料である鋼材の市場価格の変動が毎日紹介されており課長はいつも気にしていた。
私は機械の異音について副長に報告した。副長は両手で後頭部を支え、椅子の背もたれに寄りかかりながら天井を見つめた。そして大きな欠伸をした。課長が書類を読みながら私の報告に聞き耳を立てているのがわかった。
「わかった。保全課には俺から話しておくよ。でも、音がするだけで加工した部品の品質に問題はないんだろう?」
副長は胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
「はい、寸法を細かく測定しましたが、図面通りの加工精度でした。」
「だったら暫く様子見だな。問題ないのに修理業者呼ぶと点検だけで金とられんだろ。この前だってマシニングセンターの点検で三時間見てもらっただけで八万だぜ。経理課がまたうるさいんだよ。なんですぐに業者を呼ぶんだって。こっちだって心配で頼んでんのによ。まあ、でも早めに教えてくれてよかった。ちょっと待っててくれ。まだ時間良かったか?」
「はあ、いいですよ。」
マシニングセンターとは工具を自動で交換する機能があり、中ぐり加工、穴あけ加工、タップ加工、フライス加工等の異なる加工作業を自動で行う工作機械の総称である。副長は立ち上がり今のやり取りを課長に報告した。課長は資料を持ったまま事務室の窓からじっと製造現場を見ていたが、何かを判断したようで、書類棚から水色の分厚いファイルを取り出して私に見せた。それは今私が担当している部品の加工図面の一部を改定した更新図面だった。初めて見る図面番号が記載されている。製造部門の承認項目に「未承認」と課長名で押印されていた。
「川島、設計からこの加工精度で制作できないかと依頼がきてるんだがどう思う?」
私は図面の内容をじっくり見た。副長が私の隣に来て図面を覗き込んだので副長の頭が影になって見えにくい。私は目を細めて仕様を確認した。課長とは滅多に話す機会がないので緊張する。全体的な加工精度自体は先程まで製造していた内容と変わらないのだが、軸穴径φ三十ミリメートルの公差を見て驚いた。従来のJIS規格(日本工業規格)であるH七公差の+〇・〇ニ一〜〇ミリメートルに対して、課長が提示した更新図面は穴公差がH六の+〇・〇一六〜〇ミリメートルと記載されていた。現行の図面よりもより精密に加工しないと達成できない精度である。私は唾を飲んだ。
「この公差は厳しいと思います。」
副長も私に続いた。
「うん、厳しいな。これでは…」
「いや、川島に聞いているんだ。できるのか、できんのか。」
課長は副長を遮った。私は副長を横目で見た。緊張している私を助けようとしていたのだ。副長は困った顔をして黙った。私は続けた。
「できないことはないですけど…。」
「けど、何だ。」
私は自分の発するたどたどしい言葉一つ一つを自分で確認しながら答えた。
「今、この穴径を加工するのに、ええと、荒削りから本削りまで、三回の工程で切削していますが、H六に対応するには、この工程を、ええと、四〜五回に増やさないと、厳しいと思います。」
私の回答を聞くと、課長は渋い顔をして胸ポケットから眼鏡と眼鏡拭きを取り出し、磨き始めた。
「だろうな。」
課長は相槌を打った。
「それに、今の古い機械ではこれからどうなるのか心配です。まして、異音、つまり振動の影響は必ず問題になると思います。」
「だよな。」
課長は蛍光灯に眼鏡を掲げて、レンズに拭き残した手垢がないか確認した。
「まあ課長、それをやるにしても加工時間が伸びる分、当然製造原価に上乗せする必要がありますぜ。営業には販売価格を上げてもらわないと。我々は彼等が幾ら利益を乗せて売っているのかわかりませんけど。」
副長は誰に向けるでもなく嫌味っぽく話し、図面を指で弾いた。
「ところが、更にだ。」
課長は図面の公差の記載箇所を眼鏡の先セルで突いた。
「取引先は我々に対して努力目標として十ミクロン以下の精度を要求している。」
「十ミクロン以下っ。」
私と副長は声を揃えた。「以下」とはつまり〇・〇一〇から〇・〇〇一ミリメートル内の加工精度を確保するということになる。これまで経験したことがない精度だ。
「図面上はH六公差だが十ミクロン以下を目指してほしいということらしい。」
「一体どういうことですか。」
副長は腕を組んだ。私は取引先がこのような厳しい加工精度を要求する理由がわからなかった。加工時間が長くなり製造費が上がるだけである。
「この部品を使う機械は自動車部品、多分エンジンブロックの部品を加工するための工作機らしいんだが、自動車メーカーの要求が厳しいんだって。」
「無理ですよ。保証できません。」
「ところが、うちの競合先が同じ加工精度のサンプルと見積を取引先に出して来てるんだとさ。」
課長の話を副長は鼻で笑った。
「うちは新しい機械を買ってより高く売ればいいんじゃないですか。」
課長は図面を机に置いた。
「その競合先はウチの製品より三パーセント程度の値上げで見積を出してきたらしい。」
「全く理解できません。どうしたらその価格で売れるのか。ウチでやったら赤字の垂れ流しですよ。」
私も副長と同感であった。この厳しい仕様で数パーセントの価格転嫁に抑えるには、まず一回の段取りである程度まで加工できる複合加工機を導入する必要がある。だが、それだけでは不十分だろう。課長が口を開いた。
「川島もそう思うか?」
「より生産効率の高い工作機を入れないと厳しいと思います。でもそれだけでは…。」
「そうだな。製造ラインにロボットを入れて工程を自動化する必要がある。」
ここまで言うと課長は下を向いた。私と副長の顔が曇ったことを見て取ったようだった。
「まあ、先の話だ。第一、機械を購入する予算があるなら給与を上げろという奴もいるし。ウチには労組がないから経営者の判断になるだろうけど。今、川島が担当しているCラインの機械は稼働から十年くらい経っていて古い。ここ最近はフル稼働状態だからいつガタがきてもおかしくない。異音もその一つだろう。そろそろ機械の更新の時期かもしれん。このタイミングで製造ラインをある程度まで自動化できないか機械メーカーから提案があるんだよ。もちろん大規模な自動化に対応できる程ウチには予算がない。しかし、将来的には考えなくてはならんだろう。競争相手がいるから…。」
その時、奥の石油ストーブで温められた薬缶が勢いよく音を立てた。温度、湿度とも高い室内で私は段々眠たくなってきた。経営や設備投資の話になると尚更だ。私は「労組」の意味がわからなかった。問う気もない。課長は自分の話に夢中になっている。私は欠伸を我慢するため右手で口を抑えた。睡魔を逸らすために壁に貼付してあるJIS規格のボルトのサイズとネジ山のピッチの古い一覧表を上から順に黙読してみたが、ますます眠たくなってきた。
「あのう…。」
「ん、何だ。」
話を遮られた課長が私をジロリと睨んだ。副長は課長の演説じみた話を真剣に聞いているようだった。
「もう、帰ってよいでしょうか。」
時刻は既に七時前になっている。日の出が近いようで、結露している窓が白くなってきていた。
工場の重い扉を開けると外は雪が降っていた。三センチメートル程の積雪で、駐輪場の横に植えてある百日紅の枝にも積もっている。平滑な樹皮はツルツルしており丸裸みたいで寒そうだ。私は古い社員寮に向かって自転車を漕ぎ始めた。
私の勤務する工場は何の特徴もない町の隅にある工業団地の中にあり、社員寮は工場から自転車で田畑を抜けて二十分程かかる。横殴りの強い風が逆風となって進行を妨げた。雨具を忘れたことを後悔したが、傘を持っていたら吹き飛ばされていただろう。サドルからお尻を上げて勢いよく力一杯にペダルを踏まないと前に進めない。工業団地を抜けると周囲は荒涼たる冬の田畑で一面が銀世界であった。遮るものが何もないので凍てつく風雪が容赦なく顔を叩いた。手袋に雪が積もっては暫くすると風で吹き飛ばされていく。私が走っているのは小さな畦道で遠くの県道では数台の大型トラックが北へ向かっている。鉛色の空を見上げると無数の雪の結晶が風に揺さぶられて、上下左右にふらふらしながら時間をかけて地上に落ちてくるのがわかった。毎朝この時間帯に聞こえるヒヨドリやオナガの喧しい鳴き声は一切聞こえない。ただ狂ったような風の音だけが私の鼓膜に向かって怒鳴り散らしていた。私は道脇の枯れ果てた水路に落ちないよう必死に風でぶれるハンドルを握った。
寮は田畑を抜けた住宅地の隅にある。私は通り道にあるコンビニエンスストアに入店し、朝食用にピーナッツバター入りのコッペパンを一つ購入した。もう一品何かを買おうと思ったが夜勤明けはあまり食欲が無い。レジで会計をしていると、右側の本棚の前で振袖姿の二人の女性が談笑していることに気付いた。二人とも私と同じ年頃に見える。駐車場に一台の軽自動車が止めてあり、二人のどちらかの車なのかもしれない。
「今日は成人式なんですね。」
レジ前で私が購入したパンを袋に入れている女性の店員が笑顔で話しかけてきた。五十代前半くらいで背丈は私より低い。
「ウチの娘も来年で二十歳なんですよ。」
「はあ、そうですか。」
店内は暖房が効きすぎており、疲労のせいで立っていると眠くなってきたが、私は取り敢えず相槌を打った。
「式は午後からなんですけど美容室がどこも混んでいて、多分こんなに朝早くから家を出ないと駄目みたい。」
「そうなんですか。大変ですね。」
店を出るとサドルに積もった雪を払い再び自転車を漕ぎ始めた。住宅街に入ると家や生垣が壁になり激しい風を防いでくれる。田畑の中を強烈な向かい風に阻まれながら進行していた時に比べて余裕が出てきた。私は先程の課長の説明を思い出した。工場の製造工程を極限にまで効率化していくと生産ラインはほぼ無人化されるだろう。そこでは私も副長も居場所がないのかもしれない。現在、加工する部品の生産工程によって区分けしているAラインからDラインまでの四ラインは私を含めて十人程度のオペレーターが担当しているが、自動化によってニ〜三人にまで削減できるだろう。自動化という技術の革新によって製品の品質を向上させつつ、生産性を高めることが当然の課題である。生産性を向上することで製造原価を下げて、市場での価格競争で優位に立つ。私の勤務する会社でそれができなくても、競合他社が高品質で廉価な同等品を短納期で投入してくれば、私達のような小規模の会社はいずれ淘汰されてしまうだろう。私は考える。無人化した生産ラインの機械全体を管理するオペレーターとして加工課に残ることができるのだろうか。もしくは無用になり生産管理課や組立課等の他部署に異動となるのかもしれない。他部署の人員が足りている場合に整理解雇の対象になったらどうしよう。そもそも、私が現在一人で担当している四軸のNC旋盤を導入する前は短軸の旋盤を三台併設して使用しており、三人で操作していたらしい。この内一人はまだ加工課の別ラインに在籍しているが残りの二人は退職している。三人で行う工程が一人で済むようになったためだ。もっとも二人の退職理由はより給与待遇のよい会社への転職だったと聞いた。今の私は工場の製造ラインが無人化していく過程の流れの中で抗うこともできず浮いているようなものなのかもしれない。
社員寮に到着した。寮といっても築三十年の二階建てを改築した木造アパート数棟を会社が借り上げたものである。私は女子寮の一階に住んでいる。同じ敷地の中に同じ規模の男子寮がある。部屋は南向きだが南側は杉林に遮られて日当たりは悪い。玄関に入ると右側に二畳程の小さい調理スペースがあり、流し台と二つ口のコンロが設置してある。左側は浴室、トイレ。奥には六畳間がありここで寝食する。テレビや冷蔵庫、空調設備等は備え付けで古い。両親のいない私にとっては高校卒業後の就職先として住居付であることが必須の条件だった。
軋む木製の扉を開けるとカーテンが閉めてあるので室内は真っ暗。いつものように玄関の靴箱の一番下に置いている懐中電灯で室内を照らしてまずカーテンを開ける。玄関に照明のスイッチがないためだ。窓ガラスに映る自分を見てジャケットに雪が積もっていたことに気付いたので、玄関に戻り雪を叩き落としてから懐中電灯を元の位置に戻した。この懐中電灯は中学生の頃、支給されたキットを使って工作の授業で製作したものだ。懐中電灯を見ると、当時唯一懇意にしていた男子生徒を思い出す。私は呟いた。
「松尾君、結局連絡してこなかったじゃん。」
風呂から上がり洗濯物を籠に入れた。洗濯機は玄関側の室外にある。洗濯機に衣服をいれて、寒さで体を震わせながら部屋に戻り、沸かしておいた薬缶のお湯をインスタントコーヒーの入ったマグカップに注いだ。湯気が立ち上りコーヒーの香りが漂う。私は熱くなったマグカップを持ち、冷えた両手を温めた。コンビニエンスストアで購入したパンを六畳間で食べながら外を眺めると、木々の間を雪がすり抜けるように落ちてきている。私はふと忘れていた携帯ラジのスイッチを入れた。そして、押入れから布団を出して、古く色褪せた畳の上に敷いた。夜勤明けに薄明るい景色を眺めながら、ラジオを聴いて藺草の微かな匂いの中で眠りに就く時が一日で最も幸福な瞬間だ。肉体労働による疲労が大きい程、深い眠りに入るのは早く、幸福感も大きい。
「…続いて天気予報です。今日の県内は昨晩から南下してきた寒波の影響により一日降雪が続きます。車で移動される方は必ず冬用タイヤを装着して下さい。夜になりますと路面が凍結するため運転には十分ご注意下さい。明日以降は晴れの日が暫く続きますが、来週は再び雪になる可能性があります。…ありがとうございました。続いて県内のニュースをお伝えします。県の発表によりますと昨年十二月の有効求人倍率は〇・七五倍であり前月に比べて〇・三ポイント改善しましたが依然として厳しい状況が続いています。今年三月に県内の高校を卒業する高校生の就職内定率は前年同月比二ポイント減の八十パーセントであり、五人に一人の就職先がまだ決まっていないことになります…。」
私はうとうとしながら布団の中でラジオのニュースを聴いていた。工業高校で機械加工の技術を習得したことで、住居付の今の会社に就職できたことのありがたさを噛み締めた。
物心がついたときから父子家庭だった私は中学校の二〜三年生のあたりから父親が経営する小さな工場の状況が芳しくないと気付き始めた。それは「人手不足」により私が工場の仕事を手伝うようになったからだ。「人手不足」と父は私に説明していたが、今振り返れば人件費のかからない身内の私にパートやアルバイトが行うような簡単な作業を私に手伝わせることで経費を少しでも抑制しようとしていたのだろう。
腕の良い旋盤工として身を立てた父は三十歳前に金属部品を加工する製造会社を設立して、最盛期には二十人近い社員を抱えていた。全盛期には社員の家族も連れて隣県の温泉地へ慰安旅行をしていた。しかし、バブル崩壊後、国内経済が出口の見えない長引く不況に苦しむ中、父の経営する工場も不景気の影響を受けて次第に事業を縮小してゆき、私が工場を手伝う頃にはパートを含めて社員は五人にまで落ち込んでいた。資金繰りに苦労する父がそのストレスからはけ口として私に怒りをぶつけるようになったのもこの頃からだろう。父が没落した最大の原因は国内の景気低迷ではなく、技術の革新に追従できなかったためである。今ならわかる。金属加工において工作機械のコンピュータによるNC制御が進む中、父は旧来の手動による制御から最後まで脱却できなかった。結果、より精密で生産効率を求める市場の要求に対応できなくなり、売上が減少していった。手動制御に拘ったというよりは、NC制御の設定技術を習得できなかったのだ。
遠くで声が聞こえる。
「…幸っちゃん。ウエス持ってきてくれよ…。」
「…川島さん、お父さんの影響で機械が好きになったの?」
何だろう。おそらく眠りに入る一歩手前で古い記憶が呼び起こされたようである。ラジオの求人に関するニュースが引き金となったのかもしれない。夢とも過去の出来事とも判断のつかない誰かの声が聞こえてくる。
「…今日は成人式ですね。スタジオに到着するまでに式典に向かうと思われる振袖姿の若い女性数人と擦れ違いました。雪なので大変そうでしたね。履きなれない草履で雪道を汚れないよう慎重に歩いていました。私が成人式を迎えたのは今から三十年前ですけど、どうだったでしょうか。私は確か出席しなかったですね。記憶にないので。あの頃は今程成人式が盛り上がっていなかったと思います。出席する人は地元で就職したり進学したりした人の一部だけでした。今は地元を離れた人が成人式のために一時帰省するみたいですね。さあ、ここで一曲お聴き下さい。海援隊で『思えば遠くへ来たもんだ』。」
どこかで聞いたことのあるパーソナリティの声。思い出すことができない。四十雀の鳴き声や烏が枝から枝に移る音が林の方から聞こえる。私は次第に深い眠りに入っていく。数時間前まで機械を動かしていたので、旋盤の鉄鋼を加工する切削音が耳の奥にこびりつき、切削油の臭いが鼻に残っている。
私は「あの頃」に戻っていた。


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