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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

最終回   再会
「何だ、お前等知り合いなのか?」
係長は立ち止り、私と松尾君を交互に見た。驚いて暫く動けなかった。松尾君も同様で私に顔を向けたままピクリとも動かない。
「おい、行くぞ。」
係長は興味を失い、顎をグイと奥の作業場に向けて私達を促した。私は動揺しながら係長の後に続いた。コンクリートの床を見つめながら松尾君と並んで歩いた。何を話してよいのか分らない。喉に渇きを感じる。二十年の歳月が私と松尾君を隔てていた。横目で松尾君の顔を見ると、私と視線が合わないように反対側の棚を見つめているのがわかる。モヤシのような細い体格と米のように細長い顔立ちは変わっていない。だが、かつては垂れ目で優しくも気の弱そうな瞳は鋭く険しく吊りあがっており、不信と警戒を常に意識したような眼差に変化している。おそらく無意識にそうなってしまっているのだろう。目尻には皺がくっきりと刻まれている。顔つきの変化は松尾君がこの二十年で経験したであろう辛酸を象徴しているように思えた。この人は今までどうやって生きてきたのだろう。私を見たときの驚きで露わになった素の表情に対して、社会経験によって蓄積された冷静さが恥じるかのように、再び感情を頑なに覆い隠しているように思える。
「あっ。」
松尾君の左手の指の甲が真赤に腫れていて、皮が剥がれている。出血した跡も見える。
「松尾君、その手、どうしたの?」
松尾君は驚いた様子で振り向くと、私の顔を見た。平静を装っているが警戒心が滲みでている。どう答えようか慎重に考えているようだ。
「え、ああ、ちょっと転んだんです。」
松尾君は急いで左手の甲を右手で隠した。よそよそしい言葉使いが気になる。私とは取引関係があり、クレームを起こしたからこんな態度を取るのだろうか。
「いつ転んだの?真赤で痛そうだよ。」
「さっきですよ。」
松尾君が咄嗟に嘘を吐いたことが何となくわかる。とても転倒してできる傷ではない。だが、それ以上は聞かなかった。鋭い眼光は余計な質問を寄せつけようとしない。礼儀正しいが腹の底では何を考えているのかわからない。松尾君は武森工業にずっと勤務していたのだろうか。この会社の包装袋を椚工業の推奨で本格的に使用してから五年近く経過するが、松尾君は何度も売り込みにきていたのだろうか。私は組立課に所属する末端の工員であり、役職も無ければ名刺もない。仕事上、社外の人と関わり合う機会は滅多になく、年に数回、突発的に外注先へ行く程度だ。もしかすると、私と松尾君はこれまで工場の中で擦れ違っていたのかもしれない。以前、ある時期に駐車場に同じバンが頻繁に停まっていて、中には武森化学のロゴが印字された段ボールが何箱も積んであったことを思い出す。あの時の営業マンが松尾君だったのだろうか。
梱包の作業場まで来ると、私は作業台の横に置いてある積み上がった段ボールの山を指差した。
「松尾君、確認のために何枚か抽出してほしいの。」
後方では係長が両腕を組んで見守っている。作業場の一番奥は製品の出荷ゲートがあり、トラックが工場の中にまで入ることができる。シャッター式の開き戸は開いていて外に中型トラックが停まっている。
「承知しました。すぐに取りかかります。箱を開けてもよろしいでしょうか。」
松尾君の大袈裟な恭しい態度に私は思わず噴き出した。
「松尾君、そんなに堅苦しくしないでよ。」
私は段ボールの近くにある窓のブラインドを開けた。午後の眩い光が差し込むと松尾君は目を細めた、黙っていたが小さな声で「うん」と頷いた。
「三田、いや川島。こいつは不良品を寄こしやがったんだから厳しくしろよっ。」
係長が厳しく対応するよう念を押す。
段ボールは六箱。松尾君は鞄から小さなカッターを取り出すと手際よく段ボールを開けては袋を取り出し、引っ張ったり、顔に近づけたりして強度の低さと異物の混入を確認していった。残念なことに八割近くが不良品と判断せざるを得ないだろう。
「ここ一年くらいで、急激に品質が落ちたみたい。気のせいかなと思っていたけど、先月から納品された袋は特に酷くて。遂には虫まで混入しているから係長が椚工業に報告したの。」
私は事実だけを淡々と説明した。松尾君は作業を中断して、申し訳なさそうに下を向いた。
「本当に申し訳ございませんでした。あらためてお詫び申し上げます。すべて回収します。今、営業車から台車を持ってきますのでお待ち下さい。」
松尾君は深く頭を下げると、段ボールに印字されている製造番号をノートに記載して、工場の外に出ようとした。
「松尾君、うちの台車を使いなよ。業務用に比べてうちのは特注で大きいから何往復もしなくて済むから。それと、言いにくいんだけど、段ボールはこれだけじゃないの。」
「えっ。そうなの。」
松尾君は顔を上げた。
「あのなあ、お宅の袋はウチの外注先にも支給してんだよ。」
係長が割って入った。
「椚工業向けの仕事は一部を外注に出しているんだ。孫請けってやつだ。」
五年前に加工部門を廃止して海外企業に製造を委託することで原価低減を図ってきたが、最近では組立工程の一部についても精度が不要の作業については外注を始めている。海外から輸入した加工品をこの工場で私達が組み立ててきたが、椚工業から毎年要請される値下げは問答無用で容赦なく遂に組立工程を詳細に検討した上で問題ないと判断した部品については県内の小規模事業者に委託することになっていた。外注しないことにはこれ以上社内で原価を下げることができないためである。五年前、組立作業は聖域とされており外部委託は考えられなかった。
「まあ、外注っつても、うちの社員が独立して起こした小さな会社だけどな。」
係長は悔しそうに話した。
松尾君はじっと話を聞いていたが、決意したように背筋を伸ばした。
「承知しました。それでは外注先に住所を教えて頂けないでしょうか。今から回収に行きます。」
松尾君は顔一つ変えず応じる様子を示した。
「でも松尾君、外注先の段ボールだって相当数あるよ。営業車では一度に全部積み込めないと思う。」
「大丈夫です。何往復かして少しずつ回収します。」
松尾君は毅然と答えた。
「そこまでしなくてもいいんじゃねえのか。もうこの工場の分だけ引き取ってもらってよ。外注先にある残りの箱は後日お前の会社に運賃着払いで発送させる、つう流れでどうだ。樋口さんに聞いてみるわ。あんまり虐めてどこかに訴えられても困るからな。」
さすがの係長も気が引けた様子で冗談を飛ばすと電話をかけるためにその場を離れた。私達はようやく二人きりになれたが、段ボールの前に立ち、お互いに顔を合わせることなく、居心地の悪さを感じるばかりだった。開いた窓から暖かい風が入り、困惑した私の身体を通り抜けて行く。段ボールの前には作業台があり、ガムテープやカッター、ゴム手袋、伝票等が無造作に置いてある。ビニールの紐が風でヒラヒラと揺れて、松尾君の左手に当たっている。
「本当に左手大丈夫なの?薬箱持ってこようか?」
松尾君は周囲を見回した。係長が戻ってこないのか気にしている。上下紺色のスーツに白色のワイシャツ、茶色の下地に白色と青色の線が交差するチェックのネクタイ、黒色の皮靴。地味な風貌で、徹底的に無駄を排除して作業を合理的、安定的に進めるためにだけ造られたこの工場に馴染んでいる。
「実はね、この傷、さっき上司と喧嘩してできたんだよ。」
松尾君は恥ずかしそうに話すと、右手の人差指で傷口を軽く突いた。
「えっ。そうなの?」
「明日にもクビになるかもしれないんだ。」
喧嘩というのは来るはずだったもう一人と関係があるのかもしれない。再び今後はまじまじと裂けた皮膚を眺めた。
「それでも、今日の回収作業はすべてやるから。心配しないで。」
松尾君は台車に乗せるため、ダンボールを通路側に一箱ずつ移し始めた。二十年前と変わらないモヤシのように痩せた背中を見ると、この人が殴り合いの喧嘩をすることが想像できない。
「何で喧嘩になったの?」
私は松尾君が抽出した袋をひとまとめにして、一枚の袋に入れた。
「ラジオを壊されたんだよ。」
「えっ。そんな事で。」
「そう、そんな事で。」
松尾君は無表情で答える。私は不良品に対する責任の所在で争ったと考えていたので驚き、呆れた。
「まだラジオは聴いているの?」
「うん。聴くだけ。投稿はほとんどしていない。」
松尾君はハンカチで額に滲んだ汗を拭う。組立の作業場から木槌で機械部品を叩いて組付精度を調整する音が聞こえてくる。
「川島さん、不良品の代替えはどうすればいいの?」
松尾君はハンカチをポケットにしまった。天井から差し込む淡い光の中で埃が舞っているのが見える。
「今回はイレギュラーなものだから、取り敢えず市販の袋で代用して構わないって椚工業から指示があったみたい。」
「その分の費用はウチで立て替えるから。」
「ごめん、それは上司に聞かないとわからない。」
係長が戻ってきた。何故か嬉しそうで目を大きく開き、顎を引いて、私を見る。
「今、樋口さんに電話で状況を説明した。駄目だってよ。何が何でも俺らの外注先を含めて、全部回収させろっつうことだ。今日中にな。怒り心頭でよ、意地になってんだよ。」
係長は顎をグイと上げ、勝ち誇ったように話した。
外注先のダンボール箱を合わせると松尾君が全て回収して椚工業に持ち込むには数回往復する必要があるだろう。外注先、この工場、椚工業の距離を考えると回収作業終了は夜遅くになる。そもそもその頃まで椚工業は就業しているのだろうか?松尾君のためだけに会社を開けておくはずはない。
「承知しました。一度、段ボールを椚工業に届けてから、御社の外注先に向かいます。」
松尾君はポケットから車のキーを取り出すと営業車に向かって歩き出した。
「いや、お前、そんなことしたら遅くなるぜ。効率も悪い。何時に終わるかわからねえぞ。」
「…私としましては、遅くなっても構いません。」
松尾君はダンボールの重さを確認するために一度持ち上げた。係長が戻ってきたので、再び殻に入り他人行儀の口調に戻っている。必要以上のことは口にせず、感情を表に出さない。
「お前がよくてもよ、こっちが迷惑なんだよ。お前のためにウチの外注先が夜まで工場を開けとくことはできん。樋口さんもその辺、考えてほしいなあ。」
係長が意地の悪い視線を松尾君に向ける。
「そこでだ、俺に考えがある。ウチの配送用のワンボックスを貸してやる。それなら一回で済むだろう。この工場のダンボールを全部積んで、外注先でも同様に回収して、そのまま椚工業に届けるんだ。終わったらウチに戻って、お前の営業車に乗り換えて帰れば早いんじゃねえのか?」
松尾君は係長の提案に驚いた様子で暫く目を丸くしていたが、言葉を選ぶように答えた。
「そんな。申し訳ないですよ。こちらがご迷惑をおかけしたのに。」
係長の言う通り、積載量の多いワンボックスなら就業時間内には全て回収できて、松尾君は帰路に就けるだろう。
「係長、何故、椚工業は今日中に回収させることに拘っているのでしょうか?不良品なのに直ぐに必要という訳ではないと思うのですが。」
係長は顔をしかめた。
「そんなのわからねえよ。ただ、樋口さん、珍しく感情的になってんだ。意地張ってさ。何がなんでも今日までに全品回収させろって。こいつらに何とかさせないと気が済まないみたいだ。まあ、恐らく、この袋は樋口さんが主導して普及させたから、プライドがあんだろ。」
午後の暖かい風が工場の中を通り過ぎていく。
「本当に、本当に車をお借りしてよいのでしょうか?」
松尾君は伏し目がちに聞いた。幌付きの中型トラックがトラックヤードまで入ってくる音が聞こえた。排気ガスの臭いとディーゼルエンジンの駆動音が作業場を覆う。
「もちろんタダじゃねえ。一つ頼みがある。」
係長は顎をグイと上げると、右手の人差し指を私に向けた。
「三田、いや川島を同行させる。手伝ってもらえ。んでな。椚工業に不良品を届けたら、ウチに戻る時に、三、いや川島を途中で降ろせ。保育園でいいだろう。川島は直帰でよい。自転車をワンボックスに積んどけ。スペースはダンボール箱があっても十分だろう。」
唐突な話に私は驚きを隠せなかった。
「え、そんなこと、いいんですか。」
係長は誇らしげに腕を組む。
「俺の判断だ。いい。お前、松尾っつったな。三、川島には小さな子供がいて大変なんだ。…母子家庭でよ。保育園はウチとインターチェンジの中間あたりにある。後で川島に聞け。悪いけど届けてくれ。」
松尾君の無表情な顔に動揺が広がり、大きく開いた瞳が私を見つめた。が、直ぐに感情は理性によって奥底に押し込められ、何かを発しようと一度開きかけた口は閉じられた。唇は真一文字に引き締まった。
「どうだ、保育園に届けてくれるか。」
「ええ、もちろんです。本当に助かります。」
係長はポケットからワンボックス用と思われる車のキーを取り出した。
「申し訳ないです。私の事は気にしないでいいんですよ。」
と言いつつ、内心では一人息子をいつもより早く迎えに行くことができるので気が楽になった。
「それじゃあ、さっさと行って来い。」
係長が松尾君をワンボックスに案内している間、私は台車に段ボールを積み上げた。それから更衣室のロッカーにある私服を通勤用のリュックサックに入れて駐輪場に小走りで向かった。駐輪場に植えてある百日紅の梢にツグミが止まっていて私を見ると慌てて飛び去った。工場の塀の外には木蓮の大きな花がびっしりと咲いていて、白い花弁が自転車の前籠に落ちている。私は麗らかな陽と風を浴びながら工場裏まで自転車を漕いだ。
「お前等、頼んだぞ。」
白色のワンボックスに段ボールと自転車を積み込み、出発の準備を終えて、私と松尾君が乗り込むと、係長は窓越しに顎を突き出し、私の肩を軽く叩いた。
「係長、ありがとうございます。助かります。」
「あいつに会えるな。よかっただろう。」
「久しぶりなんで緊張します。電話でなら何度か話しているんですが。」
松尾君はシートベルトを装着するとエンジンを作動させた。乗り慣れていない車種のためか、何度かアクセル、フットブレーキ、サイドブレーキ、シフトレバーの位置を確認して、座席の位置を調整する。
「おい、お前、運転大丈夫か?」
「はい、乗り慣れたバンより相当大きいので内輪差に注意します。」
松尾君はゆっくりとアクセルを踏み込む。袋が詰まった段ボールと自転車の重さでサスペンションが軋む。工業団地を抜け、トラクターによって耕される広大な田畑に果てしなく続く県道を通り、高速道路を目指した。松尾君が付けたラジオから古い歌謡曲が流れる。この車は金属製の機械部品を運搬しているため切削油の臭いが垢のようにこびりつき、煙草の臭いと混ざり、鼻に付く。ティッシュペーパーの箱、軍手、小さな工具箱、使い古した雑巾、小さく折り畳まれた地図がダッシュボードに無造作に置いてある。煙草の灰が助手席のフロアマットに落ち、ゴム製マットの所々には煙草の焦げ跡が残る。松尾君が運転席側の窓を数センチメートル開けたので私も助手席側を開けると心地よい風が入ってきた。
助手席で車に揺られながら私はやや緊張していた。免許証を持っていないので車に乗ることは滅多にない。別れた夫の隣に最後に座ったのが半年前である。横目で松尾君を見た。ハンドルを握る手の傷が痛々しい。甲には皺が目立ち、これまでの苦労を醸し出しているようにも思える。今は営業職でも以前は肉体労働だったのだろうかと思いを巡らす。私の中では、二十年前に土手の斜面で寝そべり、ラジオを聴きながら、夕空を眺めていたときの、あの非力な松尾君で止まってしまっている。地味なスーツを着て、怪我をした手でハンドルを握る隣の男があの松尾君と同一人物であるという事実をどうもうまく受け入れることができない。何より再会した直後に見せたあの冷酷な瞳が気になる。厳しい社会生活の中で心身がすっかり荒んでしまったのだろうか。連綿と続く田畑と裏腹に私達は四半世紀近い歳月の中で変わり果ててしまったのかもしれない。
「川島さん、良かったね。」
不意に松尾君が話しかけてきた。
「何が?」
顔を向けると運転に慣れてきたのか右手をドアの肘かけに乗せて、片手でハンドルを握っている。
「仕事。製造業に就けて。ものづくりに係りたかったんでしょ?」
口調は穏やかで視線は遠くの山々に向けられている。
「中学生の頃から御父さんの工場で仕事を手伝っていたよね。」
私は複雑だったあの頃の記憶を辿った。
「うん、でも希望通りという訳ではないわ。厳密には機械加工がやりたかったんだけと、色々あって今は組立専業なの。」
車はインターチェンジに入った。
「そうなんだ。僕にはその違いがよくわからないけど。」
「松尾君は営業職なんだね?なんか、すっかり変わったみたい。」
インターチェンジから本線に入るまで道が大きく湾曲しており、遠心力で身体が大きく外側へ引っ張られる。
「最初は倉庫で入荷や出荷、在庫管理の仕事をしていたんだ。倉庫内での作業ということで就職を決めたんだ。」
松尾君は懐かしそうに話した。
「ずっと同じ会社に在籍しているの?」
「うん、高校卒業してからずっと同じ会社。でも、本当は営業なんかやりたくなかった。人手不足で倉庫から回されたんだよ。」
今度は悔しそうに話す。車は高速道路を南下していく。晴天の下、田畑と雑木林が広がり、所々に農家や工場が離れ小島の様に点在する。煙突のある一部の工場からは白煙が立ち昇り、圧倒的な青色の中に吸い込まれていく。
「…やっぱり、営業なんか向いていなかったのかもしれない。」
松尾君には私の反応を伺う様子がなく、独り言のように話す。そして、思い出したかのように、今回の不良品について、経緯を松尾君なりの考察を交えて説明してくれた。聞いているうちに、この人は武森工業を辞めるつもりなのだろうと感じた。というのも、説明は虚偽がなく正直な一方、その言葉には会社の利益を守ろうとする姿勢が全く感じられない。どうせ退職するから後はどうとでもなれという投げやりな感情すら見え隠れする。椚工業向けの特殊な包装袋は一年半程前から、同社の承認を得ることなく一方的に武森工業が製造元及び品質を変更していた。その目的は製造原価の低減による利益の確保に尽きる。椚工業が毎年要請する購入資材のコストダウンへの対策である。原産国を人件費の廉価な国へ移すだけでなく、袋の厚みを薄くしたことで品質の劣化は決定的になった。羽虫、つまり異物の混入については製造元の杜撰な品質管理が原因だろう。コストダウンによる典型的な副作用だった。
「この一年間、何も起きてなかったのは奇跡的で、いつ起きてもおかしくなかったんだ。おそらく品質を下げる前の在庫分がはけるまでタイムラグがあったんだと思う。」
松尾君は吐き捨てるように言い切った。
「喧嘩した上司が品質を変えたの?」
松尾君は鼻の頭を掻いた。
「いつか、こんな事態になることはわかっていたんだ。でも、川島さんだってわかるだろう?会社勤めなんだから。上の人に逆らうと会社にいられなくなるんだ。特にウチはそういう社風なんだよ。」
言い訳がましくなく平然と答える。
「でも、喧嘩したのはラジオを壊されたからなんでしょ?」
「そう。」
私が吹き出すと、松尾君は苦笑いをした。ダッシュボードに薄っすらと埃が見え、陽光で砂粒のように光っている。ようやく、二十年の歳月によって聳え立っていた疑心と不安、緊張の入り混じる障壁が取り払われたようだ。私達は中学生のあの頃みたいに顔を合わせて微笑んだ。
「川島さん。一つ聞いていい?」
「いいよ。」
松尾君は少し間を置いてから聞いた。
「さっき、川島さんの上司が『三田』って何度も言い間違えしてたけど。何あれ?」
私は思いがけない質問を受けて返答に窮した。動揺を隠すように車窓に広がる遥か遠くの地平線を見つめた。澄みきった空に鳶の番いが悠々と旋回している。私はかつて今と同じように助手席に座り、同じ高速道路から同じ景色をやや緊張しながら眺めたことを思い出す。その時は、たしか北へ向かっていたが、今は南下している。私は軽く息を吸い込んだ。
「あのね、実は結婚して、子供も産んだんだけど、ま、色々あって離婚したの。それで…係長は、どうしても前の夫の姓で呼んじゃうの。」
「ああ、なんだ、そうだったんだ。」
松尾君は僅かに減速した。それ以上は何も聞いてこない。バックミラー越しに見ると少し困ったような表情で遠くを見つめている。交軽自動車、セダン、バン、ワンボックス、観光バス、トラック等が追い抜いていく。それら一台一台の運転手に生活がありその人の人生があり、様々な背景を抱えて生きているのだと思うと私の今の状況なんて砂粒の一つ程度だと割り切れるのかもしれない。
私は簡単に中学校を卒業してから今に至るまでの二十年を履歴書の経歴のように説明した。父の死去、就職、結婚、出産、そして離婚。感情を交えず時系列に話してみると自分の人生にほとんど何も目立つ出来事がないことに気付く。敢えて言えば離婚くらいか。松尾君は無表情で軽く頷きながら聞いている。
「それじゃあ川島さんは就職してから地元に戻ってないんだ。」
「うん、父が亡くなって家族はもういないの。親戚とは疎遠だし。松尾君はずっとあの町に住んでいるの?」
松尾君は首を横に振った。
「隣町に住んでる。会社が近いから。」
松尾君は腫れのやや引いた左手の傷を軽く撫でる。車内は暖かく、心地良い風が窓から入り、抜けていく。いつの間にか緊張はすっかり和らぎ、平坦な車窓からの景色をぼんやり眺めていると次第に眠くなってきた。赤子が揺籠で揺すられるように車の振動で睡魔におそわれる。運転してくれている松尾君に悪いので頻繁に瞬きをしたり、舌を軽く噛んだりして眠気と格闘していたがほとんど瞼を開けていられなくなってきた。おそらく寝不足だろう。まだ子供が夜泣きをするので夜中二、三時間おきに起きて寝かしつけているせいか、睡眠時間が断続的で熟睡できていない。工程と納期を厳守する組立現場の張りつめた雰囲気とは違い、陽光が柔らかく包むこの空間はなんとも気持ち良く、眠くならないのがおかしいくらいだ。ふと、中学生の頃、昼休みに図書室でプラタナスの木漏れ日を窓ガラス越しに浴びながら松尾君のたわい無い話を聞き、頬杖をついてうとうとしていた頃を思い出す。
「川島さん、眠いなら背もたれを倒して寝なよ。」
「ううん、大丈夫だから。」
と言いつつ、私は松尾君に気付かれないように左手でリクライニングレバーの位置を探す。
「一人で子供育ててるんでしょ?疲れているみたいじゃん。」
松尾君はフロントガラス上のサンバイザーを下げた。陽射しがやや西日になり眩しさを増している。
「それじゃあ、悪いけど少し眠らせてもらおうかな。」
私は冗談っぽく甘えるように答えると、背もたれを三十度程倒したが、しっくりこなかったので大胆に五十度近くまで倒した。
不思議な気分だった。職務中、突然二十年振に再会した友人の横で午睡を取る。瞳を閉じて暫くの間は緊張して意識が冴えていたが、車の振動と陽光、春風の中でやがて私は眠りに入った。松尾君は私のこれまでの道のりについて多少は疑問に思うことがあっただろう。それでも、彼は詮索しようとせず、昔のままだった。もしくは相変わらず他人に対して興味がないのかもしれない。私はそんなことを考えながら意識が遠のいていくのを感じた。
断片的な夢を見た。
微かな光が見える。どこかの室内の照明を前にして眩しい。病院だろうか。
「幸子、お疲れ様。本当に良く頑張ったな。」
「うん、うん、男の子だって。」
「ああ、元気よく泣いている。」
「うん、顔が皺だらけだね。」
「…三人で、これから楽しくなるな。」
「うん、楽しみだね。」
周囲は幕が下がるように暗くなる。私は漆黒の闇の中で光を求めて飛び回る羽虫のようにうろたえた。どこだろう。気が付くとカーテンの隙間から月明かりが見える。
「ぎゃあああ、ぎゃああ、ぎゃああ。」
「…幸子、きついな。二時だぞ。」
「ご、ごめんなさい。オムツ変えて、おっぱいもあげたんだけど…。」
「ぎゃあああ、ぎゃあああ、ぎゃああああ。」
「…明日も仕事があるんだ。」
「私も保育園に預けたら、仕事だけど。」
「ぎゃあああ、ぎゃあああああ。」
「チッ。」
再び場面が変わる。今後は眩い光が室内に入る。早朝だろうか。
「…忙しいのによ。何で食わないんだ。」
「まだ、小さいからわからないのよ。そんな言い方しないで。」
「ううう、ううう。」
「ちゃんと食えっ。」
「そんな無理強い止めて。」
「わあああああん、ぎゃあああ。」
「食えっつてんだろっ。」
「お願い止めてっ。叩かないでっ。」
今度は舞台が職場に移った。私は憔悴しきっている。
「お前、どうしたんだ。大丈夫か?」
「…ええ、係長、大丈夫です。」
「大丈夫じゃねえだろう。さっきな、三田が突然だぞ、退職届を持ってきやがった。腰を抜かしたぞ。」
「…はあ、そうですか。」
「『はあ』じゃねえよ。お前と子供がいんのにどうすんだって聞いたら『離婚する』って言いやがった。地元に帰るんだとよ。」
「…そうです。その通りです。」
「んで、聞きにくいんだけど。川島、いや三田、いやどう言ったらいいのか。お前はどうするんだ?」
「…私は、このまま、ここで続けさせて下さい。お願いします。」
「お前それで子供と二人で生きてけんのか?本当にやつれてんぞ。」
何度も同じ夢を見てきた。不思議なもので、子供が生まれるまで普段は温厚な夫の深淵に潜む抑制できない感情の急激な高ぶりを見出すことができなかった。赤子に大人と同じような生活ができるはずがないし、それを求めても無意味だろう。成長するに連れて自然と覚えていくものとして割り切れず、根気強く向き合うことすらできなかった。決定的だったのはやはり子供に手を上げ始めたことである。ふと、二十年前、突然父の工場を去っていった浦田さんを思い出す。浦田さんには妻子がいたが何らかの理由で離婚しており、その事を告げられた私は愕然とした。私は酷く落ち込み、そんな事実を知ってしまったことを後悔した。私は何故浦田さんのような人格者が愛していたはずの家族と別れなければならなかったのか当時の拙い思考で考えては悩んだが、自分が同じ道を歩んで母子家庭になった今、私には理解しえない事情があったのだろうと思えるようになった。私のたいした事のない人生でさえ困難の連続であり、ようやく出会えた生涯の伴侶の性格すら理解していなかったのだ。もしかすると浦田さんも衝動的に妻子に暴力を振るうことがあったのだろうか。気が付くと私は泣いていた。
「川島さん、川島さん。」
松尾君の声で目が覚めた。
「大丈夫?なんかうなされていたよ。」
陽射しが眩しく両手をかざすと、指の間から真赤な光が入ってくる。
「私、どれくらい寝てた?」
「うーん、どうだろう。二〜三十分くらいかな。」
思ったよりも短時間の睡眠である。釣られたように松尾君が欠伸をした。
「私、何か言ってた?」
「よくわからない。何か言ってたみたいだけど。…きっと疲れているんだよ。」
シートのレバーを動かして背もたれの位置を戻した。車窓から見える景色は変わらない。車は相変わらず南に向かっている。
「川島さん。ちょっといい?」
「ん、何?」
何故離婚したのかと聞かれるのかと思った。
「これから行く外注先って、ウチの会社の近くなんだね。」
「え、そうなの。」
私は目を擦った。松尾君によると勤務している会社は実家の隣町にある。つまり外注先は私の生まれ育った地域の近隣らしい。
「もっとよく住所を確認しておけば良かった。会社の近くなら一度戻って軽トラに乗り換えれば良かったんだ。」
松尾君は頭を掻いたが後悔している様子はない。すでに退職を決意しているためか、心にも時間にも余裕があるようで、のんびりしている。むしろ、非効率な回収ルートを楽しんでいるようにさえ思える。
「川島さんは実家に帰省することがあるの?」
「ないよ。父が死んでもう家族があの町に残ってないから。」
私は素っ気なく答えた。父の死去から卒業までの数カ月間身を寄せていた伯父とは疎遠になり、十年以上連絡を取っていない。
「私も聞いていい?」
「何が?」
「松尾君は中学を卒業してから何で私に連絡してくれなかったの?」
「えっ。」
松尾君は驚いて私を見た。細い目が大きく開き不気味に光る。信じられないという表情でやや悪意のある残忍な視線を前方に戻した。
「連絡したよ。覚えてる。電話をして、それから葉書も出したのに。」
今度は私が振り向いた。松尾君から連絡がきたという記憶はない。
「知らなかった。本当なの?」
「うん。最初は高校に入学して暫くしてから電話した。中学の卒業アルバムで川島さんの住所調べて。でも、たぶんお父さんだったのかな、男の人が出て、川島さんに代わってくれなかった。」
「え、そうだったの?」
松尾君は当時の様子を思い出したように説明した。電話に出たのはおそらく父親だろう。けんもほろろの応対だったと思われる。松尾君は嫌な思いをしただろう。あの頃の父親は経営の悪化によって、疑心暗鬼で神経質な性格に拍車が掛かり、他人への敵意を剥き出しにしていた。
「んで、葉書を出したんだよ。元気ですかって書いたと思う。」
「いや、少なくとも私には届いていなかった。」
父親が私宛の郵便物を止めていたと思われる。おそらく、松尾君は送ったのだろうが、父が破棄するかどこかに隠してしまったのだろう。あの男ならやりかねない。
「川島さんからは僕に連絡はなかったね。」
松尾君は悲しそうに呟いた。私は何も言い返せない。ただ、後悔だけが汗のように滲み出てきた。二十年前を再び思い出す。浦田さんとの満ち足りた日々と日を追うごとに傾く父の工場。終業後に工場の作業を手伝う毎日で当時の私は松尾君のことを忘れていた。いや、優先順位が低くなってしまい連絡する気になれなかったのかもしれない。後戻りはできないが、もし、松尾君と連絡を取り合っていて親交が続いていたらどうなっていただろう。今とは状況が異なっていたのかもしれない。状況とは何だろう。松尾君と付き合っていた可能性もあるということだろうか。
インターチェンジが近付いてくると松尾君はウインカーを出した。目的地に近付いたので一般道に入るようである。
「川島さんはその外注先に行ったことがあるの?」
「ないよ。電話でやりとりするだけ。でも、そこで働いている人は元々うちの加工部門で働いていたの。」
「ふうん、そうなんだ。」
松尾君は興味が無さそうに欠伸をした。外注先というのは製造部加工課に所属していた副長を含む数人が、組立課への人事異動を拒否して退職した後に立ち上げた小さな会社である。中古の旋盤やフライス盤、ボール盤等の工作機械を借金して購入して金属加工専門の事業を開始したのだが、加工だけでは仕事が少ないため、苦渋の選択として忌避していた組立作業も受け入れるようになっていた。設計がいないため自社での製品開発はほぼできない。このため元請の設計した図面通りに加工や組立を行う下請事業に徹している。副長とは五年近く会っておらず私は楽しみだった。
「ぐうううう。」
交差点の赤信号で停車していると、松尾君の腹が悲鳴を上げた。
「空腹なの?」
「実は昼食を取ってないんだ。バタバタしていて。」
松尾君は恥ずかしそうに答えた。
「何処かで食べたら?私、車内で待っているから。」
食事を取ることで回収作業が遅れることを懸念したのか松尾君少し黙ったが、再び腹が鳴ると口を開いた。
「それじゃあ、コンビニで何か買って来るね。」
相変わらず周囲は田畑と林で時折空き地や農家、小さな工場が点在している。暫く進むと左手にコンビニエンスストアが見えてきたので、松尾君は駐車場に停めると足早に入店した。車はアイドリングの状態。ラジオが流れており、私は窓を全開にして、ボリュームを下げた。こんな辺鄙な地域に小売店の需要があるのだろうかと思い、駐車場を見ると軽トラックが二台停まっていて荷台から農耕器具の先端が出ている。
「…すっかり春ですね。先週、私は久し振りに実家へ戻りました。田舎と言っても県内です。大きな建物は無く、見渡す限り田畑が広がり、もう少し時間が経てば遠くの地平線に夕陽が落ちていく様子が見えます。実家は兼業農家です。この季節になると耕運機で田んぼを耕して水を引きます。子供の頃は家業を手伝っていまして、春は田植え、秋は稲刈りをしていました。両親は古希を超えていますがまだまだ元気に農作業を続けています。年齢的に少し体が心配ですが、本人達の意思を尊重したいと思っています。さあ、故郷ということで一曲お聴き下さい。五木ひろしで『ふるさと』。」
私は瞳を閉じた。曲の歌詞にあるようなネオンが眩しい喧騒の都会から静かなる故郷を懐かしむような経験はない。十年以上暮らしいる勤務先の地域と、私や松尾君が生まれ育った町は、その景色に大差がない。平野に展開する広大な田畑と林。点在する住宅と工場。だが、松尾君に再会したためか私は故郷が急に懐かしくなった。何故だろう。歌詞の一節の「ああ、誰にもふるさとがある。」が妙に心地良く、口遊んでしまう。私の原風景は何処にあるのだろうか。松尾君と卒業式の後に寝そべりラジオを聞いたあの春の土手か。浦田さんと満ちたりた日々を過ごした倒産間近の小さな工場か。
「お待たせ。」
松尾君が食料の入ったビニール袋を持って戻ってきた。袋の中にはおにぎりが二個、コッペパン一個。松尾君はパンをかじりながら運転を再開した。
「停まって食べていいんだよ。そんな急がなくても。」
「ううん、遅くなったら川島さん困るでしょ。」
松尾君はパンを食べ終わると、器用におにぎりを包装するフィルムを剥がした。米との間に挟んであるフィルムを取り外し、海苔をおにぎりに巻き付ける。ハンドルを握る左手の親指と人差し指二本でおにぎりを挟み、右手で包装を解いていくのだ。手慣れている。多忙な時はこうして昼食を済ましているのだろう。
「松尾君。」
「ん、何?」
「実家、何ていうか私達が暮らしていた町って、近いの?」
松尾君はおにぎりを頬張りながら考えている様子を見せる。
「この住所だと、まあ近いかな。」
私は子供を保育園に迎えに行くまでの所要時間を概算してみた。外注先まであと少しで到着できるとなると、不良品を回収して会社に戻るまで一時間程度は余裕があるかもしれない。
「川島、元気そうで良かったな。」
ええ、副長も変わってないですね。いつも電話でのやりとりだけでしたから、久しぶりにお会いできて嬉しいです。」
副長には離婚したことを伝えていない。結婚後も『川島』と呼ばれていたので、苗字の変更を説明する手間が省ける。
「『副長』なんてよせよ。もう同じ会社じゃないんだから。俺はお前んところの下請けだぜ。」
それでも十年間の習慣により役職名で呼んでしまうし、副長も笑って訂正を求めるだけである。
私と松尾君が支給していた不良品の包装袋が詰まった段ボールをすべて車に詰め込むと副長は名残惜しそうに見送りへ来てくれた。私は「変わっていないですね。」と話したものの、副長の作業用の帽子から出ている白髪の多さに驚いた。年齢は四十代後半のはずだが、老いの早さが外見からはっきりと見て取れる。その変化に独立から現在に至るまでの艱難辛苦を垣間見た気がする。工場は小さな工業団地の片隅にあり、十坪程の土地に一階建ての簡素なプレハブ造りだった。天井は三メートルもないので大型の工作機械を置くことができず、単価の安い小さな部品しか加工できない。できる仕事が限定されてしまうのだ。副長によると、限られた予算の中で手が出せた遠方にある唯一の物件だったらしい。構内には時代遅れを象徴するような当時主流だった緑色を基調とする旋盤やフライス盤、ボール盤が並び、うち二台は手動制御という工業関係の博物館に展示されていてもおかしくない代物。やや長尺の机には工具や伝票が無造作に散らばっており、床はボルトや座金が落ちていて足の踏み場に困ったほどである。組織としての管理統制能力が脆弱で中小企業にありがちな部品や工具、伝票管理の杜撰さが目立つ。これでは加工ミスや購入部材の誤発注が起きて、貧弱な収益を更に押し下げる悪循環になるだろう。だが、ある一定のたがが外れるとこの異常な状態さえやがて何の不安も抱かなくなる。かつて父の経営する廃業末期の工場で経験してきたのでわかる。
「川島は相変わらず組立を担当しているのか?」
無精髭の副長は切削油で黒ずんだ指先の汚れを、さらに汚れた使い古しの灰色のタイルで拭き取った。爪先にも汚れが詰まり黒い。
「はい、もう五年は今の部署にいます。」
「本当は加工がやりたいんだろう?」
私は開いた工場の扉から古い手動旋盤を見た。機械油の独特の臭いが流れてくる。机に置かれた加工図面の先が風でひらひらと揺れている。私はかつて、図面と睨めっこしながらどうすれば段取りをより迅速に済ませることができるだろうと日々励んでいた工作機械のオペレーター時代を思い出した。
「戻りたいですよ。加工がやりたくて入社したんですから。でも、今はご存じの通り加工部門そのものが廃止されてしまったんで…。」
工場の奥では一人の老いた男が切れかかった白熱電球の下でボール盤を動かしている。作業着の所々が煤色に汚れている。
「じゃあ、辞めて、ウチに来いよ。加工がメインだぞ。仕事がないから組立もやっているだけだ。給与は安いけどなっ。」
「えっ。」
副長のくすんだ目を思わず見ると、驚いた様子で私を見返してきた。その時、松尾君が車のエンジンを作動させる音が聞こえた。建物の前には五台分の駐車スペースがあり、右側には傾いたフェンス越しに排水路が通る。水路から工業用水の何とも言えない異臭が漂う。駐車場のアスファルトに塗られた駐車スペースの囲み線は所々が剥がれている。一部のアスファルトの割れ目からは蒲公英が逞しく生え、黄色い花弁がモノトーンの周辺の中で寂しげな彩りを放つ。私は何も答えることができなかった。ただ、目の前の建物がかつて手伝いをしていた浦田さんのいなくなった父の工場と重なって、恐怖にも絶望にも似た感覚に陥った。思わず後退りしそうになるのを堪えた。
「冗談、冗談だよ。本気にすんなって。」
私が動揺している様子に気付いて副長は苦笑いをしたが、私は何も言い返せなかった。
「人を新たに雇う余裕なんかねえって。見ての通りこの様だ。もし、仮にお前が入るっても一年足らずで潰れちまうかも。お前、子供いるんだろ?仕事が安定してねえと駄目だわな。」
副長は声を上げて笑ったが、無理やり押し出したような張りのある声は悲壮を帯びていて私はまともにその目を見ることができなかった。副長は作業着の上着の胸ポケットからティッシュペーパーを取り出して鼻水を拭った。
「この季節になると花粉症でな。また、何かあったら来てくれ。早く帰って子供の世話してやれよ。」
私は暗澹たる気分で車に乗り込んだ。シートベルトを締めると松尾君がサイドブレーキを解除した。
「副長、お元気で、ありがとうございました。」
私は窓を開いて手を振った。
「川島、また来いよっ。」
車が見えなくなるまで副長がこちらに手を振っているのがサイドミラー越しに見えた。これが四十代で退職した工員の末路なのだろうか。切削加工の技術力、工作機械のオペレーターとしての技能があっても、仕事がなければ何の役にも立たないという現実を目の当たりにして愕然とする。それでは、副長が転職せずに組立課に配属されていたら状況はまだ増しだったのだろうか。仕事を続けていたとしても組立課の社員との人間関係に悩んだだろう。ある程度まで経験を積んだ年齢に達すると、年下の社員から受ける指導は苦痛だろうし、自尊心が邪魔して素直に学ぶことが難しくなる。何より癖の強い係長と衝突していただろう。
「いい上司だったんだね。」
松尾君は速度を次第に上げていく。
私は窓から人差し指を出した。相変わらず暖かい風邪が吹いている。道路の脇にはオオイヌノフグリやヒメオドリコソウがびっしりとは生えている。
「それじゃあ、ちょっと寄ってみようか。」
「うん、お願い。」
車は工業団地を抜け、深い青空の下、田舎町を南へ進んだ。県道に沿って流れる用水路には耕した田んぼに引く水が滔滔と流れている。松尾君はラジオから流れる歌謡曲の調子に合わせて、ハンドルを握る指を小刻みに動かしている。気分が良いのだろう。私も窓を開閉する手回しハンドルを軽く叩いてリズムを取った。窓から菜の花の香りが漂ってきて、二十年前に松尾君と別れたあの淡い夕日に包まれた三月の土手を想起させた。
二十分程進むと幅が五十メートル程度の川に差し掛かった。土手に菜の花が群生しており、匂いはここから流れてきたのだろう。松尾君は赤茶色の橋を渡ると右折して土手に沿って続く細道に入った。土手の反対側には田畑の間に農家が点在し、椿の垣根越しにハナズオウや木蓮の鮮やかな花が庭に咲いているのが見える。
松尾君がすっと右手の人差し指を上げて、南に向けた。
「覚えている?あれが僕達の通った中学校だよ。」
水を引く前の茶褐色の田んぼの中にぽつんと佇んでいる、薄汚れた古い五階建ての校舎と青色の屋根の体育館が見えた。四階辺りまで伸びる大木が数メートル間隔で校舎を囲んでいる。校舎の中を想像してみたが三年間学んだ筈の学校生活の思い出が大して浮かんでこない。だが、よく目を凝らすと、大木がどうやらプラタナスであることに気付いた。プラタナス。私と松尾君が昼休みにひっそりと図書室の隅で机に頬杖をついてたわい無い話をしていた頃に窓から見えた高木だった。掌よりも大きな葉の間から射し込む陽光を浴びた私は松尾君の話を聞きつつ転寝をしたものだった。
「うん、何となく覚えているなか。」
私は春風でゆっくりと揺れるプラタナスの枝葉を遠くからぼんやりと眺めた。
「工場の場所、覚えているの?」
松尾君は気持ち良さそうに欠伸をしながら尋ねた。
「う〜ん。川沿いに行けば着くはずなんだけど。」
私は曖昧に答えた。父が亡くなり工場が閉鎖されて、私が親族に引き取られてから二十年間、近付いたことすらない。既に更地になっているかもしてない。
「松尾君は、たまには実家に帰っているの?」
「う〜ん、年に二回くらいかな。盆暮に。」
松尾君は食べ残していた残り一個のお握りを頬張る。私は年に二回しか帰っていないことに少し驚いた。私の経験したことのない里帰りとはその程度なのか。
「隣町にあるんだから、いつでも帰れる。そう思うと帰らないものなんだよ。」
松尾君は指先に付いたご飯粒を食べながら付け加えた。
土手沿いの小道は川に沿って大きく湾曲を始めた。この町を東西に流れる川が一部で大きく曲がっていたことを思い出した。シャベルカーやホイールローダー、クレーン車が見えてきた。道路横の側溝の工事をしていて、作業員が立ち話をしている。工事現場を通り過ぎると、田畑の中に高さ三メートル程の鉄柵が現れた。良く見ると同じような鉄柵がいくつか建っている。入口は車両が入れる大きさの金網の扉になっていて、中にプレハブ造りの事務所が見える。敷地の中には金属やプラスチックのゴミが山積みになっている。どうやら産業廃棄物の中間処理場のようである。ヘッドがアームの解体仕様のシャベルカーがトラックの荷台に積み重なった自動車を粉々に砕いており、鉄を潰す激しい音が聞こえる。私が子供の頃には見たことの無かった光景である。
「ああ、あれは最近増えてきたんだよ。」
私の視線に気付いた松尾君が説明する。幅が五十センチメートル程の鉄板が隙間なく壁として高くそびえ入り口の扉以外から中は見えない。牧歌的な眺望の中で異様な姿を放っている。
「自動車を解体して、鉄やガラス、プラスチックに分けて買い取り業者に売ったり、使える部品を海外に販売しているみたい。」
松尾君にとっては見慣れた景色のようで、湾曲した小道の先から対向車が来ないか注視しており、鉄の壁を一瞥しただけだった。
その時、入り口から五、六歳と思われる小さな男の子が飛び出してきて、畦道をゆっくりと走行するトラクターの前に立ちはだかった。道を遮られたトラクターから麦藁帽子を被った農夫が降りてきて、子供に何か話し始めた。子供は目鼻立ちがくっきりしていて彫りが深く、瞳が大きい。浅黒く、どうやら外国人のようだ。すると、入口から今度は作業着姿で顎髭を胸元あたりまでたっぷりと蓄えた背の高い男が走り出てきた。作業着の男も彫りが深い顔立ちで眉毛が太く、鉤鼻が突き出ている。子供の父親のようだ。外国人とすぐわかる。作業着は油と泥ですっかり汚れている。男は子供の肩を掴んで畦道の端に引っ張った。子供は手足をバタバタと動かして抵抗する。男はトラクターの運転席に座る農夫に何か話しかけておりどうやら子供の飛び出しを謝罪しているように見える。すると、農夫は笑い出し、トラクターから降りると子供の頭を優しく撫でた。子供も釣られて顔が綻ぶ。農夫は子供の両脇の下に手を差し込むと勢い良く持ち上げてトラクターの運転席に乗せた。子供は当惑と緊張で体を強張らせていたが、やがて得意げにハンドルやレバーを握り誇らしげに運転する振りを始めた。その時、私は衝撃が全身に走った。それまで、異様にさえ見えていたそびえ立つ鉄の壁と田畑が奇妙なことにしっくりと同質化し、あたかも昔からある風景のように、私の中で咀嚼されてしまったのである。恐らく新参者であろうこの親子が土地に溶け込み、馴染んでいこうとする瞬間を目の当たりにしたのだ。それは、浦田さんが去り、父が亡くなったことで何の未練もなく、遁走するようにこの地から離れた私への挑戦のように映った。親子が農夫と打ち解けて土地に馴染もうとしている姿は、一方の私に挫折や疎外の念を抱かさずにはいられない。私は思わず目を背けた。やがて竹藪が現れて視界を遮り、彼等も見えなくなった。私は密生する竹の間から漏れる陽光をぼんやりと眺めながら、惨めな気持ちになった。一体、私の人生は何だったのだろう。何処で進路を見誤ったのだろう。他の選択肢は無かったのか。考えてもさっぱり分からず、ひたすら暗澹たる気分が残る。
「川島さん、起きてる?」
松尾君の呼びかけに私は気付いた。竹藪を抜けると再び視界が広がった。
「あの工業団地なんじゃないの?」
道の先に古い小さな工場群が見えてきた。私がじっと見つめていると松尾君は減速して工業団地の中へ通じる道路に進路を変えた。十棟程度の工場が密集した小さな団地で、道路に沿って水路が通り汚れた工場の汚水の臭いが開いた窓から入ってくる。
父の工場は思っていたよりも早く見つかった。裏側は土手であり、建物の手前に数台の駐車場があったという記憶を辿り、注意深く見ていくと、松尾君がそれらしい閉鎖された工場を指さしてくれた。駐車場の前に錆びついたチェーンが掛けられており、奥の扉には土埃がついた「売却物件」と記されたアクリル製の札が掛かっている。周囲を見渡すと稼働しているのは数棟に過ぎず、他の工場も同じように「賃貸物件」「売却物件」という札が掛かっている。だが、半数以上が閉鎖されて長い年月が経過した小さな工場群の中で、一棟のプレハブの壁に目を凝らすと剥がされたペンキの跡に「有限会社川島製作所」の楷書体を確認することができた。
「松尾君、降ろしてくれる?」
路肩に駐車して降りると、私達はどちらが誘うことなくチェーンを跨いで敷地内に入った。チェーンの下のアスファルトは錆びの混ざった雨粒が落ちたことで茶色に変わっている。ひびの間から蒲公英が所々に生える駐車場をゆっくりと歩くと見覚えのある鉄の引き戸が目に留まった。近づいて握ってみたが当然鍵が掛かっている。裏手に回ることにした。雨樋から落ちた雫が何年もかけてアスファルトを侵食したことで、建物の周りは窪みが点線のように出来ている。窓は磨ガラスのため構内が見えない。中がどうなっているのか妙に気になり始めた。隣の工場との狭い隙間を蟹歩きで一人ずつ進んだ。屋根と屋根の間から光が一本の線のように差し込んでいる。いくつかある窓をすべて引いてみたがどれも開かず、指先に土埃が付着しただけだった。
「あ、すごい。」
先に進んでいた松尾君が声を出した。工場裏の土手は、斜面に菜の花が見渡す限り鮮やかに咲いていた。群青色の空には西に茜色が射し始めている。
「最後に別れたのは土手だったなあ。」
「うん、卒業式の後。こんな季節だった。」
腰まで伸びる菜の花の群れを掻き分けて、私達は甘い香りが満ちる土手を登った。
上まで登り切ると、湾曲した河川が西から東への穏やかに流れていた。河川敷にはナズナやシロツメクサが生え、川にはオオバンやマガモが泳いでいる。二十年前のあの頃の原風景がそのまま残っている。松尾君は感慨深げに川面を見入っている。
「松尾君は、あれから土手に来ていないの?」
「うん、近くに住んでいたのに来ていなかった。」
私は立ち尽くした。空の遥か遠くに雲雀の鳴き声が聞こえる。夕暮れ前の春の陽射しが川を照らす。ラジオを聴きながら松尾君と斜面に寝そべり、何ともなく空を見ていたあの頃の私は将来への漠然たる不安を抱えてながら浦田さんを支えに生きていた。額に汗を滲ませ、金属を切削する音と油に塗れて旋盤を動かす浦田さんの背中をじっと見つめるのが好きだった。窓を開けると風が男の汗の臭いを運んできて鼻孔を刺激し、胸が苦しくなった。今その工場を眼下に見下ろしている。あの頃の私は鉄と油、汗の臭いで満ち足りていた。ツグミが土手の斜面で果実や虫を探している。私はこの渡り鳥のように工場から離れていった。先程目にした外国人のようにこの地域に根を張ろうとせず、仕事を求めるという口実を持って逃げ出したのだ。
「もう帰ろうか。」
松尾君は川に背を向けた。ジャケットもスラックスも皺だらけなことに気付く。上司との喧嘩で皺くちゃになったのだろう。
「あ、白髪。」
松尾君の右側の揉み上げに一本の真っ白な太い毛が生えていた。
「あんまり見ないでくれよ。」
松尾君は恥ずかしそうに頭を掻き、菜の花が茂る斜面をゆっくりと降りていった。私も続いた。再び工場を通り車に向かう。錆びついたプレハブの建物がひっそりと二十年以上も時間が止まったかのように存在していて、これからも買い手がつかないまま朽ち果てるまで佇んでいるのだろう。
私はふと土手側にある窓の一つを思いきり引いてみた。すると、固かったものの、ズルズルと数ミリメートル開いた。手を止め、窓の隙間から中を覗いた。陽光が床を照らし、埃が積もって絨毯のように広がっているのが見える。松尾君は歩みを止めた私に気付かずゆっくりと車の方へ向かっている。一呼吸置いて私は窓を思いきり引いてみた。ズルズルと鈍い音を立てて五十センチメートル程開いた。私は窓枠に両手をかけて恐る恐る上半身を構内に入れた。内部は空で静寂に包まれている。松尾君の足音が遠のいていく。私は吸い込まれるように、窓枠によじ登り、構内に入った。湿気と黴臭さが充満していたが開けた窓から風が入り、入れ替わるように二十年かけて充満した臭気が一気に抜けていくようだった。一部の天井や壁は剥がれ落ちて木片が床に散乱し、その木片に灰色の埃が雪のように積もっている。ガランとした空間に立ち尽くしていると落ち目の神経質なあの父親が浮かんでくる。私はゆっくりと二、三歩進んだ。すると、床の所々に窪みが出来ており、その周辺だけ埃の上からでも色が濃くなっていることに気付いた。おそらく、かつて、そこには重量物である工作機械が据え付けてあったのだろう。
「川島さん、どうしたの?鍵開いていたの?」
松尾君が戻ってきて窓越しに声をかけてきた。振り返ると、私の足跡が床の埃の上にくっきりと残っている。
「うん、少し待ってて。」
松尾君は工場を背にして窓枠に腰を下ろした。西日で松尾君の影が構内に長く伸びている。再び私は工場内を見回した。すると床に掌程度の大きさである何かが落ちていることに気付いた。近づいてみると円筒形の鉄鋼部品のようで、表面は茶褐色に錆びついており埃に覆われている。屈んで摘まみ上げてみると、中が底まで中空に加工されていた。
私は目を見張った。それは二十年前に私が工業高校の技能実習で、横型旋盤を使って製作した金属製の湯飲みであった。放課後に工場で浦田さんに見せて褒めてもらったことを思い出す。人差し指で側面をなぞってみると指先に茶褐色の錆びが付着した。錆びでざらざらした感触は私の頭を優しく撫でてくれた浦田さんの大きな掌のざらつきに似ている。空っぽの湯飲みの中に、不安の中でこそ直向きに生きようともがいていた私が入っているようだった。あの頃、工場の中では四六時中ラジオが流れていて、浦田さんの汗の匂いに恍惚としならが鉄と油に塗れ、窓から差し込む夕日で照らされた工作機械の長い影の形がゆっくりと変わっていくのを感じながら働いていた。錆びた湯飲みの中から追憶が溢れてくる。
「松尾君っ。ラジオ持ってる?」
「え、何?」
松尾君は腰かけていた窓枠から降りて、工場の中にひょいと細長い顔を突き出した。
「ラジオ、携帯ラジオある?」
松尾君は窓枠に手をかけて項垂れた。
「ごめん、ないんだ。壊されちゃったんだ。」
私は少し落胆したが、立ち上がるとあるはずがないにもかかわらずがらんとした構内にラジオがないか探した。すると、当時事務室であった奥の小部屋に一台の机が見えた。小部屋の扉は取り外されて無くなっている。錆びた湯飲みを持って吸い寄せられるかのように机の前までゆっくり進んだ。父親が使用していた木製の事務机である。撤去されずにぽつんと取り残されているように佇んでいる。横にある窓のため西日に長年晒されたことで色褪せている。ふと、机の右下の引き出しから紙が数センチメートル食み出ていることに気付いた。湯飲みを机に置き、引き出しを開けてみた。中には封筒や書類がどっさり入っている。おそらく父が踏み倒した請求書等だろう。下の方に一冊の出納帳があり、取り出して何となくぺらぺらと捲った。二十年前、会社がいよいよ危うくなり始めた頃の年度のものであり、私が高校二、三年生だった時であろう。死期が近づいた父の弱々しい筆跡で記されおり、所々では記録が止まり、空白が増え、最後の頁に向かうほど投げやりな走り書きの筆致に変化している。
その時だった。捲っている頁の中に色あせた一枚の葉書と一通の茶封筒が紛れていることに気付いた。私はまず葉書を手に取った。ボールペンで記された筆跡は経年で黄色に褪せている。

川島さん、元気ですか。高校はどうですか。僕は少し慣れました。相変わらずラジオばかり聴いています。気が向いたら連絡下さい。松尾

消印は二十年前、高校に入学して三カ月が経過した時期だった。字は汚くて太い。最後は書ききれなくて字が小さくなっている。父が隠していたのだ。松尾君は私に連絡を取ろうとしていた。松尾君を見ると再び工場に背を向けて、窓枠に腰かけている。こちらから表情を窺うことはできない。先ほどより長く松尾君の影が構内に伸びている。葉書を読み返した。「少し慣れました」という表現は控え目というよりも背伸びしたものかもしれない。本当は新しい高校生活に馴染んでいなかったのだろうか。ラジオばかり聴いていてクラスの話題についていけたのだろうか。葉書をよく見ようと思い、私は鍵を外し、重たい磨硝子の窓を開けた。光が差し込むと同時に暖かい風が菜の花の匂いとともに入ってきた。再び読み直してみた。
「ラジオ…。」
私ははっとなった。作業着の胸ポケットに手をあてた。いつも左側のポケットに小型のラジオを携帯していたはず。部署が変わり夜勤で聴くことはなくなったが、昼休み一人で過ごしているときに聴いていた。私は西日のあたる机にラジオを置いた。イヤホンを外して電源を入れる。松尾君に聴こえない程度の音量に調節すると、瞳を閉じた。
「…四月に入り新生活には慣れましたでしょうか。生活習慣の変化に戸惑う人もいるかもしれません。三月は卒業式、人事異動、転職等転機の時季でした。スタジオ前の桜は既に散り始めています。少し寂しいですね。そろそろお別れの時間です。最後はこの曲で。矢沢永吉『いつの日か』。」
私は立ち尽くした。
「黄昏てく…街よ/悔いはないか?今/地平線に残された/美しき空のはかなさ/誰かの背中みたいに見えるぜ/いつの日か/もう一度逢おう/何も変わらぬ/二人のままで/いつ いつの日か/もう一度逢おう/夢を見ていた/あの場所で」
もう一通の茶封筒を手に取った。こちらも私宛で差出人の名前に私の手は微かに震える。数秒か数十秒か固まったように茶封筒を見つめ、人差し指で筆跡を愛おしくなぞった。二十年の歳月が一瞬で砕け、あの時鮮やかな夕焼けに照らされていたあの人を呼び起こす。私は深く呼吸をした。封筒を開封せず、そっと机に置き、風で飛ばされないよう湯飲みを重り代わりに置いた。空の錆びた湯飲みには溢れ出そうな思い出が注がれている。ここまでの二十年間の道のりが長い家路であるかのように思える。長い家路で私も松尾君もずっとラジオを聴いていた。
窓を閉じると風が止んだ。
「松尾君、帰ろう。」
子供が待っている。私はラジオの電源を消した。
「もう気が済んだ?」
松尾君は窓枠に座ったまま上半身を捻じってこちらを振り向いた。細くてもやしのような背中が夕日を浴び、その影はさらに長く伸びて神秘的な陰影を放っていた。(終わり)
出典
「いつの日か」作詞:秋元康、作曲:矢沢永吉、東芝EMI 
「遠き山に日は落ちて」作詞:堀内敬三、作曲ドボルサーク


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