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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第11回   仲間 三
翌日、いつもより一時間早く出社した。すると珍しく部長が既存にきていた。おそらく僕と同様で二人と顔を合わせたくないのだろう。弱みを握られた部長はこれから佐川さ¥んにどう接するのだろうか。僕と部長は椚工業に向けてそそくさと外出した。
「おい、松尾。」
営業車に乗って暫く運転していると部長が口を開いた。バックミラー越しに怒りで目がつり上がっている様子が見えるが、晒された写真の内容があまりにも低俗なだけに何処となくいつもの威圧感はなく、困惑しているようにも見える。
「はあ、なんでしょうか。」
運転しながらぼんやりと右側の景色を眺めた。耕運機が干上がった田圃を耕している。穿り返された土壌に鷺やツグミが降り立ち、驚いて這い出てきた虫を狙っている。
「お前もあいつらとグルだったのか。」
部長は僕を睨めつけた。
「いえ、全く知りませんでした。」
部長は暫く僕を凝視していたが、やがて前方に浮かぶ雲に視線を移し、腕を組んだ。
「本当だな。」
「ええ、本当です。」
無気力に答えた。
「クソっ。」
部長はダッシュボードを右足で何度も蹴り上げた。狭い空間なので足が伸び切らず、思ったような怒りの捌け口としての効果が無いとわかると、今度は駄々をこねる子供のように左肘を窓ガラスに打ち付けた。僕は一切部長を見なかった。
「いいか松尾、俺は確かにあの店に入った。だがな、佐川も入ってんだぞ。」
今更そんなことを言い訳のように説明されても、僕にはどうでもよいことだった。
「はあ、そうなんですか。」
「『はあ』じゃねえよっ。しっかり覚えておけよっ。」
椚工業の商談室で十分程待つと樋口さんが入室してきた。右手に縦横十センチメートルの小箱を持っている。直ぐに、いつもと雰囲気が違うことに気付いた。口元が真一文字にして、かすかに震えているようにさえ見える。ふいに、何故、僕を介さず部長に直接連絡したのだろうとかと今になって考えた。何か重要な事案が発生したのかもしれない。昨日の出来事が目まぐるしく、樋口さんの意図を考える余裕が全くなかった。
樋口さんは二人の前に立つと、鬼のような形相を見せた。鈍感な部長もその様子に気付いて何があるのだろうかと僕に目配せをした。
「へえ、すみません。実は今日三人で伺うと申し上げましたが、私と松尾だけで…。」
「そんなことはどうでもいいっ。」
窓ガラスが震えるような怒声が商談室に響いた。樋口さんの顔は朱色に染まり、ぎりぎりと聞こえるくらい歯軋りをしている。部長も僕もたじろぎ、隣で商談をしている人達も何事が起きたのかと静まり返った。激しい息遣いがこちらにも伝わる。
「これは何だっ。」
樋口さんは叫ぶと小箱を机に叩きつけた。部長と僕は直立不動のまま指一つ動かさず、小箱をじっと見つめた。樋口さんが何故激昂しているのかわからない。箱に何か問題があるのだろうか。
「さっさと開けろっ。」
ここまで感情的になる樋口さんを見るのは初めてだった。僕は部長に顔を向けて、どうしたらよいのか指示を仰いだ。部長は激しく動揺していたが僕の視線に気付くと慌てて僕を小突いた。
「早く開けろっ。」
僕はすぐに小箱を開封した。
中身は椚工業に供給している機械部品を包装するためのポリエチレン製の袋だった。赤色のラインが入りマチが付いている特注品で何ら変わりないはず…。と、目視確認をしていた僕はぎょっと驚いた。袋の底に何か小さな物がいくつも混入している。ゴミだろうか。米粒よりやや小さく、白い粉のようにも見える。僕は袋を掲げて天井の蛍光灯に近づけた。
「あっ。」
思わず声を上げると部長は袋を引っ手繰り恐る恐る顔を近づけた。それは羽蟻のような小さな羽虫の死骸だった。一ミリ程の白い胴体に倍の大きさの透明な羽がついており、袋の底に数十匹はいた。
「こ、これは虫のようですね…。」
部長は眼鏡を外して袋を突いた。
「それだけじゃねえっ。」
樋口さんは小箱からもう一枚取り出すと、袋の口元の中心を摘んだ。
「見てろっ。」
両指で口を外側に引っ張るとあっという間に裂けてしまった。僕と部長が茫然とその様子を見ていると、樋口さんは舌打ちをして小箱から二枚取り出し、ぞんざいに投げつけた。
「お前等もやってみろっ。」
僕と部長は床に落ちた袋を慌てて拾い上げ、チャックの口元を引っ張った。袋は殆ど力を加えず裂けてしまった。これでは部品を入れる際に口元を少し開いただけで破れてしまう。明らかな不良品である。
「何が『高品質』だ。ふざけるなっ。」
樋口さんは唾を飛ばした。激しい怒りで顔は引きつり、握りしめた拳が真赤に変色している。部長は口をあんぐりと開け立ち尽くしている。樋口さんは作業着の胸ポケットから同じ大きさの袋を取り出した。
「これは三年前の現物だ。サンプルとして品質管理課に保管しておいたんだ。比べて見ろっ。」
容疑者を追い詰める刑事のように迫った。僕は部長に促されて樋口さんから受け取った。比較すると、裂けた袋はチャックの赤い線がやや薄い。だが、決定的な違いは厚みであり、親指と人差し指で擦り合わせると薄さが感触ではっきりとわかる。僕は愕然としながら袋を部長に渡した。部長は苦り切った表情で受け取り小刻みに震えながら違いを比較した。静まり返った商談スペースの中で樋口さんの激しい息遣いだけが時計の秒針のように聞こえる。返答に窮した部長は視線を右往左往させて狼狽したかと思うと、打開策を閃いたのか突然顔を上げた。
「これは一体…。おい、松尾、これはどういうことだ。厚みが変わっているぞっ。」
芝居がかった手振りで僕に袋を突き返した。
「私は、私は知らないんです。何も報告を受けていない。こいつが、こいつが勝手にやったようです。すぐに調べさせて詳細な…。」
「ふざけんなっ。」
僕が唖然としていると、樋口さんは部長の言い訳を遮り、椅子を蹴り上げた。
「松尾にそんな権限がある訳ねえだろ。お前がやったんだろっ。だからお前を直接呼びつけたんだ。クソがっ。騙しやがって。」
椅子は音を立てて激しく倒れた。部長は責任逃れが全く通用しないことを悟ると口をパクパクと小刻みに開閉しながら、樋口さんの履いている安全靴の先あたりを叱られた子供のように縮こまって見つめている。
「いつだ、いつから仕様を変えた?社内外からクレームが殺到しているんだぞっ。このクズ野郎。ばれないと思ったのか。」
数センチメートル程開いた窓から場違いに春の暖かい風が入る。樋口さんは少し冷静になって問い詰めた。部長は黙り、天に助けを請うように視線を窓の外に広がる青空へ向けた。部長の脇の下に滲んだ汗から生ゴミが腐ったような臭気が漂ってくる。
「申し訳ございません。一度、会社に持ち帰り、きちんと調べて報告致しますので…。」
部長は床に頭が届きそうな程背中を曲げて謝罪した。樋口さんは眉間に皺を寄せて部長の禿げた後頭部を見ていたが、思いついたように椅子に座った。僕と部長は座れとも言われず立っている。
「わかった。重要なのはこれからだ、良く聞いとけよ。必要ならメモを取れ。」
僕は急いで鞄からボールペンとノートを取り出した。部長は慌ててジャケットの内ポケットに手を入れたが、鉛筆一本すら出てこない。そもそも管理職をいいことに同行営業では筆記用具を常に全く持ち合わせていない。重要事項はすべて部下が記録している。そんなことは部長自身わかっているのだが、怒り心頭の樋口さんを前に自分もメモを取る素振りを示したかったのだろう。その様子を見て樋口さんは大きな舌打ちをした。部長は悔しさで顔が引きつっているものの、すべては自分に非があるのでひたすら服従している。
「いいか。お前等のこのクソみたいな不良品を発見したのはうちの外注先だ。まずそこに行って全品回収してこい。今からだっ。」
樋口さんは外注先の会社名、住所、電話番号をぶっきらぼうに早口で伝えた。その外注先は七、八年前に樋口さんの紹介で今問題になっている包装袋を何度も売り込みにいったことを思い出した。椚工業が製作する装置に使う機械部品を製造しており、同社の品質管理体制の下に同じ部品の包装袋を使用していた。安定的に供給できるようになってからは足が遠のいていたが確か椚工業から二十〜三十キロメートル南下した地域に所在していた。
「松尾君、覚えているか。そこの組立課に行くんだぞ。」
「た、担当者のお名前は?」
「俺からの指示で来たと言えばいい。伝えてあるから。」
部長と僕は何度も頭を下げてから逃げるようにそそくさと退室した。
営業車に乗り込むなり、部長は抑えていた怒りを爆発させた。
「ちくしょう。ふざけんなっ。馬鹿樋口っ。」
巨体を揺すって車内で暴れた。何度もダッシュボードや窓ガラスを叩き、地団太を踏んだ。時折、部長の肘が僕にあたる。部長はダッシュボードにあるティッシュペーパーの箱を見つけると足元に叩きつけて踏み潰した。
「あんな年下にここまで言われたのは初めてだっ。」
叩き過ぎて拳が赤く腫れ上がると、今度は座席を後方に下げて足を伸ばし、ダッシュボードを激しく蹴り出した。幼児が癇癪を起こしているみたいだ。
不思議なことに運転を始めると不良品の件がすっかり僕の頭の隅に引っ込んでしまった。代わって、再び波のように佐川さんと室山さんのことが思い出されて、気が滅入ってしまった。帰社後に二人と顔を合わせるのが兎に角怖い。本日中の不良品回収が内心では渡りに船だとさえ思えてくる。回収作業が長引くことで帰社が遅くなればその頃には二人とも帰宅してしまうかもしれず、顔を合わせずに済む。部長が喚き散らしている間、晴天の下で田畑と林の上を地の果てまで長く続く高圧電線の遥か先をぼんやりと眺めながら考えた。このまま、何もかも投げ捨てて逃げ出すことができれば金輪際あの二人に会うこともないだろう。
「松尾っ。てめー聞いてんのかっ。」
部長が潰れたティッシュ箱で僕の頭を思い切り叩く。呼ばれていることに気付かなかった。
「ボケっとしてんじゃねえ。ラジオのボリュームを上げろっつてんだろうがっ。このグズ。」
僕は慌ててダイヤルを回してボリュームを上げた。
「…ザザー。ザザザザ。…において…急激な…円安…ザザザ…止まりません…。」
ノイズが酷くて聴きとれない。
「何で今日に限って聴き取りづらいんだっ。クソがっ。」
部長はラジオの音量や周波数を変えるダイヤルを闇雲に叩いた。営業車は高速道路に入った。
「松尾、お前、携帯ラジオを持ってんだろうっ。今すぐ出せっ。」
部長は僕の耳を引っ張った。顔が助手席の方へ引っ張られたため、体勢が不安定になる。営業車は路肩側にずるずると寄っていきランブルストリップス上を走行。車体は激しく音を立てながら揺れた。
「危ねえだろうがっ。この馬鹿っ。早くラジオを出せっ。」
僕はハンドルを右に回して車を走行車線上に戻すと、左手で後部座席の鞄の中に手を入れた。携帯ラジオは内ポケットに入っているはずだが、運転しているので取り出すのに手間取っていると頭を叩かれた。
「もういいっ。使えね奴だなっ。」
部長は後部座席から僕の鞄を持ってくると、荒っぽい手つきで携帯ラジオを取り出した。
「スイッチはどこだっ。早く教えろっ。」
部長は携帯ラジオを叩いた。この男は何でも叩けば思い通りになると思っているのだろうか。
「お願いですっ。ラジオだけは勘弁して下さい。側面のスライドスイッチです。」
僕は悲鳴を上げた。部長はぜえぜえと臭い息を吐きながらスイッチを入れた。ボリュームを上げるとノイズ混じりの音声が聴こえてきたが、今度は鮮明だった。
「…何度もお伝えしている通り、円安が止まりません。政権交代による新政府の大規模な金融緩和の影響を受けて本日の東京外国為替市場は円を売る値動きが一段と進み五年七カ月振りに一ドル百円を突破しました。来週は米国の連邦準備制度理事会が追加の利上げを発表する見通しで、更なる円安ドル高が続く見通しです…。」
とんでもないニュースが届いた。円安ドル高は椚工業のような輸出企業にとっては利益を押し上げる追い風となるが、武森化学のような商品を海外から輸入して国内で販売する輸入企業にとっては利益を圧迫する逆風である。特に椚工業向けの商品は原価を計算する上で為替を一ドル百円に設定した上で販売価格を定めており、この為替相場は致命的だった。原価に対して数パーセントしか利益を乗せておらず為替の差益で稼いでいるようなものだったので、このまま円安が進めば商品を販売する程赤字が膨らみかねない。所謂「逆ざや」である。一年前に漠然と恐れたことが今現実になったのである。だが、僕にとってはほとんどどうでもよいことに思えてしまった。何よりあの二人のことが頭から離れない。
「ああ。どうするんだ。赤字になるんだぞっ。クソっ、クソっ。」
部長は僕の肩や頭を平手で叩いた。
「さっさとラジオを消せっ。不愉快だっ。」
と吠えたものの、ラジオを持っているのは部長なので僕は左手を伸ばしてラジオを受け取ろうとした。前方にはパーキングエリアの標識が見えてきた。
「クソっ。五月蠅いんだよっ。」
部長は僕の手を払いのけて携帯ラジオをダッシュボードに投げつけた。「パンっ」という乾いた音を立ててラジオは部長の股をすり抜けマットに落ちた。部長は腹立ち紛れに右足でラジオを何度も踏みつけた。プラスチックのケースが無残に割れて行く音が聞こえた。
「てめーがボケッとしてっからだっ。」
部長は壊れて音が聴こえなくなるまで何度も踏みつけた。
僕は白線の遥か先を見据え、速度を上げた。
そしてパーキングに入った。
「何だっ。便所か?勝手に停めてんじゃねえよクズっ。」
僕は無視して停車すると外へ出た。風は温かく、巻き上げられた畑の砂埃が砂嵐のように飛んでいた。上空から雲雀の鳴き声が聞こえる。駐車場には一台の軽トラックが停まっており、麦わら帽子を被った作業姿の農夫が脚を窓枠に投げ出して昼寝をしている。牧歌的な風景が場違いのように営業車の周囲に広がっていた。パーキングはトイレと自動販売機が一台あるだけで売店はない。駐車している車両は軽トラックだけで閑散としている。
もし、お互い同じ条件で殴り合いの戦いをしたら、僕は部長に倒されていただろう。六十歳に近いとはいえ巨漢で僕のもやしのような手足では太刀打ちできなかった筈だ。だが、この時、部長は全くの無防備どころかシートベルトで体を固定しており拘束されたような状態。これから自分に何が降りかかるのか全く予想していなかった。僕はぐるりと車の前から助手席に回りドアに手をかけた。意外なことに無施錠だった。
「ん、何だ。」
ドアを開けると部長が怪訝な顔を僕に向けた。僕は部長の横面を力の限り右手で殴打した。拳は左頬の下に命中し、鈍い音と肉の感触が伝わった。
「うーっ。」
悲鳴にも似た呻き声が上がった。銀色の眼鏡が日差しを浴びたアスファルトに落ちた。僕はすかさず左手でもう一発を浴びせた。今度は部長の下唇に入り顎骨が砕けるような音が「ごっ」と響いた。
「いーっ。」
部長は甲高い声を出した。人差指と中指の第三関節に痛みを感じる。殴りつけた時に部長の歯が拳に食いこんだのだ。指の甲の皮が捲れて血がみるみる滲み始めた。部長の口から血が噴き出すように垂れてきた。
僕は拳を握り直すと何度も顔面を殴りつけた。
「わーっ。止めてくれーっ。」
部長は絶叫しながら両手を振り回して僕の攻撃を防ごうとした。しかし、分厚い腹にシートベルトが喰い込むように固定さえており上手く防御できていない。次に僕は右膝を部長のガラ空きの脇腹にぶち込んだ。
「ぎぎぎいっ。」
獣のような低い呻き声。部長はしぼむように頭を下げて両手で脇腹を抑えた。すると丸い顔が全くの無防備になったので、僕は禿げかかった後頭部に頭突きをした。
「助けてくれええっ。」
思わず頭を上げたところを顔面に左拳。鼻からも血が吹き出る。手の甲が返り血で赤く染まった。部長は血を吐きながら必死にシートベルトを外そうともがいた。その度に上半身が空くので徹底的に殴る蹴るの連打を加えた。
「こ、こんなことを、こんなことを、お前、お前は、お前はああああっああ。」
部長は悲鳴を上げながらシートベルトを外して、倒れるように車外に出た。アスファルトに落ちている眼鏡を取ろうと手を伸ばしたので、僕は手の甲の上から思い切り踏みつけた。レンズが割れて、破片が飛び散る。部長は倒れ込みながら必死に僕の太股にしがみ付いて攻撃を防ごうとした。すると禿げかけた後頭部が目の前に見えたので垂直に右拳を降り下ろした。
「うーっ。」
この一撃が効いたのか、部長の抵抗は弱くなり、僕の両足を両手に抱き寄せ顔を太股に埋めながら「お願いします、止めて下さい。」と懇願した。アスファルトに落ちた砂塵がスラックスに付着して体を揺する度にボロボロと落ちている。ひしゃげた眼鏡のフレームの先端が鈍い光を放っている。
「俺が悪かったから。頼む。」
顔を上げた部長の頬を右手で力の限り殴った。遂に巨躯はドサリとアスファルトに倒れた。
「ふう、ふう、ふう。」
僕は極度の疲弊と興奮で激しく息を吐いた。午後の生温かい砂混じりの風が吹き抜けると、汗で湿った皮膚が乾いていく。周囲を見回すと軽トラックで寝ていたはずの農夫がゆっくりとこちらに向かって来ている。
「おめえら何やってんだ。おまわり呼ぶぞっ。」
茶褐色に日焼けした両手で熊手を持ち、作物を食い荒らす害獣のように僕を睨みつけている。トラックから古い歌謡曲が大音量で流れている。部長はうつ伏せになり顔を抑えている。手には血と砂が付着している。快晴だった空にいつの間にか倦運が流れてきて、雲の切れ間から陽光がカーテンのように地上に降り注ぐ。激しい息遣いの中で左手を見ると捲れあがった皮膚から流れていた血が乾きつつある一方、甲が真赤に腫れ上がりずきずきと激しく痛む。
 農夫を無視して部長に背を向け、営業車に戻った。後部座席にある部長の鞄を外に放り投げ、何度も踏みつぶすと運転席に座り、エンジンを作動させた。助手席の床にある壊れたラジオが目に留まると、駐車場に蹲る肉の塊を轢いてやろうかと思った。ゆっくりと車を動かすと、部長が這いつくばってバンパーに凭れかかった。顔は血だらけで涙とも鼻血とも鼻水ともわからない液体が唇、顎を伝い、首筋に流れている。頬は青く腫れ、片目は充血している。
「退けっ。」
僕が窓を開けて怒鳴り付けると、部長はボンネットに手を伸ばして激しく息を吐いた。
「…頼む、乗せてくれ。ここからどうやって帰ればいいんだ。高速だろう。」
部長は目に涙を浮かべていた。手には血と砂がこびりつき、ボンネットを叩く度にパラパラと砂が落ちる。
「知るかっ。」
僕は圧力をかけるために数センチメートル程車両を前進させた。
「…頼む、松尾、落ち着いてくれ。せめて最寄の駅まで送ってくれ…。」
部長は掠れた声で最後の力を振り絞るように請うた。
「轢き殺すぞっ。」
僕は窓を閉めると容赦なくアクセルペダルを踏んだ。部長はずるずると引きずられたが車両の下に下半身が入り込みそうになると、諦めたようで傍に寄り、駐車場にへなへなと座り込んだ。項垂れて砂にまみれた巨体の影がアスファルトに落ちている。立ち尽くす農夫をバックミラーに残し僕はハンドルを右に切り、高速道路に入った。
南下しながらぼんやりと空を眺めた。相変わらず光のカーテンが乾いた大地を照らしている。ハンドルを握る手の甲には部長の歯が食い込んだ跡が残っており痛む。懲戒解雇は確実で、傷害で警察に通報される可能性もある。全てがどうでもよくなったが、取り敢えず樋口さんに指示された回収作業だけは済まそうと決意した。こんな結末になってまで、帰社が遅くなればあの二人と顔を合わせなくて済むという期待だけが僕を突き動かしている。周囲には田畑と雑木林以外なにもないインターチェンジを降りて県道を東に進んだ。二十分程度で工業団地に到着。記憶を辿り団地内を一回りすると目的の工場を見つけた。当時目印にしていた百日紅の植えてある駐車場の「業者用」の看板のあるスペースに停める。百日紅のツルツルした幹を見ると、一時期何度も足を運んで包装袋を売り込んでいたことを思い出し、商談中ボンネットに落ちた幾つもの花弁をその都度振り払った頃が妙に懐かしくなった。
木造の古い事務所で受付の年配女性に来意を告げた。
「組立課の場所はわかりますか。」
「はい。以前訪問したことがありますので存じ上げております。」
組立課は敷地内に数棟あるうちの奥の工場に入っている。歩きながら返り血がスーツに付着していないか確認した。多少は付いているかもしれないが紺色なので目立たない。白地のワイシャツも無事だった。部長はパーキングエリアから公衆電話で警察や会社に連絡したのだろうか。もしくは農夫に事情を伝えて最寄りの駅まで送ってもらっているのかもしれない。いずれにせよ、会社に暴力沙汰が伝わったら出勤停止になることは間違いない。それでも、あの二人は僕を受け入れてくれるだろうか。これ以上クレームに対応する意味もない。どうせ解雇されるのであれば、このまま踵を返して、大胆に帰ってもよいのでは。色々と考えているうちに組立課の入る工場棟の前まで来ていた。
逡巡したが後ろから工員に「どうかされましたか」と突然声をかけられたので慌てて重い鉄の扉を開き、中に入った。加工した機械部品のバリを取る工員達の横を通り、組立課のある先へ進む。奥には昔、何度も商談を行なった事務用のスペースがあり、顎の長い神経質そうな五十代前後と思われる体格の細い男がパイプ椅子に座り資料に目を通していた。「失礼します。」と一言かけると、鋭い瞳をこちらに向けた。
「来たか。」
顎男は床に置いてある幅三十センチメートル程の立方体のダンボール箱をぞんざいに机に置いた。一目で武森化学が供給している包装袋の梱包箱とわかる。
「ほとんど使い物にならん。現場の担当が部品を入れようとしたら直ぐに袋が破けるし、虫が入っているしでな。大変だったぞ。椚工業から使えと言われて、購入しているのによお。」
嫌みたっぷりに男は顎を突き出した。棟内には部品に付着した機械油の臭いが漂う。周囲の棚には工具が整然と並び、天井の窓から単色の作業場に光が差し込む。作業場からレンチやドライバーを使い部品を組み立てる音がコツコツと聞こえてくる。
「ご迷惑をお掛けしてまことに申し訳ございませんでした。」
僕は深く頭を下げた。
「ふん、全く迷惑だよ。これを使えと樋口さんに言われてお宅から高価な袋を購入してきたんだ。強制ではないって言われても、あの会社には逆らえねえしよ。」
顎男は「高価」という言葉に語気を強める。思い返すと売り込みにきていた当時の担当者だった。顎を何度も付き出す癖。荒っぽい口調。確か役職は係長だった。
「申し訳ございません。すぐに回収致します。他の箱はどちらにありますか。一度、車から台車を持ってきます。」
「ああ、重いけどやってもらうぞ。現場の担当を呼んでくるから、そいつに具体的な指示を仰げ。」
顎男は勢い良く立ち上がると組立現場の方に顎をグイと向けて、叫んだ。
「三田っ…。じゃなかった。川島っ。業者が来たぞっ。来てくれ。」
作業用の帽子を深く被り、マスクをした小柄な工員が早足で入ってきた。肩にかかる程度まで髪が垂れている。女性だろうか。
「おい、三っ。いや川島、武森化学の担当者だ。回収させる箱の場所を教えてやれ。念のため本人に現物確認させろ。虫も見せてやれ。」
工員は僕を一瞥すると東側の棚の下から小箱を一つ持ってきた。張り付けてあるテープを爪で剥がそうとしたが、帽子の鍔が影になり良く見えないようで、一度帽子を取った。テープを丁寧に剥がして中から袋を取り出し、僕の目の前で簡単に破ける様子を見せた。袋の下には小さな羽虫が何匹も死んでいる。おそらく、変更した外注先の製造工場の品質管理が杜撰で虫が入り込んだのだろう。これまで取引していた工場であれば密閉された室内で製造していた筈である。廉価な分、異物が混入しない作業環境を整備していなかったのだろう。
工員はマスクを顎までずらした。
「奥にまだ在庫があります。来て頂けますか。」
その声で女性であることがわかった。細顔の頬にはニキビの跡が残っているが年齢は僕と同じくらい。狐のような細い目…。部品に付着した油で荒れた指先。機械油の臭い。ふと、作業着の左胸ポケットに留めてある白色のプラスチック製ネームプレートを見ると僕は微かに震え、視線を袋に戻した。天窓から陽光が指し込み女性の安全靴の先が鈍く光る。頭を鈍器で叩かれたような衝撃を受け、息苦しくなる。金属加工独特の油の臭いが鮮明になり僕に懐かしさと、長い月日により蓄積された不安が入り混じった複雑な感情を湧き起こす。目眩がした。二十年前の卒業式。寝そべった土手。澄んだ空を映す川面。まばゆい夕焼け。心地よい南風。ラジオの音。すべてがつい先日の出来事のようにさえ思えてくる。記憶の断片が輪郭を帯び、掘り起こされてくる。口が勝手に開きかけたが、その先の言葉が出てこない。
「そういえば、もう一人来るんじゃなかったのか?」
顎男の問いに僕は何も答えることができなかった。視線は虚ろに袋の羽虫のあたり彷徨い続け、呆然と立ち尽くした。
「おい、何だお前、どうかしたのか。気分が悪いのか?相当樋口さんにどやされたか?樋口さんは二人で来るって電話で話してたぞ。」
と話しつつも、もう一人のことは特に気にもしない様子で奥の梱包の作業場に向かって歩き出した。女性も後に続こう向きを変えつつ、動揺している僕に不審の眼差しを向けた。再び帽子を被り、マスクを付け直そうとした手がピタリと止まった。僕がネームプレートを食い入るように見つめていると、女性も僕の表情を覗き込むように見つめてきた。
プレートには「組立課 川島幸子」と刻印されていた。
「え、もしかして松尾君、松尾君なの?」
「川島さんっ。」
僕達は思わず叫んだ。


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