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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第10回   仲間 二
翌週から部長の指示通り佐川さんを連れて外回りの営業活動を行った。椚工業のような主要取引先からほとんど実績のない零細企業まで細かく回り、営業の流れを学んでもらった。学んでもらったと言っても、佐川さんは僕より十年以上営業経験がある。販売する包装商品の知識さえ習得すれば一人で容易く営業ができるだろう。だが、佐川さんは年下の僕をあくまでこの会社の先輩として立ててくれたし、仕事の進め方について僕の説明を熱心に聞いてくれた。僕は当然悪い気がしなかった。
「松っつん。流通について気になることがあるんだけど、聞いていいかな?」
「ええ、いいですよ。何でしょうか?」
ある日、営業車での移動中に佐川さんは運転をしながら僕に質問をしてきた。僕は助手席に座ることに慣れておらずやや緊張していた。ハンドルを握らない両手の行き場にどういうわけか困ってしまった。両膝にただ添えればいいだけなのに。僕は運転が嫌いではなかったが、佐川さんはどうしても後輩である自分が運転すると主張して聞かなかった。
「この会社は問屋を通さず、小売店やユーザーに直接販売する販路が多いみたいだけど、何か意味があるのかい?」
佐川さんは陽気に鼻歌を歌いながら聞いた。五月に入っており街路樹の花水木が大きな白い包葉を開いている。新緑が陽光に照らされて、木漏れ日が道路の所々を明るくしている。
「ああ、販売ルートのことですか。昔は卸売業者への販路が主流でしたが、部長の方針で需要家への直接販売もしくは小売店との取引に変えたんですよ。」
僕は遠くに見える竹林を眺めながら答えた。
「問屋を外すってのは、やっぱり少しでも利益を稼ぎたいからなの?」
「ええ、その通りです。問屋が入ると二〜三割は利益を乗せられますから。こっちがいくら安くしても。」
僕が営業課に配属された頃は、問屋と呼ばれる所謂卸売業者への販売が売上の八割を占めていた。昔は問屋が小売店や最終的な需要家と僕達のようなメーカーの間に入り、大量の商品在庫を保有してくれたことで、急な大口の需要に対応できたし、需要家側も余分な在庫を持たずに済んだ。しかし、国内経済の低迷が長引くと、問屋も経営の余裕がなくなり、リスクを背負ってまで過剰な在庫を持つことを避ける傾向が強くなった。そうなると、僕等のようなメーカーは問屋に販売するメリットがなくなったのである。部長はこうした在庫を持たず伝票だけ通して利益を上げる問屋を憎悪しており、次々と取引を見直し、その先の小売店や工場等の需要家と直接取引することを推進した。現在、問屋への年間販売額は二割以下にまで減少した。
「でも、松っつん、そんなこと強引に進めたら、昔から付き合いのある問屋は怒ったんじゃあないの?」
「ええ、当時はすごく怒られましたよ。会社に怒鳴り込んでくる担当者もいました。僕なんか胸倉を掴まれましたから。」
僕はある問屋の強面の課長に呼び出されて荷運び用のパレットを投げつけられたことを思い出した。
「大変だったんだなあ。松っつん。そんな時、あの部長はどうしていたんだい?」
佐川さんは鼻を穿った。
「そういう時は居なくなってしまうんですよ。用事が出来たから外出するって言って。まあ、こうしたトラブルは僕のような平社員では手に負えないですよ。それでも部長は助けてくれないから、自分で解決しないと。」
言い終えて話しすぎたと後悔した。佐川さんが部長にこの発言を報告したらどうなるだろう。佐川さんは僕の話をふんふんと相槌を打ちながら聞いていた。でっぷりとした太鼓腹にシートベルトが食い込んで苦しそうである。
「佐川さんはどう考えます?」
今度は僕が聞き返した。
「何が?」
佐川さんが惚けているのがわかる。
「問屋の排除についてですよ。」
佐川さんは「うーん」と唸り、窓を数センチメートル開けた。
「そうだなあ、あの部長のことはあまり好きになれそうにないけど、メーカーとユーザーとの間に入る仲介業者をできるだけ減らすってのは賛成だな。」
僕は思わぬ返答にやや驚いた。賛成でも反対でもない曖昧な回答で誤魔化されると思っていたからである。
「へえ、そうですか。なんでそう思うんですか?」
「何って。こんだけ景気が低迷していると、品質なんかよりコスト優先だってどの会社もわかってんだよ。物を安く仕入れたり、安く造ったりして安価に売らないと生き残れないだろう。景気がいいのは一握りの大手だけど、あいつらなんか一番コストにうるさいわな。俺達メーカーと大口需要家の間に二社も入っていたら高くて買ってくれんだろう。こっちがいくら原価割れギリギリの利益を乗せて商品を売っても問屋が在庫も持たずに二割も三割も利益を乗せられたんじゃ馬鹿みたいだよ。だから、あの部長のやったことは正しいと思う。」
佐川さんは言い切った。僕も佐川さんと同じ意見だったが納得できない部分がある。
「でも、佐川さん。これまで何十年も取引してきた相手を切るのは大変でしたよ。部長は簡単に指示するんですけど。」
問屋の担当者から毎日脅迫まがいの電話がかかってきていた頃を思い出すと、胃が痛くなる。問屋の先にある小売店と新規の取引契約を結ぶ際に、手形の条件が合わず苦労もした。
「松っつん、そこなんだよ。」
佐川さんは右手で窓ガラスを軽く叩いた。
「昔から取引のある会社と商いを止めるのは大変なことなんだ。だから、中々踏み出せない。あの部長のような強引さがないと。小さい会社の管理職や経営者は特にね。」
「中小企業が生き残るための必要悪みたいなものですか?」
「そうかもしれない。いや、こんな話しをするのはね、まさに、前の会社が問屋頼みの商売から抜け出せなくてね。潰れたのはそこに問題があったんだと思う。」
「ブルーシートの製造会社のことですか?」
佐川さんは頭を掻いた。白い頭垢が落ちて肩に粉雪のようにいくつも落ちる。着ているのが紺色のジャケットなので目立つ。佐川さんによると、前職の会社は何十メートルにも及ぶシートを仕入れて、需要家の要望に沿った寸法に加工するという所謂二次加工会社だった。競合他社が多く、それは価格競争が激しいことを意味する。昔からの商慣習により流通経路は複雑で、メーカーと最終的な需要家の間には一次卸、二次卸、中には三次卸まで入るという。佐川さんの会社がいくら商品の販売価格を引き下げても、間に入る問屋が同じような値下げに応じないとメーカーの利益だけが無意味に削られていくという構図だったらしい。需要家や小売店と直接取引をしようとすると、問屋が猛反発をして圧力をかけるので動きが取れない。
「問屋が強い業界だったから、俺等加工メーカーはジリ貧だった。」
佐川さんは淡々と話した。
「だからあの部長のような強引な指導者がいないと厳しい。先に進めない。良い方向にな。まあ、その後始末を松っつんがするのはおかしいけど。」
佐川さんは前職の会社が薄利多売の経営を続けた結果、シートを加工する機械の設備投資の負債を返済できず債務超過になり最終的に倒産した経緯を説明してくれた。
「まあ、経営者の責任なのかなあ。昔からの取引から抜け出せなくて思いきったやり方に変えることができなかったつう訳だ。」
佐川さんの話は、武森化学しか知らない僕にとって新鮮であった。佐川さんは、この世代以上になるとありがちな過去の自慢話や社員の批判に終始することなく、自らが職務上体験してきたことを丁寧に話してくれた。それが僕にとっては虚飾のない真実として感じることができた。佐川さんは部長の管理職としてのあり方に強い反感を持ちつつも、営業方針の一部についてははっきりと賛同している。、佐川さんは客観的に物事を判断できる人物であると、僕を感心させた。
この日最後の訪問先での商談が終わり、帰社するため営業車に乗り込もうとすると、佐川さんが僕の肩を軽く叩いた。西日で僕と佐川さんの長い影が埃の付いたバンに伸びている。
「なあ、松っつん。一件、飛び込み営業してよいかな?」
僕はよく聞き取れずに聞き返した。
「何て言いました?」
「飛び込み営業だよ。」
僕は困惑した。自分から飛び込み営業をしたいと言い出したのは佐川さんが初めてである。僕は十年前、営業部門に配属された頃「度胸試し」と言って部長から会社近くの商店に対して飛び込み営業を強要されたことがあり、それは辛い経験だった。袋のサンプルを持って入店してきた僕に対する散髪屋や八百屋、雑貨店の白眼視を今でも覚えている。僕が店主や店員から埃を払うようにあしらわれている様子を、部長は店の外から意地の悪い笑みを浮かべて見ていた。今振り返るとこの商店街に荒物屋や金物屋、包材屋以外何百何千枚も箱詰された袋を専門の業者から購入するような需要はない。配属されたばかりの部下に対する部長の典型的な扱きであったのかもしれない。
「…ええ、佐川さんが自分でやりたいって言うなら止めませんけど。」
「そう、じゃあ、ちょっと待ってて。」
佐川さんは道路の反対側にある廃材業者の事務所に臆することなくスタスタと入って行った。僕は後から慌ててついていきガラスの扉越しにその様子を観察した。四十代にもなればこれまでの経験から少しは自尊心が誰だって強くなるのではないだろうか。辛いことを自ら進んで行うのだろうと呆れた。ただし、廃材業者はその事業上、ごみ袋を大量に使うので訪問先としては的外れではないと思った。
案の定、佐川さんが入口近くにいた若い女性社員からけんもほろろに断られているのが分かり、三分も経たないうちに追い出されるように出てきた。だが、佐川さんは意気消沈せず扉の前で一礼すると、僕の前に颯爽と戻ってきた。
「やっぱり駄目だった。さあ、松っつん、帰ろう。」
営業車に戻ると佐川さんはジャケットのポケットから表紙が黒色の小さな手帳を取り出した。
「すぐ車動かすから、ちょい待ってて。」
佐川さんはボールペンで走り書きをした。
「何を書いたんですか?」
「ああ、さっき入った会社の社員名。」
佐川さんは手帳を僕に見せてくれた。「防火責任者田中雄一」「危険物取扱主任者笹山陽三」と記入してある。
「さっき外から覗いていたら門前払いされていたようでしたが、担当者の名前を教えてくれたんですね。」
僕は無意味と思っていた飛び込み営業も偶には挑戦した方がよいのかもしれないと感心した。ところが佐川さんから思わぬ回答が返ってきた。
「違うよ松っつん。あの女は何も教えてくれなかった。でも、事務所の壁にこの二人の名札がかかっていたんだ。それをメモったんだよ。」
佐川さんはシートベルトを締めた。そもそも、佐川さんは飛び込み営業で包装資材を購入する権限のある担当者を紹介してもらえるとは考えておらず、目的は壁に張り出されている社員の名前を把握することだった。
「誰だっていい。社員の名前さえわかれば後から電話して、その社員から担当者を聞き出せばいいんだよ。」
佐川さんは手帳をポケットに戻し、営業車を動かした。
「でも佐川さん。手帳にメモした人に電話して、『何で俺の名前を知ってんだ』って問われたらどうするんですか?」
僕は鞄を後部座席に移した。
「んなこと聞かれたら、受け付けの人から聞いたとか適当に答えればいいんだろう。」
要するに臨機応変に行動するということらしい。翌日、佐川さんはさっそく手帳に書いた二人に電話をかけてうち一人とアポイントを取ってしまった。
部長の指示により定期的に行う新規開拓の電話でも佐川さんは奇抜な行動に出た。ある日、佐川さんは初めて部長から電話をかける企業のリストを配られて、僕を手本に電話をかけるよう命じられた。佐川さんは僕が電話をかけては断られる様子を隣でじっと聞いていた。僕は横で電話のやりとりを聞かれて恥ずかしかった。四十分程かけ続けたところで、ようやく一社とアポイントが取れた。
「こんな感じですけど、流れがわかりましたか?ほとんどの会社から断られますので根気よく続けないとアポイントはとれないんですよ。」
佐川さんはA四判のリストに羅列された企業を上から読みながら、僕の簡単な説明を聞いていた。これから僕と同じように何十件も電話をかけては断られ続けること想像すると、佐川が哀れに思えた。四十代にもなると辛い仕事になるだろう。兎に角、断られても一喜一憂せず機械的に感情を押し殺して電話をかけ続けることである。
「わかった、松っつん。俺もさっそく電話をかけてみるよ。手本ありがとう。でも、俺なりの方法でかけてみてもよいかな?」
「ええ、もちろんですよ。」
僕は自分のアポイントを取る作業に一定の目処がついたので佐川さんの様子を観察することにした。佐川さんは咳払いをして喉の調子を整えるとリストの記載順の企業から電話をかけ始めた。
「もしもし、武森化学の佐川と申します。中村さんはいらっしゃいますか。…はい、ありがとうございます。」
奇妙に思った。佐川さんはニヤニヤと笑みを浮かべて僕を見ている。厭らしさはない。初めて電話をかける会社の社員の名前を何故佐川さんが把握しているのだろうか?
「あ、中村さんですか。私、武森化学の佐川と申します。御社でゴミ袋含めて包装袋をたくさん使う機会がありましたら資材もしくは工務の担当者を紹介してほしいんですけど宜しいでしょうか。はい。つないでいただけますか。ありがとうございますっ。」
担当者に代わると佐川はあっという間にアポイントを取ってしまった。電話を終えると、聞き取りした担当者の名前、アポイントの日時を丁寧な文字でゆっくりとリストの余白に記載した。
「佐川さん、初めて電話をかける会社の社員を何で知っているんですか?」
佐川さんは次の会社にかけようとしていた電話の受話器を戻した。
「ああ、松っつん。『中村』なんて知らないよ。でもね『中村』っつう名前はよくある苗字だから、規模にもよるけど大抵の会社にはいるんだよ。」
僕は舌を巻いた。
「え、それなら適当に『中村さんいますか』って聞いたんですか?」
佐川さんはボールペンをリストの上に放り投げた。ペンはクルクルと回転して机の端で止まる。
「もちろんだよ。そんで、やっぱりいたんだ。んで、その中村さんに担当者を教えてもらうの。名前さえわかればこっちのもんだろ。」
僕は身を乗り出した。確かに、初めて電話をかける会社で担当者にたどり着くまでに軸になるのが、担当者を教えてくれる人を押さえることであることは、これまでの経験からわかっている。誰でもよいので兎に角その会社の誰かの名前さえ把握できればその人から担当者を教えてもらえる可能性は飛躍的に高くなる。しかし、「担当者を教えてくれる担当者」に辿り着くのが一苦労なのだ。
「だったら『田中』や『佐藤』でもいいんですか?」
佐川さんは弛んだ頰を揺らして破顔した。
「松っつん駄目だよ。『田中』と『佐藤』、あと『鈴木』は多すぎて規模にもよるけど従業員が五十人を超えれば一社に二〜三人はいる。だから『田中さんいますか』なんて聞いたら下の名前まで教えろって聞き返される。そうなるとこっちが適当に話していることがバレるだろう。」
「それなら『中村』だってよくある苗字じゃないですか。」
佐川さんは右手で自分の太鼓腹をポンと叩いた。
「そうだな、『中村』もよくある苗字だ。でもね、『田中』『鈴木』『佐藤』に比べると少ない。こっちも規模によるけど大抵一社のある部署に一人いるかいないかの数だ。あくまで俺の経験だけど。だから、相手からすると特定しやすい。『中村』は狙い目なんだよ。」
何という抜け目なさだろう。僕は半ば呆れつつも、佐川さんの手法に目を見張った。これが営業経験の差なのだろうか。営業部では佐川さんと同年齢程度の人達を見てきたが、悪く言えば佐川さんのような狡猾な方法でアポイントを取る人はいなかった。良く言えば機転が利くのかもしれない。四十〜五十代の人達は他の社員と同様に部長からボロ雑巾のように扱われ、自尊心を傷つけられ、逃げるように辞めていった。彼等は営業成績不振の原因について、商品の付加価値や価格競争力の無さ等を挙げ、部長のいない所でいつも不平不満を並べていた。挙句の果てには会社の知名度不足まで加える。突き詰めると、袋にそんな価値は不要ではないだろうか。袋は何かを包むための手段であり、袋自体が目的という訳ではない。退職する先輩の背中を見つめながら僕はそんなことを思うことがあった。佐川さんは冗談を飛ばすことがあってもまだ僕の面前で仕事上の愚痴をこぼすことはない。いや、愚痴を言ってもそれは僕を面白がらせるための手段であり本心でないことが何となくわかる。どこか飄々としていて、例え部長から圧力がかかっても動じそうにない。もしくは苦労を面に出さない性格なのかもしれない。
「どうだ松っつん。一杯、呑みに行こうか。」
「はいっ。私も呑みたかったです。」
気が付くと、佐川さんと終業後に居酒屋に行く機会が増えていった。多い時には一週間に二〜三回は暖簾をくぐった。場所は十年程前に先輩とよく呑んだ古い店で、佐川さんとは終電前まで話が弾んだ。
仲が良くなるに連れて、少しずつ佐川さんの私生活が見えてきた。佐川さんは同年代の妻と小学校五年生になる娘との三人暮らしで、隣町にある集合住宅に住んでいる。
「実はかみさんと上手くいってなくてさあ。娘とは仲がいいんだけど。」
「何ですか。」
「浮気がバレたんだよ。」
「風俗通いではなくて?」
「馬鹿っ。そんなんじゃない。まあ、それも一因だけど、同窓会で再会した女と良い仲になったんだよ。へへへ。」
僕の目から見ても、佐川さんはお世辞にも異性から恋愛感情を持たれるような外見ではない。小太りで目は垂れており、スーツはいつも皺だらけ。革靴は磨り減っている。汗をかくと加齢臭も酷い。こんな男のどこを好きになるのだろうか。恋愛経験の乏しい僕は半信半疑で聞いていた。だが、物事を楽観的に考える性格で、僕のような年下に対する面倒見が良く、かといって先輩面をせず、あくまで仕事の上では僕を立ててくれる上に、自身の実力を誇示しない姿勢は猜疑心の強い僕でさえ好感が持てる。外見はともかく、好きにならずにはいられない人柄なのは確かである。
佐川さんと居酒屋に行くと、三回に一回程度の割合で室山さんがついて来た。室山さんは佐川さんと同じ隣町に住んでいて、両親と実家に暮らしている。兄弟姉妹はいない。大学を卒業しており、僕も佐川さんも高卒なので学歴だけで知的な雰囲気があると感じてしまう。文学部の英米文学科に在籍していたらしい。室山さんは読書好きなのだろうか。実家の自分の部屋には本棚があり書物がびっしり詰まっているのだろうか。英語が得意なのだろうか。大卒の知人がいない僕には想像ができない。居酒屋でビールジョッキを片手に、室山さんの奇抜な首飾りを見ながら考えた。
「本?全然読まない。英語?少し読める程度で仕事の会話は無理。日常会話なら何とかできるレベル。何で専攻したかって。入試の倍率が低かったから。ん、何で進学したか?うん、働きたくないから。家から通えればどこでも良かったの。」
特に卑下することなく佐川さんと僕に笑って答えた。つまり、何かを学びたいという志を持って進学した訳ではなく、就業という考えがないことから消極的な選択で行きついた末の進路だったようである。その点について恥じている様子はない。
「でも貿易事務の仕事してたんなら、英語できたんだろ?格好良いなあ。」
佐川さんが聞くと、
「ほとんど書類のやりとりだから話せなくてもいいの。見積と納期の回答が事務の殆どだけど、フォーマットがあるから難しくないわよ。まあ、関税関係の書類が面倒なくらいかな。でも、英米文学科卒ってことで少しは英語ができるだろうと思われて事務職に採用されたのかも。」
室山さんは学生時代、飲食店やコンビニエンスストアでアルバイトとして働き、貯金して海外旅行をしていたという。旅先は米国やオーストラリア、中国、韓国、英国、イタリア、フランス等世界中である。海外はもちろん、この県から外にさえ出たことのない僕は、その行動力に感心した。室山さんがアルバイトと海外旅行を繰り返している間、僕は倉庫という観光とはかけ離れた空間で朝から晩まで汗にまみれて段ボールの搬入と搬出をひたすら繰り返す毎日を送っていたのだ。海外旅行にも文学にも興味がないので室山さんが謳歌した学生時代を特に羨むことはない。しかし、学業以外の膨大な時間を自由に使えたという点に対しては、悔しい思いがする。自由な時間が僕にあったら何をしていただろう。一日中ラジオを聴いていただろうか。
佐川さんも室山さんも酒豪で、僕は二人の飲酒の速さについていくことに苦労した。二人共僕に酒を無理強いすることはなかったが、何となくその場の雰囲気で二人と同じペースで酒を注文してしまう。二、三時間で僕の頰は茹でた蛸のように真っ赤になる。
「松っつん、もう呑み過ぎたな。帰ろうか?」
「ああ、松っつんすぐ酔うんだから。つまんないなあ。」
二人共、僕の意識が朦朧としてくるのがわかると、帰してくれた。僕は先に一人で帰路に就くこともあれば、三人で店を出ることもあった。
晩秋になり、日が暮れるとコートなしでは寒くなってきた。数年前からこの季節になると、乾燥と寒さによって右手の親指の先に数ミリメートル程の皸ができるようになった。口が開いたような皸に水が触れたり、物が当たったりすると痛い。絆創膏を数日貼っていると治るのだが剥がすと一週間も経たずに再発してしまう。皸は春まで続いた。二十代の頃にはできなかった。皮膚が弱くなったためなのか。冬が訪れて皸を見る度に年を取ったということなのだろうかと思った。
佐川さんと室山さんは入社から半年が経過したが退職していなかった。営業部においてこの勤務期間は奇跡に近い。あの専制君主の下で二人は上手く仕事をこなしてきた。
「おい、松っつん、寒くなったなあ。熱燗が恋しい季節だぜ。一杯やるかあ?」
「ええ、私も行きたい。早く仕事終わらせよう。」
特に寒い日や週末になると佐川さんは何らかの口実を設けては僕と室山さんを居酒屋に誘った。
何故二人が絶望的ともいえる高い離職率の会社で働き続けることができたのか。大きいのは、部長の圧力に屈することなく佐川さんが予想以上の実績を上げてきたことにある。佐川さんは巧みな話術と行動力で家族経営の零細企業から全国に販売拠点を有する大規模な事業所まで次々と新規の契約を獲得していった。佐川さんは入社したばかりの頃に話した僕の助言を忠実に実行した。新規の受注契約を結ぶ直前に部長を契約先の担当者に必ず引き合わせて、いかにも部長が新規の受注を取り付けたように演出。成績優秀であるが故に嫉妬深い上司から妬まれないようにするための配慮を忘れなかった。部長は大喜びですっかり佐川さんを気に行った。部長は僕よりも佐川さんと同行する機会が増えていった。
「おい、松尾っ。また佐川が新規を取ってきたぞ。お前、負けてんじゃねえぞっ。」
部長は顔を綻ばせて僕の尻を蹴り上げた。
佐川さんは前職の人脈と経験を生かして、廃材業者や建築業者へと販路を拡大。破竹の勢いで売上を伸ばした。こうした業種はこれまで武森化学にとって未開拓の業種であり、想像もしていなかった新たな需要として部長の期待はより大きくなった。
武森化学の営業部門に配属された社員の誰しもが苦労するクレーム対応についても、佐川さんは卒なくこなした。最も多いクレームが納期の遅延。海外から製品を輸入する際の海上輸送において悪天候や税関手続きの遅れに起因することが多い。港湾労働者によるストライキもある。突発的に発生するので有効な再発防止策は取りにくい。
「いやあ、すんませんっ。船が遅れちゃって。何とかもう一週間待ってくれませんか?この通り。私の頭なら何回でも下げますうう。」
「おいおい、佐川君。今回だけだぜ。もう勘弁してくれよ。へっ。」
佐川さんは納入先の担当者を徹底的に丸め込むことで、余程の事案でない限りはクレームを揉み消してしまった。小太りの丸顔が瞳を瞬かせて頭を何度も下げると、相手は「今回だけは…」と何となく許してしまうようである。そんな風に思わせてしまう可愛さがある。
「松っつん。相手の担当と良好な関係ができていれば、クレームだってある程度までは現場レベルでどうにかできるし、あのいかれた部長に報告せずに済むんだ。」
室山さんについては初対面の時予想していた通り、マイペースで仕事が遅い。単純な間違いも多く、何度か部長に怒鳴りつけられたことがあったが、その度に佐川さんが間に入り、事務作業を手伝うことで切り抜ける事ができた。部長に目をつけられる前に佐川さんは怒りの矛先を巧妙に変えてしまう。驚いたのは佐川さんの事務処理の速さと正確さ。見積は単価、納期は発注から納入までの実働日数を間違うと後に致命的な問題になる。提出前に誤りはないか何度も確認するのだが、あまり度がすぎると回答が遅くなるし、他の仕事が溜まってしまう。室山さんは一度見積価格の大きな間違いを起こしてから、確認作業により時間をかけるようになり、処理時間がますます遅くなった。佐川さんは帰社すると、自分の抱える事務作業を済まし、室山さんの業務を自発的に手伝うようになった。価格、仕様、納期、見積送信先に間違いがないかを確認する作業は一回だけで、間違いは僕が記憶している範囲で二回しかない。その間違いも取引先を丸め込み、許してもらえた。おそらく室山さんは、佐川さんがいなければ持たなかっただろう。緩慢な動作でコピー機を操作して見積を複写する室山さんを見ながら僕は考えた。
「あ〜。松っつん、またコピーが詰まっちゃった。あれ、インク切れかしら。ちょっと見てくんない?」
室山さんは節約という理由で、裏紙をコピー機で再利用するのだが、ステープラーの針が付いたまま使用してしまい、印刷ロールに引っかけて止めてしまうことがあった。その度に僕は直してほしいと声を掛けられ、仕事を中断する。裏紙を使用するときは針が付いていないか確認するよう僕は再三注意するが、室山さんは三日も経てば忘れてしまう。部長はこうした不注意を特に嫌悪しており、見つけたら罵声を浴びせるのだが、部長に気付かれる前に佐川さんと僕がこっそり対応することで、室山様が標的になることはなかった。
十一月末のある日、僕達三人は仕事を終えるといつものように居酒屋へ向かった。街路樹の銀杏から落ちた鮮やかな黄色の葉がびっしりと道路端を埋め、歩くとサクサクと音がする。民家の生垣には山茶花の桃色の花が咲いている。もう少しで冬の訪れを本格的に感じるだろう。シャッターが閉じたままの廃業した店舗ばかりが目立つ商店街を落葉が北風に吹かれて飛んでいる。うらぶれた地方都市がいっそう寂れて見える。
その日、僕は日本酒の熱燗を呑み過ぎた。一杯目はいつものように生ビールから頼んだが、二杯目以降は佐川さんと室山さんの強い要求ですべて日本酒。僕はこれまで日本酒をあまり呑む機会がなかった。室山さんが徳利から僕の御猪口に温められた酒を注ぐと、強い香りがふわりと鼻に入った。熱燗を呑むのは初めてで僕は何だか楽しくなった。御猪口でグイと口に入れる呑み方も新鮮で何度も室山さんに注いでもらった。冷えた体が温まっていく。
酷い酔いに気付いたのは、呑み始めてから三時間が経過した頃だった。尿意を感じてトイレに向かうため立ち上がった。二、三歩進んだ時、頭が揺さぶられたようにクラクラとなり、気分が悪くなった。トイレまで千鳥足で歩いた。手遅れだった。胃から逆流してくる食物を一、二度は堪えて飲み戻したが、最後は便器へ激しく嘔吐した。僕は蹲り両手で狭い壁を押さえて何度も吐き出した。吐くまで飲んだのは初めてである。そのままの姿勢で体調が落ち着くのを待った。じっとしていると店内に流れるラジオが聴こえる。
「…いや、今日は今年一番の寒さですって。県北では零度近くにまで下がった地域もあるようです。私は先週遂にコートをクローゼットの奥から出しました。少し早いかなあと思っていましたが、用意しておいて良かった。今朝は自宅の車のタイヤを冬用に交換しました。路面の凍結が始まりそうです。この交換作業が大変で筋肉痛です…。」
ふと営業車のタイヤを冬用に交換していないことに気付いた。師走に入ると県北地域では降雪もある。早目にタイヤを交換していないと部長に怒鳴られるだろう。屈みながらタイヤのことを考えた。
「おい、松っつん。大丈夫か?起きているのか?」
扉を叩く佐川さんの声が外から聞こえる。返事をしようとすると吐き気を催すので、扉を叩いて意識があることを伝えた。
「松っつん。起きてんな。一回出ようか。立てるか?」
「ええ、ええ、大丈夫です。心配しないで下さい。少しここで休ませて下さい。」
僕は逆流してくる胃液を堪えながら答えた。食べた物はすべて吐き出したようである。喉が痛い。
「駄目だ。松っつん。他のお客さんが待ってんだ。辛いかもしれないけど、一回出てくれ。」
佐川さんは扉を再び叩いた。今度は強い。何がなんでも出てくれと言われている気がする。僕は深呼吸をしてから腰を上げた。体が鉛の塊を担いでいるように重い。覚束ない手つきで便器の水を流した。
「松っつん、行けるか?開けるぞ、ズボン穿いているか?」
「ねえ、松っつんどうしたの。吐いているの?」
室山さんの声も聞こえる。
「呑み過ぎたみてえだ。松っつん。もう帰ろう。」
「一人で大丈夫かしら。」
「タクシー呼ぼう。」
「松っつんの家何処にあるのか知っているの?」
「知らないけどなんとかするよ。取り敢えず…。」
二人の会話を遮るように僕は鍵を外して扉を開けた。佐川さんが僕を支えてくれながら店から出してくれた。室山さんが僕の鞄を持ってくれている。店の通路を歩く時二人がしきりに店員や客に平謝りしていることがわかり、申し訳なくてしかたなかったが、吐き気が酷くて何も言えない。店の外で急激な冷たい外気にあたり僕は震えた。小刻みに手足を震わせる僕に気付いた室山さんが自分のコートをかけてくれた。甘い化粧の匂いがほのかに漂う。僕はポケットから財布を取り出した。代金を支払っていないことが妙に気になる。酔い潰れた状況でも金銭のことだけは意識がはっきりしているのは、二十年前に清掃のアルバイトで受けた恐喝まがいの行為のためなのかもしれない。あの時の恐怖が四半世紀に近づいているのにもかかわらず僕という人格の根底にこびりつき、意識を操っているのかもしれないと思うと怖くなった。
「松っつん。金はいいから。取り敢えず帰ろうぜ。」
「松っつん。こんな酔っ払っているのに変なところだけしっかりしているのねえ。」
室山さんが呆れている。佐川さんは僕を支えながら大通りに向かって歩いた。僕の鞄を抱えたまま室山さんが後に続く。木枯らしが強く吹き、商店街のシャッターがガタガタと激しく音を立てて揺れている。僕は火照った顔を寒風に晒されて震えた。佐川さんが僕の身体を温めようと背中を摩ってくれた。
大通りに出て暫く歩くとタクシーを停めることができた。
「室山さんはもう帰んな。俺が松っつんを送って行くから。」
「え〜私もついていくよ。」
室山さんの抵抗する声が聞こえる。
「いやいや、遅くなるから。終電なくなるぜ。」
佐川さんが僕を後部座席に乗せて、その横に乗り込むと、室山さんは強引に助手席に座った。
「御客さん、どちらまで?」
運転手に行き先を聞かれると佐川さんは僕の肩を叩いた。
「松っつん。ちょっとごめんな。」
佐川さんは僕のスラックスのポケットから財布を抜き出し、中から運転免許証を取り出して、運転手に見せた。
「すんませんが、この住所まで行って下さい。」
運転手は眼鏡を上げる免許証を目に近づけて車内の灯りを点けた。初老の皺が目立つ顔がバックミラー越しに見える。
「何だ、駅の反対側じゃないですか。」
運転手は走行距離の短いことがわかると不満そうに話した。
「そう言うなって。頼むよ運転手さん。」
タクシーが走り始めると、その振動で僕は心地よくなり眠ってしまった。
目が覚めると僕は自分のアパートの居間で横になっていた。灯りが点いており時計を見ると午前一時。首を上げて室内を見回すと驚いたことに室山さんが壁にもたれて座り、文庫本を読んでいた。僕は読書をしないのでおそらく室山さんの本だろう。僕は部屋に他人を入れたことがない。入居時にガス事業者がガスの開栓作業で入室した時以来誰も入れていない。緊張により急激に酔いが醒めてきた。
「松っつん。起きた?気分はどう?」
室山さんは目覚めた僕に気付くと本を鞄に入れて大きな欠伸をした。
「ええ、ああ、はい…。大丈夫です。すみませんでした。迷惑をかけて。僕はずっと眠っていたんですか?」
僕は胸にかかっていたコートをどけて上半身を起こした。
「佐川さんが何とかここまで連れてきて、そこに寝かせてからずっとね。よくわかんないけど松っつん寝言で『タイヤ交換、タイヤ交換』って言ってたけど何なの?」
室山さんは鞄からペットボトルの飲料水を取り出して一口飲んだ。僕は暫くぼんやりとしていたが佐川さんがいないことに気付いた。
「あ、佐川さんはどこに行ったんですか?」
終電は既にない。タクシーで帰宅したのだろうか。
「今、コンビニにお酒とおつまみを買いに行っているところ。そろそろ戻るんじゃない?」
「まだ呑むんですか。」
胃が痛くて何も呑みたくないし、食べたくない。酒と聞いただけで気分が悪くなる。金輪際アルコールを摂取しなくても良いとさえ思う。佐川さんはコンビニエンスストアを見つけることができたのだろうか。おそらく駅の近くまで行かないとない筈である。
「だって終電ないし。朝までここにいるしかないじゃない。五時の始発まで待つわ。それまでゆっくり呑むの。」
僕は呆れて言葉が出なかった。だが、酔い潰れた僕を置き去りにせず終電を逃してまでアパートまで届けてくれたことに感謝した。
室山さんは白地のタートルネックのセーターを着ており緑色のロングスカート、黒のタイツを履いている。相変わらずあの妙な貝殻と勾玉のネックレスをかけている。
「松っつん、この部屋にはテレビがないの?」
室山さんは室内を見回した。
「君が鼾を掻いて寝ている間、暇だからテレビでも見ようと思ったのにないのよ。」
「すみません…。実はテレビを持ってないんですよ。」
僕は立ち上がりコートをハンガーにかけた。
「えっ。テレビないの?何で?どういう生活しているの?」
室山さんは目を丸くした。
「ああ。ラジオがあるんで。テレビがなくても大丈夫なんですよ。ラジオばかり聴いているんですよ。」
僕は出窓に置いてあるラジオ機能が付いた黒色の小さなCDラジカセを指差した。
「え〜。そうなの。そんな人いるんだ。初めてだわ。珍しいね。」
「子供の頃からラジオばかり聴いているんですよ。だからテレビが必要ないんです。」
僕は自分の私生活の一部を晒しているようで気恥しく、動揺した。そんなことはこれまで他人に話したことがない。二十年前に仲良くしていた川島さん以来である。
「ふ〜ん。面白いねえ。私はラジオなんてまず聴かないから。」
長時間座っていたので身体が痺れたのか、室山さんは手足を伸ばした。
部屋は六畳の和室でこの中に二つ口のコンロと流し台がある。ベランダは無く窓が一つあるだけ。収納は押入れと天袋があり日用品から服まで全て入れている。部屋の中心に置いてある座卓は就寝時に折りたたみ、壁に立て掛けている。二人では狭い。
「松っつん、クラシック好きなの?」
唐突に聞かれた。室山さんはラジカセの横に無造作に置いてあるコンパクトディスクを手に取った。それは何千回と聴いたアントニン・ドボルザーク作曲の「交響曲第九番ホ短調作品九十五『新世界より』」だった。最も、頻繁に聴いているのは第二楽章の「ラルゴ」になる。
「クラシックは特に好きな訳ではないんですけど、この人のこの曲だけ何故か好きなんですよ。」
僕は恥ずかしくて頭を掻いた。胸元の勾玉がこちらを見つめているような妙な気がする。
その時、インターホンが鳴った。佐川さんが戻ってきた。ぶら下げたビニール袋から缶ビールと乾物が見える。
「いや、全然コンビニがなくてさあ。駅の反対側は何にもないんだなあ。ああ、寒い。」
佐川さんと室山さんは朝まで飲み明かした。僕は部屋の隅で横になって会話をぼんやりと聞いていた。
翌週、室山さんは出社すると僕に一枚のCDを貸してくれた。
「ドボルザークの『スラブ舞曲』。家にあったの。昔中古で買ったみたい。」
僕は帰宅すると早速、聴いてみた。「新世界より」に比べてテンポが早くイマイチわからなかった。翌週返却すると、室山さんは別のCDを貸してくれた。「スラブ舞曲」の感想を聞かれなかったので安堵した。特に感想がなかったからだ。
今度貸してくれたのはベドルジハ・スメタナという作曲家の連作交響詩「我が祖国」。ドボルザークと同郷らしい。こちらもいまひとつであったが第二曲の「モルダウ」だけはなんとなく聴き入ってしまった。だが、何故良いと感じたのか考えてみてもよくわからない。心地良いとだけしか表現できない。僕には知識がなさすぎる。ただ「モルダウ」を聴いていると、二十年前に川島さんと夕日を浴びて朱色に染まる川を、ぼんやりと土手の斜面に座って眺めていた情景を思い出した。
僕は翌日、そのような感想を室山さんに伝えた。
「ふ〜ん。その曲ね、スメタナが故郷を流れる川をイメージして作ったみたい。だから、松っつんが川を連想したのはあながち的外れじゃないかもね。」
ということらしい。僕は交響詩だとかホ短調だとかいう単語の意味を全く理解していないし、興味もない。作曲家の生涯や作曲の背景もしかり。そもそもクラシックというジャンルが好きなわけではない。ドボルザークの「ラルゴ」が好きなだけである。ドボルザークの「新世界」以外の曲を聴いたことはない。一枚のCDを延々と聴いてきた。だから室山さんの話は新鮮に感じた。それは中学時代の昼休みに図書室で川島さんと取り留めのない会話を交わしていた頃の甘美ともいえる記憶を思い起こさせた。
「『新世界より』も川に関係があるんですか?」
「ううん。あれはドボルザークがアメリカにいた時に作ったみたい。黒人や先住民の音楽の影響を受けたんじゃなかったかしら。」
「ドボルザークは何人なんですか?」
「いまでいうチェコの人かな。」
「チェコってどこにあるんですか?」
「えっ。東欧でしょう。知らないの?」
僕は東欧という地域がヨーロッパのどのあたりにあるのか気になったが、しつこいと思われたくないのでそれ以上は聞かなかった。僕と室山さんとの間にある膨大な知識の隔絶を感じる。僕が「ラルゴ」を聴き続けるのは何故だろう。おそらく川島さんと夕方に土手で別れる際に偶然流れた曲として引きずるように思い出を求め続けているためなのかもしれない。川島さんは元気なのだろうか。室山さんは独身だが、川島さんは結婚したのだろうか。
室山さんは大学生の頃、海外旅行とともに、音楽鑑賞や美術館巡りを趣味としていたという。文化的な活動。いずれも僕には縁のない趣味である。大きな勾玉のネックレスも国内の美術館で購入したらしい。
「もう、学生時代の体力はないわ。旅行は暫く行ってない。仕事で疲れているし。休日は家でのんびり。実家だから楽だわ。松っつんは無趣味だからやることなさそうだね。ラジオくらいかしら。」
「ええ、何にもないですよ。」
大抵、室山さんから話しかけてくる。仕事中は鬱陶しいと思うこともあったが、毎日が楽しくなったとも感じた。佐川さんは相変わらず愉快で優しい。僕は兄と姉が同時にできた気分になった。
「松っつん。手が荒れているね。私のハンドクリーム使って。」
室山さんは僕の指の皸を気遣ってくれた。ハンドクリームはジャスミンの香りがした。
年が明けたある日、僕は久し振りに椚工業を訪問した。室山さんは風邪を引いて会社を休んでおり、部長は佐川さんを連れて朝から外出していた。
「どうだ松尾君、景気の方は?」
椚工業の樋口さんはマスクを付けて商談室に入ってきた。風邪が社内で流行っているらしい。大寒の冷気で窓際の席は暖房が効かないくらい寒い。
「ええ、好調とまではいきませんが御社のおかげで、悪くはないですよ。」
言葉を慎重に選んだ。安易に「好調です。」と答えると「業績が良いなら商品の販売価格を下げてもいいだろう。」と脅されかねない。樋口さんはB五サイズのノートを捲ると白紙の頁の右端に本日の日付けを記入した。
「今日はデブゴリラがいないから松尾君ものんびり営業できるだろう?」
樋口さんはニヤニヤと薄ら笑いを浮かべた。「デブゴリラ」とは勿論部長のことである。
「ええ、最近部長は新しく入ったお気に入りの営業と同行する機会が多いんですよ。」
「へえ。誰だっけ。あ、佐川さんだっけか?」
樋口さんはノートの上にボールペンを置いた。
「そうです。半年前に一度、私と同行した彼です。」
「そうだった。まあ、よく続いているな。あんたの会社じゃ新記録じゃないのか?今まで紹介された営業はあのゴリラに虐められて皆辞めちまったじゃないか。」
僕は頭を掻いた。過去十年、営業部に配属されてきた社員を営業教育の一環で同行させて、取引先を回ったことは数えきれない程あった。ところが、半年も経たないうちにまた新しい社員を連れて回る羽目になる。取引先からは「人の入れ替わりが激しい会社」と不信がられる。
「今度は長続きしそうです。」
ここで僕は話を本題に切り替えた。今年の発注数量の見通しを聞き取りに来たのだ。
樋口さんの表情がやや強張った。
「実は業績は芳しくない。今年も厳しいだろう。うちは売上の六割を海外、つまり輸出が占めている。今、円高だろう?ドル決済だから利益が相当圧迫されている。」
椚工業は輸出の割合が年々増加しており、為替の変動が経営に与える影響は大きくなっている。所謂輸出企業の同社にとって円高ドル安は海外メーカーとの競争では不利になる。例えば一ドル百円だった為替相場が一ドル八十円になると、ドル決済の場合、同じ製品を同じ価格で販売すると二十円目減りする。年間売上が五千億円規模の同社にとっては相当な痛手だろう。
「松尾君の会社のように輸入した製品を国内で販売する商売なら円高は儲かるだろうな、逆に。」
樋口さんは溜息を付きながら僕の口元をじっと見つめた。「お前達の利益をこちらに還元しろ」とでも言いたげである。僕は視線を逸らした。
「今年はどの程度減りそうですか。」
「そうだな。営業の話だと、五〜十パーセントは落ちるかもしれない。」
この数字は大きかった。同社向けの販売総額は僕の担当分の中で三〜四割を占める。この分の減少を他で補うことは困難だろう。僕は項垂れた。
「松尾君、そんなにしょげるなよ。今までさんざん君の会社の商品を買ったんだ。今年は少し減っても我慢してくれよ。」
樋口さんは僕の失望の表情を受けて心配する素振りを見せた。そんなことは当然あの部長には通用しない。僕は確実に減少する売上をどこかで取り返す必要がある。そうしないと心が病むまで痛めつけられることは確実である。
「それと、ちょっと気になることがあるんだが。」
「はあ、何ですか?」
売上が気になり樋口さんの話を上の空で聞いている。
「製造現場からの情報だけど。お宅の会社の袋が以前に比べて、肉厚が薄くなったという奴がいるんだ。」
「えっ。」
「俺は部品を袋に詰める作業とは無縁の部署だからよくわからないけど。何かわかる?」
僕は青褪めた。一年程前に部長が勝手に製造元を変えた上に、あろうことか製造原価を下げるために袋の厚みを薄くしたことを思い出した。
「さあ、現物を確認しないとなんとも言えませんが…。」
樋口さんのノートを見ながら平静を装って答えた。もし、目が合ったら動揺に気付かれて、内実を嗅ぎつけられるかもしれない。
「今度、現物を持ってきてやろうか。」
「はあ、お願いします。」
僕は力無く答えた。樋口さんの口調からは喫緊の課題という考えではないようだが、傷口が小さいうちに対処しないと大問題になりかねない。
肩を落として帰社すると佐川さんと部長は既に戻っていた。僕は逡巡したが、部長に樋口さんとの会話の内容を伝えた。一つ目は今後売上が減少すること、二つ目は袋の厚みが変わったことを先方の一部社員に指摘されていること。私見を入れる言われたことを淡々と述べた。
部長が不機嫌になっていく様子がすぐにわかった。
「だから何だ。減少分の売り上げを他で稼いでくればいい話だろう?それが営業だろうが。」
部長のこの反応は想定内である。
「はい、申し訳ございません。」
僕は頭を下げた。隣で佐川さんが聞き耳を立てているのがわかった。
「それとな、厚みを変えた件、あれは絶対黙っておけよ。」
「はい。」
と返事をしつつ、今からでも遅くはないので厚みを元に戻した方がよいのでは、という言葉をぐっと我慢する。
「もしばれても、俺は知らねえからな。製造元が勝手に変えたことにしろ。」
その「製造元」は椚工業からすれば我が社なのである。武森化学が外注に生産させていても言い逃れはできない。武森工業は商社ではい。自社製品として販売しているメーカーなのである。だが、この論理も部長には通じない。反論した瞬間、この会社での居場所がなくなることは過去の経験から知り尽くしている。精神が病むまで毎日罵倒されることは確実なのだ。
「はい、わかりました。」
「くだらねえことで俺を煩わせるなっ。」
「はい、申し訳ございませんでした。」
僕は席に戻り事務処理を始めた。腹立たしさと悔しさで仕事に集中できないが、何事もなかったように作業を続ける。定時になり部長が退社すると、佐川さんがすぐに駆け寄ってきた。
「松っつん、大丈夫?相当やられたな。」
「ええ、大丈夫です。」
僕は力無く答えた。佐川さんは心配して隣に座り、背中を撫でてくれた。肉つきの良い手は温かく僕の気持ちを宥めてくれる。
「まあ、気にするな。それにしても、最近松っつんに対するあたりがきつくないか?」
「そうでしょうか。よくわからないです。」
僕は佐川の方を見ず、電卓で見積の計算をする。
「そっか。それならいいんだけど。」
佐川さんは暫く僕の様子を見ていたがやがて自分の席に戻って行った。
佐川さんの指摘通り、部長の僕に対する態度が佐川さんに比べて厳しくなってきたことには気づいていた。原因もわかりきっている。佐川さんである。だから、僕は佐川さんに言われても無頓着な振りをした。坂道を転がる石ころのように僕の評価は落ちている。それは佐川さんの評価が日増しに上昇する傾向にあたかも反比例するかのようだ。ついに来る時がきたのか。僕はいよいよ押し出し式の鉛筆のようにこの会社から放逐されるのだろうか。この状況は、佐川さんが入社した時に、漠然と予感したことであり、今になってその輪郭がはっきりとしてきたように思える。部長にとって佐川さんという優秀な駒を得たことで僕は用無になったのだろう。過去に飽きるぐらい見てきた光景が、今まさに僕自身に降りかかろうとしている。
佐川さんに対して僕は複雑な感情を持つようになった。もし、佐川さんが人を出し抜いたり、蹴落としたりしてのし上がることで部長の歓心を買おうとしていれば、僕は彼を憎悪したし、彼の粗探しに全力を尽くし、部長の評価を下げて追い落としただろう。だが、佐川さんは僕にとって頼もしい兄のような存在になってしまった。先輩風を吹かすこともなく、優しく、楽しく、頼もしく、非の打ち所がない。いつの間にか僕にとって燦然と輝く光明に等しく、妬み等一切湧き起こらない羨望の対象となってしまった。どうしても恨むことができない。少しでも憎らしいと思えれば何らかの対抗手段を取れただろう。不思議なことに、この男のためなら自分が不幸になってもよいとすら思える。僕は職場での立場が危うくなりつつあるのを日々感じながら為す術がなかった。
「松っつん。元気だしなよ。ねえ、飲みに行こう。」
僕が部長に面罵される度に、室山さんは慰めてくれた。
四月に入り、暖房が不要になった。開いた窓から暖かい風が入るようになったある日、僕は部長に呼び出された。営業部の隣にある会議室は十畳の広さで、窓が一つ、長い机が一台、パイプ椅子が六脚ある。部長は陽光が射し込む窓側の椅子に座り、両腕を組んでいた。窓を背にした部長の顔に影がかかり、悪意に満ちた眼光が不気味に僕を見ている。部長から会議室に呼ばれることは滅多にない。僕は身構えた。会議室に二人で入るということは佐川さんと室山さんに聞かれたくない理由があるのだろう。いや、あえて別室に呼びだすことで僕の不利な立場を際立たせる効果を狙っているのかもしれない。僕は不安を押し殺して扉を閉めた。
「おい、松尾、昨日な、椚工業の樋口から電話があったぞ。」
「部長に直接ですか。」
樋口さんが部長に直接電話をかけることはない。嫌っているからである。僕は驚きを持って、部長の次の言葉を待った。
「んでな、明日来てくれって言うんだよ。」
部長は僕の表情を楽しそうに観察しながら話す。
「…用件は何でしょうか?」
「さあ、知らねえな。特に言わなかったな。」
「そうですか。私も同行した方が良いでしょうか?」
部長は薄ら笑いを浮かべ、僕のつま先から頭まで舐め回すように眺めた。
「へっ、そうだな。お前も来てもらおうか。俺も樋口に用があったんだよ。」
「はあ、そうですか。」
何とも嫌な予感がする。それにしても、この男の下で十年以上働いてきたが、部下を徹底的に攻撃する前のいやらしい焦らし方は何なのだろうか。相手を岩壁の端まで追い詰めて、崖から突き落とすか、串刺しにするような手法である。
「椚工業の担当を佐川に代える。」
「えっ。」
僕は唐突な内示をよく聞き取れなかった。
「『えっ』じゃねえよ。佐川がこれから椚工業を担当する。前から考えてたんだ。丁度いいタイミングで樋口から呼び出しがあった。明日、俺と佐川とお前で引き継ぎの挨拶に行くぞ。まあ、お前はもう来なくてもいいけど。」
「そんな急に…。」
これまで積み上げてきた努力と実績が音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。それは、この小さな組織から干されたことを明示している。通常であれば大人しく引き下がっただろう。しかし、椚工業は僕が十年前に、新規の電話でようやくアポイントを取り、全く取引がない状態から年間五千万円にまで達する売上規模にまで拡大させた特別な企業である。「この会社だけは」という自負が僕にはあった。唇を噛み、沸き起こる怒りを抑えた。
「何だ?その面は。お前、俺に文句あるのかっ。」
僕は感情を押し殺したつもりでいたが顔色に表れてしまったらしい。部長は机を力任せに蹴飛ばした。机は前に押し出されて僕の股あたりにぶつかった。
「いえ、何もないですっ。」
「だよな。だったらさっさと佐川を呼んで来い。」
僕は股の痛みを堪えながらフラフラとよろめく様に歩き、重い足取りで退室した。
「佐川さん、部長が来てくれって。」
部長の怒鳴り声や机を蹴飛ばす音が聞こえたのだろう。佐川さんは只ならぬ雰囲気を感じ取り僕を心配そうに見つめた。
「わかった。直ぐ行く。松っつんは大丈夫か?部長にきついこと言われたんだろう。殴られたのか?」
僕は答えなかった。呆然と佐川さんの太鼓腹を意味も無く眺めた。ワイシャツがだらしなくスラックスから食み出ている。室山さんも青ざめて僕と佐川さんの様子を見ており、事務作業を止めている。ネックレスの勾玉の穴が僕を見つめているような気がする。何とも言えない屈辱感が僕を覆った。
僕に続いて会議室に入ると、佐川さんは怪訝な表情で殺風景な室内を見回した。部長は僕を痛罵した時が嘘のように子供のような笑顔で佐川さんを迎えた。僕との愛憎の差をあからさまに見せつけるためだろう。
「おお、佐川、仕事中に悪いなあ。今、大丈夫か。まあ、座ってくれ。」
立ったままの僕に遠慮するように佐川さんはゆっくりと着座した。
「あのな、前にちらっと話したよな。お前はもうウチの主力だ。だから椚工業の担当を任せることにした。明日、さっそく引き継ぎに行ってもらう。予定入ってないよな?俺も同行するから。昼には鰻でも食うか?へへ。」
僕は「前にちらっと話したよな」という言葉を聴き逃さなかった。佐川さんは部長が近い将来に椚工業を引き継がせることを把握していたのだろうか。何故、その可能性を僕に知らせてくれなかったのだろう。僕を煩わせないように気を配ったつもりなのだろうか。僕は表情を変えずに横目で佐川さんを見詰めた。急激に不信感が募った。
「いや、部長、椚工業については前にもお話しました通り、まだ入社一年程度の私には荷が重すぎます。担当の樋口さんも松尾君との関係は良好みたいですし。引き続き松尾君に担当してもらったほうが良いと思います。」
佐川さんは落ち着きつつ、毅然と答えた。
「佐川よ。こいつはもう駄目。全然仕事ができない役立たずでな。営業失格。こんな奴をいつまでも椚の担当にしていたら売上はいずれガタ落ちだ。能力のない人間にはさっさと退いてもらう。今からでは遅いくらいだ。糞以下だ。」
部長は大袈裟に頭を振った。
僕は二人の会話を聞きながら、ふと、窓の外に視線を移した。するとセンター長が台車に段ボールを積んで運んでいるのが見えた。同じ会社に在席しているのに部署が変わるとほとんど顔を合わすことがない。白髪になり背はやや曲がり、遠くからでも老けこんだことがわかる。そういえば椎間板ヘルニアになったと人伝に聞いていた。その様子を見て僕はこの十年の月日の経過をつくづく感じた。すると、以前在籍していた倉庫での労働の日々を思い出した。あの頃は肉体的な疲弊はあっても、今のような精神的苦痛や屈辱とは無縁の世界だった。革の腰ベルトが腐るくらい汗まみれになって段ボールを棚から出し入れしていた頃が急に懐かしくなってくる。もし、記憶が正しければ営業部に「左遷」される際、センター長は「もう無理だと思ったら辞意を伝えてくれ。倉庫に戻してやる。」と言ってくれた。約束の効力は十年経過した今でも有るのだろうか。いや、ないだろう。そんな発言すら忘れてしまっている筈だ。異動したばかりの頃は、短納期の注文が入ったときに急いで倉庫へ在庫を確認しに行くと「松尾、元気にやっているか」「はい、何とか。センター長も変わりないようで。」等と声を掛け合った。そのうち、お互い忙しいので「お疲れ様」と言う程度になり、気が付けば赤の他人のような関係になってしまっていた。僕は今更ながら自らの人付き合いの悪さを呪った。もっとマメに交流を続けていればよかったのだ。だが、どうだろう。もしセンター長があの時の口約束を覚えていたら僕は十年振りに倉庫へ戻れるかもしれない。もし、この瞬間、窓から偶然センター長を見ることがなければその後の流れは変わっていたのかもしれない。僕は部長に虐められ続けて辞職せざるを得なくなっていたのかもしれない。働き続けようと努力しても、難癖をつけられて解雇されていたかもしれない。実際、そうした事例をうんざりする程見てきた。だが、事態は思わぬ方向へ進んだ。
「おい、松尾、何見てんだ。」
「はあ、いえ、何も。」
「お前、窓の外を見てただろう。ん、何だ。」
部長は顎を突き出して窓の外を眺めた。丁度、センター長が台車を押してノロノロと倉庫に入っていくところだった。
「何だ、倉庫のおいぼれじゃねえか。お前、倉庫に戻りてえのか。お前みたいな屑は荷物の出し入れがお似合いだ。おお、倉庫に戻すぞっ。」
その時、僕はほとんど無意識に、しかし、本音で答えていた。
「ええ、僕を是非とも倉庫に戻して下さいっ。」
部長は鳩が豆鉄砲を喰ったように固まっていたが、僕の発言の意味を理解するとたちどころに顔が蛸のように赤くなった。
「今なんつったっ。」
部長は机を蹴飛ばすとたちどころに僕の前まで進み、両手で付き飛ばした。パイプ椅子が音を立てて倒れ、僕は壁に叩きつけられた。何とか踏ん張ってバランスを取ろうとしたところに、部長が張り手を食らわした。パンという音がしたかと思うと僕は床に崩れ落ちた。右の頬が直ぐに痛み出し、右目が開けられなくなった。張り手を喰らったときに部長の指が目に入ったのだ。
「止めなさいっ。」
佐川さんが大きな声で割って入った。部長の腕を押さえつけると僕から引き離した。部長はよろめいて後ろの椅子に落ちるように座った。何が起きたのかよく理解していない様子で目を丸くして佐川さんを見ていた。だが、普段は柔和な佐川さんが鋭い眼光で自分を睨みつけていることがわかると、その自尊心は大きく傷つけられたようで、怒りに震えながら立ち上がった。
「佐川、お前、何したっ。」
部長の怒号が室内に響いた。
「止めろと言ったんだ。お前こそ恥を知れっ。」
佐川さんは全く怯まない。
「何だその態度は。俺は上司だぞ。お前をどんだけ可愛がってきたんだ。」
部長は驚きと憎悪で視点が合っておらず、思わぬ男からの反撃に激しく呼吸しながら歯軋りした。殴り合いになれば太っていても小柄な佐川さんが不利だろう。僕は固唾をのんで二人の様子を見つめた。
「部長、椚工業の担当はこれからも松尾君にやってもらう。」
佐川さんは明言した。これには僕も驚いた。
「そんなことはてめえが決めるんじゃねえ。部長の俺が決めるんだよっ。この馬鹿がっ。」
ここまで部長に楯突いた人を見たことがなかった。いても、退職することが確定していて金輪際部長と関係を持つことがない人達が小さな抗いを見せる程度だった。部長は佐川さんの激烈な態度に圧倒されている。二人は机を挟んで対峙した。
「部長、あんたは、俺の言う通りにするしかない。」
「ふざけるな、お前なんかクビにしてやる。出て行けっ。」
すると佐川さんは小馬鹿にしたように笑った。
部長は再び机を蹴り飛ばした。
「クビだっつってんだっ。荷物まとめて出て行けっ。」
「いや、できないんだよ。あんたは。松っつん、ちょっと室山さん呼んできて。」
「…室山さんですか?」
僕は佐川さんが何をしたいのか理解できなかった。唐突に言われて体が動かない。ただ、腫れ上がる右の頬を抑えるだけだった。
「何で、何で室山さんなんですか…。」
「いいから早く。」
僕は立ち上がり、頬を腫らして退室した。「何勝手なことしてんだ。ふざけるなっ。」と後ろから聞こえる怒鳴り声を無視して室山さんの席に向かおうとした。
驚いたことに室山さんは会議室の前に立っていた。目を大きく開き口元は真一文字。右手にはA四サイズの茶封筒を持っている。
「松っつん。私を呼びに来たんでしょ?」
「え、何で…。聞こえていたんですか。」
困惑していると室山さんは会議室に飛び込むように入って行った。僕は後に続いた。
「何してんだ。誰が室山を呼べって言った。」
部長は室山さんを見るなり怒鳴りつけた。室山さんはその迫力に怯んだが何も言わず茶封筒を佐川さんに手渡した。佐川さんは手を突っ込むと葉書サイズの厚紙のような物を取り出した。良く見えないがどうやら写真のようである。
「よしっ。」
佐川さんは不敵な笑みを浮かべて、部長に投げつけた。
「部長、これを見ろ。どういうことかわかるか?」
「ん、何だ。これは…。」
部長は数秒凝視していたが、ピクリと眉毛を動かしたかと思うと、顔は引きつりワナワナと震え始めた。
「これは、こんな。何でこんなものがっ。」
部長は崩れ落ちるように膝を床に突き、絶句した。
「わかったか?こっちの言うことを聞いてくれればなあにもしない。だがな、逆らえば、会社とお前の家族にばら撒くからな。覚えておけ。」
佐川さんは部下か仕入先にでも話すかのような口調で高圧的に命じた。僕に封筒の中身はよくわからないが、どうやら部長にとって不都合なもので、佐川さんは脅しに使ったのだろう。部長の態度は一変した。激しい動揺と困惑、恐怖が怒りを圧倒して全身を覆い尽くしてしまったようである。封筒の中身と佐川さんを何度も見返しては呼吸を荒く吐き、小刻みに震えている。
「おい、どうなんだ。返事をしろ。ばらすぞ。」
部長は「ばらすぞ。」という言葉に飛び上がった。
「わかった。わかったから止めてくれ。」
消え入るようなか細い声を絞り出した。
「それで良い。そうだな、まずは明日、松尾君、あんたの二人で椚工業に行け。」
佐川さんはぞんざいに指示した。
「わかった。そうする。」
部長は親に叱りつけられた子供のように従った。
仕事が終わると佐川さんは僕を居酒屋に誘った。不思議なことに室山さんは誘われず、定刻になると僕達を残して退社してしまった。このような一件があった日であれば三人で酒を飲みながらあれやこれや話し合うはずなのに。
「佐川さん、本当に、本当にありがとうございました。」
居酒屋のカウンター席に着いた僕は開口一番、礼を述べた。一方、どうやってあの独裁者を屈服させたのか気にもなる。
「ああ、松っつん。この封筒の中身を見てくれ。」
佐川さんが鞄から取り出した茶封筒を受け取り、カウンターに置いた。口調に今ひとつ元気がないことに気付くが、何も言わず中身を見た。
「え、何ですか。」
それは三枚の写真だった。いずれも日付と時刻が印字されており一月の平日。何処かの建物に入ろうとしている男の姿を横から写している。
「あっ。」
目を凝らすと、その店舗は性風俗だった。一年前二人が入社した日に佐川さんが見つけて、僕に聞いてきた店である。僕も一度先輩に誘われて入店したことがある。写真の横顔の男性は部長。もう一枚は部長が入店する後姿、残りは退店する前からの姿で、接客したと思われる如何にもという薄着の女性が腕を絡ませている。勤務中の行為としては強烈な印象を受けるとともに、見下げ果ててしまう。良く練られたアングルで、一目で風俗店に出入りしていることがわかる。
「よく撮れてるだろう。」
佐川さんは中ジョッキに入ったビールを半分まで飲み干した。
「いつ、どうやってこんなことしたんです?」
僕は三枚の写真をテーブルに並べて眺めた。佐川さんはジョッキを持ったまま厨房で中華鍋を振る料理人の姿をじっと見つめている。
「ああ、もちろん仕事中だよ。同行しているときに俺が誘ったんだ。」
「でも、誰が撮ったんです?」
僕の問いかけに鋭い所を突かれたというような反応を示し、困った顔で頭を下げた。視線は虚ろで手入れをしていない汚れた革靴の先端あたりをうろうろと動いている。
「うん、言いにくいんだけど…。」
この違和感は何だろう。佐川さんは僕と目を合わせようとしない。剥がれかけた古い壁紙を見ながら考えた。あの悪漢を打破したのであれば本来なら勝利の祝杯を挙げても良い頃である。だが、佐川さんはいつもの軽快に欠け、クレームでも抱えたような厳しい相好を崩さない。
「佐川さん。答えたくないなら別に言わなくて良いですよ。」
僕は熱燗の徳利を傾けて佐川さんの御猪口になみなみと注いだ。僕を守ってくれたという事実だけで満足だし、感謝している。何か事情があるのかもしれないし、困らせたくもない。
「室山さんに撮ってもらったんだ。」
「え、何て言いました。」
僕は意外な答えに驚いた。佐川さんは御猪口の酒をこぼしながらグイと呑み干した。
「室山さんに頼んで撮ってもらったんだ。会社休んでもらって。綿密に作戦を立てたんだ。いつ、どこで、張り込んでもらうとかね。」
佐川さんはゆっくりと話した。
思いがけない名前が出てきたことで僕は動揺した。何故か不安で足元が震える。僕は今回のクーデター紛いの計画を全く知らされていなかった。二人は僕にすら内密にしていたのだ。
僕と佐川さんは数分間、無言のまま視線を合わせることなく壁や天井を意味もなく見つめた。蚊帳の外だったことが不快だった。そして、その理由を深く考えようとすると、ある疑念にぶちあたり、茫然自失となり、それを認めることが怖くなった。暗澹たる気分になり帰りたくなる。一月に椚工業を訪問した時、佐川さんと部長が同行しており、室山さんが有休休暇を取っていた日を思い出す。この日に撮影を実行したのだろう。だが、そんなことは今更どうでも良い。不安は僕を頭からつま先まで覆ってしまった。
「あのね、松っつん。」
佐川さんはゆっくりと視線を僕に移した。僕は視線を避け、壊れかけた換気扇の音を意味もなく聞いていた。
「俺はこれからも今まで通り仲良くやっていきたい。今回の一件で、松っつんに貸しを作ったとも思ってない。もうないだろうけど、あのゴミクズが松っつんをいびることがあれば俺は容赦しないだろう。室山さんだって同じ気持ちだよ。」
何故佐山さんは室山さんの気持ちを代弁できるのだろうか。僕は鼓動の早まりを感じながら考えた。
「あのね、松っつん。」
佐川さんは苦虫を噛み潰したような表情で僕に酒を注いだが、その言葉にはどことなく決然たる気迫が込められていた。
「聞きにくいんだけど…。室山さんのことをどう思っているの?」
踏み込んだ問いかけに、心臓が握り潰されたような圧迫を感じる。僕は暫く沈黙した。
「どうって。職場の友人の一人ですよ。」
搾り出すように答えた。何故室山さんの名前が出る度に苦しいのだろうか。好きになるほどの親しさには踏み込んでいないはずなのに。自らの恋愛経験の乏しさを呪った。
「うん、そうか、それならいいんだけど。」
「何が、何が言いたいんですか。」
僕は苛立たしげに聞いた。
「あのな、松っつん。」
口元を塞がれているような息苦しさ。佐川さんの口から言葉が発せられる刹那はとてつもなく長く感じられて辛かった。
「はあ、何というか。俺と室山さんは付き合っているんだよ。」
佐川さんは沈痛の面持ちで告げた。眉間に皺が深く刻まれ、瞳は虚ろで濁った褐色を帯び、視点が合わずに厨房の中を漂っている。その横で、僕は急激に血の気を失っていくのを感じた。聞きたくない事実。佐川さんは妻子持ちではないのか。室山さんも知っているはず。その上で二人は恋愛関係にあるのだろうか。そんな事が許されるのだろうか。僕の周囲にこうした人達はおらず、僕自身の経験の浅さから思考の範囲を超えていたし、全く別世界の出来事であった。ただ、何故という疑念だけが無意味に繰り返される。決定的なことは、不安に変わり惨めさだけが急激に僕の感情を支配したことである。虚ろに醤油瓶の底にこびりついた醤油を爪で剥がしてみる。
「あの、佐川さんは、佐川さんは…。」
僕は口を噤んだ。「不倫」という野暮な言葉が口元まで出かかるのを堪えた。
「うん、何?」
佐川さんは優しく僕の背中を摩った。僕の尊厳を可能な限り傷付けないように配慮していることがわかり泣きそうになる。佐川さんは僕が室山さんを好いていると考えているのだろうか。
「奥さんとは、上手くいっていないんですか?」
佐川さんは意外なことを聞かれたように口をポカンと開けると、溜息を吐いて黴の目立つ天井を見上げた。
「あんまり上手くいってないかも。」
僕は室山さんが佐川さんに抱かれている様子を想像した。僕がラジオを聞きながら眠ろうとしている時に二人は激しく愛し合っていたのだろうか。
「別れて、室山さんと、その…。」
「いや、それは無いと思う。子供がまだ小さいし。」
断言する佐川さんに驚きを禁じ得なかった。
「それなら、何で、そんなことを…。」
これ以上何も言えず押し黙った。佐川さんは僕の恩人であると自らに言い聞かせる。何を聞いても惨めさが増すだけであることは明らかだ。御猪口の酒を飲み干した。僕にとって二人の関係は他人のどうでもいいこと。かつての僕に戻り何にでも無関心を装いのんびりと暮して行けば良い。部長に気を使うこともないだろう。むしろ、状況は改善されていると考えるべきではないだろうか。だが、前向きに自分を奮い立たせようとしても、どうしようもない感情が漠然とした敗北感へと寄り戻してしまう。
「あのな、松っつん。俺達はこれからも仲良くやっていきたいんだ。難しいことかなあ。
これまで通り接してほしいんだ。本当なんだ。だからお願いだ。軽蔑しないでくれ。そんな目で見ないでくれよ。」
佐川さんはようやく僕に目線を合わせようとして、同意を求めた。だが、この事実を突き付けられた以上、僕はまともにこれまで通り二人の横で仕事をこなして、週末になれば仲良く居酒屋の暖簾をくぐることができるのだろうか。不可能だろう。明日、無理にでも笑顔を作り室山さんに挨拶することすらできないだろう。
すっかり意気消沈して家路に就いた。酔いの醒めきった道中、いまさら写真の撮影日を考えてみる。二人の行動力にあらためて感心してみるとともに、蚊帳の外に置かれた自分が惨めになる。春の夜風はまだ寒く体を震わせながらとぼとぼと歩いた。
帰宅して風呂に入るとすぐに布団を敷いた。眠れば少しは気が晴れるかもしれないと考えた。ところが、布団に入り天井を見つめているとあのいまいましい雑念が入り眠気が出ない。それどころか暗がりの中で意識だけは鮮明になり、明日、二人と同じ空間にいなければならないことがどうしても苦痛に思えてきた。どうやって顔を合わせたらよいだろうか。もしかすると佐川さんと室山さんは今一緒にいるのかもしれない。三人の関係は崩壊したとしかいいようがない。
天井の雨漏り跡のシミを眺めながら以前室山さんと交わした話を思い起こした。
「ねえ、松っつん。」
「はあ、なんでしょうか。」
「松っつん彼女いんの?」
「いえ、いないですよ。」
「ふうん、最後に付き合ってたのはいつ?」
「七年くらい前です。」
「えっ、そんなにいないんだ。」
僕が正式に女性と付き合っていたことは生涯で一度しかない。その子は三歳年下で、事務職として営業部に入社してきた。僕の営業事務を担当することになり仕事を教える中で何となく付き合うようになった。職場には年齢が近い異性がお互いいなかったことで、消去法のように惹かれ合ったのかもしれない。付き合うようになって暫くしてから彼女は仕事で大きな問題を起こした。取引先から緊急の依頼があり、見積価格の算定を誤っただけでなく、僕と部長の不在時に承認を得ず取引先へ商品を販売してしまい、後日五十万円近い損失が出てしまったのだ。当然部長の逆鱗に触れ、僕の目の前で三十分近く激しく罵声を浴びせられていた。僕はその様子を庇うこともなく見ない振りをしていた。もちろん、庇うとその矛先は自分に向けられるからである。一カ月後、彼女は退職するとともに僕に別れを告げた。
振り返ると、今更ながら今日の一件によって僕と佐川さんの差を見せつけられた気がする。僕が佐川さんの立場で、佐川さんもしくは室山さんが標的にされていたら、部長から守ることができただろうか。守れないまでも守ろうとする姿勢を示すことができただろうか。できないだろうし、その意思さえなかっただろう。室山さんが惚れた理由はこの差だろうか。僕にはわからない。だが、佐川さんは自らの立場が危うくなることを覚悟の上で、身を持って僕を助けてくれた。僕には同じ行為が絶対できない。
自分がどうしようもない人間に思えてくる。眠気は益々遠ざかる。忘れていたラジオのスイッチを入れた。
「…まだまだ肌寒い夜が続いていますね。今夜も深夜の放送にお付き合いいただきありがとうございます。日付ももうすぐ変わる頃。さ、電話がつながっています。もしもし。…はい、こんばんは…。こんばんは。お名前どうぞ…『深夜の運転手』です…。『深夜の運転手』さんですね、お電話ありがとうございます。もしかしてトラックドライバーさんですか?…ええ、そうです…。今仕事中ですか?…へへ、誰もいない事務所からこっそりかけています。今から配送ですよ…。いやあ、御苦労様です。まだ寒いでしょう?どこまで行かれるんですか?…ええ寒いのなんのって。県北から県南まで野菜を運びます…。いあや大変ですね。おいくつですか?…今年で還暦だよ。もういい加減辞めたい。ああ、あまりでかい声出すとやばいな…。ええ、わかりました。それではリクエストを下さい。…うんとね、尾崎紀世彦の『また会う日まで』お願いします…。ありがとうございます、ではCMを挟んでお聴き下さい。そして『深夜の運転手』さんには国産の牛肉一キログラムをお贈りします…。」
僕は歌を聴きながらようやく眠ることができた。


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