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作品名:長い家路で聴いていた 作者:neko

第1回   土手
「学校の思い出といえば、僕が中学三年生、体育祭での組体操です。三年生の男子約一五〇人全員が参加する目玉の種目です。僕はこの組体操でとても惨めな経験をしました。生徒同士が手や足を組み合う等して『扇』や『橋』『塔』等の形を作ります。中でも見所は『ピラミッド』です。僕の学校では下から七人、六人、五人、四人、三人、二人、一人と生徒が生徒の上に乗り段を作って複数のピラミッドを作りました。異変は練習の時からありました。下の段から上の段までどの体格の生徒を何段目に配置するのか判断するのは先生です。体格の大きな生徒は下段に、小さな生徒は上段にと、先生は次々に選んでいきました。ところが、僕だけがいつまでも指名されません。生徒が次々にピラミッドの土台になる練習をしている間、僕は近くでぼーっと突っ立って見ているだけでした。誰も僕の存在に気付いていないようです。僕は平均身長がある程度高いのですが、痩せておりモヤシのような体格です。先生からすると上段にも下段にも適しておらず、僕の配置を後回しにしていたのかもしれません。そして、おそらく僕はそのまま忘れられてしまったのでしょう。先生はピラミッドの指導に夢中になっていたので、僕は自分がどこに配置されたらよいのか声をかけることをためらい、グラウンドの砂粒をぼんやり見ていました。汗で皆、体がべっとりしていましたが、僕だけが心地よい秋風を感じることができて、妙に居心地が悪かったです。学校の周囲は田圃で、トラクターが稲を刈っていました。数週間が過ぎ、いよいよ、体育祭前日の予行練習が始まりました。全男子生徒がすべての演目を行いますが、最後のピラミッドのときに、先生達は石ころのようにグラウンドに取り残された僕を見つけたのです。先生達は苦虫を噛み潰したような様子でした。お互い顔を見合わせて、面倒臭そうな顔付きで話合っているのが遠くから見えました。『なんでこいつの存在に気が付かなかったのだろう』とでも思っているのでしょうか。周りの生徒達がニヤニヤしながら僕を見ているのがわかりました。そして体育祭当日。扇や花等の小さな演目が終わり、組体操の最終演目であるピラミッドが始まりました。太鼓の音に合わせて上半身裸で裸足の生徒が整然とピラミッドの土台を作っていきます。軍隊の行進のように正確なリズムです。それぞれのピラミッドの頂上に小柄な生徒が登り完成しました。どの生徒も歯を食い縛りながらお互いを支えつつ、全校生徒や来賓、親族の見ている手前での誉を意識して、苦悶と誇りが混ざった表情でした。この中で、僕は前日の先生の指示通り、只一人離れ小島になり四つ這いの姿勢でじっとグラウンドに手足をつけていました。そこには上段を支えるふんばりも、下段から落ちないように取ろうとするバランスもありません。グラウンドに少し大きな石ころがぽつんと置いてあるようでした。遠くで太鼓の音や見学者達の歓声が響いています。抜けるような青空の下、秋風が僕を包んでくれていましたが、僕は自分の心臓の鼓動がずっと頭に響いていて、泣きたくなりました。まだ今後のことはわかりませんが、将来、社会での自分の立ち位置を暗示しているようでぞっとしました。僕は大人になっても除け者扱いされるのだろうかという不安です。」
ラジオのパーソナリティは抑揚をつけて読み上げた。土手の芝生が首筋にチクチクと刺さって痛かった。学ランの所々に芝生がこびり付いており、見つける度に手で叩いて取り払っていたが、しまいには面倒臭くなりそのままにしておいた。三月上旬だが、四月下旬並みの気温でぽかぽかと暖かい。空を見上げると千切れ雲がゆっくりと北へ向かって流れている。空の高いところで雲雀がぴいぴいと鳴いている。地上では卒業証書の入った黒筒の上をわらじ虫が蠕動しながらゆっくりと進んでいる。斜面には菜の花が群生していて甘い香りが漂う。東から西へゆっくりと流れる川では渡り鳥の群れが休んでいる。僕は何ともいえない満ち足りた気分に浸っていた。
「ああ、読んでもらえた。」
寝そべっていた僕は上半身だけを起こして呟いた。制服から芝生がパラパラと落ちた。
「はあ、すごいね。」
隣で一緒に寝そべっていた川島さんが頭だけを起こして、気がない返事をした。眠りかけていたようで目を擦っている。肩まで届かない短い髪が風で揺れている。川島さんの髪は運動部に所属している訳ではないのにいつも短い。何故だろうか、最後まで聞きそびれてしまった。スカートに芝生が付いている。川島さんは老人のようながさがさの手を伸ばして、浅黒くて細い足をぽりぽりと掻いた。横に置いてある鞄から黒筒が十センチメートル程はみ出ている。陽光の眩しさで、いつもの細目が更に細くなっている。狐のような逆三角形の顔が僕を見ている。僕は近くから見つめられたのでどぎまぎしてしまい、思わず顔を背けた。
「これが写しだよ。」
僕は少し誇らしくなって、三年間使い古した肩掛けの鞄からA四版の原稿用紙のコピーを取りだした。川島さんはコピーを受け取ると細目を開いて、寝そべったまま一読した。川島さんの顔の上を雲の陰影が通り過ぎる。
「たくさん送ったんだ。もっと読んでもらえるといいなあ。」
僕は眠たくないのにわざと欠伸をした。川島さんは何も言わず眩しそうに瞳を閉じた。僕と川島さんは掌大の灰色の携帯ラジオを二人の間に置いて、イヤホンの片側をお互いの肩耳に入れて、川の字に寝そべっていた。僕と川島さんの距離はラジオを挟んで三十センチメートル程。これまで、ここまで近づいたことはない。川島さんの頬にはニキビを潰した跡が月のクレーターのようにいくつも痛々しく残っている。僕は再び青い空を見上げた。。
「いつも投稿ありがとう。『田舎のもやし』さん。あなたはもやしのように細く痩せているのかな?私の中学生の頃は組体操なんてあったのだろうか。覚えていないな。この方、何十通も送って下さっています。さあ、今日のテーマはこの季節にちなんで『学校の思い出』。今日卒業式を迎える方もいらっしゃるでしょう。『田舎のもやし』さんも、組体操の思い出がいつか笑って話せるようになるといいですね。さあ、続けましょう。ええと、またラジオネーム『田舎もやし』さんからの投稿です。」
僕はにやにやしながら目を閉じた。
「中学一年生の頃の出来事です。図画工作の授業の時でした。工作の授業で懐中電灯を作ることになりました。生徒達は、学校から支給された懐中電灯の組立キットの部品から組み立てていきます。白色で十五センチメートル程のやや太い円筒形です。電球や配線、ケース等の部品を説明書通りに組み立てていきます。担当の教師は白髪で体格ががっちりとした五十代の男性でした。普段は温厚なのですが一度怒ると手に負えないくらい狂暴になる方でした。生徒達は組立作業でわからないことがあると先生にその都度質問しました。懐中電灯は一回の授業時間内では完成することができないため一週間に一度の授業で一カ月かけて組み立てる計画でした。ある日、ハンダゴテを使って配線と電池を入れるケースの金型部分をハンダ付けする作業をしている時でした。僕が座る作業台には隣にS君、前にKさんが座っていました。Kさんが配線の取り付け方でわからないことがあり、生徒達の作業台を見て回っている先生に声をかけました。先生はKさんの横に座り優しく説明しました。しかし、普段から悪ふざけが好きなS君が、ハンダを溶かす道具を使って、懐中電灯とは関係の無いアルミニウム製の自分の筆箱にハンダ付けを始めたのです。それに気付いた先生は激昂し、S君の頬を殴りつけました。S君はふっとびました。クラス全体が恐怖と緊張で静まり返る中、先生はS君の顔や体を殴り続けました。最後に組み立て中の懐中電灯を床に叩きつけて、思い切り踏み潰したのです。懐中電灯は『パキッ』という音を立てて、プラスチックの部品がバラバラに砕けました。僕は悲鳴を上げました。先生が壊したのはS君の懐中電灯ではなく、僕の物だったのです。先生の荒い鼻息とS君のすすり泣きが静まり返った教室の中で聞こえていました。その時、冷静なKさんが、先生が壊した懐中電灯が僕の物であることを告げると、先生は顔を真赤にして教室から出て行ってしまいました。そして、戻ってきませんでした。」
僕の頭の近くまでツグミが近寄ってきた。捕食するための虫を探すのに夢中になって人間の近くまで来ていることに気付いていないようだ。臆病な鳥なので僕は気付かれないように息を殺して動かずにいた。しかし、川島さんがクスクスと笑い出したので、ツグミは逃げてしまった。
「これ、覚えている。」
「Kさん」とは川島さんのことである。
「あのあと、川島さんが助けてくれたんだよね。」
川島さんは何も言わず顔を背けた。うなじに草が付いている。
僕はあの時のことを思い起こした。授業が終わった後、川島さんは瞬間接着剤を工作室の棚にある工具箱から持ってきて、割れたプラスチックの部品をある程度まで直してくれたのだ。
「川島さん、ほんと器用だった。ハンダ付けも上手だったなあ。やっぱりお父さんが教えてくれたの?」
川島さんはこちらに顔を向けた。短い髪が風で揺れている。少し間をおいて、川島さんは答えた。
「いや、父というより、工場の人から。」
 僕は川島さんが父親のことを「父」と呼ぶことに違和感を覚える一方、同時に不思議な魅力を感じた。他人行儀に聞こえてどこか大人びている。僕は両親のことを他人に話すときは「お父さん」「お母さん」と言う。川島さんの「父」という言い方には、僕の知らない彼女の私生活の一端が出ているようで、僕には経験していない何かがあるように思えた。僕は再びラジオに耳を傾けた。
 「『田舎もやし』さん。大変だったね。何だか辛い経験が多くないかい?でもいいよ。今日でこの番組も最後だから。やりたいようにやらせてもらう。今日のテーマは『学校の思い出』。よくよく考えれば、思い出なんて良いことばかりではない。むしろ、嫌な悪い思い出ばかり記憶に残っているものかもしれない。どうせ、番組内で幸せな思い出なんて紹介しても、自慢話みたいでつまらないだろう?」
 パーソナリティーは自嘲気味に話す。こんなことを話すから番組が終わってしまうのだろう。番組開始から半年足らずである。考えてみればこれまで僕の投稿が度々読まれたのは、僕の投稿内容が面白いというよりは、投稿する件数、つまり分母が圧倒的に少なかったのかもしれない。そう解釈すると空しい気分になった。
「本当に終わっちゃうの?」
川島さんは右手の指を広げて空にかざした。春の陽光が指と指の間から川島さんの顔に陰影を落とした。川島さんの履いている白色のスニーカーから、油の匂いがする。工業用油の匂いだ。僕は町外れにある工業団地を通った時のことを思い出した。金属を切削する機械の音とともに僕の嗅覚を捉えた何とも言えないあの匂いだ。一見、近寄りがたいあのうらぶれた古い工場群に僕は不思議な懐かしさと親しさを感じる。
「放課後の楽しみだったのに。」
僕は溜め息を吐いた。
川島さんは細目でじっと流れ雲を見つめた。瞳が雲の動きを微かに追っているのがわかった。僕はラジオに耳を傾けた。
「それではここでもう一曲お聴き下さい。徳永英明『夢を信じて』。」
僕は川島さんを真似て流れ雲を見ながら、これまで、そして今後の自分の人生についてぼんやりと考えてみた。今日は生活の節目となる卒業式なので、普段は思いもつかないこんなことを考えたのかもしれない。以前、母親から「あんたは子供の頃から理不尽な目に遭うことが多かった。大人になっても変わらないだろうね」と台所でぼそりと言われたことがある。その時も、今では思い出せない何かのとばちりを食ったのだった。高校に入学して、三年間を過ごし、卒業して社会に出てからも同じような経験が待っているのだろう。初めは笑い話で懐中電灯の経験を書いたが、深く考えてみるとぞっとしてきた。僕には終生、不運不幸が付いて回るのだろうか。僕は横目で川島さんを見た。川島さんは相変わらず流れ雲を見つめていた。
「何考えてんの?」
川島さんは左手の白い手で口を塞ぎ、大きな欠伸をした。
「これからも惨めな経験をすると思うとやりきれないなあ。」
川島さんは暫くの間、両手を組んで考えこんでいるようだった。鳥の嘴みたいに口先をとんがらせている。川島さんの視線は川面で休んでいるオオバンの方へ向かった。
「私もあまり要領がいい方じゃないから、上手く言えないけど、その、松尾君の運の無さと言うか、理不尽な体験が、時には良い方に向かうことだってあると思うけど。」
「何が?」
僕は川島さんを見た。
「だって、あの授業で君の作っていた懐中電灯が先生に壊されなかったら、私達、仲良くなってないんじゃない?」
僕と川島さんが教室でお互い気軽に話しかけ合うことは無い。教室では昼の夜行生物のように息を潜めている。気兼ねなく喋るのは人気の無い昼休みの図書室と暗黙の了解で決まっている。僕達は図書室の隅でひそひそと話す。「午後の宿題やった?」「昨日ラジオ聴いた?」「さっきのけんちん汁美味しかったね」。昼休みの図書室は学校生活の中で僕が友達と話すほとんど唯一の空間。昼の休憩時間になると僕は携帯ラジオの入ったポケットに片手を突っ込んで先に川島さんの待つ図書室の引き戸をそっと開ける。
そういえば僕は学校生活以外の川島さんをほとんど知らない。こんなに近くで一緒にラジオを聴いているのに、僕は川島さんの私生活への踏み込んだ質問ができない。そこに触れさせてくれない雰囲気がある。川島さんから微かに漂う機械油の臭いが僕を寄せ付けさせないのかもしれない。僕は川島さんを友達と思っているが川島さんが同じように僕を慕ってくれているとは限らない。いつも川島さんは僕の話をふむふむと頷きながら聞いてくれる。毎日、僕は図書室で今日は何の話をしようかと入室する前に考える。経験談が多いが、脚色することもある。これから話すことは絶対に面白いから心して聞くようにと気張らないことが重要だ。こうした話し方は、聞き手側のハードルが高くなってしまう。面白いと思っても、ゆっくり、さりげなく話す。図書室で過ごす昼休みはあっという間に終わる。部屋の奥にある本棚に囲まれた窓際の長方形の机に僕達二人は並んで座る。窓の外にはプラタナスの大木が五メートル間隔でそびえている。僕たちは窓から差し込む木漏れ日を背に受け、頬杖をつきながらたわいない話をする。昼休みはあっという間に終わり、僕は言い知れぬ不安で重たくなった全身を引きずるように図書室を出る。
川島さんの父親は町外れにある社員が数人の小さな工場を経営している。時々川島さんは工場で父親の仕事を手伝っている。工場で生産した製品を箱に詰めたり、製品に付着した機械の油を拭き取ったりしているらしい。川島さんから時折、油の匂いがするのは後者の理由からだろう。以前、教室で他の生徒数人が川島さん指差して「あの子、なんか臭くない?」と話しているのを近くで聞いたことがあり、本人に聞こえていないか僕は心臓が圧迫されたような気持ちになった。川島さんは積極的に自らの私生活について話すことはない。父親の仕事を手伝っていることに対して特にどうとも思っていないようだった。
以前、こんなやり取りがあった。
「お父さんの仕事手伝って偉いね。」
川島さんは少し考えた様子でこう答えた。
「いや、これは義務みたいなものだから。」
僕は違和感を覚えたが続けた。
「手伝いは楽しい?」
「楽しい訳じゃないよ。ミスをすると怒られるし。」
「お小遣いは貰えるの。」
「うん。少しだけ。」
僕は嫌味っぽくなると分かりつつ、つい勢いで聞いてしまった。
「楽しくないことを少ないお金でよく続けられるなあ。」
「そういう問題じゃなくて。楽しいとか楽しくないとか。私は父に養ってもらっているから。」
僕には「義務」だとか「養う」という言葉の意味がよくわからなかった。以前、公民の授業で国民の三大義務というものが「教育」「勤労」「納税」と教えられた時があり、そのとき初めて「義務」という言葉を覚えたのだ。そもそも、義務とは何か。強制的なものなのだろうか。僕は中学生なので教育しか受けていない。残りの二つは大人になってから果たすべきものなのだろうか。「養う」についても考えてみた。両親は僕を養っているが、僕はその行為について感謝したり、尊敬したりしたことが一度もない。「養う」ことこそ親がその子に対して課される義務というものなのではないだろうか。そんなことは当たり前で僕は「養ってもらっているから」と親に配慮したことはない。川島さんには僕の家庭とは異なる事情があり、独自の考え方があるのかもしれない。どこか自分を突き放した見方をしていて、川島さんは大人びていた。
川島さんには母親がいないらしい。以前、学校の都合で給食が出ない日があった。その日、僕の母親は弁当を作り忘れて仕事に行ってしまい、僕はコンビニエンスストアでパンとおにぎりを購入して食べたことを川島さんに愚痴っぽく話すと、
「母親がいるんだからまだいいじゃない。」
と突き放された。僕は少し驚いて川島さんを見た。川島さんは図書室の机の隅を細目でじっと見つめていた。僕は川島さんの家庭の事情について踏み込んで聞こうとはしなかった。「何も聞いてくれるな」という雰囲気が川島さんの硬い表情から察することができた。
中学校卒業後、僕と川島さんは別々の高校に進学する。僕は深く考えず決めた地元の普通科の高校へ進む一方、川島さんはどうやら明確な目標があって隣町にある工業高校の機械科で学ぶ。僕は両腕を組んで青い空を見上げた。はるか上空で雲雀が鳴いている。僕と川島さんは来月から別々の道を歩み始めるというのに、僕はこの瞬間まで、いまひとつ現実味がなかった。僕は高校では友人できるのだろうか。ラジオ番組に半分ふざけて投稿したような不運に再び遭うことはないだろうか。将来への不安が漠然としてふいに雨雲のように立ちこめてくる。
ラジオから流れる音楽が終わり、パーソナリティが再び話し始めた。
「さあ、時間が迫ってきています。どんどん読みましょう。次もまた『田舎もやし』さん。それもそのはず。常連のこの方、今回何十通も送ってくれました。本当にありがとうございます」
僕は頭に浮かんだ不安を払拭するために、目を閉じて耳を澄ましてラジオに集中しようとした。隣で川島さんは眠たそうに眼を擦っている。心地良い南風が体を包んだが、それが僕にはこれから起こりうるだろう数々の災難に対する前払いの代金のような気がした。川島さんと別の進路を辿るという現実に迫られたことで、僕は孤独と対峙せざるを得ない自分に気付いた。漠然とした不安は恐怖に変わりつつあった。木漏れ日が入る図書室での幸福なあの時間は二度と戻らない。僕は恐怖と寂寥を忘れるために奥歯で下を強く噛んだ。それでもふいにこびりついたこの不安は僕にまとわり続けた。
「中学三年生の中間テストでの思い出です。数学のテスト中のことでした。テスト終了十分前になり先生がトイレか何かの用事で教室から出た時、僕の座る席の後ろから小さな低い声で『おい』という声が聞こえました。頭を上げると『頭を上げるな。振り返るな。黙って聞け。お前の回答用紙を下からゆっくり俺によこせ』と言われました。僕に後ろから声をかけたのはS君でした。S君は札付きの不良です。他校の生徒と殴り合いの喧嘩をしたり、駅前で煙草を吸ったりしているところを見つかり警察に補導されることが度々ある等、問題ばかり起こしていました。僕は怖かったですが小声で『勘弁してよ。見つかったらどうするの』と拒否しました。その瞬間、僕は背中に鋭い痛みを感じました。残忍なS君は鉛筆の先を僕の背中に突き刺したのです。ワイシャツから僕の皮膚に鉛筆の芯が刺さりました。『痛いっ』。僕は呻き声を上げました。『早くよこせ。もっと刺すぞ』。S君は僕を脅しました。僕は仕方なく周囲の生徒に見つからないよう回答用紙をS君の机の下からゆっくりと渡しました。S君は用紙をひったくりました。それから数分後、S君は礼を言わずに用紙を下から僕に返してくれて、テストは終わりました。一週間後、テスト結果が出た日の放課後に僕はS君から体育館裏に呼び出されました。S君は怒りで全身を震わせながら、くしゃくしゃに握り潰した解答用紙を僕の顔に投げつけました。用紙を見ると赤字で『二十/百点』と記入されていました。『何でお前の解答通りに写したのにこの点数なんだっ。』。S君は怒鳴ると僕の尻を蹴り上げました。当然、僕も同じ点数です。怯える僕にS君は『追試だってよ。やり直しだってよっ。この馬鹿っ。お前は馬鹿だったのかっ』と捲し立てました。後ろにいたS君の友人が『お前はスポーツも駄目だし、勉強もできないんだな。お前みたいな根暗が何の取り柄もないっつうのは最悪だぞ』と笑いました。こうして僕とS君は仲良く追試を受けることになりました。」
僕は右手の拳を掲げた。
「いやいや、『田舎もやし』さん。ついてない。相手に不正行為の加担を強要された上に、追試になったからといって蹴られるなんて。『田舎もやし』さんも『S君』も追試には合格したのかな。学生の頃はテストや運動会とかあって大変だよね。それもいつか振り返ってみれば良い思い出になるのかな。『S君』はさっきのハンダゴテの話に出てきた子なのかな。」
僕は呟いた。
「たぶん、ならないよ。」
すると、川島さんが腹を抱えて大笑いした。近くで虫を探していたハクセキレイが驚いて飛び立った。僕は先程までの鬱屈した気分が少し和らいだ。
「そんなに面白かった?」
「私も松尾君も部活動をしていないのに勉強が全然できなかったね。時間はあったはずなんだけど。今まで何してきたんだろうと思って。」
僕と川島さんの成績は学年全員の中で下から数えた方が早い程低く、いつも底辺を燻っているというありさまだった。運動部や文化部に所属しておらず授業が終わればさっさと帰宅する。二人ともクラスでは無口でおとなしい。こうした生徒は他人からすると勉強くらいはできるだろうと思われるものかもしれない。ところが僕は学業を全く疎かにしていた。予習や復習は一切行わず、宿題は締め切り当日の朝まで手をつけなかった。そうとは知らずS君は僕が少しは勉強ができると思ったのだろう。僕は授業が終わると早足で帰宅して、ラジオをずっと聴いている。そして、ラジオ番組に投稿する葉書や原稿をせっせと認める。この繰り返し。スポーツも学業も優秀な文武両道の生徒がいたが、僕はその真逆だった。
川島さんと僕の住む家とは学校を基点として逆方向にある。川島さんの放課後の過ごし方を僕は知らない。僕は昼休みの図書室の隅で椅子を並べてのんびりとしている時に見た川島さんの爪先に残る黒い汚れや微かに漂う工場街の機械油の臭いから、川島さんが帰宅してから父親の仕事の手伝いをしているのかもしれないと想像する程度だった。僕はこの機械油の臭いの中に、洗髪剤のほのかな香りを嗅ぎ取ることができて、この感覚を就寝時に布団の中で思い出しては恍惚とした。
再びラジオに耳を傾けた。
「以上でコーナーの時間を終了します。皆様今まで本当にたくさんのお便りをありがとうございます。いや、あっという間の半年間でした。私とは今日でお別れですが、今後とも是非ラジオをお聴き下さい。前の番組が諸事情で突然終了して、四月まで繋ぎのような形で私が担当させていただくことになりましたが、あわよくば四月以降も継続できればと淡い期待を抱いていましたので本当に残念です。さあ、いよいよお別れです。今日が卒業式という方も多いはず。卒業する皆様は将来の夢があるのでしょうか。あるならどんな夢でしょうか。私が学生だった頃はなんとなくラジオに携わる仕事に就きたいと考えていました。今振り返れば夢は取り敢えず実現できたのかなあと思います。最後にクラシックのこの曲でお別れにしたいと思います。ドボルザーク作曲で『交響曲第九番』から『第二楽章ラルゴ』。県交響楽団による演奏です。皆さん、さよなら。お元気で」
ドボルザークという作曲家の名前は初めて聞いたが、この曲は聴いたことがあった。
「音楽の授業で習ったことがあるね。」
川島さんが欠伸をしながら言った。
「うん、何だっけ。」
「確か『家路』だったか『遠き山に日は落ちて』だとかいう。歌詞がついていた。」
「よく覚えているね。」
「私は音痴で、歌詞もすぐ忘れて、皆の前で何回も歌わされたから。」
僕は何も言えなかった。僕と同様、川島さんもまた要領が良いとは言えず先生に注意されることが度々あった。その理由は主に学業の不振にある。川島さんの成績は図画工作以外、音楽や体育を含めて学年の底辺を僕とともに燻っていた。川島さんは自身の成績が悪いことを特に何とも思っていないようだった。川島さんは工業高校で機械の知識を習得したら卒業後は機械関係の仕事に携わるという目標を持っていた。もしかすると父親の経営する工場に就職するのかもしれない。明確な目標があったから他のことを気にしないのだろうか。周囲の目も気にならない様子だった。僕にはこの明確さがない。高校卒業後の進路なんて今考えることはできない。この点において、僕は川島さんとの救い難い断絶を感じざるをえず、突き放されているようで辛かった。
いつの間にか夕日が西の空と土手の遥か先に沈もうとしていた。少し肌寒くなってきた。何百匹もの椋鳥の群が縦横無尽に飛び回り、対岸にある北の森へ向かっていた。風に揺れる土手の短い草が夕日に照らされて輝いている。大きく湾曲しながら東西に流れる川は夕日に照らされて目が痛くなる程眩しい。
「そろそろ時間だね。」
川島さんは対岸の彼方に見える山を見ながら呟いた。僕は目の前に伸びる土筆の先を細目で何となく見つめていた。僕がイヤホンを外し、川島さんも続いた。
僕は溜め息を吐いた。内側に湾曲した土手の芝の斜面には土筆やシロツメクサがびっしりと伸びて、遥か先まで続いている。
「松尾君、元気でね。」
近くの公園にあるスピーカーから町内放送の夕刻を告げる音楽が流れ始めた。「遠き山に陽は落ちて」である。スピーカーは高い木の柱の先に括り付けられていて周辺一帯に聞こえるような大音量が出る。僕達は何となく歌詞を口ずさんだ。
「遠き山に日は落ちて/星は空を散りばめぬ/きょうのわざを/なし終えて/心軽く/安らえば/風は涼し/この夕べ/いざや/楽しき/まどいせん/まどいせん。」
いつの間にか空は真赤に染まっていた。川島さんは制服に付いた芝を両手で素早く払い、鞄を肩に掛けた。そして、土手の石の階段を足早に降り始めた。僕にはその素早い仕草があまりにもあっさりとしていて無慈悲に思えた。自分だけが取り残されたような気分になる。夕日を浴びて長く東に伸びる川島さんの影がどんどん土手を下に向かって動いていく。僕は絞り出すような小さい声を出した。
「川島さん。じゃあね。」
川島さんは階段を降りると一度振り向き、まだ土手の上にいる僕に向かって手を大きく振ってから、帰って行った。
僕は再びラジオのイヤホンを耳に入れて、家路に就いた。


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