〇不吉な前兆 先週末に続きその男は妻と劇場に来て座っている。 もう何度も見たような劇が舞台の上で繰り広げられる。 そして劇が終わると役者も観客もいっせいに出ていく。 バタンバタンというドアの音だけが空しく続く。 そしてまた劇が始まる。同じようなストーリーで。 何度も見飽きたような芝居が続くが、妻がお気に入りのようで付き合わされて来て観客として座っている。 男は最近疲れを感じていた。微熱のようなものが続いているようである。 ふと、劇場の中を見回したときにはるか後方のドア近くの右端にすっぽりと黒のフードのレインコートでマスクで顔が見えないのような人物が座っているのに気がついた。 そのマスクの人物の周辺には何か得体の知れない暗い空気があったが、 この劇場自体の持つ虚無的で退廃的で暗い空気がそのマスクの人の 暗さを超えていたのか、その人物を極めて目立たない灰色の 風景としていた。だから男はそれ以上気に留めなかったが、冗談で男はそのマスクの人が死神みたいだなと思った。それからしばらくして忘れていたが、ある時やはり振り返るとその暗い死神のような人が同じ場所に座っていた。男は隣の妻に小声で言った。あの右端の一番後ろの席にいるだろうと。妻はちらりと振り返っただけで、そんな人は いないと言う。男が振り返るとさっきまでいたマスクの男はいなかった。 幻だろうかと男は思った。 ところが、その時から、時々男は街中でも電車の中でもそのマスクの死神のような人を遠くに見かけるようになった。
〇悪夢 ある日の深夜、男は熱にうなされていた。夢か現の中で自分の枕元にその暗いマスク の死神のような人が立って自分を見下ろしているのに気がつく。しかし、その顔は暗黒のように暗くフードの中からマスクをしているだけで顔は見えない。手には長い槍のような鎌を持って立っていた。男はそのマスクの人が死神だと言うことをはっきり悟った。 ところが、男は動こうにも金縛りのように体が動かない。声も出ない。誰が助けてくれ、人殺しだ、おれを助けてくれ、と言いたくても口も動かない。そうやって硬直したように横たわってた。死神は鎌を男の顔に近づけてきた。冷たく光る鎌の刃に男はもう絶対絶命かと思った。その時、刃から赤い一滴のしずくが男の額に落ちた。男はあまりの恐怖ゆえに気を失った。
〇洗面台の鏡に赤い一滴 翌日男が太陽の日差しを感じたときに、目覚めた。自分がまだ生きている、昨夜のことが夢だったと思いたかった。ところが、男は洗面台の鏡を見て愕然とした。自分の額に赤い水滴の痕のようなものがあることに。そして、その痕はいくら洗っても取れないのだった。
〇駅ホームでの恐怖 男は朝の混雑した駅ホームで最前列に並んでいた。 一瞬不吉な予感が男を通り過ぎたとき自分の後ろにあの死神がいるのに気がついた。 電車が入ってくる。死の予感、死の予感。死の予感。 死神の持つ大鎌もキラリと光る。 自分に向けられた殺意、それは運命的ともいう力で迫ってくる。 絶対絶命。逃げ場はない。 男にはこの殺意を退ける力はない、力ない者、弱者として、殺意のフォーカスのわずかな揺れを感じながら、そこに消極的な生きる希望があるかどうかをまさぐるかのように、カメレオンのよう周囲の風景と自分を一体化させることで自己に向けられてた絶対的な殺意の中に見え隠れする敵意のフォーカスを少しでもずらすことができるかと懸命に努力を続ける。 電車がホームに入ってくる。突然目の前が真っ暗となる。 電車のブレーキの音。轟音。そして悲鳴がする。 男は全身汗びっしょりの自分が硬直したようにまだホームに立っていることに気がつく。 すぐ横にいた幼子を連れた母親が投身自殺したのだ。 死神はその男ではなくこの母子を連れ去ったのである。男はその母子のことをかわいそうと思った。間一髪で殺意が自分を選ばなかったということに 安堵を覚えたが同時にこの運命のあまりの気まぐれとでもいうような仕打ちに恐怖とおののきを感じた。
〇開演前の劇場 また、いつものように妻と一緒に例の劇場に来て開演を待っていた。 男は死神が来ていないか落ち着かずあたりを見たがいない。売店で買った新聞に目を落としたとき、昨日母子の投身自殺の記事が小さく出ているのに気づく。再び恐怖とおののきが蘇ってきた。自分の感じているこの恐れの感覚と緊張感も、自分があの死神に連れて行かれた後は、この僅かな活字の事実報告のように一名の死亡事故 に過ぎない。自分のこの耐え難い苦しみも恐怖も所詮は他者の理解するところではない。 男は妻に体調が悪いから先に家に帰ると言い残す。妻が心配しているが、微熱が続いているだけで軽い風邪のようだから家で寝たら直ると言った。 男は劇場を出た後、街をぶらついた。 秋の穏やかな日差しの中で落ち葉を踏みながら。 やがて、美術館へと向かった。西洋古典美術展が 開催中であった。
〇美術館の公園のベンチ 美術館のある落ち葉を敷き詰めた公園を歩きながら、噴水のそばの ベンチに座った。穏やかな秋の正午ごろである。人通りもまばらであった。 しばらくして、落ち葉を踏む音で向こうから誰か来るのに気が付いた。 そちらを見ると、何とあのマスクの死神が自分の方に向かって来るではないか。 身も凍るような恐れとおののき。 死神は男の横に立った。 男は必死で自分などの存在は取るにたらないものである、自分を連れて 行かないでほしいと懇願した。しかし、死神の反応はなかった。 男はもう絶対絶命これまでかと観念しそうになったが、最後の賭けに 敢えて出ることにした。男は昨晩のテレビで漫才師がやっていた漫才を その死神の前で演じることにした。それはくだらない時間稼ぎに過ぎない のかもれなかったが。男は恐怖と絶望で泣きそうになりながらも笑いを演じなけらばならなかった。そこには悲劇という喜劇が同時に存在していた。 男の話が終わると、死神の暗い暗黒のフードのマスクを通してゾッとする笑いが聞こえてきた。それは悪意と嘲笑と軽蔑も入っていたが、男にとっては死神の殺意以外の確かなる反応であった。 死神は懐から2本の箸を取り出した。一本は髑髏がついて死を意味していた。 死神は手元に2本を隠すと1本を引くように男の前に差し出した。 男は自分の運命を決めるチャンスを与えられたのだ。 男はそのチャンスを神に感謝したい気になった。 男は引いた。 そしてそれは髑髏ではなかった。 男は救われたように安堵した。 死神はその手を男の額に軽く当てた。そして去って行った。 すべてが終わった。男は危機一髪を脱した。 そして帰宅して洗面台の鏡を見ると男の額のあの赤い一滴の痕も消えていた。 男はそれ以後あの死神を見ることはなかった。 深まる秋の中で、微熱も消えた。男は生き生きとした自分が生きている実感を感じた。
おわり
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