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作品名:ゼウス 作者:マーチン中井

最終回   後篇

 ほとんどの少年たちが集団生活を送るなかに在って、年長者とパートナーを組むというのは招集された時に余程優れた技量があった者か、コネでもある有力者の子弟であるかのどちらかだろう。それは何処の都市でも同じだった。ナオトロスは後者であった。遥か昔、トロイア陥落後、凱旋ギリシャ軍と共にこの地に流れ着いたトロイア王家の流れを汲む一族だった。ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』を始めとする叙事詩環が民衆の支持を受けて既に久しかった。ナオトロスはオルコメノスの名家の出だったのだ。出自の明瞭さがヒューマニオンの奔走を助けた。ナオトロスは晴れてテーバイの市民権を得た。

 ナオトロスは軽装歩兵隊に入り訓練に明け暮れた。訓練を終えると一目散に宿舎に戻り食事の準備をしてヒューマニオンの帰りを待った。二人の家は当然のこと、神聖隊員たちの宿舎群のなかに在る。訓練を終えたヒューマニオンは隊員たちと連れ立って帰って来る。彼らは必ず、二人の家を訪れる。ナオトロスに会いたいのだ。それが日増しに多くなる。一旦帰ってから、手土産や食料を持ってやってくる者も居る。連日のように宴会になった。ナオトロスも時々、例の踊りでもてなす。歯止めがなくなって乱交が始まる事もある。ヒューマニオンも気が気でない。酒の勢いを借りてナオトロスに言い寄る者も出始めた。ヒューマニオンが殴り倒した連中もかなりの数にのぼった。『こっちを見て笑った』『いや、俺の方を見た』言い合うカップルも現れ、鉄の団結を誇る神聖隊に亀裂が入りかねない状況となった。
遂に二人は隔離処分となった。
人里離れた地で二人で鍛錬に励むよう命令された。お陰で、二人にとって夢の様な生活を送れる事となった。ヒューマニオンは懸命にナオトロスを指導した。ナオトロスはめきめきと腕を上げ、毎月行われる昇進判定を兼ねた試合で優勝を重ねた。朝な夕なに、もよおせば何時でも契れる環境は二人からストレスを取り去り、充実した毎日は彼らの心身を高揚させた。ナオトロスは、一年後には重装歩兵に格上げとなり、更に半年後、憧れの神聖隊に入隊することになった。二人並んで戦える立場になったのである。


ギリシャ北方マケドニア王国。首都ベラから少し離れた『ミエザの学園』内の皇太子アレクサンドロスの居室。豪奢なベッドの上で17歳を迎えたアレクサンドロスは幼馴染みであり学友でもあるヘファイスティオンの肌に手を這わせていた。
「父上は本気でギリシャを手中にされる気はあるんだろうか?」
「陛下はテーバイには特別な思い入れがお有りですから、なかなか踏ん切りがおつきにはなりますまい」
「そんな事だから将軍どもに侮られるんだ!」
「殿下、めったなことを!陛下は我が国一の英雄ですぞ。何しろ、あの神聖隊に属しておられたんですから」
「テーバイの神聖隊か……。いつか、俺が撃破してやる!まあいい、ヘファイスティオン!もう一戦行こう」
数え切れないほど慣れ親しんだ肌。ここにも滾る若さが充満していた。


 ナオトロスは16歳。ヒューマニオンが21歳になった紀元前338年。
マケドニア王国ピリッポス二世は漸く、全ギリシャの覇権を握るべく南下を開始した。

ピリッポスが幼少の頃、テーバイは名将エパメイノンダスを擁して、スパルタに替わって全ギリシャの覇権を握っていた。諸都市の王族や有力者はこぞって子弟をテーバイに留学させた。留学は表向きで実質は人質であった。テーバイ北のマケドニア王国も例外ではなかった。ピリッポスもテーバイに送られたが、マケドニア王国の子弟として、それなりの教育、訓練を受けた。ピリッポスは優秀だった。エパメイノンダス当人の目に止まり、彼の家で養育されることになる。ピリッポスは此処でテーバイ軍の戦術、陣形を学んだ。神聖隊の強さの核心にも触れることが出来た。
ピリッポスがエパメイノンダスを生涯の師と仰ぐようになったのは言うまでもない。

帰国して後も、ピリッポスはギリシャに敬意を払い続けた。ギリシャ出身の市民しか参加できないオリンピュア祭(古代オリンピック)にも出場を許され、戦車競技で見事優勝もした。

やがて、ピリッポスは摂政を経て王位に就く。
術数を駆使してマケドニアを纏め、幾多の戦闘を勝ち抜きマケドニアを強国に伸し上げた。ギリシャの各ポリスは隣国の台頭に友好と敵対の狭間で揺れ動くようになった。

ヒューマニオンはマケドニアとの同盟を強く主張した。
「マケドニア王は、亡きエパメイノンダス将軍の薫陶を受けています。テーバイの軍政軍略を我々以上に熟知しています。彼を敵に回すのは得策ではありません」
しかし……、
当時アテナイに一人の雄弁家が居た。デモステネスと言う。デモステネスは反マケドニアの急先鋒だった。全ギリシャ挙げてマケドニアに対抗する様、諸都市の市民を鼓舞した。
テーバイはアテナイとの同盟に傾く。

テーバイとアテナイの同盟を知ったピリッポスは
「ギリシャ軍など怖くはないが、恐るべきはデモステネスの舌である」
と嘆いたと言う。
彼も又、すぐ行動を起こす。ギリシャの親マケドニア勢力を動かして、ギリシャ諸都市連合へのスパルタの参加阻止に成功する。
機を逃さず、マケドニア軍はギリシャ本土深く進攻を開始した。

時に紀元前338年八月2日。ボイオティア地方の小都市『カイロネイア』近郊で、ギリシャ連合軍とマケドニア軍は激突した。
ギリシャ軍歩兵3万5千、マケドニア軍歩兵2万2千と騎兵2千。


「あの陣形を見ろ。我々の勝ち目は薄い」
ヒューマニオンの言葉にナオトロスは耳を疑った。
「何故です? 数からいっても、圧倒的に我々が有利ではありませんか! 」
「敵はピリッポスが全軍の指揮を執っている。味方は指揮系統に統一性がない。一旦戦闘が始まれば機動性に差が出る。エパメイノンダス将軍の後継者はテーバイにもアテナイにもいない。将軍の後継者は残念ながら敵の大将だ。俺がもう少し早く生まれていれば将軍の謦咳に接することができたんだが…… 」

マケドニア軍は斜線陣型、最右翼に主力重装歩兵と近衛軍を置き、ピリッポス自らが指揮を執った。斜め後方にテッサリア軽装歩兵部隊、更に後方に世子アレクサンドロスが指揮する騎兵部隊。

対するギリシャ軍は左翼アテナイ軍がピリッポスに対峙し、中央に諸都市連合軍、右翼をテーバイ軍という横一線の布陣。ほぼ全軍が重装歩兵。敵を遥かに上回る兵力を擁し、辺境国とは比べ物にならないほど装備も綺羅びやかだった。瞬時に無数のファランクス陣形に変化して敵を圧倒する。先進国の自信に満ちていた。

「ヒューマニオン。ご覧なさい。アテナイ軍の隊列。威風堂々、美しいですね」
遥か彼方を見遣るナオトロスの瞳は輝いていた。初陣の高まる興奮に頬を染めた紅顔をヒューマニオンは眩しそうに眺めた。
(美しいのはお前だ。ナオトロス)
「アテナイ軍は海戦には秀でているが、陸戦は見掛け倒しだ。それに俺たちは指揮官じゃない。よそ見しないで、前を向くんだ。ナオトロス」
「でも…… 」
ナオトロスは不満げに頬を膨らます。
「我々の敵は正面のアレクサンドロスだ」
「でも、でも、アレクサンドロスの部隊は、あんなに遠いじゃないですか。敵の本陣とアテナイ軍はいまにも戦いが始まりそうです。私たちが皇太子の部隊と接触する前に決着がついているのではないでしょうか」

「いいではないか。そうなれば、お前も俺も無事に帰れる」
ナオトロスは呆れてヒューマニオンを見上げた。神聖隊随一と謳われる勇者の言葉とは思えない。
(お前は、未だ、阿鼻叫喚の地獄を知らない)
自分は朱に染まった友の亡骸を抱きたくはない。


「どうやら、戦闘が始まったようですね」
ヘファイスティオンの言葉にアレクサンドロスも遠く眼を遣った。彼方に粉塵が舞い上がり、雄叫びが響いてくる。愛馬ブケパロスも興奮気味に脚を踏み鳴らした。愛馬のたてがみを撫でて静めながらアレクサンドロスは応えた。
「父上の指示とは言え、待っているの辛いものだな」
「そう言っていられるのも今のうちですよ。我々の目標は難敵ボイオティア軍の神聖隊。彼らと相まみえるんですよ」
「な〜に、神聖隊150組の絆など恐ろしくはない。俺とお前の契の深さに及ぶものか。制度で結びついたパートナーに真の友情が芽生えはしない。父上やお前の買い被りだ。エパメイノンダスの時代じゃないんだ」

「ご慢心は禁物ですよ。殿下もお聞き及びでしょう、ヒューマニオンの事は…… 」
「おう、知らいでか! 会うのが楽しみだ」
「アキレウスの再来と言われる猛者ですぞ」
「バカを言うな。アキレウスは俺だ。そして、お前がパトロクロス。と、言っても格闘技じゃお前にはかなわないがな」
呵々大笑するアレクサンドロスにヘファイスティオンは苦い笑いを浮かべた。アレクサンドロスは、普段は思慮深く、慈悲にも厚いが、激すると時に狂気を発する。妖女と噂される母オリンピュアスの血の所為かも知れない。彼女はピリッポスの四番目の妻だったが蛇を偏愛するなど奇行が目立ち、従順でもなかった。ピリッポスの不興を買い、追放されていたところを息子アレクサンドロスの取り成しで帰国を許されたいわくつきの女性だった。
ただし、美貌だった。蛇に変身したゼウスと交わりアレクサンドロスを身籠ったという話まである。

「ヒューマニオンの相方はどんなやつだ? 」
「新しくパートーナーになった若者と聞いています。何でも絶世の美男とか…… 」
アレクサンドロスの瞳が妖しく光るのをヘファイスティオンは見逃さなかった。
「年の近い同士か。ますます俺たちと同じだな。そうだ、ヘファイスティオン。二人を生け捕れ。殺してはならん。それと、小僧の名前も調べさせろ」
「あのヒューマニオンが縄目に掛かるとも思えませんが…… 」
「ヒューマニオンが無理なら、小僧だけでも捕らえよ! 」
戦いの帰趨も定かでないのに、この自信は何処から来るのか。ヘファイスティオンは首を傾げた。


やがて、ジリジリとアテナイ軍が押し始めた。

ピリッポス軍は重装歩兵の絶対数の不足を軽装歩兵や防具を着けず槍だけを持った雑兵などで補っていた。果敢に戦端を開いたものの鉄壁のアテナイ軍に弾き返され退却を始めたのだ。

「御覧なさいヒューマニオン! アテナイ軍が押している。間もなくピリッポス軍は崩れますよ」
その内、マケドニアの重装歩兵は装備まで外して軽装の歩兵たちに脱いだ装備を預けて敗走し始めた。身軽な分、退却は速い。アテナイ軍は陣形を崩すことなく追尾のスピードを上げた。ここぞとばかり、中央の諸都市軍も追尾を始めた。

「ダメだ! ナオトロス。俺は指揮官に会ってくる。お前は俺が戻るまで此処を動くんじゃないぞ」
言い置いて、ヒューマニオンは戦列を離れた。

テーバイ軍司令官テアゲネスを説得する。
「アレは、我々を分断させるピリッポスの仕掛けた罠です。アテナイ軍の追撃を止めさせなければなりません。伝令を出すべきです」
テアゲネスは逡巡した。他都市軍の指揮を取れる立場にない。一方で神聖隊の英雄の進言を拒否する勇気もない。
「キミ自身が説得すればカレスやリュシクレスも聞き入れるだろう」
と、アテナイ軍の指揮官とヒューマニオンに丸投げした。
ヒューマニオンは伝令用の馬に飛び乗り最前線に向けて駆け出した。
既に、諸都市軍もアテナイ軍の後詰めの形で追撃体制に入っていた。ヒューマニオンは味方の軍の側面を駆け抜け、最前線に迫っていた。
敗走するマケドニア軍の姿を視野に捉えたときだった。敗走軍が左右に大きく進路を変えた。粉塵の向こうに新手のマケドニア軍の重装歩兵の横列がアテナイ軍を遥かに凌駕する長槍サリッサを林立させ威風堂々出現した。中央の騎馬武者は、片目の容貌。紛れもなくマケドニア軍総帥フィリッポス二世その人だった。

重装とは読んで字の如く、護りは堅いが極めて重い。アテナイ軍は長途の追撃で疲労困憊していた。満を持してマケドニア軍は待ち伏せしていた訳だ。フィリッポスの号令一下、重装近衛軍の精鋭はリーチの長いサリッサの槍衾(やりぶすま)鋭くアテナイ軍に襲いかかった。たちまちアテナイ軍の前線は波状的に崩れていった。
「遅かった! 」
ヒューマニオンは馬首を廻らせ馬腹を蹴った。

向きを変えた方向の先、諸都市軍とテーバイ軍の間隙を縫って、テッサリアの軽装歩兵と騎兵が、孤立したテーバイ軍に雪崩を打って突撃してゆく。更に彼方を、一団の騎兵軍が土埃を上げてテーバイ軍に向かうのが見て取れた。アレクサンドロス麾下の騎兵軍団。
テーバイ軍を左右から挟撃するという事だ。

読んではいた。だからこそ、アテナイ軍を止めようとしたのだ。
「ナオトロスゥ〜」
絶叫しながら一人、テッサリア軍の真っ只中を突っ切る形で駆け戻る。たちまちテッサリア兵に取り囲まれた。

テーバイ軍はよくしのいだ。だが騎兵相手の戦闘に慣れていなかった。騎兵の波状攻撃を受けながらテッサリア軍の猛攻も凌(しの)がねばならない。重装歩兵のファランクスは前面の敵には滅法強いが側面や後背は、ほぼ無防備。連係を絶たれたテーバイ軍は騎兵に背後に回られ弱点を突かれた。斃れる者がどんどん増えていった。テーバイ軍の中核、神聖隊とアレクサンドロス麾下の精鋭部隊との戦闘は熾烈を極めた。更にアテナイ軍を敗走させたピリッポス本隊の到着をもって、勇名を馳せた神聖隊はここに壊滅する。神聖隊300人の内、254人が戦士するという凄惨さだった。

ナオトロスは朋友たちが次々と斃れていく中、彼らと違って、孤独な血みどろの白兵戦を続けていた。泥と血に塗れ、さしもの紅顔も疲労に歪んでいた。夢にまで見たヒューマニオンと並んでの初陣は叶わず、孤独な死が目前に迫っていた。最後の力を振り絞り、格闘相手を制した時、
「ナオトロス! 」
自分を呼ぶ声が聞こえた。
「ヒューマニオン? 」
よろよろと立ち上がったナオトロスに空から網が落ちてきた。もがくナオトロスの後頭部を槍の石突きが痛打した。ナオトロスは意識を失った。


カイロネイアの草原にビョウと風が吹く。
両軍合わせて1万近い戦死者を出した激戦はマケドニア軍の勝利に終わった。草原を朱く染めて累々と横たわる勇者たちの屍。中に対(つい)を成し、揃いの鎧と脛当てで、折り重なって骸を晒す127組の神聖隊士。
戦場を検分するフィリッポスは膝を折り、涙を流して彼らを讃えた。
「ここに碑を建てよ。彼らの名を永久に刻め! 」


「父上は感傷的すぎる。神聖隊の連中は戦より閨の遊びに熱心だったのだろうよ」
アレクサンドロスはそう嘯いてヘファイスティオンに笑いかけた。
「ヒューマニオンはどうした? 死んだか? 」
「分かりません。生死は不明です」
「小僧は? 」
「捕らえました」
「様子は? 」
「深手も多く、手当させています」
「自決の恐れはないか? 」
「最低限の縛(いまし)めを施(ほどこ)していますが、ヒューマニオンの生死が分かるまでは、その恐れはないかと…… 」
「いつ会える? 」
「まともな受け応えには、二、三日はかかりましょう」
「お前は会ったのか? 」
「私の幕舎に運ばせましたから。神聖隊士を生け捕ったなど、陛下のお耳に達すれば面倒なことになります」
「で、噂通りだったか? 」
「あえて申し上げれば、お会いにならぬほうが殿下のため。……お聞きにはなりますまいが…… 」
「何故だ? 」
「国が傾きます」
「それほどか? 」
「はい」


伝令に出たヒューマニオンは盾も槍も持っていなかった。全長60センチほどの直剣クシポスだけを帯刀していた。
敵に囲まれたヒューマニオンは馬を捨てた。槍を持たぬ騎兵は敵の格好の標的になるだけだ。
カイロネイアは、南の峡谷から北に開けた荒野だった。少し南に向かえばゴツゴツした荒れ地が山裾へ続いている。
(あそこまで逃げ切ればナンとかなる)
重装備ながらヒューマニオンの膂力は並ではない。軽装のテッサリア兵より俊敏だった。向かってくる敵兵を弾き返しながら山裾を目指した。
重装備は奇妙だろうが盾も槍も持たぬ伝令を殺したところで手柄にはならない。突撃方向と違う方向へ逃げる伝令など追っていられない。追尾してくるテッサリア兵は疎(まば)らになった。丘下の荒れ地に着くとヒューマニオンは反撃に転じた。岩場の影を利用して一人、又一人と屠っていった。
やがて、斃した敵兵の装備一式に着替え、突撃するテッサリア兵に紛れるべく、一目散に駆け出した。

激戦のさなかヒューマニオンは巧みに戦闘を避けながらナオトロスを探した。自軍の配置は頭に入っていたが、なかなか近付けない。下手に近づけば同士討ちになる。
鉄壁を誇ったテーバイのファランクスも弱点を突かれ、隊形を乱して行く。
ピリッポスの本隊が到着するに及んで、ほぼ壊滅した。後は殲滅戦の様相を呈した。さしものヒューマニオンも為す術がなかった。
神聖隊士の骸は、ほぼ全て識別したが、躍起になって探索してもナオトロスは見つからなかった。兜を目深に被り、兵たちの話に耳をそばだて、捕虜たちの中にも分け入った。


ナオトロスは捕らわれて3日目の夜を迎えていた。気力体力とも、かなり回復している。若いとは言え、神聖隊士。後ろ手の縛めが解かれる事はなかったが、丁重な扱いを受けていた。警備も幕舎の入り口に二人ばかりの衛士がいるのみだった。
食事を与えられた後、湯浴みさせられ、髪を梳かれ、清潔なキトンを着せられた。世話をする衛士たちが息を呑んで見惚れるほど美しかった。匂い立つ華も又、回復していた。

虜囚はもとより望むところではないが、ナオトロスは死ぬ訳には行かなかった。愛する者と共に死ぬのは誉れだが、もし片方が生き残った場合、生き抜いて新しいパートナーを育てなければならない。それが神聖隊の不文律だ。しかもナオトロスにはヒューマニオンが生きている確信があった。勇名隠れもない英雄の死が風聞に乗らぬ筈はないのだ。生きているなら必ず会える。今生で会うまではどんな辱めも甘んじて受ける。

フィリッポスは休戦の話し合いのためテーバイに赴いている。マケドニア軍はカイロネイアに留(とど)まって諸都市へ圧力をかけ続ける必要があった。戦場の後始末もしなければならない。幕舎を連ねて駐屯していた。
新月に近く、空に月はなかった。光にあふれる現代人には想像も出来ないくらい、星明りだけの野営地は暗い。要所々々の篝火周辺やや衛兵の持つ松明でもかざさない限り、人の顔の判別もままならない。

ナオトロスのいるテント内はランプが夜通し点されている。監視には不可欠だ。衛兵が頻繁に覗き込む。
真夏とは言え、真夜中の荒野を渺渺と風が吹く。ナオトロスは天幕入り口に背を向けてベッド上に横臥して風の音を聞いていた。これも衛兵が後ろ手の縄目を確認しやすくするためだ。そもそも皮革や麻布などを必要とする天幕は幕僚など高位の者しか使えない。ほとんどの兵士は野晒しで休む。ナオトロスは捕虜としては破格の待遇を受けていることになる。

(隙きあらば…… )
ナオトロスは体力の回復を図ってまどろんでいた。背後に人の気配がする。微風が、その人の体臭を運んでくる。汗や脂の饐えた匂いの中にナオトロスだけが分かる懐かしくも、恐ろしいほど官能を揺さぶる薫り。

ナオトロスは向きを変えた。ひしと抱き締められて頬摺りを受ける。髭が痛い。


アレクサンドロスは松明に先導されてヘファイスティオンの幕舎に向かっていた。
「小僧が馬に乗れるほどならば、俺はこのまま帰国する。ヘファイスティオン、お前も来い」
「陛下の下知なくば…… 」
「なあに、構うものか。父上は諸都市の連中の歓待を受けて連日の酒宴だ。当分お戻りにはなるまい。俺とお前で小僧を可愛がってやろう」

軽口を叩いていたアレクサンドロスも異変に気づく。ナオトロスを軟禁していたテント前で衛兵二人が絶命していた。一人は裸に剥かれキトンが掛けられていた。中はもぬけの殻。
蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
無数の篝火が焚かれ、松明が右往左往する。

やがて、大小二つの影が捉えられた。包囲網は狭まる。アレクサンドロスもヘファイスティオンと包囲網に割って入った。
二つの影は、なだらかながら小高い丘に追い詰められた。十重二十重の包囲は徐々に縮まる。

「ナオトロス。神聖隊は壊滅した。帰る所はもはやない。これ以上、人を殺めても仕方がない。お前との三年、俺は幸せだった。思い残すことはない。ここを死に場所にするがいいか」
「訊かれるまでもない。ヒューマニオン! 貴方と一緒に死ぬのが本望。神聖隊最後の誉れを敵に披露致しましょう。その前に……一差し舞わせて下さい」

ナオトロスは鎧を脱いで半裸になった。ヒューマニオンも胸当てを外し、あぐらに座った。
彼らの眼中に、既に、敵はなかった。
訝しげのマケドニア兵たちの松明が、丸く二人を照らし出す。

ヒューマニオンは馴染みのメロディを口ずさんだ。ナオトロスは屈託なく扇情的な踊りを友に供した。初めて会った夜のように……。

兵士たちは陶然と天使の舞に見とれていたが、ナオトロスに煽られて、拍子を取り、囃し始めた。

ナオトロスは、無心に、友の笑顔だけを求めた。ヒューマニオンが両手を広げて笑い掛けた。友が自分を愉しむのを見届けて満足した。
(この人と未来永劫離れはしない)
ナオトロスは広いその胸に飛び込んだ。一対のクシポスの切っ先をお互いの胸に当てた。

「止めさせろ! ヘファイスティオン! 小僧を捕まえろ」
アレクサンドロスが悲鳴のような叫びを上げた
「なりません! 何人たりと彼らの誉れを邪魔してはいけないのです」
ヘファイスティオンは、きっぱりと拒否した。

ナオトロスとヒューマニオンが互いの胸を貫き合った、その時、夜空から一条の目の眩む稲妻が落ちた。丘の上は閃光に覆われ、同時に轟音が轟いた。
人々が気を取り直して眺め直した時には、丘の上はすっかり抉(えぐ)られ、大穴があいており、ナオトロスもヒューマニオンも影も形もなかった。
兵士たちは季節外れの落雷に肝をつぶしたが、そのうち、神聖隊最後の栄光にゼウスが華を添えたのだと噂するようになった。

噂は、あながち的外れではなかったが、稲妻が天からではなく、丘の上から天に向かって駆け上ったことを見抜いたものは、この場に一人としていなかった。


ゼウスは、ナオトロスとヒューマニオンの魂を両脇に抱えてオリンポスの神殿に帰り着いた。
神殿は更に荒廃していた。時は神話の時代から歴史の時代に入りつつあった。魂が流失しないよう小袋に入れ、肌身につけて保護しながら、再び、人々がオリンポスの神々を崇めるようになるまで、時節の到来を待つことにした。
しかし、下界はオリンポスからますます遠ざかる。少なくとも神々に敬意を払ったアレクサンドロスの大帝国も四分五裂し、やがてローマに呑み込まれていく。それでも人々はオリンポスの神々と折り合いをつけ、ゼウスもユピテルと二つ名の神として命脈を保つことが出来た。
そして、紀元前と紀元後を分けるほどの一人の男が現れるに及んで、ゼウスはオリンポスを去る決意を固める。
男の名はイエス。男の言葉や行動は宗教となり、三位一体を掲げて、男は神にまで上り詰める。不寛容、独裁がこの宗教の特色である。
自由闊達なギリシャの精神世界を根底から覆し、暗黒の一千年をヨーロッパにもたらした。科学も芸術も因習と不合理の闇に沈んだ。
神と法王は天界と地上を恣(ほしいまま)に穢した。彼ら自身が迷妄を悟り、ルネッサンスや宗教改革を経てすら、現代に至っても、未だ、神の名を騙った背徳の行為は後を絶たない。

人と共にあることを目指してゼウスは息も絶え絶え絶えな眷属郎党を引き連れ、東方に向かった。祖母ガイアが創造した下界は思いの外広かった。だがカースト制度や儒教などが世界を覆い、おおらかなギリシャ精神にマッチする人々にゼウスたちはなかな出会えなかった。
だが、地の果てに、その人々はいた。文字も持たず、世界の文明から遥かに遅れていたが、彼らは善良で、大らかで、包容力に富んでいた。
ゼウスたちは、彼らの土俗信仰と折り合いをつけながら文明を育んでいった。
そして、時を経たある時、ゼウスは稗田阿礼という青年に憑依して神話を誦さしめた。それを太安萬侶が記録した。ギリシャ神話は日本神話となった。オリンポスは高天原となった。

その後、長く小乗に凝り固まっていた仏教も大乗の教えを得て漸く本朝に達した。そのうちの密教がゼウスと相性が良かった。
かくて、ゼウスは大日如来にも垂迹(すいじゃく)する。
曲がりなりにも、神の体裁を整えることが出来たゼウスは、長く身に着けていた二つの魂を地上に放った。自らの分身ヒューマニオンと、こよなく愛したガニュメデスの容貌を宿すナオトロス。

彼らは、この日の本で、どの様な転生を遂げるのか……。


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