巨神族ティターンとオリンポスの神々の戦いティタノマキアを制して、父、クロノスを兄弟で力を合わせて屠(ほふ)ったのち、権謀術数を駆使して、人間界と天空を支配したゼウスは人々の尊崇を糧に無敵の力を振るった。 人間界や人々の、かくありたいと思い描かれる思念の結晶であり具現でもある彼は稀代の好色漢でもあった。 姉であり妻である三番目の正妻ヘラは言うに及ばず、数多(あまた)の女神や人間の女との間に多くの子をもうけた。そして彼らをオリンポスの神殿に列せせしめた。アポロン、アレス、ヘルメス、アルテミス、ヘーパイストス、またハーフゴッドたるペルセウス、ヘラクレスなどの父でもあった。数え切れないほどの子や孫たちが、各地で活躍し、伝説を形成して行く。その子や孫たちとも愛を交わし、さらに子を成す。彼らへの人々の賞賛が口の端に登るたびに、更にゼウスは大きく強くなる。 ギリシャ神話を語るつもりではない。 くどい様だが、オリンポスの神々の所業は人間界の営みそのものである事を申し上げて置きたいだけだ。 とにかく、全盛期のゼウスは強大な神通力と、自在に変身できる人間の身体を持つ神の中の神であった。 気が遠くなるほどの長い年月、権威は保たれた。だが、その栄光に陰りが生じ始めていた。 神々の黄昏である。 その理由は、他でもない。人々の進歩である。 ギリシャ世界は、学術、芸術、科学に驚くべき成果を上げ、未開の迷妄を駆逐して行った。 特筆すべきは、哲学であった。今日の西洋思想の源流たるギリシャ哲学はまさに完成されようとしていた。ソクラテスを経てプラトンに至り、そのピークを迎えていた。 彼らは決して神々を否定はしていない。 『神のみぞ知る』 これはソクラテスが好んで使ったフレーズだが真理の探究が、神々の行動を窮屈にする真理をも包含していることは皮肉な事であった。 そしてプラトンの弟子、アリストテレスがギリシャ北方、マケドニアの若き世子アレキサンドロスの教師であるのもアイロニカルなめぐりあわせだった。精神世界はさておき、古代ギリシャの俗世的栄光はアレキサンドロスによって終焉を迎える事となるのだから。 ギリシャ世界ではエロスが規範の上位を占め、中でも男性同士の愛を最上位に上げている。ほとんどすべての国家で制度においてもその規範は守られていた。その精神的支柱がギリシャ哲学でありプラトンによってほぼ完成されていた。 奔放な恋愛に明け暮れて来たオリンポスの神々、特にゼウスにとっては思いもかけぬ逆境が巡って来たと言わざるを得ない。 人々の懐疑は神殿の維持にも影響を与え、肉体を維持できず意思のみとなった神々も多々出始めた。オリンポスの神殿でも人影、いや神影はまばらになり始めた。 「愚か者どもめ!少年への愛を教えたのはわしなのだぞ!女ばかりにうつつを抜かしていた訳ではないわ」 ゼウスは、神殿中庭の世界を映す泉を眺めながら吐き捨てる様に独りごちた。 その昔、トロイアの王子ガニュメーデスのあまりの美しさに陶然となったゼウスは、大鷲に変身し、これを浚い、オリンポスで長きに渡って身辺に侍らせた。ゼウスをして『ギリシャ一の美少年』と言わしめた絶世の美男である。ちなみに、この時のギリシャは世界であり宇宙でもある。 代償としてガニュメーデスには不死と永遠の若さを与えた。いや、与えた筈であった。そのガニュメーデスも意識となって浮遊し、ゼウスの近辺には居ない。 (何としても往時の威勢を取り戻さねばならぬ) あまねく、人々の信仰を回復させるのがゼウスの喫緊の課題であった。
紀元前340年。 ゼウスは漫然と世界を映す中庭の泉を眺めていた。ボイオティア辺りに視線を移し、その目は、テーバイ近郊を散策していた。小高い丘の上に大きな石で型どられた墓標らしきものが見え、その前に膝を付く一人の若者の姿を認めた。 若者を泉の中で大写しにしてみた。 「おお!」 ゼウスは驚愕した。その昔、ゼウスの心をときめかせたガニュメーデスの面影をその容貌の内に見たのだ。生き写しと言ってよい。数千年ぶりに陶然となった。 往時のゼウスなら即座に下界に舞い降り、変身して近付いただろう。残念ながら今のゼウスにそれほどの神通力はない。人間に憑依するのが精一杯なのだ。 慌てて、ズームアウトして周辺を探す。 そして格好の人物を見出した。ゼウスは強大な意志となって下界に飛び降りた。
宿営地内の居住区で青年は暗い表情のまま、黙然と座っていた。七歳でこの家に来て以来十二年、彼を養育し戦い方を教え、愛してくれたパートナーを先の戦闘で失ったのだ。その喪失感は想像を絶する。 ちなみに当時のギリシャの都市国家では、奴隷を除いて、市民の義務として、男子は七歳になると親元から離れ、集団生活を強いられた。スパルタ教育で名を残すスパルタでは、これが三十歳近くまで続く。お役御免となって初めて、女子に接し子を成す。実に二十数年にわたって男だけの生活の中、訓練に明け暮れるのである。 十三歳になると、一本の短剣を渡され、それ以外はすべて没収されて街から追い出される。一年間は街に戻ることは許されず、食料は近くにある奴隷たちの暮らす村から奪わなければならない。この試練に耐えた物が一人前の戦士として軍団の一員として認められるのである。 スパルタでは女子にも幼少から男子に準じた肉体の鍛錬を施し、十五になると三十になった男子に嫁がせるという按配になる。テーバイの事情も似たようなものだ。
青年にとって、パートナーの存在は世界の全てであった。彼のみならず、全ての戦士にとってこの事は普遍であった。父であり、兄であり、指導者でもあり、そして何よりも、思春期以降は閨を共にする恋人でもあるパートナーの喪失が、如何に青年の心に痛打を与えているか分かっていただけるだろうか……。 戦闘のさなか、倒れたパートナーの仇を報じんと憤怒と共に、どれ程の敵を屠ったか。 復讐は瞬時に達成したが、いまだ心は晴れなかった。
涙に潤む瞳で、何気なく窓の外を見上げた青年に薄暮にかすむ小高い丘が見えた。俗にイオラウスの丘と呼ばれる聖なる場所である。 この時、青年の内部に電撃が走った。 (あそこへ行かねばならぬ。友と愛を誓い合ったかの地で、ヘラクレスとイオラウスに、友の死を告げねばならぬ。これからのわが身の行先への啓示があるかも知れない) 彼の瞳は精気を取り戻し、次の瞬間には宿舎を飛び出していた。 青年は、かなりの道程を息せき切って駆け上った。なぜか心急く。 イオラウスの墳墓と伝えられる巨石の前に先客が跪いていた。短い黒髪と褐色の滑らかな肌を持つキトンを纏った少年だった。 背後に荒い息遣いを聞いた少年は静かに振り向いた。 青年は息を飲んだ。見上げる鳶色の瞳はつぶらで澄んでいて心なしか潤んでいた。大人になる直前の匂い立つような容姿は一瞬にして青年の心を鷲掴みにした。 「驚かせてすまない」 「いいえ」 少年は寂し気に微笑んだ。 イオラオスの墓は、恋人たちが愛を誓い合う神聖な場所である。従って、ここを訪れるのはカップルがほとんどである。一人でいると言う事はおおよその見当がつく。 青年は少年の傍らに腰を下ろした。 「話していいか?」 「どうぞ……」 「どこから来た?名は?」 「オルコメノスのナオトロスです」 初々しい少年のたたずまいながら、既に変声期を終えた落ち着いた声音だった。 「俺は」 「存じ上げています。テーバイのヒューマニオン様でしょう」 「何故それを?……」 青年は驚いて少年を見る。
青年ヒューマニオンはテーバイ重装歩兵軍団の中核をなす神聖隊の戦士の一人であった。 神聖隊は将軍ゴルギダスによって紀元前378年創設され、名将エパメイノンダスから薫陶を受けたギリシャ最強の精鋭歩兵部隊である。150組300人の愛し合うパートナーで編成された史上最強の部隊。年長者と少年が共に暮らし鍛錬一筋。いざ戦いとなればパートナーを護って、命を投げ出すことを厭わない。一方が命を落とせばその仇討にまた命を投げ出す。すさまじいまでの強さを発揮した。そして、紀元前371年、当時、世界最強と謳われたスパルタ歩兵部隊をレウクトラにおいて撃破し、テーバイに全ギリシャの覇権をもたらした。 その後、エパメイノンダスの戦死による痛手から、覇権は失われたが、神聖隊の強さは健在である。 ヒューマニオンは、その神聖隊随一の戦士であった。身の丈190センチ、鋼の筋肉で覆われた偉丈夫だった。そして、何より彼を目立たせたのは、ギリシャ人には珍しい、金髪と碧い瞳と白い肌であった。遥か北方の血が流れているのであろう。伝説の英雄アキレウスを彷彿させる容貌は夙(つと)に有名だった。
「ボイオティアであなたを知らない者はおりませぬ」 ナオトロスの言葉にヒューマニオンはポッと頬を赤らめた。天使に見まごう少年の賛辞に舞い上がった。 「一目で分かりました。噂通りだったんですもの……」 ヒューマニオンは嬉しさを押し殺して、あくまでも平静を装い、静かに訊ねた。 「こんな所まで何をしに来た?」 「私は去年、十三になり成人の洗礼を受けました。ナンとか一年生き延び、儀式を全うして先達のもとへ帰りましたが、頼るべき人は病に倒れ、亡くなっていたのです。私にとっては掛け替えのない大切な人でした。いずれ役所から指示があるでしょうが、その前に、二人で訪れるはずだったこの場所で恩人を偲んでいたのです」 そんな所だろうと予想はしていたが、いきさつを聞いて、何故か心が躍る。 「と言う事は、その先輩とは契らずじまいか……」 「はい、残念ながら……。でも、成人したとは言え、まだまだ未熟な私など、新しく、どなたかの指導を受けねばなりません。私にとって亡くなった恩人は唯一無二のお方です。たやすく、気持ちを切り替えられるとは思えないのです」 (ああ、何という僥倖!) 一目見た瞬間から、妖しく揺れる胸のときめき。いわれのない漠とした期待。先程から、身体の芯に蠢く、疼く様な欲求。 ふと、ヒューマニオンは我に返った。 つい先ほどまで自分も、亡き友を思い遣り、悲嘆の涙に暮れていたのではなかったか。7歳から19歳のこんにちまで、友以外に関心を持った事など一度たりとない。毎夜の契りに愛の誓いを重ねて来た筈ではないか。 いかに、魅力的な相手とは言え、たちまち邪(よこしま)な想いを抱(いだ)くとは……。 それに引き換え、この少年の気高い亡き友への忠誠。 (神よ!我を糾し給え!さなくば、我に道を示し給え!) 神が答えるはずがない。神は正に、ヒューマニオンの中にいるのだから。
ゼウスは人に憑依する時、昔のように宿主を操れない。彼の思念は宿主と同化する。記憶も失われ、宿主が人生を終え、魂が離れる時、改めて神として蘇り、記憶も取り戻す。 つまりヒューマニオンにゼウスが憑依した瞬間、ゼウスを宿した全く新たなヒューマニオンが誕生したのだ。目の前のナオトロスへの執着がヒューマニオンに生じるのは当然の事であった。
急に沈んだ表情になり黙りこくった相手に少年は身を縮めた。 「申し訳ありません!自分勝手な事をばかリ申し上げて……」 「そうではないのだ。俺もキミと同じ境遇なのだ。友を先の戦闘で亡くしてしまった。キミと違って、目の前でみすみす奪われたのだ。護れなかったんだ。不甲斐なさに情けなくなっただけの事さ」 「なおさらの事!私の様な未だ戦いにも出た事のないひよっ子の繰り言などあなたの悲しみに比ぶべくもありません。子供のたわごとお許しください」 「なんの!愛する友を失った者同士。ここで会ったのも神の導きかも知れない。私の家はすぐ近くだ。良ければ、もう少しキミと語り合いたい。いや、是非、来てもらいたい。今、一人にはなりたくないんだ」 ナオトロスは畏敬の眼差しでヒューマニオンを眺めた。ボイオティア地方に隠れもないテーバイの英雄が自分を誘っているのだ。 「からかっておられるのではないですね! いえ、戯れでも構いません。例えひと時でも貴方とお話が出来たと言えば、国へ帰った時に、どれだけの誉れになるでしょう。是非、お連れ下さい。馬鹿な子供を酒の肴にして下さい」 「何を言うんだ。キミは立派に試練をこなして大人になった身ではないか。対等の友として我が家にお招きしているんだ。少しばかり年長とは言え、もう少し砕けてくれないか」 浮足立つ心に、ヒューマニオンは立ち上がる。 「さあ、そうと決まれば、善は急げだ。もう日も暮れる」
ワインをしこたま飲んでいるにも拘らずヒューマニオンはほろ酔いでしかなかった。卓を挟んで酩酊状態のナオトロスがはしゃいでいる。飲み慣れぬ酒の所為か止めどもなく語り続けていた。 ヒューマニオンはキトンの両肩を脱いでベルトから下に垂らした格好で上半身裸だった。 陽が落ちてかなりになると言うのに暑くて堪らない。厚く白い逞しい胸は噴き出した汗でテラテラと光っていた。ナオトロスの止まらぬ口の動きを飽かず眺めている内に情欲の熱が全身に廻って来るのだ。 (欲しい!この少年の全てが欲しい!) 生まれてこの方、これ程、執着したことはない。 「ナオトロス!ああ!ナオトロスと呼んでいいか!亡くなられたキミの友が羨ましい。かの人はキミと六年も過ごせたのだ。なくなったのちも、これ程、キミに慕われている。千年の生を全うするより遥かに幸せだったに違いない」 「やっぱり……、からかわれるんですね!構いません、どうぞ思う存分弄って下さい。お陰で悲しみが遠のいた気がします」 ナオトロスは眼を座らせながらも楽しそうに答えた。 「そうだ!ヒューマニオンさま、からかわれついでに、ボクの踊りを見て下さいますか?オルコメノスで宴会などの折、よく踊られる滑稽な出し物です。大抵は子供たちが演じます。私もしょっちゅう駆り出されて踊りました」 ヒューマニオンが言葉を返す前にナオトロスはイスから立ち上がった。 「音楽がないので、もう一つ盛り上がらないと思いますが、笑い飛ばしてください。からかってください。からかわれれば、からかわれるほど、盛り上がるんです!」 ナオトロスは卓上から小ぶりの皿を二枚手にすると二、三歩後ずさりし、くるりと回って、ヒューマニオンに背を向けた。そして皿を足許に置くと、ベルトを外して放り投げた。膝のあたりまであったキトンの裾がくるぶし辺りまで垂れさがる。音楽代わりに鼻歌で拍子をとりつつ、足元の皿を両手に一枚ずつ拾い上げた。上体をかがませながら尻を突き出し左右に揺らせた。煽情的に腰を揺らしながら上体を少しずつ起こす。両肩から皿を覗かせ、振り返り、ヒューマニオンに流し目を送ってウインクした。 ヒューマニオンにも覚えがある。男だけの集団生活。宴席などで場を盛り上げるためストリップまがいの踊りなどで囃し立てながら楽しむ行為。現代で言えば大学のコンパや、体育会系の歓迎コンパ辺りで新入生などがやらされる余興だ。 囃し立て馬鹿笑いすればいいだけの多愛のない遊びだ。 ナオトロスも酔いに任せて、軽いノリで楽しんでもらおうと始めたに過ぎない。しかし絶世の美貌の少年に妖艶な流し目を送られたヒューマニオンは、物も言えない程、陶然となった。 ナオトロスはヒューマニオンを見詰めながら、腰を卑猥に振りつつ、皿を持った手で器用に、キトン両肩のピン、ボルパイを外した。 キトンは一瞬にして足元にずり落ち、一糸纏わぬ裸身が現れた。 この時代、現代の様な下着はない。キトンにしろヒマティオンにしろ衣服の下はスッポンポンだ。映画などで観る、なめし皮のパンツ状の物などは嘘っぱちの作り事だ。まあ、そうしなければ映画自体、制作できない訳だから仕方がない。現代人には違和感があるだろうが、古代ギリシャのツボなどに描かれている姿がおおむね正しい。 とにかく、少年から大人に変わる思春期の匂い立つような色香を放つ裸体が身をくねらせる。踊りながらヒューマニオンの方へ向き直り、二枚の皿を巧みに操り、局部を隠す。 ひとしきり、曲芸まがいに見えそうで見えないを披露したナオトロスはイスに座った。 囃子(はやし)もしないヒューマニオンに、幾分、興ざめ気味に話し掛けた。 「ごめんなさい。国では結構、ウケるんですけど……、テーバイですもんね」 言って飲み残しのワインを一息で飲み干した。 椅子に腰掛けているヒューマニオンの衣服を突き上げ、しとどに濡らしている興奮はナオトロスからは見えない。
「甘えついでに、ヒューマニオンさま、土間でいいですから今晩、泊めて頂けないでしょうか。明日、お目覚めになる前に失礼しますから……」 「ならん!」 長い間、黙りこくっていたヒューマニオンの声にナオトロスはビクッとした。 「お前は、此処にとどまるのだ。俺の許可なく出ていってはならん!」 (ナニか粗相でもしたか?) 浮かれ過ぎたのかと、酔いが遠のいて行く。 ヒューマニオンのぎらつく目を恐々見詰める。
「すまない……大声を出して……」 急にヒューマニオンは苦しそうに顔を歪めた。 「お前を帰したくない。テーバイにとどまって欲しい。俺をお前の伴侶に選んでくれ!」 「お戯れを……。弄(なぶ)るんなら、先ほど弄って頂けたら嬉しかったのに……。吃驚するじゃありませんか!」 ホッとはしたが、からかうにもほどがある。 今は、北方マケドニアの脅威に対抗して仕方なく結んでいるが、そもそもオルコメノスは南のアテナイと組んで、テーバイと何度も戦ってきた都市である。よしんば、今の状況のお陰で、出自を問われないとしても、戦(いくさ)に出た事もない自分の様な子供が、天下のテーバイの神聖隊、それも勇名高きヒューマニオンのパートナーなどに成れるはずもない。 類(たぐい)まれな、人を魅了する美貌を備えている事に、全く気付いていないナオトロスも、どうかと思うが、他国の素性も定かでない少年をテーバイ全軍団の中枢を占める神聖隊のメンバーがパートナーとして選ぶなど言語道断の事なのだ。もし間者であればテーバイの危機につながる。 「弄ってなどいない。俺は本気だ。お前と暮らしたい。お前はテーバイの市民になるのだ。俺の対等の友となるのだ。偉そうに言ってすまない。足が震えるほど恥ずかしいんだ。威丈高にならないと話す勇気が起こらないんだ」 「貴方は何を言っておられるかお分かりになっていますか?私はこれでも、間もなくオルコメノスの歩兵になります。戦って敗れ、貴方の奴隷になることは出来てもテーバイの市民になど成れっこありません」 「友よ!敢えて、こう呼ばせてくれ!見くびってくれるな。痩せても枯れても俺は神聖隊のヒューマニオンだ。キミの市民権などどの様にでもして見せる。キミが望むなら俺が神聖隊を捨ててもいい。キミのパートナーとしてオルコメノスに赴こう」 ナオトロスは絶句した。おもむろに席を立ちキトンを纏う。裸でする話ではない。エクソミス、つまり右肩出しの男子のオーソドックスな着付けで再びイスに着いた。 「本気でおっしゃってるんですね!」 「ああ、本気だ!どちらかキミが選べばいい。どちらも嫌だというなら……」 ヒューマニオンは腰のベルトから短剣を外し、卓の上に置いた。そして、右手を左胸に置いて言った。 「この剣で、ここを刺し貫(つらぬ)いて立ち去ってもらいたい。俺は、もはや、キミなしの人生は選ばぬ!」
オリーブ油のランプの燈芯だけがジジッと音を立てる静寂の中、どれだけのあいだ見つめ合っていただろうか。 ナオトロスはイスから立ち上がり三歩ばかり下がって片膝を土間に付け、右手を左胸に押し当てて、ヒューマニオンを見上げた。 「ヒューマニオンさまのお気持ち、しかと承りました。私の様な半端者を拾って頂けるなら身も心も貴方様に捧げましょう。どうぞ、ご自由にお使いください。心を決めた以上、市民に成れなくとも、例え奴隷の身分に落とされても、貴方のお傍(そば)に置いて頂きます。どうか、お見捨てなきよう……」 そして、頭(こうべ)を垂れた。ヒューマニオンは椅子を蹴立てて、ナオトロスの前にしゃがみ込むと、顎に手をかけ、顔を上げさせ 「何を言うか、俺にこそ、キミのしもべになる栄誉をくれ!叶わぬならば、せめて、友と呼んでくれ!ヒューマニオンと呼んでくれ!」 「嗚呼(ああ)、ヒューマニオン!キミはやめて!さっきの様に、お前と言って!」 「ナオトロス!」 潤む瞳を見詰めるヒューマニオンに激情が湧き上がる。ナオトロスの唇に自分のそれを近付ける。 二人の唇のあいだに、手を差し入れてナオトロスが言った。 「明朝、イオラオスの墓に詣でましょう。ヘラクレスとイオラウスに誓いましょう。そして、ボクをあなたのモノにしてください」
悶々として眠れぬ夜を過ごしたヒューマニオンは傍らでスヤスヤ眠るナオトロスを見て苦笑した。 (どちらが年長だか……)
翌早朝。二人は再びイオラウスの丘に登った。朝霧立ち込める墳墓の前で愛を誓い合った。 この時、ヒューマニオンは霧の中に幻影を見た。この辺りには見かけぬ木々の中に奇妙な服装の少年二人が佇んでこちらを見ていた。一人は短い髪を逆立てた髪型で、ヒューマニオンに負けない体躯の少年だった。肌の色は違ったが、何故か、それは自分だと想えた。もう一人は髪の毛を丸く刈り上げた黒い瞳を持つ美少年だった。 「あれは、私たちですよね」 不思議な事にナオトロスも同じ幻影を見た様だ。 その日、二人は結ばれ、永遠の契りを交わした。
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