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作品名:眠れ、そして夢見よ 作者:時 貴斗

第7回   夢を見る 四
   四

 土曜日、美智子はバス停に降り立つと、大きく深呼吸した。なんと清々しい空気だろう。平日は人が大量にいて、どうもいけない。それが、休日になるとこれほど人がいないものだとは。都会とはいえ、親父達の煙草の煙や、刺々しい喧騒、舌打ちの音や咳払い、そういったものがあるのとないのとでは、空気のうまさが段違いだ。
 休日、それは美智子のように研究、研究で精神をすり減らす人間には、とても重要な日である。土曜日にはクラシックを聴きながら読書をすることで精神を回復する。日曜日にはスポーツクラブに行ってストレスを発散する。もっとも、本当はスポーツが苦手なので、エアロバイクしかやらない。エアロビック・ダンスは嫌いだ。「はい、ワン・ツー、ワン・ツー」という声に合わせて、脂肪を少しでも排出しようと体をねじるおばさん達を見ていると、嫌悪感で胸がむかつく。あの中に混じろうとは思わない。だからひたすらに、床に固定された自転車をこぐ。ペダルをがむしゃらに回す。
 別に誰から出てこいと言われたわけでもない。そんな休日を犠牲にしてまで研究所に来てしまったのは、やはり倉田氏の状態が気になるからである。
「あれ? 常盤さん?」
 振り向くと、そこに藤崎青年が立っていた。
「珍しいですね、休日出勤ですか」
「おはよ」
 青年は笑顔だったが、睡眠不足からくる疲れが、目の下のくまとなって現れているようだ。本当は土日の患者の観察は青年に任せて、美智子は家で寝ていればよいはずだった。
 休日に出てくるというのは、普段出勤してくるのとは少し違った気分だ。なんとなく生真面目に研究に没頭する気になれない、きっと何もないのに、何かありそうな、少し浮かれた気分だ。
 美智子はこのまま研究所の玄関をくぐるのは、もったいないような気がしてきた。腕時計を見る。休日出勤の勤務時間帯は決まっていないが、藤崎青年の業務開始時刻は定められている。まだ少々余裕があるようだ。
「少し、歩かない?」
 青年は、へ? というような顔をしたが、すぐにうなずいた。
「ええ、いいですよ」
 美智子が歩き出すと、青年が慌てて追いついてきて横に並んだ。
 まだ朝早いせいか空は薄暗く、灰色の雲がおおっている。
 立ち並ぶ高層ビル郡は、いつもの活気をすっかりひそめて、巨大な墓石のように突っ立っている。通りを行き交う車の数も、歩道の人数も、平日に比べると格段に少ない。
 美智子が何もしゃべらないので、青年は何と話しかけてよいものかと気遣っているらしく、時々美智子の方を見る。
「常盤さんって休みの日は何をしてるんですか?」
 歩き出してから一つめの信号が赤に変わった時、青年はようやく口を開いた。
「あら、お見合い?」
 青年は快活に笑った。そして少しばつが悪そうな顔をする。
「藤崎君、大変ね。ちゃんと寝てる?」
「まあ仕事が仕事ですからね。でも大丈夫ですよ。体力だけが取り柄ですから」
 美智子も徹夜はするが、青年は人一倍頑張っている。
「そう」
 再び会話がとぎれる。美智子は、珍しいわ、などと考える。つまり、自分がこんなことをしているのが。
「読書」
「え?」
「読書よ。そこ曲がりましょ」
 通りを右に折れて、細い道に入ると、両側に植込みが並んでいる。しばらく歩くと、植込みが切れて、都会の中のほんの憩いの場とでもいうような、小さな公園がある。すべり台と、ベンチと、うさぎやライオンの頭の形をした石の像が、ささやかながら置かれている。美智子はここで子供達が遊んでいる姿を見たことがない。
 何も言わずにベンチに腰掛けると、青年は遠慮がちに少しだけ離れて座った。
「でも休みの日まで本を読んでいたら頭が疲れませんか」
「あら、頭を休めるために読書するのよ」
「はあ、そうですか。でも、体を動かした方がいいですよ。山にでも登れば、気分がすかっとしますよ」
 スポーツクラブに行っているわよ、と言いたいところだが、秘密にしておく。まさか三十分だけエアロバイクをこいで帰っています、とは言えない。エアロビを踊っているのを想像されるのも不愉快だ。
「どんな本を読むんですか?」
「そうね。遺伝子とか、ブラックホールとか、そういうの」
 青年の笑顔がひん曲がった。
「もっと、普通の本は読まないんですか」
「あら、普通の本だと思うけど」
 青年がようやく明るくなってきた空を見上げる。
「うーん、でもそのくらい勉強しないと、常盤さんみたいな天才にはなれないんでしょうね」
「あら、藤崎君だって頭いいから、今の研究所にいるんじゃない」
「いえいえ、月とスッポンですよ。なにしろ滝田先生から一目置かれる存在なんですよ?」
 美智子は天才だと言われても、それを否定しない。それをやるとかえって嫌味になる。下を向き、じっと考え込む。そして顔を上げ、遠くをみつめる。
「天才ってね、あまりいいもんじゃないわよ」
 青年が眉根を寄せる。
「なんだか氷の中にいるみたい。氷の壁に囲まれて、その中から出られないの。そしてその壁は、だんだんと、私に向かって迫ってくるのよ」
「疲れてるんですよ。やっぱり頭を休ませなきゃ」
「知ってる? 論理的な思考ばかりして左脳だけ発達すると、右脳が発達しなくて、人を愛することができないんだって」
 何かのつまらない本に書いてあった馬鹿げた迷信だ。愛の正体は扁桃体にあるのではないかとも言われている。それは脳の両側にある。
「常盤さんは人を愛せないんですか?」
 美智子は困った。何でこんなこと言っちゃったんだろう、と後悔する。
「そうね、どうかしら」
 美智子は、自分でもびっくりするくらい乱暴に髪をかきあげた。
「天才っていうのは、何かを創り出すことができる人のことよ。勉強ばかりできる人間はただの真面目な人だわ」
 自分は夢見装置の主要な開発メンバーとして活躍した滝田にどこか嫉妬のような念を抱いている、と彼女は感じていた。
 青年はうつむいたまま、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「今度、山に行きませんか」
 青年は照れたのか、慌てて付け足す。
「滝田先生と一緒に」


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