二
「おはようございます」 滝田が研究室に顔を出すと、宮田洋次が元気良く挨拶した。この真面目だけが取り柄の小男は、夢見装置のプロジェクトに加わってから五年目になる。天才型ではないが、何事もこつこつと忍耐強く続けるこの男の最大の成果は、夢見装置で視覚情報だけでなく、聴覚の情報まで受信できるようにしたことだろう。おかげで夢の映像だけでなく、音声まで観測できるようになった。もっとも、音を得ることに先に成功したのはアメリカだったが、こっちの方が、性能がいい。より明瞭に聞こえるのだ。美智子のようなとげとげしさがなく、いい奴なのだが、なんとなく物足りない。 美智子か。 あれから十年! 時間の矢は恐ろしいスピードで飛び去っていく。この十年間にいろいろなことがあった。滝田には孫が生まれ、滝田研究室のメンバーは入れ替わった。美智子はアメリカに、藤崎青年はイギリスに移っていった。いずれも夢見装置を持つ研究所だ。新たにこの宮田という男と、藤崎青年と同じくらいの歳なのだが、学生気分が抜けきれないまま大人になったような井上という青年がプロジェクトに加わった。変わらないのは滝田だけだ。 「クラタさんという方から電話があって、先生にお会いしたいと言っていました」 滝田ははっとして宮田を見つめた。 「クラタ? 下の名前は?」 「いえ、苗字しか聞いていません」 倉田恭介や倉田芳子とは別人だろう。彼らは滝田がこの研究所の所長だということを知らないはずだ。だが、何かの機会に知った可能性はある。 「年齢は? おじさん? おばさん?」 「若い男の方のようでした」 滝田は目を伏せた。 「あ、そう」 「先生は九時半頃に出勤すると言いましたら、ではそのくらいに伺うということでした。お断りしますか?」 「いや、一応会うよ」 廊下に出てゆっくりと歩く。 何を期待したのだろう。倉田氏の件はもうずっと昔の話なのだ。今になって彼らが滝田に何の用があるというのか。 所長室に入り、エアコンのスイッチを入れる。涼しくなるまでにはしばらくかかる。もうそろそろフィルターの掃除をしなければな、などと思う。このクーラーももうだいぶ古くなってしまった。コーヒーメーカーから一杯注ぎ、いつものように論文や学術誌の山とパソコンがのった机の前に座る。ポケットから煙草とライターをもたつきながら引っ張りだし、眉を八の字にして火をつける。顔を仰向けて空中に紫煙の矢をふく。 出勤してしばらくの間は何もやる気がしない。もう頭脳労働をするのは限界なのかもしれない。頭が働き出すまでに二時間や三時間は平気でかかる。午前中はまるで仕事にならない。パソコンの電源を入れ、煙草を持った腕をだらりとたらして起動画面を見つめる。起動するまでの間は休憩時間だ。もっとも、立ち上がったからといってしばらくはぼんやりしているのだが。 煙草をたっぷり根元まで吸い終わると、それをくすんだ銀色の灰皿にすりつけ、今度はゆっくりとコーヒーを飲む。初夏の日差しは研究所に着くまでの間に体を幾分汗ばませていたが、滝田はホットコーヒーを飲む。煙草の後のアイスコーヒーは腹の調子が悪くなる。 パスワードを入力したがメールをチェックする気にもなれず、たいして読む気もない論文の字面をおっているうちに一時間ほどたっただろうか。いきなりノックもなく部屋のドアが開いた。そんなことをする人間は一人しかいない。思った通り、井上が顔を出した。 「先生、お客さんっすよ」 「あ、そう」 長く伸ばした髪を茶色に染めているのはとても研究者には見えない。頭もたいして切れないのだが、性格がのんきなのだけが救いだ。 「応接室に待たせてますんで」 「うん。すぐ行く」 井上が扉を開け放したまま行ってしまうのを見て、滝田は苦々しく顔をしかめた。 近頃の若いもんは、などと考え始めている自分に気づいた。
|
|