四
だいぶ時間が経っていた。今までの中で一番長い夢なのではないだろうか。とうとうエジプト人達はスフィンクスの背の上にやってきた。首の後ろに歩いていく。 続いて、風景はそのまま前進し、さらに後頭部を登っていく。そしてついに頭頂部にたどり着いた。 もうだめだ。滝田は拳を握りしめた。 画面の右端から刃物が現れた。のみだ。やめてくれ。お願いだ。 「大変です。心臓が止まりそうです」 スピーカーから叫ぶような医師の声が聞こえた。高梨がマイクに口を近づける。 「強心剤を打ってくれ」 「打っちゃだめだ」 滝田は周りの人間がびっくりするほどの大声をあげた。 「何を言ってるんですか、先生。倉田さんが死んでしまいますよ」 美智子は声を荒げた。 「歴史が変わってもいいのか!」 美智子の顔が歪むのが、視界のすみに映った。滝田は、自分のほほに涙がつたうのを感じた。 高梨が下の医師に指示する。 「待ってくれ。打たないでくれ」 「そんな。手遅れになってしまいますよ」 下の医者が困惑した声を出した。 「とにかく、そのまま待機だ。私がいいと言うまで打つな」 画面の中に、今度は石のハンマーが映った。のみが岩の表面に押し当てられる。 「先生、お願いです。倉田さんを助けて下さい。スフィンクスの頭が傷ついたくらい、どうだっていうんですか」 美智子が哀願した。 「その事で何人もの関係ない人々が処罰されてもいいのか!」 賭けだった。ひょっとすると名無しのエジプト人が思いとどまってくれるかもしれない。それと倉田氏の心臓が止まるのと、どっちが早いか。しかしエジプト人が考えを変える可能性は、ほとんどなさそうだった。 その場にいる全員が沈黙していた。まるで息さえ止めているかのように、静かだった。 突然、スピーカーから看護師の黄色い悲鳴が響いた。 「どうした」 「倉田さんが起きだして、ベッドの上で四つん這いになっています」と藤崎青年が答えた。 レム睡眠行動障害だ。説得するなら今がチャンスだ。 「あなた、そんなことをしてばれたら死刑ですよ」 滝田はモニターの方を向いたまま話しかけた。 画面に空が映る。 「ばれないようにやる。もし死罪となっても、覚悟の上だ」 「あなたのせいで何の関係もない人達が処刑されてもいいんですか」 「何かを成し遂げるのにある程度の犠牲はつきものだ」 くそっ。だめか。 「倉田さんが死にそうなんです」 とにかく思いついたことを言った。 「それが私と何の関係があるのだ」 「あなたは倉田さんの夢が作り出した存在なのです」 「またその話か。私は信じていないと言ったはずだ」 「ではあなたには今までの記憶がありますか?」 「何度も言うようだが私は自分が何者なのかも分からない」 「それが何よりの証拠です」 エジプト人は黙ったまま返事をしない。 滝田が話している内容はすべて仮説だが、なにしろ彼に聞こえているのは天の声だ。うまくすれば信じ込ませることができるかもしれない。 「ではこう言い換えましょう。あなたは倉田さんの分身なのです」 「私にはどうでもいい」 「倉田さんが亡くなれば、あなたの生命の灯も消えてしまうんですよ」 「ならばなおさらだ。そうなる前に私はこれを成し遂げる」 だめか。何かやめさせる方法はないのか。 「あっ、左腕を振り上げました」と青年が言った。 「その腕を捕まえろ」 一、二秒の沈黙がひどく長く感じられた。 「捕まえました」 だが倉田氏の行動を制御しても、エジプト人には関係なかったようだ。ついに、のみに石のハンマーが打ちつけられた。 「ああ!」 今ならまだ間に合う。エジプト人を説き伏せるのだ。しかしどうやって。 「あなたは大罪を犯しました。あなたの心臓は天秤にかけられました。残念ながら真実の羽根より重いです」妙な事を言い出したのは意外にも美智子だった。「アメミットが、倉田さんが死ぬ瞬間を待ち構えています。彼が絶命すればあなたも世を去ることを知っているのです。あなたの心の臓は怪物に食われるでしょう」 「私にどうしろと言うのだ」 画面に映る風景は、周辺から闇が包み込むように黒くなってきた。もう時間がない。だが美智子は先を続けるのを躊躇しているようだ。彼女の意図を悟った滝田が代わって話す。 「自分でけりをつけて下さい。アメミットに気付かれる前に」残酷だが仕方がない。「アアルで会いましょう」 エジプト人は迷っているようだった。モニターの像が丸くなってきた。 滝田はこれ以上何も言えなかった。彼を急かすようなことも。ただ成り行きに任せるしかなかった。 滝田の靴のつま先が床を叩き始める。 袋からナイフが取り出された。胸に先端が押し当てられる。 「うう!」 深々と突き刺さるのを見て、滝田は強く唇を噛んだ。 画像の直径が徐々に短くなっていく。その円の中に、腰を抜かしている仲間の姿が映っている。 「お前達ももうやめろ。アメミットに……食われるぞ……」 「倉田さんが倒れました」 青年の悲鳴に似た声が聞こえた。 「強心剤を打て」 高梨医師が怒鳴った。
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