三
遅い。何をしているのだ。病院に連絡して、もう二時間も経っている。今度は高梨も来ると言っていた。滝田のメールを読んだからだろうか。それとも、この間の若い医師が何か言ったのか。 ベッドルームの分厚い扉がゆっくりと開いた。 「先生、来て下さい」 現れたのは青年だ。 「どうした、まさか」 「倉田さんが夢を見ています」 ああ、なんということだ。よりによってこんな時に。滝田は眉間に縦皺を寄せて荒い呼吸をしている倉田氏の顔をみつめた。 「先生、早く」 青年に急き立てられて、腰を上げる。駆け去っていく青年を追いかける。だが、なんだか疲れた。急がなければならないのに。くそっ。 ようやく研究室にたどり着いた時、滝田は息切れしていた。 「どっちだ」 「エジプト人の方です」 モニターの前の美智子が返事をした。 滝田が画面の正面に立つと、そこには夕陽をバックにスフィンクスがそびえていた。思わず窓に駆け寄り、倉田氏を見下ろす。しかしさっきまで見ていた通り、彼は苦しげな眠りを続けている。レム睡眠行動障害の状態にはなっていない。 「だめだ。歴史が変わるぞ」 ディスプレイの前に戻る。胴の下に小さく数人の人間が見える。また瞬間移動して彼らのそばに来た。そこにはこの間見たちぢれた髪の、口ひげをはやした、若いのか年取っているのかよく分からない男と、太った男と、他に三人の男が立っていた。彼らが驚かないところを見ると、テレポーテーションしたわけではなく、歩いて行くシーンがカットされただけらしい。ちぢれ髪の男が何か言うと、画面はうなずいて上下にゆれた。太った男が背中にかついでいた布袋をこちらに突き出した。袋の口から棒のようなものが何本か顔を出している。画面は再び縦に往復した。 背後でドアが開く音がして、「今晩は」という声が聞こえた。振り向くと高梨が立っていた。 「いや、お久しぶりです」 状況が良く分かっていないのか、快活な笑みを浮かべて言った。 「挨拶は後だ。早く倉田さんを診てあげて下さい」 怒りをおさえて言う。 「大丈夫です。もうやってます」 窓のそばに行った藤崎青年が報告する。 「医者と看護師が来ています」 「今、夢を見ているところですか」 高梨は言って、滝田のそばに寄って来た。 「あ、今晩は」と美智子と青年にも挨拶した。 「どんな状況ですか」 いたって明るい調子で聞く。 「私のメールを読んでくれましたか」 滝田はモニターを見つめたまま言った。 「ええ、もちろん。あれが全部本当だったら素晴らしい」 素晴らしいだって? 素晴らしいことなんかあるもんか。 「だったら話が早い。今ちょうどね、倉田さんが歴史を変えるところですよ」 滝田は怒鳴った。 高梨は呆気にとられた顔をした。 「あの、このヘルメット、取っちゃだめなんですか」 スピーカーから下の医師の声が聞こえた。 「あ、それ取っちゃだめです。取らないで下さい」と美智子が答えた。 「倉田さんはね、というよりも古代エジプト人はね、これからスフィンクスの頭を壊して、その石をピラミッドに供えるんだそうですよ」滝田は高梨をにらんだ。「まったく、馬鹿げたことです」 高梨は少し動揺したようだ。 「なんとか、やめさせることはできないんですか」 「何もできませんね。私達はただぼーっと見ているだけなんですよ」 ちぢれ髪の男が前へ進み出て、胴体をよじのぼり始めた。ロッククライミングだ。続いて風景が前へと動いて、岩の表面を画面いっぱいに映した。壁面が下がっていく。 頼む。やめてくれ。 「あんな大きな像を登れるのか?」 「スフィンクスの高さは二十メートルです」と美智子が得意の記憶力を披露する。 戻ってきて一緒に見ていた藤崎青年が付け足す。 「ボルダリングジムの壁の高さは四メートル程です。素人では一発でクリアするのは難しいです。これを登ろうというのですから彼は僕達が思っている以上に身体能力が高いのかもしれません」 滝田は振り向いてマイクをつかんだ。 「倉田さんの状態はどうですか」 「だいぶ弱っています。脈拍が遅くなっています」と医師が答える。 「藤崎君」 「行ってきます」
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