二
倉田氏の病状はかなり悪化しているように見えた。その日も三度、医師と看護師がやってきて簡単な診察をし、点滴をとりかえていった。 「どうなんです。だいぶ悪いんじゃないですか」 滝田が何度聞いても返事は同じだった。 「大丈夫ですよ。心配いりません」 医師達は滝田と話すのが嫌なようだった。決して顔を見ようとしない。 彼らはまるで治療する気もないかのように帰っていった。 倉田氏の呼吸はさらに荒く、顔中に汗がにじんでいた。滝田はそばに座ってふきとっていた。 かわいそうに。実の妻に看病してもらうこともできない。妻が聞いたら卒倒するだろう。命より夢の分析を優先するとは。滝田は自分が犯罪に加担しているような気がしていた。 脳の研究から睡眠の調査へと移っていった当時は、意欲あふれる純粋な科学者だったはずだ。それが悪事を働くようになるなど、どうして予想できただろう。 いや、それどころでは済まない。歴史が変わろうとしているのだ。滝田の頭に悪い考えが浮かぶ。もしも倉田氏が死んでくれたら、あの古代エジプト人も消えるに違いない。そうしたら過去が変わらなくて済む。もし亡くならずに、エジプト人がスフィンクスを壊そうとしたら、その時には高梨に頼んで安楽死の注射を……。いや、だめだ。そんなことは絶対にできない。 もしも頭部が欠けたら、どういうふうになる可能性があるだろうか。きっと元々スフィンクスには頭頂部がなかったのだということになるだろう。あるいは戦乱か何かで失われたという解釈になるかもしれない。影響があるのは考古学ぐらいではないだろうか。それともこれは大変だと思った古代エジプト人達が、すぐに修復してくれるかもしれない。 その程度で済めばいいが。 しかし、名無しのエジプト人が河でおぼれている子供を助けた時、そのせいで第二次世界大戦が起こった確率はゼロではないと考えたのは滝田ではなかったか。 怒ったファラオは、無関係の人々を処刑してしまうかもしれない。あるいは何かの祟りだと勘違いして、多くの人間を生贄にするかもしれない。もしそうなったら、その人達の子孫は生まれてこないのだ。後に誕生するはずだった英雄や、政治家が歴史上から抹殺されるかもしれない。そうした人がいなかったために、ヒトラーのような独裁者が支配する世の中になる可能性だってあるのだ。 名無しのエジプト人に説得を試みてはどうか。なんとかしてやめさせるのだ。しかし、古代エジプトには電話もない。倉田氏がレム睡眠行動障害にならずに、夢の中でエジプト人が歴史を変えようとしたら、それをただ指をくわえて見ているだけなのだ。 どうにかしてヒッドフト王のピラミッドがあった場所を探し出して、そこに手紙を置いてきたらどうだろうか。研究室の電話に張り紙をしたのと同じで、夢の中で彼がそれを読んでくれるかもしれない。自分のやろうとしていることがいかに馬鹿なことかを、綿々と書きつづるのだ。もっとも、彼が日本語を読めなかったら、ヒエログリフで書く必要があるだろうが。 いや、この案はだめだ。手間がかかりすぎるということ以前に、時間的に隔たってしまっている。 倉田氏が笛のような音をたてて息を吸いこんだので、滝田の思考はとぎれた。 アイマスクを取ってみると、目の周りはどす黒い紫色に変わっていた。苦しそうに首を右に、左にねじる。 「倉田さん、倉田さん。大丈夫ですか」 肩をゆすっても、目も覚まさないし反応もしない。 「大変だ。医者達を呼び戻さないと」
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