四
これは私の仮説にすぎませんが、倉田氏はある宗教団体による退行催眠がきっかけとなって前世の記憶が呼び覚まされ、先祖返りを始め、御見氏からインド人へ、そしてエジプト人へと変化していったのだと思われます。しかし、古代エジプトともなると記憶があいまいなため不完全です。そのせいで時々倉田氏自身に戻ってしまうのだと推測されます。
パソコンの画面をにらみつけながら、滝田は考え込んでいた。ウィンドウには電子メールの文章が並んでいる。内容はこの間打ったのとだいたい同じようなものだ。その後起こったことと、自分の仮説を簡潔に書き足してある。 「送信」と書かれたボタンに矢印を合わせている。マウスをクリックすれば、この報告が高梨医師に送付される。 まったく変な夢だった。確かに、今の滝田にとって高梨への報告が宿題だとも言える。 本当にいいのだろうか。分からない。送信ボタンにカーソルを合わせたまま、もうかれこれ二十分がたつ。 何かパソコンと真剣勝負でもするかのごとく、身動きさえせずにらみ合っている。触れると破けそうなほどの静けさが所長室を満たしている。吸われないまま灰皿のへりに置かれっぱなしになっている煙草から、線香のような煙が立ち昇っている。 突然大きな音をたててドアが開かれた。 「先生、大変です」 「あっ」 驚いた拍子に指が勝手にクリックしてしまった。ああ、なんということだろう。本当にこれで良かったのか。 眉をひそめて青年を見る。 「どうした」 「倉田さんが大変なんです」 滝田は窓を見た。春の日差しが暖かく室内を照らしている。 「昼間に見る夢か。といっても倉田氏には昼も夜も関係ないが」 「そうじゃないんです。とにかく来て下さい」 滝田が立ち上がるのも待たずに青年は走り出した。滝田も慌ててついていく。 青年は研究室の方には行かず、階段を駆け下りた。どうしたのだろう。倉田氏の夢ではなく、倉田氏本人に何かあったのか? 青年は分厚い扉を開け中に入っていく。青年に続いて入り、倉田氏を見た滝田は口を丸く開いた。 様子がおかしい。呼吸が荒くなっている。元々悪い顔色がいっそう土気色になり、改めて見ると、来た当時より痩せ細って、骨と皮だけになってしまった。 「病院に連絡した方がいいでしょうか」 「そうしてくれ」 青年が出て行くと、滝田はベッドの横の椅子に倒れるように座りこんだ。 「倉田さん、もう結構長いつき合いですね」 彼がここへ来てから三週間になる。滝田にはかなり時間が経ったように思える。病気の原因はもちろんのこと、彼の夢が何なのかも、結局分かっていなかった。電話で話もした。レム睡眠行動障害時には、直接話すことができた。にもかかわらず、分かったのは彼が不可思議な状態になっているというだけのことではあるまいか。何かが分かったようでいて、結局何も分かっていないのだ。 青年が戻ってきた。 「一時間ほどで来るそうです」 青年と並んで座って、まるで重病の末期患者を看取るように倉田氏を見ていた。いや、実際重病人なのかもしれない。きっとあの夢を見る際に莫大なエネルギーを消費するために、栄養をいくら補給しても足らないのだ。いやいや、そんなことではあるまい。倉田氏には彼自身と古代エジプト人の分の滋養が必要なのだ。しかもここへきて、エジプト人の方は重労働にたずさわるようになった。余計に栄養分が不足しているのではないだろうか。 一時間半もたって、ようやく若い医師が一人でやってきた。 「失礼します」 滝田達の間に割って入って、倉田氏のパジャマのボタンをはずして聴診器をあてた。 滝田達は医師が診察するのをなすすべもなく見つめた。 「心臓がだいぶ弱っているようです」 医師はつぶやいた。 「あの、倉田さんは大丈夫なんでしょうか」 滝田はかぼそく言った。 「なんとも言えません」 「病院に戻さなくていいんですか」 「患者の夢については、何か分かりましたか?」 医師は落ち着き払った声で言った。 「なんですって?」 「私達は睡眠異常の解明のためにクランケをお預けしているわけですから」 「今分かっている分についてはついさっきメールで高梨先生に報告しました。そんなことより、病院でケアした方がいいんじゃないですか」 怒気を含んだ声で聞く。 「そうですか」医師は道具を鞄にしまい始めた。「それでは、高梨に報告して検討します」
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