三
昼の一時過ぎ、研究室に滝田と、チャコールグレイのスーツを着た長身の、やや細身の男が入っていった。滝田は白衣も着ず、ポロシャツ姿だ。藤崎青年がプリンタから印刷されたグラフに落としていた目を上げる。 「藤崎君、こちら、小暮病院の高梨先生」 滝田が手の平を高梨に向けると、高梨は青年の方に歩み寄って名刺を差し出した。 「はじめまして。小暮総合病院の高梨です」 「あっ」青年は立ちあがって、胸やズボンのポケットを探った。「すみません、持って来てなくて」 「常盤君は?」と滝田が聞くと、青年は「呼んできます」と言って出て行った。 「いやあ、これはこれは」高梨は手を後ろに組んで、研究室のコンピュータ達をながめ回した。「立派なものですなあ」 「ちょっと待ってて下さい。今コーヒーをお持ちしますんで」 滝田は部屋を出ていこうとした。 「いやいや、結構です。それより、夢見装置はどこにあるんですか?」 「夢見装置というのはまあ、この部屋にある機械全部のことなんですが、本体は隣の部屋にあるんですよ」 滝田と高梨はガラス窓に近づき、下方を見た。そこには黒い、大きな箱があって、その下から何本ものコードが伸びている。そのうちの、数本の先端がベッドの上にいる犬の頭に刺さっている。高梨の横顔を見ると苦々しくゆがんでいる。 「あれはもちろん、犬だからああなっているんですよね」 表情に笑みを取り戻した高梨が、滝田の方を向く。 「ええ。人間の場合はヘルメットを被せるだけです」 部屋の扉が開いた。藤崎青年と常盤美智子が戻ってきたのだ。高梨は慇懃に礼をして、青年にしたのと同じように美智子に名刺を渡した。美智子は自分も出さなければならない、ということには気がつかなかったようだ。もっとも、彼女の名刺は机の引出しの奥にしまったままになっているようだが。 「ええ、さて」滝田は両手を握り合わせた。「何からお見せしましょうか」 滝田は室内を見まわす。 「犬が寝てくれるといいんですがね。とは言っても、まだ犬の夢を見ることには成功してませんが。あ、藤崎君、先生にコーヒーと、あと灰皿を持って来てくれる?」 高梨が先を促すように質問する。 「先生はどういった研究をされているのですか?」 「主に人間以外の動物の夢を観察することです。あとは睡眠障害を持つ人の夢を見ることですね。夢と睡眠障害の因果関係を調べているんですよ」 「ほう! 動物も夢を見ますか」 「ええ。日本では猫と猿だけ成功していますがね。アメリカやヨーロッパではもっといろいろな動物の……犬や、うさぎや、小さいものではラットやモルモットでも成功しています。もっとも、脳が小さいものははっきりと夢だと確認されたわけじゃありませんがね。ああ、そうだ。それじゃまず、猫の夢をご覧にいれましょう。ビデオがあるんですよ」 滝田は部屋の隅の棚に大量に詰められたディスクの中から一本を抜き出し、それを大型モニターの下の再生機にセットした。 リモコンのスイッチを入れると、最初のうち真っ黒だった画面が、ふいに明るくなった。 「これが猫の夢ですか」 そこには赤やら灰色やら緑やらの、大小様々な四角形が入り混じってうごめいている画面が映し出されていた。 「猫と人間では当然脳の作りが違いますからね。これはまだ人が見て分かるよう信号を変換しているところですよ」 「人間の場合はどうするのですか?」 「得られる信号が微弱ですから、高度な画像解析処理が必要です」 そのサイケデリックな模様は、だんだんとボカシを入れたような画面に変わり、徐々にものの形をとり始めてきた。台所かどこかの床の上すれすれの様子が、画面に映し出された。テーブルや椅子の脚が立ち並んでいる。猫の視点が、滑るように右から左へと動いた。その目の先には女性の足があって、猫はそこに近づいていく。視点が上に動いて、若い主婦らしき女性の顔が映し出された。彼女は微笑みながら、キャットフードが盛られた皿を目の前に置く。画面は皿の中のアップになった。猫が餌を食っているのだ。それが終わると、画面は足元からスカートへ、そして胸元へ、そして髪を後ろにしばったその女性の顔の前へと上がっていった。女は口を動かしている。「よしよし、良い子ねえ」とでも言っているのだろう。そして画面には女性の後ろの窓ガラスが映し出された。右横にはポニーテールが見えている。猫が主人に抱っこされているのだ。画面はそこで急速に暗くなり、元の真っ黒な状態へと戻った。 「ここで猫の夢は終わっています」滝田は言った。「これはその辺にいた野良猫を拾ってきて見た夢です。きっと飼われていた時の記憶なんでしょうね。何度も実験を繰り返して、観測できたのはこの一回だけです。他は、さっきのごちゃごちゃした四角形だけで終わったり、なんだか意味がない絵しか出てこなかったりして、これほどまでに鮮明に意味を持った映像は、これだけです」 「いやいや、たいしたもんだ」高梨は心底感嘆したという顔をした。「これは一体、どういう仕組みになっているんです?」 「ええ、仕組みはですね……常盤君」 「夢というのは日頃見て記憶したもののイメージが、眠っている時に後頭葉の視覚野に流れ込んで起こるんです。五十年くらい前から明らかにされてきたことですけど」 どこの研究所だったかな、と滝田は思う。機能的磁気共鳴画像装置を使って睡眠中の視覚野の活動を計測し、パターン認識アルゴリズムを使って夢に現れる物体を高い精度で解読することに成功した。あれからもう七十年近く経つのか。 「へえ、それは初耳だ。しかしそれをどうやって取り出すのですか?」 「脳の視覚野の情報を、コンピュータで処理して映像にしているのです」 「そんなことができるんですか。それは、なんとも……」 いんちきくさいですな、という言葉が出そうになるのを押しとどめたかのような高梨の口元を、滝田は表情を変えずに見つめた。 「二〇五八年にはアメリカが、その翌年にはドイツが、夢見装置を発表したんですよ。大ニュースになったんですけど、覚えていません?」 「いやはや、私が夢見装置のことを知ったのは、ほんの二ヵ月前なんですよ」 おそらくはあの患者の夢を見たいと考えついたのは、高梨ではなく担当の精神神経科医だろう。夢見装置に最初に着目したのもその人物に違いない。 滝田はうっとりとした口調で言う。 「二十一世紀は科学の世紀だと言われ、科学者や技術者達は猛烈に頑張りました。自動車は電気で走るようになり、空には宇宙ステーションが浮かび、他人の夢をのぞき見する装置が誕生しました。素晴らしいことです」 「二〇六〇年には動物も夢を見ることが、早くも実証されましたわ。夢見装置が現れてから、いろいろなことが分かりました。国がまったく違っても夢には共通の要素があることとか、悪夢の構造、正夢の可能性、色つきの夢に白黒の夢……、この装置は睡眠研究者にも心理学者にも、まさに夢の装置ですよ」 ドアが開いて、藤崎青年が四角い盆に人数分のコーヒーと灰皿をのせて入ってきた。 「どこまで進みました?」と青年が聞く。 「まだ猫の夢を見せただけだよ」 滝田はさっそく胸ポケットから煙草を取り出す。 「人間の夢を見せてあげればいいのに」 「それもそうだな。まずそっちが先か」 「睡眠障害者の夢を見たいですな」 高梨は青年から受け取ったコーヒーを一口すすった。 「ええ、そうですね。それではレム睡眠行動障害の患者の夢をお見せしましょう」 滝田は棚からさらに一枚のディスクを抜き、セットした。 真っ黒な画面を早送りすると、ふいに白と黒の点が乱れ飛ぶ砂嵐のような画面が現れ、徐々にものの形をとり始めた。 それは、両側を田んぼに囲まれた、一本の道だった。向こう側から一人の女性が歩いてくる。紺の和服を着たその女は、接近すると微笑んで軽く会釈をした。しかしそこから妙な具合になる。彼女はしばらくこちらをじっと見ていたが、その表情は次第に困惑の度合いを増していき、やがて突然怒り出した。何と言っているのかは分からない。 「音は聞こえないんですか」と高梨が問う。 「はい。今のところ視覚情報だけしか得られないんですよ」滝田はビデオを一時停止した。「しかし夢を見ている人がなんと言っているかは分かります。『きさま、よくも俺を裏切ったな』と言っているんですよ。患者はレム睡眠行動障害だから、この場面で実際にそういう寝言を言っているんです」 「なるほど、この女性と口論しているわけですね」 高梨はうなずく。 「この後すぐに起こし、どんな夢を見ていたか聞きました。道を歩いているとばったり妻と出くわした。彼は奥さんの浮気を責め、けんかになったのだそうです。この男性は離婚しています」 滝田は一時停止を解除した。 女性との口論のシーンはほんの五秒ほど続き、画面は急に暗くなった。 「おや?」と高梨がつぶやく。 「夢が終わったんです」 ビデオには編集をほどこしていて、一瞬ちらついてすぐにまた明るくなった。 今度はどこかの家の室内だ。乱雑に散らかった部屋は、書斎か何かのようだ。畳の上に本がたくさん散らばっている。画面の両端から患者のものであるらしい腕がのびて、一冊一冊を拾い上げて、開いて、また床に放り出す、ということを繰り返している。不思議なことにどの本のどのページも真っ白である。 「患者はこの時実際に何かを拾い上げる動作を繰り返しながら、『おかしいな、ないぞ』というような言葉を発し、隣の部屋を歩き回っていました」 滝田は窓ガラスを指差す。 その光景は十秒ほどで終わり、またしても画面は暗くなった。 「浮気の証拠の写真を探したが、見つからなかったのだそうです」 そしてまた息をふきかえすように明るくなり、今度はどこかのレストランのような風景を映し出した。テーブルをはさんで青のスーツを着た若い男が座っており、卓の上には二人分のランチとステーキがのっている。青年は微笑みながら口を動かしている。 「患者はこの時ベッドに腰掛け、『お前も立派になったなあ』というようなことをつぶやいていました。この青年は患者の息子で、二年前に交通事故で亡くなったそうです。一人暮しをしている息子と久しぶりに会ったのでいっしょに食事をしたと言っていました」 今度もまた、その風景は短い時間で終わった。画面が急速に暗くなる。 「これで終わりです」滝田はビデオを止めた。「この時被験者が見た夢はこの三回です」 高梨は滝田の言葉を聞きながらも、あまりのことにしばし呆然としていた。 「実に興味深い。ところで睡眠障害とこの夢との関係は、明らかになったんですか?」 「いいえ、さっぱり。全くどこにでもあるような、普通の夢です。何かへんてこりんな夢でも見てくれればいいんですがね。なかなか思うようになりません。そのかわり、夢の内容とレム睡眠行動障害の行動が、ぴたりと一致していることは分かりましたよ」
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