六
アタックザックを背負って、藤崎青年は緩やかな斜面を登っていく。すでにシャツには汗が大量にしみこんでいる。これぐらいの低い山なら、デイパックでも構わないのだが、青年はこのザックの方が好きだ。天気は良く、太陽がよく照っている。予報は晴れ時々曇りで、雨の心配はなさそうだ。 空気がうまいと、青年は思う。細い山道の両側には青々しい草がよく茂っている。久しぶりの登山だ。青年の休日は月火だ。せっかくの休みなのだから、おおいに活用しなければ。 都心から電車で一時間程度行ったところに、こんな絶好の登山コースがある。標高が八百メートル程なので本格的な山登りを満喫するには物足りないが、日帰りで楽しむ分には十分だろう。青年は気分をリフレッシュするためにここに来ることが多かった。だから慣れた山だ。滝田や美智子も来れば、さぞかし普段の気難しさが晴れてさわやかな気分になるだろうに。一緒に行きませんかなどと誘ってはみたものの、よくよく考えると都合が合わない。年末年始くらいか。いや、滝田は正月も働いているだろう。 登山の良さは経験した者でなければ分からない。肺にたまった、排気ガスや煙草のけむりにまみれた都会の空気をはき出し、新鮮な酸素を吸いこむ。体中の血液がきれいになっていくのを感じる。 そろそろ休憩したいなと、青年は思う。少し斜面が急になって、道がうねって登りづらかったが、そこを越えると平らになった所に出た。ちょうど良い具合に葉をたわわにつけた一本の木があって、その木陰に、腰かけるのにちょうどいい岩がある。青年は座って少し早い昼飯を食べることにした。 帽子をぬぐと、汗ですっかり濡れていた。ザックのポケットから手ぬぐいを引っ張り出し、顔をぬぐう。弁当箱を取り出して開ける。早朝に起き出して握ったおにぎりが顔を出す。水筒からふたにウーロン茶を注ぎ、一気に飲み干す。もう一杯注ぎ、おにぎりのうちのシャケが入ったやつをほおばる。疲れた体にエネルギーが戻ってくる。 ふと見ると、つばの広い帽子をかぶったおじいさんが登ってくるのが見えた。老人は彼のそばまで来ると軽く会釈をした。 「いいお天気ですなあ」 おじいさんはのんびりとした口調で言った。 「ええ、全くですね」 青年は体を横にずらした。だが老人は座る気はないようだ。 「しかしお気をつけになった方がいい。もうすぐ雨が降りますよ」 「え? こんなにいい天気なのに」 青年は空をふり仰いだ。多少の雲はあるものの、太陽は明るく照り、降りだしそうな気配はない。 「今日は泊まりの予定ですか?」 「いえ、日帰りですが」 「泊まりになさった方がいい。土砂降りになりますよ。もうあと三十分も歩いた所に、山小屋がありますんでな」 その山荘なら青年も知っている。じゃあこれで、と言って去っていく老人に、青年は礼を言った。見ると、彼はすごい早さで歩いていく。コテージまでは青年の足で一時間はかかる。 おにぎりを食べ終わり、立ち上がった途端に暗雲がたちこめ始め、たちまちたたきつけるような雨が降り注いできた。老人の言った通りになった。この辺に詳しいのだろうか。ザックから折り畳み傘を出して差すが、すぐにそんなものではどうしようもない程の土砂降りとなった。合羽を出して羽織る。 徐々に歩くペースを上げていくが、道が急速にぬかるんでくる。濁った水流ができ、青年の歩みを邪魔する。 ようやく山荘に着いた頃には二時間もたっていた。 丸太を組んで造ったログハウス風の建物は完全に雨に包まれ、屋根から滝のような水が流れ落ちている。 玄関に立ち、呼び鈴を押し、レインコートをぬいでいると、主人が顔を出した。 「いらっしゃい」 「すみません。またお世話になります」 「ああ、藤崎さん、久しぶり」 背の曲がった、頭の両側にわずかに白髪を残したおじいさんである。さっき道で会った老人よりもさらに歳をとっている。 「藤崎さん、藤崎さんね」と言いながら、主人はいったん奥にひっこみ、そして宿帳とボールペンを持ってきた。 「部屋、空いてます?」 一階に二部屋と食堂があり、二階は大きな二枚の屋根に挟まれたような構造なので狭く、やはり二部屋しかない。 一階のうちの一つは主人の個室である。 「ええ、ええ。もちろん。こんな小さいコテージに土砂降りの中やってくる人はそういません。藤崎さんの他はあとお一方だけですよ」 「僕も日帰りのつもりだったんですけどね。まさか急にこんな大雨になるとは思っていなかったもんですから」 二階の一室にもう一人の客が泊まっているという。青年は上階の空いている部屋に泊めてもらうことにして階段をのぼった。 室内に入り、ザックをおろす。肩が痛い。もみほぐしながらベッドの上に腰をおろす。首を後ろにねじ向け、窓にたたきつける雨をみつめた。これからどうしようか。 日帰りのつもりでいたから、火曜日を選んだが、失敗だった。用心して月曜日に来れば良かった。明日は午後から出勤すると研究所に断っておかなければならない。いや、この分だと休みになりそうだ。 携帯は持ってきていなかった。我ながらのんきなものだ。後で食堂の電話を使わせてもらうことにしよう。 テレビもない部屋で、本もなく、ぼんやりと雨をながめる。晴れていれば、その辺を散歩すれば結構見晴らしが良いのだが、そうもいかない。濡れた上着とズボンをぬぎ捨て、洋服ダンスにつるし、ベッドに寝転がると一気に疲れが出て、体をふくことも忘れて眠りこんだ。 どのくらい経っただろうか。ドアをたたく音で目が覚めた。 「お食事の用意ができましたよ」 扉の外で主人の声がした。すっかり暗くなっていた。雨音はすでに消えていた。 「はい。すぐ行きます」 青年はかけ布団の上に寝てしまったのですっかり体が冷えきってしまっていた。ふるえながらアタックザックから替えの服を出して着る。腹が減った。急いで一階へと下りていく。 ダイニングに行くと、すでにもう一人の客が来ていて、料理を並べる主人と話しこんでいた。食堂とは言ってもテーブルが一つに数脚の椅子が並んでいるだけという質素なものだ。青年の足音が耳に入ったせいか、その客が振り返った。 「あっ、先ほどの」 青年は驚いた。それは、昼間出会ったあの老人だった。 「おや、お隣にお客さんが来たというので、もしやと思ったのですが、やはりあなたでしたか」 青年は主人にうながされるままに老人の向かい側に座った。主人は食事の席には加わらず、「皿はそのままにしといてくれればええんで」と言って自室に引っ込んでしまった。 二人だけのわびしい食事が始まった。テーブルの上ではシチューとチキンがいい匂いをたてている。 「地元の方ですか」と青年は聞いた。 「ええ。ふもとに住んでいるんですよ」 「やっぱり。いや先ほどは、言われた通り大雨になったものですから」 「ああ、山の近所に住んでいれば分かります。雨が近づくと、においで分かるんですよ」 青年にはピンと来なかった。そういう雰囲気を敏感に感じとることができるのかもしれない。 「はあ。そういうもんですか」 老人はシチューを一口すすって、青年に聞いた。 「この山はよく登られるんで?」 「ええ。僕は山登りが趣味なんです。仕事の合間に登ると、ストレスがとれてすっきりします」 「仕事は何をやっとるんですか」 青年は躊躇した。自分の職業を人に言うと、たいてい珍しがられる。 「ええ、まあ、眠りの研究をやっています。夢の研究です」 老人の目に好奇の色が浮かぶ。 「夢の? そりゃまた珍しいお仕事ですな」 「ええ。どんな動物は夢を見て、どんな動物は見ないか、ですとか、睡眠障害と夢の関係ですとか、そういった研究です」 老人はコップの水を一気に飲み干した。水差しからもう一杯つぎ足す。 「実を言いますとな、昨日の夜、雨の夢を見たんですよ。場所はこの山だったのか、全然別の草原かどこかだったのか、よく覚えておりませんが、土砂降りの夢を見たんですよ。それで今日、天気が悪くなることが分かったんですよ」 「と言いますと、どういうことです?」 青年は眉をひそめた。 「わたしゃよく正夢を見るんですよ」老人はいたって真面目にそう言った。「小さい頃火事の夢を見ましてな。あんまり本物らしかったから、わんわん泣きましてな。そしたら近所で本当に火事がありましたよ。火が移れば私の家も焼けるところでした。高校生の頃、もう一度火災の夢を見ましてな。見たことのある家だったから、そこのご主人にわざわざ知らせに行ったんですよ。まったくとりあってもらえませんでしたが、本当に台所から火が出て、慌てて消し止めたそうです。私の警告があったから早急に対処できたんだって、感謝されましたよ」 「本当ですか」 「誰も信じちゃくれません。でも、まだまだあります。車とトラックが衝突する夢を見たんですよ。次の日ある交差点で信号待ちをしてて、どっかで見たことがあるなと思ったら、夢で見た場所なんですよ。そしてその通り、直進する車に右折しようとするトラックがぶつかったんですよ。そんなのが他にもたくさんあります。あなたに分析してもらえるとうれしいんですがな」 どうも青年をからかっているようには思えない。実際、老人が言った通り大雨が降っている。しかし、青年は予知夢の実例をまだ見たことがなかった。 「数ある正夢の中でももっとも恐ろしかったのは」老人は自分の顔に指を向けた。「私自身が死んでしまう夢です。私は、病院のベッドの上で苦しげにうめいています。周りにいるのは医者と看護師だけ。私は急に静かになります。医者は私のまぶたを開き、首を横にふります。家族の誰も看取らぬまま、死んでしまうんです」 「良かったですね。その予知夢は当たらなかったようです」 「いえいえ、あれは将来起こる事です。夢の中の私は今よりもっと老けています。家族は私によくしてくれます。でも死ぬ時はあんなふうになるんじゃないかと。そう思うと怖くてたまらんのですよ。もう三回も見ています」 青年は老人を安心させてあげたいと思った。 「人の脳は偽の記憶を作ることがあります。あなたの場合も交通事故があった後になって、そういえばそんな夢を見たと、脳が勝手に思い込んでいるだけかもしれません。天気くらいだったら勘でもある程度当たるわけですし。今日の雨にしたって、あなたが言った、雨のにおいって言うんですか? やはりそっちの方で分かったんじゃないでしょうかね。大丈夫ですよ。死んだりしません」 「そういうもんですかねえ。だといいんだが」 「ええ。予知夢なんてそうそうあるもんじゃありませんよ」 老人は安心してくれたのか、微笑んだ。しかし、だとすると火事を予知してその家の主人に告げたことは、どう説明すればよいのだろうと青年は思い、不安になるのだった。
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