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作品名:眠れ、そして夢見よ 作者:時 貴斗

第24回   古代――現代 三
   三

「父さん、待ってよ。父さん」
 ビルとビルの間の狭い路地を、父の背が遠ざかっていく。少年の滝田は、灰色の背広姿の父を追いかける。懸命に走るが、どうしても追いつくことができない。父はゆっくりと歩いているのに、たどり着けなかった。父が角を曲がった。滝田も後を追って曲がる。いきなり、父が滝田の前に立ちはだかった。
「健三、宿題はやったのか」
 滝田は驚くと同時に、後悔の念にさいなまれ始めた。父を追いかけるべきではなかったのか。
「今日は、宿題がなかったんだよ」
 思わず嘘が口をついて出る。
「そうじゃない。お父さんの課題だよ。社会のテストの答案を見て、お父さんはがっかりした。この間の試験よりも二十点上げることが、お父さんの宿題だったはずだ」
「父さん、聞いてよ。僕は算数と理科が好きなんだ。社会科は嫌いなんだよ」
 父は滝田の言葉を無視して、背を向けて再び歩きだした。父は言い訳を聞かなかった。いつだってそうだった。父は、廃屋となって使われていないビルに入っていく。
「父さん、待ってよ。僕の話を聞いてよ」
 絶望感で涙があふれそうになる。いくら懸命に走っても、父はどんどん遠ざかっていくばかりだ。
 建物に飛び込んだ時、父は地下へ通じる階段を下りていく所だった。
「父さん、だめだ! その階段を下りると、体がちっちゃくなっちゃうよ!」
 滝田は下り口に立つ。下へいくほどすぼまっている。壁も、天井も、縦横の比率は同じまま、徐々に狭まっているのだ。父はすでに、人形くらいの大きさになっていた。慌てて駆け下りる。滝田の体も、一段踏むたびに小さくなっているに違いない。
 出口から出ると、そこはまたしても、ビルが立ち並ぶ間にある狭い路地だった。だが元いた場所よりも全てが小さい世界であるはずだ。
 父がいない。どこだ。見まわすが、どっちに行ったのか分からなかった。あてずっぽうに駆け出す。
「父さん!」走りすぎて、息が苦しい。「父さん!」
 父が、古ぼけた時計屋に入っていくのが目に入った。
「待って! 父さん!」
 時計屋の扉が開かない。取っ手を握って懸命にゆするといきなり大きな音をたてて開いた。中に駈け込む。チクタク、チクタク。
 こげ茶色の鳩時計、金色の置時計、いろいろな時計が、てんで勝手に時を刻み、その音が混ざって耳に入りこんでくる。
 店の主人が、椅子に座って新聞を広げている。
「ねえ、おじさん、父さんが来なかった?」
「知らんな。わしはお前の父親がどんな人なのか見たこともない」
「灰色の背広を着た人だよ。背の高い人だよ」
「ああ、その人ならそこの階段を下りていったよ」
 また階段か。滝田は走り出す。思った通り、下にいくほど狭くなっていた。小さくなった父が下りていく。
「父さん! 行っちゃだめだ!」
 後を追いかける。疲れた。もう走れない。出口が外につながっている。滝田はよろめきながら歩み出た。そこは地下のはずなのに、またしてもビルとビルの間の路地だった。いったい何度繰り返せばいいのだろう。こうしてだんだんと、小さな、小さな世界に入りこみ、最後には点になってしまうのだろうか。
 ひざをさする。父がいない。嫌がる足を無理やりひきずって、再び駆け出す。
 ふいに、背筋に冷たいものが走った。何者かの気配を感じる。上の方だ。滝田はおそるおそる空を見上げる。黒雲がおおっていて薄暗い。その雲の隙間から、いつの間に現れたのか、巨大な目が滝田を見下ろしているのだった。まつ毛の上にある小さなほくろから、誰なのかすぐに分かった。父だ。父は、滝田を置いてきぼりにして、自分だけ元の世界に戻ってしまったのだろうか。そして、この箱庭のような世界をのぞきこんでいるのだろうか。その目だけの巨大な父は、威厳ある低い声で言った。
「健三、宿題をやれ」

 わあっ、という自分の声に驚いて、滝田は目を覚ました。
 また悪夢を見てしまった。
 父は、いわゆるエリートだった。いい高校を出て、いい大学を出て、大学院の博士課程まで行って、一流商社に入った。古いタイプの猛烈社員だった。土日も家にいないことが多かった。厳しく、恐ろしい父であったという記憶しかない。滝田に、テストで悪い点をとることを決して許さなかった。
 その父は、滝田が大学生の頃に、ある日突然階段から足をすべらせて死んでしまった。後頭部強打、即死だったという。
 母は事故だと言ったが、葬式の席で、親戚の人達はささやいていた。あれは過労死だよ、と。
 記憶の底に沈みこんでしまったと思っていたのに、しっかりと潜在意識に根をはっていたのだろうか。
 滝田はウイスキーを飲むために、ベッドから抜け出した。


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