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作品名:眠れ、そして夢見よ 作者:時 貴斗

第20回   レム睡眠行動障害 五
   五

「あら、やっぱりここだったの」
 藤崎青年がコンクリートの上に座って、空を見上げている。
「いい天気ね」と言いながら、美智子は近づいていく。
「食事はもう済みましたか」と、青年は雲を見つめたまま言った。
「ええ。五分で済ませたけど」
 白衣のポケットから白いハンカチを出して、青年の横に敷いて座る。後ろに手をついて空を見上げた。昼休みの屋上からは目をさえぎるもののない青空が見渡せる。地上ではこうはいかない。そそり立つビル郡が目を覆い、行き交う車達が耳を覆う。青年はいい場所を見つけたものだ。
「どうです? 氷の中からは抜け出せましたか」
「あらいやだ。そんなことまだ覚えてたの?」
 美智子は、ため息をついた。
「私ね、中学の時帰宅部だったの」
「はあ、部活で青春燃やしてましたって感じじゃないですね」
「ん? まあ、そうね。それでね、中学の時のあだなが眼鏡」
「それってそのまんまじゃないですか」
 今は度の強い眼鏡でも屈折率を高くして、サイズを小さくした非球面レンズを使った薄型のものが主流だ。古臭い厚い眼鏡をかけている美智子は珍しかったのだろう。
 少し風が出てきたようだ。乱れた前髪をはらう。
「ある時私、先生にほめられたの。常盤は頑張ってるって。すごく努力してるって。そしたら、男の子の一人が言ったの。眼鏡は部活やってないから、勉強やる時間があるんだって」
 青年は快活に笑った。
「ひどいですね、そりゃ。だったら自分も部活やめりゃいいじゃないですかねえ」
「でもね、私考えるの。もしも自分がバレーか何かやってて、へとへとになって帰ってきて、それから教科書読む気になるだろうかって」
「天は二物を与えず、ですよ。部活動が楽しい子は、そっちの才能が伸びるんでしょう。勉学が得意な子は成績が伸びるんでしょう」
「それなら、楽しい方が伸びた方がいいんじゃない?」
 青年は何かを言おうとして口を開いたが、閉じてしまった。
「通ってた塾がね、成績が良い順に三つの等級に分かれてたの。私真中のAクラスだったんだけど、くやしくて頑張って特Aクラスに上がったの。最初に編成されたクラスから上の級に上がる子って少なかったから、塾の先生にほめられたのよ。その時のほめ方がさっきの学校の先生と同じふうだったの。常盤は頑張ったって。猛勉強して特Aに上がったって。みんなも頑張れって言うのよ」
「良かったじゃないですか」
「そうかしら。あの時はほこらしかったけど、今は違うわ。勉強ってそんなに大事なのかしら」
 自分は学習が楽しかったからやっていたのだろうか、と美智子は思う。そうではない。いい成績をとると周りの大人達からほめられるからだ。いい点を取ると他の子達から賞賛を得られるからだ。
 眼鏡すごいね。よくこの問題解けたわね。これ解いたの、眼鏡だけよ。
 眼鏡ぇ、これ教えてくれよ。あ、もういいや。眼鏡に近寄っただけで分かっちゃった。さすが。眼鏡からは気が出てるんだなあ。
 それがどうだろう。今の自分は青年相手に氷の中にいるみたいなどと愚痴をこぼしている。
「適材適所ですよ。バイオリンが得意な子はバイオリニストになるんです。常盤さんは勉学が得意だったから、科学者になったんですよ」
 そもそもバイオリンが得意であることに意味があるのだろうか。バイオリニストになることに、意味があるのだろうか。勉強も科学者も、意味があるのだろうか。それを言い出すと人間は何のために生まれたのかとか、人類は何のために発生したのか、といった問題になってしまう。
 音楽家になって、研究者になって、人類の歴史に、文化や科学の進歩に、ささやかな貢献をするためだろうか。人類は、科学や文化を進歩させて、どうしたいのだろう。生活を豊かにしたいから? 確かにそれもあるだろう。例えば医学の進歩によって寿命が伸びた。その結果どうなっただろう。意識が朦朧としながら延々と辛い痰の吸引をされ、機械に繋がって動けず、語れず、ただ死ぬのを待っている。そんな老人がどんどん増えていった。
 それともこれは、仲間内の競争なのだろうか。自分はバイオリンが得意だと思っている。自分は学問が好きだと思っている。他の子達よりもうまく弾けるようになりたい。いい点数を取りたい。
 他の会社よりも売上を伸ばしたい。他の国よりも文化や科学が劣っていたら、追いつき、追い越したい。別に人類全体の進歩なんか考えてはいない。相手よりも優位に立ちたい。人々から賞賛を得たい。ただそれだけのためにやっているのだとしたら、人類は馬鹿だ。
「藤崎君は、山登りと勉強、どっちが楽しかったの?」
「あ、僕が山登り始めたの、社会人になってからですよ」
「あら、そう」
「山はいいですよ。雄大で。学習がそんなに大事なのかとか、そういうの、全部忘れさせてくれます」
「忘れていいものなの? 問題意識を持ち続けることって、大事なんじゃないかしら」
「いやいやいや」青年は手を振った。「僕みたいな凡人の場合ですよ。僕がそんなの考えたって、分かりゃしません。子供はなぜ勉強しなけりゃならないのかなんて、そんなのは偉い人が決めたことであって、僕には分かりません」
 そうじゃない。そうじゃないのよ。決まっていることだからやる。それじゃあ相手の言いなりだわ。
「あんまり深く、考えない方がいいんじゃないですかね。なぜ山に登るのか。そこに山があるからだ、ってね」
 青年の言うことも正しいような気がする。働き蟻はなぜ働くのかなどとは考えない。蟻と人間では違うのではないか? いや、同じなのかもしれない。やっていることの種類が違うだけで。
 人が生まれて、育って、子供を産んで、歳をとって、死んでいく。それは自然現象だ。人間のやっていること、勉強をしたり、サッカーをしたり、あくせくと働いてお金をもらって、それで欲しいものを買ったり、公害で自然を破壊したり、戦争したり。もしも神様がいないとしたら、そういったことも、全部ただの自然現象なのではないか? 働き蟻が働くのと同じように、人間も戦争するのだ。ヒトとは、そういうふうにできているのだ。
 そう考えると気が楽になる。なあんだ、勉強することも自然現象なのか。だったらそんなに頑張らなくていいじゃない。
 しかし受験勉強に励む子供達はそうはいかない。親や教師に急き立てられるからだ。少しでもいい高校に入って、少しでもいい大学に入って、大企業に入って安定した収入を得るのだ。そういう機構にしばられて身動きできない。自分のやりたいことを見つけ出せなかった子は、甘んじて勉強するしかない。やりたいこともなく勉強もしたくなかったら、安定もしておらず、厳しい条件の労働を一生やっていくはめになる。
 だから親は子供を急き立てる。「あなたのためを思って言ってあげてるのよ」という言葉は、たぶんその通りなのだろう。それは母性本能だ。つまりは自然現象なのである。
 全ては自然の理であっていちいち理由を求めなくていいのだ。だが本当にそれでいいのだろうか。


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