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作品名:眠れ、そして夢見よ 作者:時 貴斗

第2回   奇妙な患者 二
   二

 春とはいってもまだ三月なので肌寒い。美智子はジャケットの前を合わせながら、バス停から三十メートルほど離れた滝田研究所の正面玄関まで、駆け足に近い速さで歩いてきた。見上げると、まるでイスラム教の寺院のような、おおげさな造りの建物が、今日も相変わらず鎮座している。前世紀、つまり二十世紀からあるこの建物を買い取って研究所としたのは、全く滝田の趣味だと言える。エレベーターすらついていない。入り口から入って右手にある階段の前に立つと、美智子はいつもの習慣で、「はあっ」とため息をついた。彼女は運動が嫌いだ。三十を少し過ぎただけなのに、もう若くないんだわ、などと思う。
 美智子はしぶしぶ上り始める。三階まで上るのは、結構いい運動になる。壁は、昔はもっと鮮やかな色であったに違いないのに、今はすっかり黄土色に変わってしまっている。
 ロッカーにジャケットをしまいこむと、まずコーヒーメーカーから彼女専用のカップになみなみと注ぎ込んで飲む。これもまたいつもの習慣である。彼女の頭はこの一杯でようやく目覚める。それまでは半分寝ているのと同じだ。二年前まではコーヒー粉と水をセットしてしばらく待たされる古臭いタイプだったが、常時一定量が供給されるコーヒーメーカーに変わった。
 再びロッカールームに戻り、白衣を上から引っ掛ける。着替える意味はほとんどない。着た方が研究者らしく見える、といった程度だろうか。実験動物の尿などが服につかないようにするため、ということにはなっているが、実際にはそんなものがつくことはまずない。
 滝田研究室に行ってみると、そこには口髭とほう鬚を生やし、やはり同じように白衣を着た青年がいた。彼は片手にコーヒーカップを持ち、片手にリモコンを持ち、それを部屋の中央にある大型モニターに向けて、早送りと巻き戻しのボタンを交互に押している。
「お早うございます」
 青年は画面を見つめたまま言った。
「あら藤崎君、早いわね」
「徹夜ですよ」
 なるほど確かに、目がやや赤くなっている。
「そう。熱心ね」
 美智子は手近にある椅子を引き寄せて、青年の横に座った。
「で、ハリー君の様子は?」
「なんにも変化なしです。時々小さく光ることはあるんですがね。それ以外は何も映りません」
 モニターの画面はいくら早送りしても真っ暗なままである。
 隣の部屋は二階と三階が吹き抜けになっている。そこにあるベッドの上には、哀れにも頭部を器具で固定され、四本の針を突き刺された犬のハリーが眠っている。今のところ人間以外で夢を観察することに成功したのは、猫と猿だけである。犬はうまくいっていない。猫と猿についてはうまくいったのだとは言っても、それは別にたいした成果ではない。人間以外でも夢を見ることだったら、とっくの昔にアメリカで実証されている。夢見装置があるのは、日本の滝田睡眠研究所だけではないのだ。
「ふぁーあ」
 藤崎青年はあくびをすると、コーヒーを一口すすった。
 日中は分析や文書作成等の仕事をこなし、夜中は実験対象が眠っている間、起きて観察していなければならない。だから睡眠を研究しているくせに、皮肉なことに当の本人は眠ることができない。
 美智子は青年の肩を軽く叩く。
「少し横になったら?」
 立ちあがり、ガラス窓に近寄り、隣室のベッドを見下ろす。動物実験などというものをする科学者はつくづく残酷だと彼女は思う。犬の頭に突き刺さった針は、脳の奥深い所にまで達している。そのうちの一本は夢を見始めた時に活発になる箇所――青斑核と呼ばれる部分に、別の一本は目で見たものを認識する部分――後頭葉の視覚野に刺さっている。
 人間ではこうはいかない。人に刺すなど言語道断である。脳というのは例えて言えば、ボウルに入った寒天のようなものだ。そこに針を突き刺したら、頭部を固定していたとしても、少しの衝撃でも簡単に傷が広がってしまう。しかしヘルメットを被せて、頭蓋骨と頭皮という分厚い壁に邪魔されて得られる信号よりも、測定したい部位から直接得られる情報の方が、はるかに鮮明だ。だから猫や犬が犠牲になる。
 こうして、かわいそうな実験動物を見ながら彼女の朝が始まる。滝田が来るのは一時間くらい後だ。それまでに昨日の分の報告書をまとめておこう、と美智子は思った。

 朝九時半、滝田は車を研究所の裏手の駐車場に止める。ドアを開いて降り立った彼は、大きく伸びをする。二十一世紀に入ってからもう八十年がたつ。彼の赤のポルシェは、百パーセント電気で走る超高級車だ。二十一世紀に入ってから、少なくとも車に関しては格段の進歩があったと言える。ガソリンから電気への移行は比較的スムーズに行われた。だが多くの国産車は、今でも電気八割、ガソリン二割くらいでエネルギーを消費する。思えば、家庭にあるもの、あるいは外にあるものも、ほとんど全て電気で動いている。テレビにラジオに冷蔵庫。電気自動車もわずかにあったが、車だけが二十世紀終わり頃までガソリンで動くものが一般的であったことは、今思えば特殊な例外だったと思う。
「おはよ」
 滝田が研究室に入ると、藤崎青年はモニター画面を見つめたまま、「お早うございます」というやや不機嫌な返事をした。
「おやおや藤崎君、また徹夜?」
 藤崎青年が徹夜をしたかどうかということは、赤の他人には判別が難しい。なにしろ普段から髭もじゃなので、不精髭といった要素では判断することはできない。目のかすかな赤み、顔にうっすらと浮いた脂、「お早うございます」という短い言葉に含まれる、ほんの少しなげやりな口調、そういったものは、やはり長い間の付き合いでしか分からないものなのだろう。
「今日さあ、高梨っていうお医者さんが来るから」
「はい?」
 青年の目が滝田に向けられる。
「うん。僕達の夢見装置を見たいって言うんだよ」
 滝田はもうすぐ五十代に足を踏み入れようという歳なのに、いまだに親しい間柄の人間に対しては、自分のことを“僕”と言う。
 滝田は昨日の高梨とのやりとりを、かいつまんで話した。
「本当ですかね、それ」
 青年は半信半疑のようだ。
「常盤君は?」
「自室にこもってますよ。報告書がまだ出来ていないんだとか。だめだこりゃ」
 青年はリモコンをテーブルの上に放り投げた。
 滝田は研究室を出た。別に急いでいるわけでもないのに早足で歩く。滝田の癖だ。
 三人の、それぞれに忙しい一日がスタートした。もっとも、青年に関しては昨日からぶっ通しだが。滝田研究所には他に十八名のスタッフがいる。しかし分野ごとに分かれていて、研究所のメインである夢見装置に直接関わっているのが、この三人である。美智子の報告書のつまらない矛盾点を滝田が指摘したことに対して、彼女が猛烈に反論してきたり、藤崎青年がコンピュータの記憶装置に蓄えられた犬の睡眠に関するデータを仔細に検討したりしているうちに、昼がやって来た。


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