レム睡眠行動障害
一
「さあ、旅立ちの時がやってきた」 犬の顔に人間の体を持つ男が薄気味悪く微笑み、滝田を見下ろしている。どうやらベッドの上にしばりつけられているらしい。身動きできない。 「待ってくれ、何のことだ」 「決まっておるだろう。お前はこれから旅立ち、オシリス神の支配する国、アアルに行くのだ」 男は長い真新しいナイフを胸の前に掲げた。嫌な光を放つ。 「お前は何者だ。私をどうするつもりだ」 「私の名はアヌビス。喜べ。お前をミイラにしてやる」 アヌビス? どこかで聞いたことがあるような気がするのだが思い出すことができない。 「ミイラだって! 冗談じゃない。私はまだ生きている!」 「おお、なんという哀れな者だ。自分が死んだことにさえ気づいていないとは」 犬の顔をした男は大きく口を開けて笑った。とがった歯が並んだ間から長い舌が吐き出される。男から顔をそむけると、横に四人の、筋肉隆々の上半身裸で白っぽい腰布を巻いた男達が、壷を大事そうに抱えて立っていた。それぞれの壷には犬や鳥の顔をしたふたがのっている。 「あれは、何だ」 「あれはカノプス壷だ。お前の肺、肝臓、胃、腸をおさめるのだ」 滝田はもがいた。だが、太いひもが体にくいこんで逃れられない。 「いやだ! やめてくれ!」 「お前は喜ぶべきなのだぞ。高貴な者でなければ、ミイラになれないのだぞ」 「なぜ私がミイラになるんだ」 アヌビスと名乗る男はそれには答えず、意地悪く笑ってみせるだけだった。 「お前はお前の生涯において、罪を犯していないという自信があるか」 「な、なんだって? 罪を犯していなければミイラにならなくてすむのか」 「そうではない。お前の心臓は天秤にかけられ、真実の羽根とつり合いが取れればアアルへの扉が開かれるであろう。お前の罪が重ければ、お前の心臓はアメミットに食われるであろう」 男はナイフを振り上げた。 「さあ!」 「やめてくれ! やめろぉ!」
滝田はふとんをはねのけ、体を起こした。額に手をあてるといやな汗で濡れていた。ベッド脇のテーブルの上にあるランプをつける。卓にのっている数冊のエジプト関係の本を悩ましげにみつめた。これを読みなさい、と言って美智子からおしつけられたものだ。そのうちの一冊を一気読みしたから、こんな夢をみてしまったのかもしれない。 アヌビス神。ミイラ作りの神か。 立ちあがり、ガウンを羽織り、階下へと下りていく。気分がすっきりしない。 台所に立ち、グラスにウイスキーを注ぐ。冷蔵庫から素手でいくつかの氷をつかみだし、放り込む。和室に入り、妻の仏壇の前にあぐらをかいた。 琥珀色の液体を喉にながしこむ。妻が胃癌で亡くなってから、もう二年にもなる。二人の子供はそれぞれの仕事に忙しいらしくてろくに帰ってこない。弟はごくごく平凡なサラリーマンになったが、土曜か日曜のどちらか休めればいい方のようだ。兄は野心家で、独立して事業を起こしたが、最近では宇宙開発などというプロジェクトに手を出しているらしい。こっちの方は正月にすら帰ってこない。 ついつい感傷的になりそうになるのを、仕事に思考を切り替えて払いのける。割られたモニター、和田が打ち明けた秘密、そして美智子の反論。 ――とにかく、一気に全てが分かるってことは、あまりないもんさ…… 自分で言った台詞だ。いくら考えたところで、現時点ではたいして分からない。もう一口、ウイスキーを飲み込むと、早くも心地よい酔いが回ってくるのを感じた。 このごろ悪夢をよく見るようになったな、と滝田は思う。こんなだだっ広い家に一人でいることが、精神的によくないのかもしれない。 「心地よい眠りのために」 一人つぶやいて、グラスの残りを一気に流し込んだ。
|
|