六
駅から出た美智子は、疲れを頭の芯に抱きながら歩道橋の階段を下りる。脇に立って下の方を阿呆のように見続けている浮浪者ふうの男を、円を描くように避けて通る。 下りた所で酔っ払いのサラリーマンが四人で馬鹿みたいに騒いで進路をふさいでいる。どきなさいよと言わんばかりの勢いで真中を割って通る。おっちゃんの一人がよろけて倒れそうになる。 歩道橋を下りるとシューズショップや菓子店が並ぶ商店街となる。美智子が帰る時間帯にはすでにどこの店も閉まっていて、人通りも少ない。菓子店が閉まるとその前に昼間は見かけない占いの男が陣取っている。簡素なテーブルの上に「手相」と書かれた行灯が淡く光り、謎めいた雰囲気を醸し出している。 美智子がいつも気になっているものがある。男の前の卓にぶら下がっている「八割は当たる」と書いてある紙である。これって、どういう意味なのかしら。 美智子が見ていると男が声をかけてきた。 「何か悩みがおありですか」 思わず背筋が硬くなる。 「いえ、別に」 「そんな事はないでしょう。深い悩みがあるでしょう」 おかしくなった。きっと眉間にしわを寄せて紙を見つめていたのだろう。 「いいわよ。みてもらうわ」 美智子は粗末なパイプ製の椅子に腰掛けた。 「左手を見せてください」 右利きなのだが関係ないのだろうか。 手を出すと、男はその上にレンズをかざした。 「なにか、男の関係ですね」 まあ、倉田氏のことで悩んでいるのだから、そうだと言えなくはない。 「そうね。確かに男の関係と言われればその通りよ」 男はしばらく手を見ている。美智子の顔は見ない。よく考えると声をかける時もずっとうつむいたままだった。 「あまり外には出ないお仕事ですね。しかも非常に頭を使うお仕事のようだ」 「その通り。当たりよ」 「毎日の生活はあまり楽しいものではないでしょう」 「まあ、そうね。でも毎日が楽しくてたまらない人なんて、そんなにいるかしら。あなただってそうでしょう?」 「いえいえ、私は手相を見て言っているだけです」 美智子の手を見つめたまま、薄気味悪い笑みを浮かべる。 「悩みは、仕事上のトラブルですね」 「そうね。手相だけでそこまで分かるの?」 「ええ、八割は当たります」 なんだか不気味な男だ。美智子の顔をまったく見ようとしない。手を見ただけで、次々と言い当てていく。 「人付き合いは不得手でしょう」 「そうね。得意な方じゃないわね」 男はレンズを静かに下げた。相変わらずうつむいたままだ。 「あなたは恋愛が苦手のようだ。付近に若い男性がいるでしょう。近いうちにその方と仲良くなれますよ。それと、お悩みのことですが、あせらず、ゆったりと構えることです」 男は自動で話す人形がしゃべり終わったかのように、それきり押し黙ってしまった。美智子は立ち上がり、鑑定料金を置いた。足早に立ち去る。 不愉快だった。自分のマイナス面をつかれたことも、藤崎青年と自分の間に恋が芽生えるような言い方をされたことも。立腹しつつも、不思議に思うのだった。手相ってそんなに当たるものなのかしら。歩きながら自分の手の平をみつめた。 彼女は分析する。彼はきっと人間観察の能力が優れているのだ。 彼は見ていないようで、実は毎日通り過ぎる自分の顔をそれとなく見ている。いつも気難しい顔をしているから、深い悩みがあり、毎日が楽しくないだろうと思ったのだ。男の関係かと聞いたのは、女なら男に関する悩みを一つや二つ持っているだろうから。恋愛のことであれ、それ以外であれ。結婚指輪をしていないからたぶん独身だろうと考えた。もっとも、結婚指輪をはずしている人妻も存在するが。男の関係と言われればそういえなくもないというような言い方をしたので、恋愛のことではないと分かったのだ。男に関することで、恋愛ではないこと、そこで仕事のことかと聞いた。違うと言われればまた別の、友人関係かとか親子関係かとか聞けばいい。 色白で、度が強い眼鏡をかけているので、デスクワークだと思ったのだ。そういった仕事である上につんけんしたものの言い方をする。だから人付き合いは不得意だろうと思った。 コンタクトにもせず分厚い眼鏡をかけ、いつも化粧っけがない。だから恋愛にもあまり縁がないだろうと考えた。 保育士でもない限り、付近に若い男はいるだろう。その男と仲良くなるというのは、自分を喜ばせるためのおまけだ。自分には逆効果だが。 いつも足早に歩く自分を見て、あせらず、ゆったりと構えなさいとアドバイスしたのだ。 もっとも、彼の推論は全てがあてはまるわけではない。だから「八割は当たる」なのだ。
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