二
呼び鈴を押す。応答がない。もう一度押す。滝田は靴のつま先で地面を叩き始める。 「はーい」 間延びした女の声が聞こえる。しばらくして、やっとドアが開いた。髪の乱れたおばさんの顔が、扉の間からのぞいた。 滝田は慌てて職業的な笑みを浮かべた。 「すみません。私、小暮総合病院の斎藤先生の紹介で来た、滝田という者ですが」 倉田恭介の担当医の名を出し、名刺を渡す。その名刺には「滝田国際睡眠障害専門病院 院長 滝田健三」というでたらめが刷ってある。 「まあ」 倉田恭介の妻、倉田芳子は甲高い声を出した。 「まあまあ、主人の……。そうですか。よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ」 靴をぬぐ間も、そうですか、私もう心配で心配で、などと黒板を爪でひっかくような声でしゃべり続ける。いらいらする。 おばちゃんというのは、大別して二種類いるように思う。甲高い声のおばちゃんと、だみ声のおばちゃんだ。他の種類のおばちゃんはあまり見たことがない。どうしてだろう。 彼女は五十代に入っているように見える。歳の離れた女房だろうか。髪は長く、目は大きく、どちらかというと色白で、昔は美しかったのだろうにと思わせる顔立ちだ。 彼女の後について歩きながら、奇妙な症状を示し続ける患者の家をつぶさに観察する。歩くときしむような音が鳴る廊下の奥には二階へと続く階段がある。両側には薄く黄ばんだふすまがある。築年数は十年、いや、二十年くらいだろうか。なんということはない。普通の家だ。 倉田の妻はふすまのうちの一枚を開け、さあさあ、どうぞと滝田をいざなう。六畳の和室だ。 「汚い所ですが。そうですか、まあ」 座布団の上にあぐらをかく。 「今お茶をお持ちしますので」 「いや、お構いなく」 一人になった滝田は、部屋の中を眺め回す。液晶パネルの、ディスク再生装置と一体型のテレビはほこりも拭かれていない。髪を銀色に染めたアイドルの女の子が微笑んでいるカレンダーは倉田恭介の趣味だろうか。エアコンは元々真っ白だっただろうが今は黄味がかっている。そんなごく平凡な物達に囲まれながら、つまらない一市民としての暮らしを営んでいたはずの倉田氏が、なぜ突然にあんなふうになったのか。 家族の話を聞けば何か分かるかもしれないと思うのは、浅はかだろうか。それでも、何でもいいから手がかりがほしいのだ。 「まあまあ、わざわざご足労頂いて、すみませんねえ」 耳障りな声を発しながら、おばさんが戻ってきた。 「私、ご主人が入院している病院から依頼されたのですが、やはりご本人がああいう状態ですから、原因が分かりません。そこで、ご家族の話をうかがいたいと思いまして。突然訪問して申し訳ありません」 「いえいえ、まあまあ、よく来て下さいました」 出されたお茶を一口すする。熱いな、と心の中で舌打ちする。 その時威勢良くふすまが開いて、男の子が駆け込んできた。 「お母さん、おやつ」 「もう、今お客さんが来てるんだから、あっちに行ってなさい。冷蔵庫にプリンがあるから、それでも食べてなさい」 子供は来た時と同じ勢いで走っていった。騒々しい家だなあ、と滝田は思う。 「小暮病院でいいかと思ってたら、検査のために他の病院に移すっていうでしょ? 私もうびっくりしちゃって。何にも手につかなくて、夜も眠れないんですよ」 そうは見えませんが、と言いたいのをこらえる。 「それで、どうなんですか? かなり悪いんですか? あの人が死んじゃったらどうしようと、そればかり気がかりで」 「いえいえ、大丈夫ですよ。死にはしません」 まさか死ぬことはないだろうと考えていた。だが、彼が重態なのかどうかも知らない。ただ、痩せさらばえていることは確かだ。このままだと栄養失調で亡くなるかもしれない。そうなっては滝田も困る。結局何も分からないまま調査が終了してしまうのは避けなければ。 「でも院長先生がじきじきに出向いて下さるということは、かなりの重病じゃないんでしょうか」 院長はまずかったかな、と滝田は思う。しかし、相手を信用させるにはそれくらいした方がいいのだ。人間というのは権威に弱いものだ。例えば同じ発見を有名な学者がしたのと、町にどこにでもいそうな高校教師がしたのとでは、学者の方が信用されるに決まっている。 「いえいえ、そんなことはありません。脳に異常が見つかっているわけでもありません。ただ、眠り続ける原因が分からないんですよ」 「まあ」 倉田芳子の眉が八の字になった。 「心配することはありませんよ」 「小暮病院でもいろいろ聞かれたんですよ。普段どんな生活をしているかとか、お酒はどのくらい飲むかとか、寝るのは何時くらいかとか」 「ええ。それはうちの方でも聞いています」寝るのは何時かしか聞いていないが、調子を合わせる。「今日うかがったのは、そういった医者が聞くような通り一遍のことではなくて、もっと突っ込んだことを聞くためなんですよ」 「と、おっしゃいますと」 滝田は身を乗り出し、倉田芳子の瞳をみつめる。 「何か、秘密にしていることがあるんじゃないですか? 医者にも言ってないような」 無論、そんなことは分からない。しかしそれで何か情報が引き出せればもうけものだ。 倉田芳子は急に下を向いて考え込み始めた。 「大丈夫ですよ。秘密は厳守します」 だいぶ迷っていたようだが、やがてしおらしく言った。 「実は、主人は新興宗教にかぶれてまして」 「宗教ですって?」 「言ってましたわ。会社がつぶれるかもしれないって」手の甲で目頭をおさえる。「自分はクビになるかもしれないって、そう言ってました」 鼻をすすり上げ始めた。近くのティッシュペーパーの箱から一枚引っ張り出し、鼻をかんだ。 「ずいぶん悩んでたみたいです。それで宗教にすがったんです。私、やめろやめろって、何度も言ったんですよ。あんなわけの分からないものに入れこむから、たたったんだわ」 「で、その新興宗教というのは何て名前ですか。どこにあるんです?」
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